孤独だった令嬢を選んだのは、光の伯爵さまでした。
クロエがボガート伯爵に「助けられた」のは十四歳のときだった。
クロエは子爵家の一人娘だった。しかし子爵領はクロエが産まれた直後から災厄に見舞われ続け、疫病によって壊滅的な状態に陥った。
原因も理由も分からない。
クロエは奇跡的に生き残り、一人で生き延びようとしていた。
そして、王命を受けてやってきた伯爵に発見されたのである。
正しくは――王命で派遣させてほしいと三日三晩頼み込み、危険だからと周囲から反対され続けたにもかかわらず、単身で子爵領へ乗り込んでいった伯爵に。
黄昏の光とにおいが支配する子爵領の中心。
主を喪った館は、今にも崩れ落ちそうだった。
「誰か生きているのか?!」
生きている者の気配を感じたボガートが入り口で叫ぶ。
ランタンを手に歩き回ったボガートはようやく、蜘蛛の巣が張り巡らされた食堂の片隅で三角座りで震える少女を見つけた。
子爵令嬢、クロエだ。
そのとき、クロエはカビが生えたパンを手に持っていた。
艶のある黄金だった髪の毛は水分を失いぼさぼさで、ドレスは埃で薄汚れていた。当然のことながら長い間水浴びも湯浴みもしていない体は垢にまみれていた。
突然現れた黒髪の大男に、クロエはぱちぱちと瞬きを繰り返し、手にしていたパンをぽとりと床へ落とした。
ボガートは大股でクロエへと近づいて行き、掃除の忘れられた床に膝をついた。
「……その淡いピンク色の瞳、子爵殿にそっくりだ。君は、クロエ嬢だな?」
彼の黒い瞳は僅かに潤んで、薄暗い室内でもはっきりと光を帯びていた。
「安心してくれ。私には光の加護があるから、病に罹ることはない。健康だけが、取り柄なのだ」
ボガートは美丈夫というよりは、偉丈夫。
しっかりと筋肉のついた体つきは、立派な服の上からでもはっきりと判った。
「私と共に行こう。大丈夫だ、君はもう、何も恐れなくてもいい」
節くれだった手をボガートが差し出すと。
少しの迷いの後。
クロエは、ゆっくりとその手を取った……。
・・・
どんな恐ろしい光景を目にしてきたのか?
伯爵家に迎えられたクロエは、半年ほど言葉を発しなかった。
与えられた部屋の隅でうずくまっているだけだったクロエが、ようやく言葉を発したり動けるようになったのは。
毎日、ボガートが家庭教師や執事、使用人を連れて部屋を訪れては、ここが安心できる場所だと訴えてきたからだろう。
そこから、クロエの成長は目覚ましかった。
家庭教師からは失われていた勉強やマナーを。
調理係からは美味しい焼き菓子の作り方を。
そして、ボガートからは。
「ボ、ボガートさま! こわくて降りられません!」
クロエとボガートがいるのは館の中庭。空は雲ひとつない見事な快晴。
緑の生い茂る大木の、上部の幹に掴まるクロエは涙目だ。
地上でボガートは両手を腰に当て、豪快に笑う。
「大丈夫だ! やればできるぞ!」
クロエはなぜだか、木登りの方法を教わっていた。
ボガートは発言通り、健康が取り柄の伯爵だった。
他の伯爵たちとは違って、熱血で、周囲の話によく耳を傾け、そして自由気ままに振る舞うようなところもあるふしぎな人物。
最も驚くべき点は、その年齢。
若くして伯爵家を継いだため、実はまだ二十三歳という、異例でもあり最年少の伯爵なのだった。
「ボガート様! 何をなさっているんですかーッ!!」
中庭へ血相を変えて走ってきたのは執事だった。
「見て分からないのか?」
「分かります。分かりますとも。だから問うているんです!!」
「ははは。大げさだなぁ」
クロエに向かって、ボガートは両手を大きく広げてみせた。
「おいで、クロエ」
「……ボガートさま」
ふわっ。
「クロエ様ッ!?」
執事の悲鳴と同時に、クロエはボガート目がけて飛び降りた。
分厚い胸板でボガートはしっかりとクロエを受け止め、抱きしめる。
「ほら。大丈夫だっただろう?」
ボガートが笑いながら背中を撫でた。
するとクロエは、ぎゅーっとボガートにしがみつくのだった。
・・・
それから季節は廻り、三度目の春が巡ってきた。
伯爵家の広くて広い庭を、クロエはきょろきょろしながら歩いていた。
救出されたときの痩せこけた状態からは既に脱し、女性らしい体つきに成長したクロエ。しかし令嬢の纏うようなドレスではなく、給仕係のエプロン付きワンピースを着ていた。
