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君が紡ぐ物語   作者: 鴨南ばん
1/1

青春フィリア編Ⅱ

 1 確認するとき 


 エミルが宿に戻ると、待機していたシャインとエルネストはたった数時間の間だというのに、長い年月を待っていた様な顔をしていた。

「成功しましたよ、明日の朝10時に宮殿へ行くことになりました。返書を頂ける予定です」

「やった!」

 二人は飛び上がって喜びを表した。だが一方で、この部屋の主は未だに眠ったままだった。

「マシェリに変わったことは無かったですか?」

「特に異常はなかったな。で、いつ頃目が覚めるんだ?」

 エミルはマシェリの額に手を当て、体温や脈拍に異常の無いことを確かめた。

「多分、あと1時間もしないうちに目覚めると思います。ここからはわたしが見ますから、お二人は食事に行って来て下さい」

「そっか、安心したよ。じゃあ、ぼくたち食事に行ってくる」

 シャインとエルネストは連れ立って出掛けて行った。エミルはベッドの脇に椅子を運んで座ると、まじまじとマシェリの寝顔を眺めた。彼の調合した薬で強制的に眠らされたとはいえ、その寝顔は大人と言うよりはまだ子どもだと思った。栗色の髪を短くしているので、余計に子どもっぽく見えるのだろう。ぼんやりと彼女を眺めていたエミルは、緊張から解き放たれたことから強い眠気に襲われ、意識が遠のいて行くことを阻止することが出来なかった。夢を見ることがなかったその時間は、やがて頭を撫でられた感触で終ることになった。

「あっ、起こしちゃった?ゴメン」

 先に目を覚ましたマシェリがベッドの端に腰掛け、伏せていたエミルの髪を撫でたのだった。エミルは慌てて身を起こした。

「あなたは起きられていたのですね?迂闊にもわたしは眠ってしまいました。ごめんなさい」

 エミルは役目を果たさず、自分が眠ってしまったことを恥ずかしく思った。

「いいよ。だって迷惑掛けちゃったのはアタシの方だから・・・。エミルの髪の色素敵だね」

「そう思われますか?わたしにはよく分かりません」

「アタシ、その色の髪が欲しかったんだ」

 ぽつりとマシェリは呟いた。一緒に行動するようになって初めて、彼女は自分自身の気持ちを素直に表した。

「アタシの姉さんたちも綺麗な金髪なんだ。女はアタシだけ、アタシと兄さんと父がこの色で、ウチでは男色って言ってるんだけど・・・何たって膨れっ面が似合うアタシだもの、この色がお似合いだよね」

 唇を歪めて微笑んだマシェリの瞳は暗かった。彼女の心の奥底には、鬱積している黒い塊があるよう思え、それはエミル自身も同じであるということを意識させた。

「アタシね・・・」

 マシェリは誰に言われた訳でもなく、自分の生い立ちを話し始めた。彼女はリディヌ男爵の娘として生を受けたが、婚外子であるために外で育てられた。同じ父の子である兄と母親の三人で、街の小さな家を借りて慎ましく暮らしていたようだ。ところが、彼女が12歳になる前に母親が病で他界してしまい、兄妹は男爵家に引き取られた上、家庭教師から教育を受けるようになった。男爵の正妻には男子がいなかった為に、兄は家督を継ぐ後継者として、専門の家庭教師から厳しい躾と高等教育を学ばなくてはならなかった。正妻の娘たちは気位が高く、マシェリをメイド代わりにして辛く当たったという。彼女が15歳になる頃には、姉たちはエヴァンス州で1、2を争う豪商の元へとそれぞれ嫁いで行った。だが姉たちは、事あるごとに実家に帰って来ては不平不満をぶちまけ、ついでにマシェリに山程の意地悪をした。正妻はそんな実の娘たちの醜態を見て見ぬふりをした。男爵に至っては見世物と同等にしか思っていなかったようだ。

「姉たちはやり返さないアタシをいいことに、やりたい放題だったよ・・・真冬に冷たい水を浴びせられるのは序の口で、糞まみれにされたこともあった・・・なぜやり返さないかって?だって、アタシは妾腹の子で卑しい身分だから・・・我慢していれば姉たちは飽きて帰るからね」

 15歳になったマシェリは家から離れ、寄宿舎のある州立武術学校を目指すことに決めた。彼女は心身共に強くなりたいと思ったからだ。そして、父であるリディヌ男爵にそのことを願い出た時、男爵の言葉に心が凍る思いをした。それは、マシェリが母親と違って金髪ではないので、この家では何の役にも立たない。つまり、このまま家を出て行ってくれた方が嬉しい。しかし、次期当主の妹という立場だから、特別に卒業までは金の面倒だけはみてやる。だが、卒業して武人になれたらこの家を出て、家名を汚す前にリディヌを名乗るなと言ったのだ。今までマシェリは兄を想い、はらわたが煮えくり返る仕打ちを我慢してきた。その上、家から追い出されるという現実を突き付けられ、それを自ら家を出るという事実へと変える為に、彼女はがむしゃらに頑張るしか道はなかった。武術学校に入学してからは一度たりとも男爵家には帰らず、男子に負けないように毎日座学や実技に何倍も何十倍も努力し、更に体力が劣る分、狙撃や情報操作、諜報という特殊な分野で才能を磨き、遂には主席の座を勝ち取り、彼女の右に出る者はいないと言わしめるまでになった。

「大変な苦労をされましたね。マシェリ、あなたは決して卑しい身分ではありませんよ、あなたの努力は必ず報われるとわたしは信じています。ですから、あなた自身も信じて下さい」

「ありがとう、エミル。こんな話を聞いてくれて・・・アタシ、他人に話したのは初めてだし、優しい言葉を掛けてもらったのも初めてかも知れない・・・」

 マシェリは両手で顔を覆うと肩を震わせ嗚咽した。彼女がミッションの完結に執着する理由が分かったが、エミルは自分がしたことに対する後ろめたい気持ちも重なり、マシェリの肩を抱きながら自分の心の闇を見つめた。


