01 春を焚べる①
Ⅰ
黄色い日差しが春を焼いていた。放課後、わたしは原付にまたがって、市内電車の線路沿いを走る。あたまの地図を参照すれば、もうすぐ目的地である。遠くでパトカーのサイレンが鳴った。ちょうどアーケードの商店街に着いた。〈乗入禁止〉とあった。地に足つけて進むことにする。
このアーケード街は、よくある地方の現実に即してすっかり寂れていた。錆びたシャッターが顔を突き合わせ、文字のかすれた看板には蜘蛛の巣が張っている。色褪せたサインポールは回転もせず棒立ちしている。たばこの吸い殻がおちている。そんな通りにぽつぽつ見受けられる店のあかりは、どれもくたびれた白の蛍光灯で、具合は芳しくなさそうだった。
奥まで進み、アーケードが途切れる直前で左の路地にはいる。どこからともなくカレーのにおいがする。たしかこの路地をいった先でインド人がカレー屋を営んでいたはずだ。食べログによれば「本場の味」「やみつきの辛さ」「絶品のナン」。なるほど、そそられる響きではあるが、しかしながら一度も足を運んだことはない。辛いのは苦手なのだ。
スパイシーな香りに包まれながらだいたい二十メートルくらい歩いて、止まる。わたしの左手、古本屋〈あおぞら〉がある。
北向きの店構えの〈あおぞら〉。店頭、装丁の薄茶色に変色した古本がカートに積まれ、これらには『特価』の二文字が添えられている。かつては冴えるような青だったのだろう店舗看板は、いまでは塗装も剥げ、裏地の緑が目立っていた。外から覗くに、客はいない。どうやら今日も閑古鳥が鳴いているらしい。
原付を停めて、ヘルメットを脱ぎ、
「こんにちはぁ」
あいさつしながら扉をあける。からんからん、と鈴の音。古びた紙の独特なにおいが鼻腔を突く。このにおいは、なぜだろう、いつもなつかしい感じがする。
「また来たの、藤巻さん」
店の奥から女の子の声。
「お客さんには」と、呼びかけてみる。「まず、いらっしゃいませ、だとおもう」
ぱたぱた足音がする。
「いらっしゃいませ、藤巻さん」
ぴょこん、と書棚から顔を出す。眼鏡をかけた、ショートヘアの女の子。煤城さん――煤城あかね、わたしの同級生である。
中学校がおなじで、一年間だけ教室もおなじだった。とはいえ当時はろくに話したこともなく、三か月前、この古本屋で再会したのも、まったくの偶然だった。
なんでも煤城さんは、具合のわるい祖父の代わりに、学校が終わればお店に立って本を売っているのだという。それはどうやら中学時代からのことらしかったが、わたしはそんなことかけらも知らなかったので、はいってびっくり、ついでに向こうもびっくりでした、といった具合である。
それからというもの、この〈あおぞら〉にはちょくちょく足を運んでいる。けっこう品揃えがいいのと、学校から帰るのにちょうどいい位置にあるからである。要するに穴場なのだ。
おまけに煤城さんにもあいさつできる。こういうと、煤城さんは「おまけ」ていどに考えているふうだが、なんというか、ううん。わざわざ会いに行きました、というのは気恥ずかしいから、そういうことにしているというか、要するに、そういうことである。
中学時代、煤城さんはちょっと特別な女の子だった。彼女はあのとき(そしておそらくはいまも)成績優秀で、スポーツもできて、だれとも気兼ねなく話せて、なによりずっと笑顔だった。わたしの記憶のなかにいる煤城さんは、笑顔でないときがない。こういうひとになれたら、なんていうことはしょっちゅう思っていた。見える世界がちがうのだろうなぁ、と。遠巻きで見ていた彼女は、全人類のお手本みたいな存在に映った。
まぁだからといって、わたしが煤城さんに話しかけることも、そしてもちろん煤城さんがわたしに話しかけることもなかった。グループも違えば趣味も違う。すくなくとも当時はそう思っており、これといった接点もなく、《同級生時代》は終わった。実にあっさりと。ちょっとのドラマもなく。
それから、わたしは煤城さんとひとつも重ならない学校生活を送った。進学先もまったく別だった。彼女は県内でも指折りの高校に入ったと風のうわさで聞いたが、どうやらそれが嘘っぱちだったというのは、ここ〈あおぞら〉で再会したとき知った。
古本屋〈あおぞら〉の店内には、本のぎっしり詰まった長い書棚が、まんなかにひとつ、左右の壁にもひとつずつある。それに収まりきらなかった古本が、床に敷かれた絨毯のうえに積まれ、少々ほこりをかぶっている。
煤城さんは眼鏡の奥で目を細めて、にこにこしながら、
「今日はなにをさがしに来たの?」
と訊いた。
「武者小路実篤全集」
と端的に答えれば、
「渋いね」と評して、「店頭に出てたよ、たぶん」
「え、ほんとう?」
よく見てなかった。
「なはは」へんな笑い方をされる。「こっちにあるよ。今朝いれた」
店先に出て、煤城さんはカートを漁ってくれる。目的のブツはすぐに出てきた。武者小路実篤全集、一巻から六巻まで。
「特価やってるんだよ、わたしの気まぐれで。売れるなら好きにしていいんだって。あ、でも六巻セットなんだよね。全部で十八巻あったから、三分割してるの、なんとなく」
「ふぅん、二分割じゃだめ?」
「なんでもいいよ。藤巻さん以外、だれも買わないし。ていうかめずらしく全巻揃ってるけど、どう、いる?」
「いくらぐらい?」
「千円でいいよ」
よくないだろ、とは思うのだけど、いわない。
「じゃあその値段で」
全十八巻、ふたりで運んで屋内にもどる。奥のカウンターで会計を済ませたら、それらを紙袋に詰める。ずいぶんな重さになる。
「原付積める?」
「たぶん」
「なはは。まぁがんばって」
それからはてきとうに世間話をした。それもだいたいは高校の話に終始した。いまは三月の中頃、春が訪れるちょうどの時期。うちはクラス替えがあるんだよ、藤巻さんは? あぁ、わたしのところはないんだよね、めずらしいのかな。春休みになにする? 本でも読んでようかな。いつもそうじゃないの? いつもそうだね。
「そういえば」途中、わたしはふいに思い出して、「おじいさんは元気?」
「うん、元気だよ」
煤城さんは淡白に答えた。煤城さんの祖父は、たしか腰のあたりを痛めているとか聞いた。店に立てないくらいなのだから、相当悪いのだろう。
とはいえ煤城さんは「なんともないよ。もうすぐ元気になるんじゃない」とケタケタ笑っていた。なんともないらしい。煤城さんがいうなら大丈夫なんだろうよ、ていどに思ってその話は忘れた。ゆっくりと陽が沈みきって、空が紫色に染まっているのには、しばらく気づかなかった。