これは子爵令嬢としてではなく、一使用人として働きたいという本人の希望によるものだ。
やがて、探していた人物を大木の上に見つけて破顔する。
「ボガートさま!」
満開のサクラ。クロエの瞳と、同じ色。
木の下から大声で呼びかけると、太い枝に座っていたボガートはふわぁとあくびをした。
「あぁ。クロエか」
「皆が探していますよ。そろそろ執務にお戻りくださいませ」
「そうか、もうそんな時間か」
しゅたっ。
体重を感じさせない軽やかさで地面に降り立ったボガートは、背丈の伸びたクロエよりも頭ふたつぶん背が高い。
肩幅もあるので実際はさらに大きな印象がある。
「それにしても、クロエは私を見つけるのが上手いな」
「褒めてもだめです」
皆が必死に探しているのですから、とクロエは頬を膨らませた。
ボガートは悪びれずに声を上げて笑った。
「さぁ、執務室へまいりましょう」
ふたりは並んで春の庭を歩き出す。
庭師によって整えられた空間は色とりどりの花が咲き誇り、豊かな香りに満ちていた。
「しかし、クロエをランバート家に迎えてもう三年か。そろそろ、今後のことを考えねばならないな」
「今後のこと、とは?」
「私には責任がある」
クロエがぼかして尋ねると、ボガートもぼかして答えてきた。
(つまり……結婚相手を決める、ということですね……)
クロエは心のなかで溜め息をついた。
そもそも不幸がなければクロエはとっくに婚約者が決められている年頃と身分の人間だ。
とはいえ、子爵家はもう存在しない。クロエ自身の価値はとっくに失われている。
(わたくしの利用価値……。伯爵家の養女となるのが妥当でしょうか。そして然るべきところに嫁ぐくらいしか、恩を返せる方法はありません)
ちくり、と何かがクロエの胸を刺した。
クロエはぎゅっと服を掴む。
「クロエ?」
「いえ、なんでもありません」
呼びかけられて、クロエはボガートを見上げた。
(初めてお会いしたときと変わらない、なんて眩しいお方なんでしょう)
子爵家の館で数えきれないくらい孤独な夜を過ごしたクロエ。
今でも体調を崩すと、過去の夢を見てはうなされる。しかし、その夢が悪夢とならないのは――夢の終わりで、世界に光が射すからだ。
それはいつでも、ボガートの差し伸べた大きな手のひら。
(今日まで生きてこられたのは間違いなくボガートさまのおかげ。ボガートさまのためなら、わたくしはどんな道へも進んで行きます)
クロエのなかにはいつしか、ボガートに対して恩以上に、恋い慕う気持ちが育っていた。
しかしそれは決して表に出してはいけない想いであることも、同時に理解していた。
二十五歳を過ぎてもなお独身でいるボガートへは、縁を繋ごうとする者がひっきりなしにやってくる。
若く、聡明で、光の加護を有している伯爵。
国じゅうが、彼の一挙手一投足に注目している。
没落した子爵家の生き残りであるクロエでは、決して釣り合わない相手なのだ。
(そしてボガートさまがどんな方を選んでも、祝福しましょう……)
「ところでクロエ。甘い香りがしているが、今日はどんな焼き菓子を?」
クロエの澱んだ心中をよそに、ボガートは呑気に尋ねてきた。
慌ててクロエは答える。
「アールグレイのマフィンを教わっていました」
「そうか。是非とも食べてみたいものだ」
「もちろんです。ボガートさまに真っ先に召し上がっていただかねばなりませんから」
「では、仕事がひと段落した頃合いを見て、執務室へ運んでくれないか」
「かしこまりました」
束の間の散歩は終わり、ボガートは執務室へと歩いて行く。
クロエはその背中が見えなくなるまで見つめていた。
・・・
数日後。
クロエはいつものように、ボガートを探し回っていた。
しかし今日の装いは給仕係のワンピースではない。ペールグリーンのふんわりとしたドレスは、マナーの講義のため。どれだけクロエが断ろうとしても、ボガートはクロエに貴族のマナーを学ぶための時間を与えているのだ。
(きっと今日も中庭にいらっしゃるはず)
予想は的中。
木陰で、幹にもたれかかって眠っているボガートが視界に入る。
「ボガートさ、」
外に出たクロエの声が途中で止まったのは、違和感を覚えたからだ。
ぞわり。
何かが背中を撫でるような感覚が走る。
(何でしょう……。何かが、おかしい気がします……?)