 暫くすると変な調子でドアをノックする音がして、シャインが戻って来たことを告げた。

「お帰りなさい。マシェリは起きましたよ」

 エミルがドアを開けると、大小の果物が入った網袋を抱えて二人が入って来た。

「おや?どうしたんだマシェエリ、どこか痛むのか?」

 涙を拭っている彼女にエルネストが訊くと、マシェリは素直な笑顔をエルネストに向けた。

「ううん、何でもない。エミルに身の上話を訊いてもらっていただけだよぉ、ちょっと感極まっちゃって」

「そっか、ふぅーん。エミルに訊いてもらったんだ」

 唇を尖らせ横を向いたシャインにエルネストは笑った。

「アハハハハハッ。シャインったら、本当は自分がそれを聞きたかったんじゃないのか?」

 忌憚のないエルネストの言葉がシャインの恋心に突き刺さった。

「酷いなぁ、エルネストは・・・」

「あーっ、図星だった?すまん!いやぁ本当にすまん」

 エルネストは趣味が悪いと思いながらも、シャインの反応がおかしくて仕方が無いようだ。

「これ、皆で食べるように買って来たけど」

 少しふて腐れた態度でシャインは網袋を突き出した。

「わあ、美味しそうな果物。お腹空いてたんだ、ありがとうシャイン」

 マシェリが喜んで受け取ったので、シャインはバツが悪そうに頷いたのだった。一つでも四人には充分な大袋だけに、どうして二つも買って来たのかとエミルが訊いた。

「オレたちが、嬉しさが有り余って買ったんじゃないよ。成り行きだったんだ」

 エルネストの話しによると、食事をした後に総統府の掲示板を見に行くと「明朝10時、アングレール学生使節団謁見」と貼ってあった。喜んだエルネストとシャインは、エミルとマシェリにお土産でも買って帰ろうということになり、市場へ行ったはいいが何を買うのか迷った挙句に、簡単に食べられる果物にすることに決めたという。上機嫌の二人に果物屋の店主が、何か良いことでもあったのかと声を掛けてきたので「大公殿下にお会い出来る予定だ」と言うと店主も喜んで「お祝いだからもう一袋持って行くように」と言われ、それを頂いて帰って来たというのだ。

「そうですか、街の皆さんも待っていらっしゃったのですね」

「そうだね。皆、大公を愛しているんだよね」

「良い国なんだな」

 甘酸っぱい香りの中、彼らは謁見出来る喜びを分かち合い、明日という日を楽しみにした。


 その日の夜。男子部屋では茶を飲みながら、昼間の出来事についての話になった。シャインがおかわりのカップをエミルに渡した。

「それで、エミルはマシェリにタネ明かししたの?」

 シャインの質問にエミルが首を振ると、湯気を上げているカップをぼんやりと眺めていたエルネストが決心をしたように口を開いた。

「実はオレたち、廊下でマシェリの話を聞いちゃったんだ」

 すまなそうな表情を見せた。

「マシェリの話、全部をですか?」

「いや、男爵との話あたりからかな?はっきり聞き取れなかったけどね」

(なるほど、それで動揺してあのノックだったのか)

 とエミルは納得がいった。

「アイツ、苦労人だったんだな。オレ、知らなかったから強く当たって悪かったなって・・・」

 エルネストはカップの端を弾いた。

「わたしは、彼女の話が本当であると信じたいです」

 その言葉を聞くとエルネストが、眉根に皺を寄せた。

「エミルは芝居だと思うのか?」

「いいえ、違います。そうではなくて、わたしと彼女の生き方に重なる部分があると思いました。ですから、全てが作り話ではないと思っています」

 二人は不思議そうな顔をしてエミルを見た。良家の生まれであろうエミルが、長い間自宅に帰らなかったのが不自然だと思っていた上、マシェリの様な生き方をしていたとは信じられないのだ。

「ぼくはね、エミルが8年もの間なぜ家に帰らなかったのか、という方が不思議に思うよ?」

「オレもそうだ。例え両親がそこに居なくても、家には帰るべきだったんじゃないか?」

「・・・ええ、そうかも知れなかったですね。当時のわたしには、素直にそれが出来ませんでした」

 手にしていたカップをテーブルに置くと、エミルはなぜ帰らないことに拘ったのかを二人に話した。

「ふむ。それは両親に対する、エミル流あがき方って言えるのかもな。でも、それは辛すぎる判断だったろ?」

 エルネストは同情を隠せなかった。

「そうだよ寂し過ぎるよね?10歳で決心したなんてぼくなら出来ないし、しないだろうね。だって、家族ってお互いに支えあうものだろ?ぼくにはそんな状況を想像出来ないよ。ただ、エミルが本当に可哀想だと思うよ」

 シャインは小さく首を振った。

「だけどエミル、アンタは両親から見放された訳ではないと思う。理由は分からないけど、エミルの両親は話せない訳があって、アンタと会うことが出来ない訳があるんだよ、きっと」

 エルネストはエミルの肩に優しく手を置いた。

「ありがとうエルネスト、シャイン。そうかも知れませんね、あなた方とはもっと早く出会っていたら良かったのにと思います。わたしは、一体何に遠慮をしていたのでしょうか・・・・・今となっては分かりません」

 エミルは今までに、こんなにも自分を曝け出したことが無かったのだ。友の言葉により、心の闇には小さいけれど、明るく暖かな光りが灯ったように感じられた。

「わたしはこちらへ来て、自分自身について色々と知らなくてはいけないことが沢山出来てしまいました。わたしは本当は誰なのだろうかという疑問ですが、今更自分自身について詳しく知らないなんて馬鹿げていますよね?」

 エミルが少し恥ずかしそうに言うと、シャインがエリエールさまとのことだねと言った。

「空似事件?っていうのかな、リリーが言ってたしジョエルも言ってたよね?」

「ああ、オレを世話してくれたジョエルも大騒ぎだったよ。家族じゃないか、ってね。オレたち、言われるまで似てるなんて気が付かなかったよ、アハハハハハッ」

 エルネストはいつもの豪快な笑いの後、エミルを抱きしめた。

「調べるならオレも手を貸すぞ!遠慮するな」

「ぼくもだよ、エミル」

 シャインもエミルをきつく抱きしめた。まるで友情を確かめ合うための儀式のようでもあった。そして、マシェリの件はあえて真実を明かすことはしないと決めた。なぜなら、彼女は既に知っているだろと結論したからだ。


 謁見当日の朝、ハミングをしながらマシェリが男子部屋にやって来た。ノックをしてドアを開くと出掛ける準備が出来たのかと訊いた。ドアの隙間から顔を覗かせたその髪に、可愛らしいヘアピンが着いているのに気付いたエルネストだった。

「おっ!マシェリ可愛いの着けてるな、おめかしか?」

「うん、だって女子だからねぇ」

 エルネストとの会話で、自分のプレゼントしたヘアピンをマシェリが着けてくれていることを知り、シャインの心臓は喜びで高鳴った。そして、それをしっかりと見ようと思いマシェリに近づいた。

「ねえシャイン、エミルは?居ないけど、どこに行ったの?」

「えっ、散歩に出たよ。散歩がてらすることがあるって言ってたけど、何だろうね・・・マシェリ似合ってる、可愛い」

 シャインは相好を崩している自分に気が付かないようだ。

「あーらぁ、ありがとう。ピンが可愛いのよね?」

「ああっ、酷いなぁ」

 マシェリのつれない返事がエルネストの笑いのツボにはまったようで、大笑いするエルネストに二人は唖然とした。勿論、なぜ笑われてしまうのかシャインは分からないでいる。丁度その時、エミルが戻って来た。

「ただいま、何だか楽しそうですね」

「お帰りぃエミル」

「エミルお帰り、面白かったぞ」

「エルネストは酷いんだよ」

 殆ど同時に三人は口を開いた。

「えっ何です?」

「んんっ、何でもないっ!」

 顔を赤らめてシャインが口を結ぶと、マシェリは不思議そうに首を傾げた。

「少し聞いて頂きたいのですが、いいですか?」

 エミルに三人が無言で頷いた。

「わたしは総統府に行ってきましたが、宮殿に出向く場合、正式には馬車で行くように決められているそうです。ですが今回は特別に、大公殿下からのお招きという形にして頂けるそうです。大公の馬車には総統府前から乗るようにと指示を受けました。もう少ししたら行きましょう」

 さすがに良く気が付いたものだ、とエルネストは感心していた。なぜなら、彼らは徒歩で宮殿へ出向くつもりでいたのだ。マシェリが一旦部屋へ戻ろうとドアを開けると、宿の主人が迎えの馬車が来たと言いに来た。

「もう来たのですか?早過ぎる気がします」

 エミルの言葉に、マシェリは素早く反応して部屋を飛び出して行った。呆気に取られた男子たちだったが、彼女の行動が何を意味するのか分かっていた。そして彼女は、直ぐに戻って来てくると報告した。

「宿の目の前に停まっていたけど、御者が一人だけで紋章も付いていなかった。それって、エミルの言う馬車じゃないよね?誰が寄越したんだろ」

 マシェリの報告で、男子たちはあの苦い出来事を思い出さない訳がなかった。

「どうする?あれには乗らないでしょ?」

「ああ、勿論だ。乗ったら最後、どこか遠い所へ連れて行かれるのがオチだ。最悪、殺されるかもな」

 エルネストの暗い予想にシャインは絶句した。寸前になってまで追いかけてくる見えない敵に、彼らには怯んでいる暇は無かった。エルネストが宿の中庭を通って裏へ抜けよう、と提案したのでそれを実行することにした。彼は買い物の度に何度もそこを通っていたので、抜け道として知っていたのだ。そして、その先の市場を抜ければ、そこが総統府の正面になる。彼らは宿の主人に宿代を払ったついでに、御者には「暫く待っていて欲しい」と伝えてくれるように頼むとすぐさま行動を起こした。主人が外へ出たタイミングで中庭を走り裏戸から脱出すると、市場では市民に紛れて上手くすり抜け、首尾よく総統府まで来ることに成功した。そして彼らは、顔馴染みになった役人に、大公の馬車が着いたら教えてくれるように頼むと、そのまま建物の中に留まることにした。

「はあーっ、本当に心臓に悪いよぉ」

 シャインの泣き言にエミルも頷くと、マシェリがどうしてこんな目に会うのかと訊いてきた。ところが男子たちの視線が彼女に集中したので、マシェリはたじろいで首を振った。

「あっ、アタシじゃないからねっ!疑われてるみたいだけどぉ」

「じゃあ誰が手引きしたんだ?」

 エルネストが詰問するように言うと、彼女は「間違っても君たちのことは依頼されてない」とキッパリと否定した。

「アタシが依頼されたのは・・・」

「依頼された?誰に、どんな依頼だ?」

 エルネストに詰め寄られたマシェリは、ぐっと顔を上げると、武術学校の学校長が「広い世界を見聞きすること」を依頼して来たのだと言った。そこでエルネストは大きく息を吐き出すと少しの間思案した。

「そうか!!だよな。あの場で仕込むことなんか出来ない・・・。すまんマシェリ、オレの早とちりでアンタを疑ってしまった」

 エルネストは頭を下げてに素直に謝ったので、マシェリもそれに応えた。

「もしかして、アタシも君たちに不要な警戒心を起こさせること言ったから、仕方ないのかな?」

「迂闊なことを言ったボクも悪かった・・・」

 シャインの告白もあってマシェリは苦笑したが、彼女は昨日は騙されたふりをしてお茶を飲んだことを打ち明けた。マシェリは、自分が居ないことで作戦が進むならば、ここは黙っていればいい事なのだと解釈したのだった。

「やっぱり知っていらしゃったのですね?申し訳ありませんでした」

 エミルも謝り、結局は男子全員から謝罪を受けたマシェリだった。

「何となく雰囲気で分かったよ。だけど、エミルの薬は優しいね。すーっと効いてすーっと覚めたよ、全然不快じゃなかった。学校での体験はガッツリ効き過ぎて丸一日寝てたし、目が覚めても頭がガンガン痛かったもの」