それはクロエが今日まで生き延びてきた所以なのかもしれない。
本人も気づいていない、危機察知能力。
ざざざー……っ!
乱暴な春風が、サクラの花びらを宙に舞わせた。
視界を遮るように、淡い色の竜巻が起きる。
そしてクロエは見てしまった。短剣を手にした細身の男がボガートへ近づいて行くのを。それは、最近伯爵家に出入りするようになった庭師の男だった。
(いけません……っ!)
気づいたのと体が動くのはどちらが先だったのか。ヒールを脱ぎ捨てクロエは飛び込むように走っていた。
「――クロエ?」
驚きを含んだボガートの声。
地面を蹴るクロエの足。
かつて木の上からそうしたように、クロエはボガート目がけて飛び込んだ。普段ならばそれでよろめくようなボガートではなかったが、突然のことにそのまま地面に倒れ込んだ。
どさっ。
「ど、どうした!?」
ちっ、という第三者の舌打ち。
ボガートはすぐさま事態を把握して、クロエの両肩を掴んで身を起こさせると自らも立ち上がった。
向かいには庭師が苦虫を嚙み潰したような顔をして立っていた。
「気づかれていたとは、おれの腕も鈍ったものだ」
「目的は何だ?」
「簡単なこと。ランバート伯爵、貴様の命だ!」
勢いをつけて庭師が突撃してくる。しかしボガートは余裕の表情で庭師の腕を掴み、引き寄せるようにして背後に回ると手から短剣を落とさせ、首の後ろを叩いて気絶させた。
実に鮮やかな手さばきだった。
意識を失った庭師を抱きかかえて平然としているボガートを見て、座ったままのクロエは、ぽかんと口を開けた。
「ボ、ボガート、さま。ご無事です……ね?」
「あぁ。助かったよ、クロエ。ありがとう。とりあえずこの男を警備に引き渡してこよう」
(強い、強すぎます……! わたしがかえって邪魔をしてしまった気がします)
中庭から去ろうとしていたボガートだったが、ぎりぎりで立ち止まり振り返った。
「すまない。きれいな髪もドレスも乱れてしまったな。では、行ってくる」
クロエは頷いて、そのまま俯いた。
(きれいだって言われてしまいました……)
右手の甲にそっと降りたのは、涙ではなくて、サクラの花びらだった。
左手で、クロエは右手を覆う。
(ボガートさまのことを想うと、いいえ。想うだけで。どうして、こんなに苦しいんでしょう)
その答えを、クロエは知っていながらも認めたくはない。
・・・
伯爵の命を狙った犯行。
庭師の依頼主が明らかになり、然るべき処罰が下されるまでには何日かを要した。
屋敷内はにわかに慌ただしくなり、クロエは安全のために部屋から出ることを許されず、ボガートの姿を見ることも声を聴くこともできなかった。
ようやくクロエが外に出ることを許可された頃には、サクラの花は散っていた。
中庭には鮮やかな緑が広がっている。
空の色も、一段と青が濃くなった。
(次にサクラが咲く頃には、きっと、わたしはこの館には……)
主のいない中庭で、クロエは陽が暮れるまでたたずんでいた。
・・・
季節はあっという間に移ろい、伯爵領には数年ぶりの雪が降り積もった。
クロエが雪を見たのは生まれて初めてのことだった。
元は雨と同じもののなのに見た目も感触も違うことに驚き、興奮したクロエ。中庭で見事な雪だるまを作り上げた結果――熱を出して寝込んでしまった。
そして過去の出来事を夢に見た。
子爵家は暗く、じめじめとしていて、クロエはひたすらに孤独だった。
乾ききったパンの変色していない部分をちぎって口に入れ、必死に咀嚼する。変なにおいがして吐きそうになるけれど、胃のなかには何も入っていないのでむせるのみ。
いつまで。
いつまで続くのだろう、この、闇は。
「……ロエ。クロエ」
クロエがゆっくりと瞳を開けると、やわらかくて大きなベッドのなかにいた。
段々と意識が戻ってくるにつれ、いつも通り夢を見ていたのだと理解する。
それでも、いつもの目覚めと違うのは。
ボガートがいるのは夢の最後ではなく、現実の今であるということだ。
「……ボガートさま?」