 マシェリは笑ったが、武術学校では毒についても学ぶようだ、とエミルは思った。

「わたしは自らが治験者となり研究もしてきました。勿論、病を治す為の薬ですが、その反対はやりたくはないと思っていますから」

 にっこりとしたエミルに、他の三人はドキっとした。記憶の片隅に追いやってしまったのか、うっかりと忘れていたのかどちらかだが、エミルは人を殺める薬をも作れてしまう存在だったのだ。

「あのねぇ、ぼくはエミルには、病人を助ける為にだけ薬を作ってもらいたいよ。だってエミルは医術師だろ?」

「そうだな、オレもそう願うぞ。物騒な事はしないで、薬草は平和利用が一番だ」

 マシェリもウンウンと何度も頷いた。彼らがそんな話をして時間を潰していると、顔馴染みの役人がやって来て、外を指して馬車が来たことを知らせてくれた。彼らは感謝の言葉を述べると馬車に向かった。馬車はエステル公国の紋章とウオルフィール公の紋章が記されていた。

「とうとうですね。行きましょう!」

 エミルの言葉に頷くと、彼らは感慨無量の気持ちを胸に、迎えの馬車に乗り込んだ。


「謁見」とは形式が重視され、自由な発言は許されてはいない。型にはまった流れで始まり、そして終わった。それがどんなもであるのか知らなかった学生たちは、その呆気なさにただただ驚いた。簡単に終わりすぎて実感が無いというのが本音だった。謁見の後には大公が学生たちを労う為に、場所をサロンに移して茶会を開いてくれたが、これが謁見に含まれる本当の謁見であり、礼節を保ち自由に意見交換が出来る場でもある。ウォルフィール公が堅苦しい公式よりも、こちらの茶会を重視しているのは頷ける所でもある。

「さあさあ、遠慮しないでお召し上がりになって」

 侍女のゾフィーが笑顔で学生の間を行き来している。若い侍女が運んで来たカップに茶を注ぎ、皿に小さなケーキと焼き菓子を取り分け配ったりした。

「今日は殿下のご機嫌がとても宜しくてよ。あなた方のおかげね」

 個人的なことを含めてゾフィーは嬉しくて仕方ないようだ。しばらくして大公も姿を見せると、彼らと同席した。大公は優しい瞳で学生たちを見つめ、口元には穏やかな笑みをたたえている。ゾフィーがエミルのカップに茶を注ぐついでに「ほら、ご機嫌でしょ?」と囁いた。久々に華やいだ場に戻れた大公は、自信を取り戻せたように見える。大公はこの国についての歴史や、大公の紋章にも採用されたバラについて聞かせてくれたりした。学生たちにはどの話もとても興味深かった。テーブルに飾られている沢山のバラも、大公ご自慢のバラ園のもので、美しさを競っているこの花々に学生たちも魅了された。特にエルネストは、大公のバラをいたく気に入った様子で、出来ることならバラ園ごと国に持ち帰りたいと言ったので、大公はとても愉快だと面白がった。学生たちとの和やかな茶会が終わりを迎える時間、大公はエミルに「不確かだが」とある情報を聴かせてくれた。

「本当ですか?でしたら、もしかすると・・・」

「うん?もしかして既に何か?」

「はい。今朝、こちらに伺う前のことですが、殿下の馬車よりも前に迎えの馬車が来ました」

 エミルは大公に今朝の出来事を打ち明けると、大公は顔を曇らせて考え事をしたので、他の学生たちも注目することになった。

「そうなのか、意外と早かったな。とにかく君たちを守るには、この国から直ぐに出さなくてはいけないようだ」

 大公は侍従を呼ぶと、急いで彼らを安全に国外に出すように指示した。

「出来ることなら、エスナンのアングレール行きの長距離馬車の停まる街まで送るように」

 慌しい状況で指揮するウォルフィール公に、学生たちは既に元通りの大公の姿を見ることになった。

「また、お会いできますか?」

 ゾフィーが不安そうな顔をしてエミルに近づいてきたので、再び会うことを約束をして彼女を抱きしめた。するとゾフィーはエミルの腕の中で、アリエールさまお守り下さいと小さく呟いた。老女の願いにエミルは胸が熱くなるのを禁じ得なかった。

「最後は慌しくなってしまったが、これも青春の冒険の一つだと思ってくれたまえ」

 大公は宮殿の裏を通って総統府に入り、その前から百合の花が描かれた馬車に乗るように学生たちに指示し、更に護衛を二人付けると言ってくれた。学生たちはお礼の言葉もままならない中、大公と別れることになった。

「ご好意痛み入ります」

「うむ。君たちは君たちなりに、これを乗り越えて見せなさい」

 学生たちは片膝を折り礼をすると大公の御前を辞した。去って行く後ろ姿を見つめていたゾフィーは、ウォルフィール公に寄り添うと「心配ですね」と呟いた。

「大丈夫だよゾフィー。奴らはあの子たちの命を取ることはしないですよ。ただ、あの子を自分たちの上に祀りあげたいだけなのだ・・・」

 ウォルフィールは自分の国に、国の理想に反対する勢力が存在する事に苦い思いを抱いていた。


 学生たちは指示された通りに、宮殿の裏庭から総統府の建物に入った。シャインとエルネストには昨日のことが嘘のように思えたが、建物の中を行き交う役人たちは、彼らに対してさほど驚く様子もなかった。護衛の一人が建物の正面に馬車が来たのを確認すると、手招きをして学生たちに乗るように指示した。階段を駆け下り、馬車に吸い込まれるようにして乗り込むと直ぐに動き出した。四人の学生たちは苦労した数日間が、あっという間に後方に去って行ってしまう現実に無情さを感じながらも、ミッションを最後までやり遂げるという強い気持ちは変化はない。彼らに同行してくれる護衛の二人は若く、学生たちとは歳が変わらないように見える。

「あのう、失礼だとは思いますが、お兄さんたちはアタシたちと歳は同じくらいかしら?」

 興味を持ったマシェリが聞くと、彼らは二十歳と二十二歳の兄弟だと言った。精悍な顔つきの二人は、教練場で優秀だった為に大公に召抱えられたという。口数は少ないが実直さが伝わってくる兄弟だ。

「しかし何だぁ、なぜ訳の分からん奴らが、オレたちを追ってくるんだろ」

 エルネストと同じくエミルも昨日まではそう思っていた。

「それは多分、正体不明の相手はミッションを妨害するのが目的ではなく、わたしに対しての行動だと思われます」

 その言葉は三人の学生たちに大きな衝撃を与え、彼らの口を封じてしまったかの様だった。すると、護衛の兄弟の兄がエミルに訊いた。

「大公殿下からお聞きになられたのですね?」

「はい、昨日聞かせて頂きました。わたしはまだよくは理解出来ていませんが、エスナールは天使にも悪魔にもなるとも仰っていました。詳しいことをご存知でいらっしゃいますか?」

「ええ、少しは知っていると思います」

 真っ直ぐな瞳でエミルを見ている兄のクリスティンは、彼らにエスナールについて話す事になった。初めてそれを聞くエルネストやシャイン、マシェリは表情を硬くした。

「昔からの口伝を含んでいるので、不確かな要素があります。ですからその部分は、聞き流して下さってもよいかと思いますが」

 クリスティンは前置きした。時は遡ることエステル公国が成立する前の時代、エスナンからの独立運動が起こり、エステル公を中心として独立派が最終的にエスナンからの独立を勝ち取ったが、その運動を支持し広めたのがエスナールという者であったという。初期のエスナール家は博識のある知識階級に属していたが、その頃より貴族や王室にも強い絆と、姻戚関係があった家柄だったようだ。やがて時代と伴に変化して行き、いつしかエスナールは両国に広がっていったが、今では名乗るのは貴族の一部だけとなり、更に王室を維持する組織の一つとなっていった。

「組織の一つですか?」

「はい、ここからが現在に至る肝心な所です。もしも、王室で男子の後継者が居ない場合はどうするか、ご存知ですか?」

「もしかして、そこから連れて来るとかぁ?」

 マシェリが無邪気に答えた。

「ご名答!その通りです」

「って事は、だ」

 探るようなエルネストに、クリスティンはゆっくりと頷いた。つまりそれは、エミルも対象者だということだった。全員の視線がエミルに集まり、エミルは困惑した表情を隠せないでいる。マシェリはエミルを庇うようにクリスティンに訊いた。

「でも、なぜエステルにエミルが必要なの?大公殿下にはご子息さまがいらっしゃるのでしょ?」

「はい、オルギュストさまがいらっしゃいます。でも、オルギュスト殿下はご病弱で床に伏していらっしゃることが多いお方です」

 学生たちは初めて、大公の子息の状態を知ることになった。

「どう考えても納得が行きません!」

 声を上げたのはエミルだった。

「わたしの出身はエステルでも、エスナンでもありません。アングレールのカリナンです。なのになぜでしょうか」

 エミルはエスナールがエステル、エスナンの両国だけでのことで、アングレールは無関係だと考えている。それは他の学生たちも同じである。

「兄さん、エスナールの意味を言わなきゃ」

 今まで黙っていた弟のエドモルトが口を開いた。

「意味?意味なんかあるのか?家門に」

 エルネストをはじめ、学生たちは初めてそれを知った。

「ええ、ありますよ。エスナールの元々の意味はエスナンの貴人という意味で、先ほど説明したような貴族の家柄なんです。長い間王家の女子が降嫁したりする家であるにも係わらず、政治的に表舞台には出ない。その家で産まれた女子が嫁いだ先で産んだ男子に、嫁ぎ先の苗字の他にエスナールと付けるんですよ。万が一、誕生したのが女子だけならば、その女子が産んだ男子がエスナールとなります。エミルさんの場合も、苗字はエスナールだけではない筈なんですが」

「ややこしいな。そうなのか?エミル・・・」

 エルネストに訊かれ、何も知らないエミルは首を振った。母がエスナン皇国のエスナール家の関係者だとは知らなかった上、自分の本当の苗字が何というのかも勿論知らないのだ。

「わたしが本当にその家系の者であるのか分かりませんし、適当にエスナールを名乗っているのかも知れません」

 エミルはそう言ってはみたが、エドモルトがあっさりと否定した。

「適当には名乗れません。エスナン、エステルに於いて、一般人は絶対にエスナールを名乗れませんから、エミルさんの場合は推測ですが、本名を名乗れない理由があって、代わりにお母様の家名を名乗っていらっしゃるのだと思います」

 自分自身の事なのに、エミルはどこか遠くの国の他人の話のように思えた。エステルの場合、病弱な跡継ぎの代わりに担ぎあげられる可能性があり、エスナンの場合は皇国跡継ぎの男子として推挙される可能性がある。

「エミルの事でもオレは認めんぞ!勝手に決めるなって言いたい」

 エルネストも、これ以上のアクシデントは望んでいない。

「そうだよ、ぼくも認めない。だって、エミルはぼくたちとアングレールに帰るんだから」

「アタシも嫌だよ。あんなにお優しい皇女さまと、大公殿下を押しのける様な事して欲しくないよぉ」

 学生たちの反対するという意思に、推挙されれば購えないということをクリスティンは言った。

「その、エスナールが王室へ入って、本当に王位に就いた方はいらっしゃるの?」

「はい、過去に何人かいらっしゃるそうです。ご存じかもしれませんが、エスナンのセティエ公もスナールでした」

 皇女エリエールの夫君が「エスナール」と聞いて彼らは驚いた。

「でもこの制度だと、貴族は皆エスナールだらけになっちゃうでしょ?」

 シャインの発言に、学生たちは同じように考えていたようだ。しかし、実際にエスナールを名乗るのは本家と分家の一部に限られている。その理由として、世代によっても婚家での辞退があったり、対象の兄弟が多い場合は代表で一人だけに認められるということでもあるようだ。この制度があっても、今やその後継対象者の数は少なくなってしまっている。そして今、問題になっているのは両国の不満分子、特にエステルの一部の貴族が、自分たちに従順な王を欲しがり、虱潰しにエスナールを探しているというのだ。