クロエの声はかすれていて、体は熱を帯びていて重たい。
ボガートの顔を見るのは久しぶりのことだった。
自然と、クロエの頬が緩む。
ボガートはベッドの傍らに腰かけ、心配そうにクロエを覗き込んでいた。
庭師の一件から多忙を極めて、なかなか伯爵家にいなかったボガートは、頬が少しだけこけているように見えた。
「お戻りに、なられていたのですね」
「クロエが寝込んでいると聞いてはいてもたってもいられなかった」
「申し訳ありません。公務の邪魔をしてしまいましたでしょうか」
「そんなつもりでは言っていない」
ボガートはクロエの手をそっと取り、包み込んだ。
それからその手を己の額に当てた。
「いけません、ボガートさま」
「忘れたのか? 私は決して病気にならない。安心しろ」
(ボガートさまの手。とても心地いいです……)
クロエは小さく首を縦に振った。
気を抜くと、言ってはいけない言葉を発してしまいそうだった。
「クロエ。熱にうなされている君にこんなことを言うのは卑怯かもしれないが、聞いてほしい」
額から手を離し、ただ、クロエの手はブランケットの上で握ったまま。
ボガートはその黒い瞳を、クロエへ向けた。
「……なんでしょうか?」
「今回の一件で身に染みた。春が来るまでは待つつもりでいたが、早々に準備を進めることにした」
(それは、迷惑をかけてしまうようなわたくしを、ここへ置いてはおけないという意味でしょうか)
ぼんやりとして働かない頭でクロエは考えた。
言葉の代わりに、雫が頬を滑り落ちた。
「ど、どうした? どこか痛むのか?」
「いえ、そうではありません。ボガートさま、覚悟はできております。どうぞはっきりと仰ってくださいませ」
そ、そうか、と、ボガートはほんの少しうろたえた。
こほん。咳払いをひとつして、手に力を込める。
「では、改めて。クロエ、私の生涯ひとりだけの妻となってほしい」
言葉の意味を理解できずに、クロエはぱちぱちと瞬きを繰り返した。
まるで初めてボガートと出逢ったときのように。
「……クロエ?」
「ボガートさまには、わたくしよりももっとふさわしいご令嬢がいらっしゃるのでは……」
「まさか、そんなことがあるものか。ずっと心に決めていたんだ、クロエ。どんな境遇に身を置かれても必死に生きようとする君の強さに、私は惹かれていた」
先ほどとは違う感情を含んだ雫が、クロエの瞳から零れる。
堰を切って溢れ出てしまえば留まることを知らない。
「ど、どうした」
「……わっ、わたくしも、ずっとボガートさまをお慕いしておりました……」
その言葉に、ボガートはふっと緊張を和らげた。
「君の人生を、過去も未来も守らせてほしい。クロエ、愛している。共に生きよう」
クロエは涙を流しながら何度も頷く。
ぱちぱちと、暖炉の火がはぜる音だけが部屋に響いていた。
・・・
――長く深い冬が終わり、ふたりが出逢って四度目の春が訪れた頃。
黒髪の伯爵と、かつて助けた子爵令嬢との結婚式が開かれた。
うららかな春の陽気に包まれた、すばらしい日だった。
宣誓通りに、ボガートはクロエを生涯ひとりだけの妻として愛した。
クロエもまた、彼を献身的に支えた。
そして伯爵家は、有史以来の隆盛を誇ったという――。
青い空には、今日も雲ひとつない。
サクラの花びらはふわりふわりと軽やかに空を舞う。
そんな穏やかな春をつんざくような悲鳴が響いた。
「ボガートさま!? 何をしていらっしゃるんですか?!」
中庭へ血相を変えて走ってきたのはクロエだ。
巨木の下で、ボガートは笑っていた。
「見て分からないのか?」
「分かります。ですから尋ねているんです……」
「ははは。なにを涙目になることがある」
ボガートはクロエの頭を撫でる。
それから、木を見上げると。
枝にしがみつく子どもへ向かって、両手を大きく広げてみせた。
「おいで、リアム!」
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