「ということは、わたしは飛んで火に入る・・・」

「だな、わざわざエミルの方から来てくれたって事だ」

「そうだよねぇ。ここにいますよぉ、って言ってたのと同じだもの」

「だけどぼくは、エミルを巻き込まないで!って言いたいよ」

「その・・・わたしの事で、友人である皆を巻き込んだ上、更に多くの苦しみを与えてしまった事に心苦しく思っています。ごめんなさい」

 エミルは頭を下げ、苦しい胸の内を吐露した。

「エミル、アンタが悪い訳じゃない!悪いのは利用しようとしている奴らだ」

 握り拳を見つめたエルネストに、シャインとマシェリも頷いた。

「ええ、皆さんの仰る通りだと思います。我々は、もっと自由に王室のことを考えてもいいと思っていますが、それを認めようとしない者がまだまだ多く存在するのです。大公殿下も・・・」

 エドモルトが言澱むと、クリスティンが許可するように頷いた。

「はっきり言ってしまいますが、大公殿下は王室の存続を、第一にとはお考えになっていらっしゃらないのです」

 このことは少なからず、学生たちには衝撃的だった。この時代、権力を握っている者たちは、それを手放すことが皆無であるからだ。

「大公殿下はそんなことをお考えだったのですか?」

 エミルと二人で話した時には、大公はそんなことを微塵にも感じさせなかった。ただ、エステルが平和であり、市民が幸せであってくれたらそれでいいと言っていたのだ。

「我々兄弟は妃殿下を母と慕い、とても可愛がって頂きました。勿論、殿下は父のようにお慕いしております。そんなこともありまして、殿下とは色々と親密なお話しをさせて頂いております」

 クリスティンは伏し目がちに言った。彼らと大公は強い信頼関係にあり、兄弟を息子のように思う大公が、心を許して話の出来る間柄なのだろう。そしてエドモルトが、妃殿下が亡くなられた直後に体調を崩したオルギュスト殿下の事もあり、大公殿下は多くの物事を考えることが出来ないくらいに弱ってしまったと言った。そんな状況にあり、先の大公の発言があったのだろう。マシェリは大公の事よりも、オルギュストが結婚しているのか知りたくなって兄弟に訊き、シャインとエルネストに冷やかされた。

「はい。殿下は23歳でいらっしゃいますが、3年前にエスナンの侯爵家から奥さまを迎えられました。ですが、お子さまはまだいらっしゃいません」

 学生たちは他国とはいえ、王室を存続させることは大変なのことなのだと漠然に感じた。更に、エスナールの存在を初めて知り、アングレールには無関係であって欲しいと願ったのだ。


 少し前に馬車はエステルの城壁から出て、広々とした葡萄畑を突っ切る街道を走っている。エステルからエスナンの首都エッダへと向かう大きな街道だ。

「本当に国境があって無いような関係なんだね」

「お互いに信頼してるからでしょ?」

 シャインとマシェリの会話に、その辺りをお話しましょうとエドモルトが言った。元々一つの国であったのにエステルが独立したのは「エステル公のわがまま」と言われている。これは悪い意味ではなく仕方が無いものだったようだ。当時、エスナン王にはカミュとカシムという双子の息子がいた。そのどちらが跡継ぎになるのかは、父である王にも決めかねていた。しかし、双子の息子はお互いを信じ合い、どちらかが国を治めるのでなく、出来ることなら一緒に治めたいと願っていた。ところがそれを認めない王は、二人で決めろと息子たちに任せた。息子たちは最善策を模索したが、周囲に反対されるなどして挫折してしまった。その時、エステル地方を治めていたカミュが「体が弱い分、王には向かない」と自ら辞退してしまったのだ。そのエステル公カミュに心酔した貴族や有力者が独立することを勧め、カシムも兄弟を想う気持ちから、その所領をもって独立させることになったという。

「二つの国は今でも兄弟国であって、お互いを敬い親愛の情を通わせているのです。ですから本当に国境はあっても無いようなものです」

 エドモルトの話に感心した学生たちであった。その後、クリスティンはエドモルトと何やら話し合い、お互いに確認し合うとクリスティンが訊いてきた。総統府を出発してからこの馬車を追って来る者は居なかったので安心してもよいが、アングレール行きの長距離便が立ち寄るのはこの先の割と大きな町だという。小さな町で乗ると目立つので、安全を考えて大きな町で乗ったらどうかと提案してくれた。

「異議はありません。こうして安全にご尽力して頂いているのですから」

「そうね、クリスティンさんとエドモルトさんに来てもらって心強かったもの」

 学生たちが感謝の意を表すと、慣れていないのか兄弟は照れ笑いをしたので初々しくも感じられた。それから暫く走ると、馬車は大きな町に着いた。

「ここがローゼーヌです。そこの停車場からアングレール行きの馬車にお乗り下さい、午後の便があるのでそれには間に合う筈です。我々は万が一の策として、この街道を暫く進んでから引き返します。旅のご無事をお祈り致します、お気を付けて」

 クリスティンとエドモントの兄弟ははにかんだ様子で手を振った。

「無事に来れたのもお二人のおかげ、感謝致します。わたしたちはこれからも警戒を怠らずに気を配るつもりです。大公殿下にも宜しくお伝え下さい、ありがとうございました」

 大公の厚意により無事にローゼーヌに到着出来た学生たちは、兄弟たちと別れ駅馬車乗り場へ行くと、アングレール行きの馬車が客待ちをしていた。シャインがアングレールのどの町まで行くのかを尋ねると、その御者はエムスまで行く予定だと言った。

「丁度良かった、ぼくたちをエムスまで乗せて下さい」

 人の良さそうな御者は客にありつけたと喜び、代金を支払った学生たちを乗せるとアングレールに向けて出発した。一般の様々な人を乗せる駅馬車では、それなりの警戒は怠れないのでエルネルトとマシェリが護衛を買って出た。

「クリスティンさんたちが尾行は無かったと言ったけど、気を付けないといけないな」

「うん、そうだね。警備と護衛はエルネストとアタシで何とかなるね」

「えっ?じゃあ、ぼくは何をすればいい?」

 シャインは真面目な顔で訊いた。

「シャインはシャインでいいよぉ」

「フフフ・・・あっ、ごめんなさい」

 笑ったのはエミルだった。驚いたシャインが理由を聞くと、マシェリの言った通りだと思ったからだと言った。

「ぼくが、ぼくでいいってこと?」

「ええそうです、シャインはシャインでいいのです。勿論、エルネストはエルネストで、マシェリはマシェリ、わたしはわたしなのです」

「エミルが言うと難しい話になっちゃうよ?」

「いいえ。難しく考えないで下さい、当たり前の事なのですから。皆それぞれなのに、わたしは自分が誰なのか分からなくなっていました。自分を見失いかけていたのは事実ですが、皆のおかげではっきりと分かりました。わたしはわたしなのです!」

 何かが吹っ切れたように、エミルは爽やかな笑みを浮かべていた。そして、家や両親に対して分からないことを、カリナンに帰ったらはっきりさせると断言した。

「オレたちは、約束通り協力するぜ。なっ、シャイン」

「勿論さ!」

 それを見ていたマシェリは、男同士の友情が羨ましいと呟いた。馬車は夕暮れの街道をひた走り、ヴェロンという大きな町に着いた。翌朝、ヴェロンを出発する時に、彼らは大きな町に宿泊したい旨を御者に伝えると、御者は無駄に宿探ししなくて済むと、すんなりと認めてくれた。見知らぬ町で人ごみに紛れていれば、例の集団からの追跡を逃れられる筈である。そして、その考えは思ったよりも上手く行ったのか、次のアルフィーユ、セリナ、ハルグと、人の乗り降りはあったものの無事に進み、予定よりも早めにエムスへ到着出来そうであった。

「もうじき国境だね。だけど、まだまだ気を引き締めなくっちゃ」

 マシェリが感慨深気に言うと、行きに出会った老夫婦を思い出したエミルだった。思えばあの出会いが、想像もしなかった出来事の起り始めだったのかも知れない。似ていると言われた人と、親子みたいだと言われた人、その関係を早く知りたいと強く思うのエミルだった。彼らの乗った馬車は、アングレールの国境を越えた所にある入国審査の事務所に停まり、スムーズに審査を通るとロレンスの停車場に無事着くことが出来た。ロレンスで食事休憩を取ると、残すはあと少しとなったエムスへと、馬車は走って行く。

「アングレールから十日前に出たのが嘘みたいだな」

「そうだね。予定よりも早く帰って来ることが出来た」

「わたしたち全員で、頑張った成果ではないでしょうか」

「うんうん、頑張ったよぉ!でもエムスに着かないと意味ないからねっ」

「ははははっ。マシェリ嬢の仰しゃる通り」

 エルネストがからかう様に言ったのでマシェリが膨れると、隣に座っていたエミルがマシェリの頬を突いた。

「やだぁ、エミルったら」

「あははははは」

 車内では、最終目的地に着くという気分的な高まりがある。馬車は順調に進み、エムスの堅牢な城壁が遠くに見えてくると、興奮した気持ちが静まってくるのを覚えた。あの城壁の中に入ると旅が終わる、そう思うと一抹の寂しさも沸き起こってくるのだ。やがて城門の近くまで来ると、段々と馬車だけが渋滞して列を作るようになっていた。

「何だろ、何かあったのかな?」

 シャインが窓から首を出して列の先頭の方を窺った。

「軍かな?一台づつ調べているみたいだよ」

「多分、巡検だろ?時々やるようだし」

「だったらいいのにねぇ、例の訳の分からない連中だったら・・・」

 冗談のつもりでマシェリは言ったが、それが本当だったらと考えると肝が冷える。全員が緊張感を取り戻した。馬車は少しづつ進み、彼らの番となった。ドアが開かれると若い将校が、身分に係わる物の提示を求めてきたので、学生たちは一人ずつ順番に書類を見せた。将校は丹念に書類と顔を見比べながら確かめて行き、エミルの確認に手間取った感じがあったので緊張が高まった。

「ふむ、君たちはミッションの学生ですね。これからは国の為にも励んで下さいよ」

 将校は笑顔を見せドアが閉められたので、彼らはほっとして胸を撫で下ろした。馬車は再び動き出すと、ゆっくりと城門をくぐって進み、とうとうエムスの停車場に着いた。


「到着だよ、お疲れ!」

 御者がドアを開いた。学生たちは礼を言うと、馬車を後にして振り返りもせずに歩き出した。目指すは州庁舎の建物だ。気持ちは高ぶり、歩く早さも次第に早くなってくる。そして、彼らは競うようにして走り出し、州庁舎に飛び込んで行ったのだ。あの日は悔しい思いを抱えていた、けれど今日はやり遂げたという達成感がある。庁舎の中では、一日の仕事を終えようとしていた役人たちが彼らを迎えてくれた。ミッションの最終の期限が迫って来ると、完了して戻って来る学生たちが段々と多くなって来る。「安心して行って来るように」と言ってくれた、担当者のシュツルムも笑顔で彼らを迎えた。

「お帰り、無事で良かった。成果はどうだったかな?」

「ご心配をお掛けしましたが、チームワークの良さで乗り越え完遂することが出来ました。ありがとうございました」

 彼らが関係書類を返却する手続きをすると、シュツルムが明日改めて報告するようにと言ったので、再び来庁することを約束をして庁舎を後にすことになった。

「ふーっ、今日はこれでいいけど・・・宿はどうする?」

 大通りに出て左右を眺めても、それらしい建物が見当たらない。

「心当たりも無いですから、今から探すしかないですね」

「もう一仕事って感じだな。誰かに訊こう」

 カリナンからの三人には、余りにも忙しない場所だったので、それをやり直す感じである。

「宿だったら、アタシが泊まっていた所ならこの近くにあるけど、そこで良かったら行ってみる?」

 唯一、この街に滞在したことのあるマシェリが言った。

「有難い、頼むぞマシェリ」

 マシェリに付いて街を歩いた。行き交う馬車と市民を眺め、カリナンとは少し違う雰囲気を感じ、久しぶりの大きな都市がなぜか懐かしくも感じると思った。

「ここだよ」

 その宿は大きくも小さくもなく、一人だけでも利用し易い感じだった。

「ここはね、エヴァンス指定の宿なんだって、だから探せばカリナン指定の宿だってあるはずだよね?」

「そうかもな。で、何か特典があったりするのか?」

「エルネストったら、そこに注目する?」

「意外としっかり者だったんだね、エルネストは」

「そうですね、新発見ですよ。フフフ」

「いい?入るよぉ」

 先頭に立ったマシェリは、ドアを開けると中に入って行った。

「おばちゃん、今日空いてるかな?」

 カウンターの向こう側に居た女性に気軽に訊いた。

「ああ、この前泊まってくれた子だね?おやおや、お客さんを連れて来てくれたの?」

 丁度この日、連泊していた商人たちが帰った後だったので、部屋が空いているということだった。宿泊することに決めたこの宿は、一階が食堂になっているので外へ食事に行かなくても済んだ。彼らは大好きな肉料理を注文すると、女将の好意で野菜の盛り合わせと葡萄のジュースが運ばれて来た。これが、四人で揃っての最後の夕食となる。

「最後の晩餐だね」

 長く感じられたミッションも明日で完全に終わる。マシェリは湿っぽくならないようにわざと声を張り上げた。

「アタシは、君たちと組めて良かったと思っているよ?お疲れさま、乾杯!」

 四人は葡萄ジュースで乾杯をして、お互いを讃え合った。そして、色々な思い出話しをしているうちに、この旅でエミルは変わったと思うとエルネストは言った。

「初めは隙のないガチガチの優等生だったけど、今じゃ普通の優等生になったっていうか、オレが言うのも変かも知れないが、人として成長したと思うな」

 するとマシェリが、二人のゆるさがエミルに移ったからだと笑った。

「マシェリ、アンタだって変わったぞ。自分では気が付いていないだろうけど」

 エルネストが言うマシェリの場合は、トゲだらけで近寄れ難かったが、今は自らそのトゲを減らした事により親しみ易くなったと云うのだ。

「アタシはハードル下げたつもりはないよ?」

 マシェリはそう言ってはみたものの、本当は心の奥底に頑なにあった何かが崩れ去り、綺麗に洗い流されたような気持ちを認めているのだ。

「シャインも変わったよね?」

 マシェリがシャインを見つめて、最初の印象は最悪だったと言った。

「学校にもいたのよ、こんなタイプの五月蝿い奴がね。わっ、ここにも居るってなって思ったら帰りたくなったもの」

「酷い云われ様だよね・・・」

 シャインは思い切り肩を下げた。

「でもね、一緒にいるうちに案外イイ奴だって分かったんだ。気を遣ってくれてるのが分かるし、アタシも助けてもらったりしたしねっ」

 褒められたシャインは赤くなってにやけた。

「わたしは、エルネストも変わったと思いますよ」

 エミルは、エルネストが武人として筋が通っているのは勿論なことだが、ぶれることがなく彼の器の大きさが一回り大きくなったと讃えた。

「簡単に言うと、懐が深くなったということでしょうか。皆、この旅で貴重な経験をして、大きく成長したのですね」

「ぼくは自分でもそう思うよ。今までは小さなことにこだわって、周りを見渡せないでいたんだ。だけど今は違う!変わったぼくを早く誰かに見せたいって思うよ」

「これこそが、我がアングレール王イザナさまのお考えになる所じゃないのか?」

「そうだよエルネスト!アタシたちって幸せだね」

 こうして屈託のない話をして笑いあい、楽しく最後の晩は更けていった。


 翌朝、州庁舎に向かって歩いて行く間、マシェリは上の空で殆ど口を利くことは無く、ずっと何かを考えている様子だった。

「えっと、シュツルムさんを呼ばないとね」

 シャインのその声でマシェリは我に返ったようだった。

「ごめん、アタシ考え事していた・・・」

 彼らはマシェリが何を考えているのか、何となく想像出来た。

「お早う!諸君、ご苦労でした。あちらでゆっくりと話をしよう」

 呼ばれて出て来たシュツルムは、階段脇にある小部屋を指した。五人が入って行くと、その部屋には先客が一人居た。

「お早うございます。お会いするのは二度目ですね」

 学生たちは驚いた。昨日、巡検をしていたあの若い将校だった。

「そんなに緊張しないで下さい。君たちは手配者でも何でもなく、善良な一般市民ですから」

 椅子から立ち上がったその人は、マリオット・ケネスと名乗った。全員に椅子に座るように言ったシュツルムは、一枚の手紙を指して軍人を呼んだのは、これに呼ぶように書いてあったからだと説明した。

「それは何ですか?」

 エルネストが質問すると、詳しくは言えないがある貴人からの要請が書かれてあり、彼らを無事に自宅まで送り届けて欲しいと書いてあると答えた。そして、そんなことは今までのミッションでは無かった事だと言った。

「エスナンかエステルで何があったのか、話してくれくれると良いのだが」

 額の汗を拭い、彼らの発言を書きとめようと構えたシュツルムだった。

「シュツルムさん、ぼくたちの最初のこと覚えていらっしゃいますよね?」

 シャインの言葉に勿論だと答えると、あれから直ぐにミッション本部に問い合わせ、最近になって回答が来たと言った。

「本部は何と言ってきたのですか?自分たちは知りたいです」

 エルネストの迫力に少し気圧されたのか、シュツルムは深呼吸すると、どこも同じだがカリナン州でも正式な手順で行うように指導してある、という事だけ書いてあったと言った。

「そうですか、分かりました。シュツルムさん、忙しい合間にお手を煩わせて申し訳ありませんでした。これは、カリナンの誰かが仕組んだことだと考えられます。それが、わたしたちの旅先でのことも関係があるかも知れません」

 エミルの言葉を書きながらシュツルムは、訳が分からないと愚痴を言った。

「わたしたちもなぜ標的にされたのか、分かりませんでした。ですが、大公殿下に教えて頂いたことなのですが」

 エミルはエスナン、エステルに於けるエスナール制度が、今回の元となったのではないかと答えた。

「それでは君が、エミル君が対象人物だということなのか?」

 シュツルムは目を丸くした。マリオットも初めて聞くことだと驚いた。

「君はカリナンの、アングレールの子だろ?なぜだろう」

 肉付きの良い丸い顎を撫でながら、シュツルムも初めての出来事に困惑した。そして、この件が直接ミッションとは関係の無い出来事だったと分かると、後のことは巡検隊のマリオットに任せることに決め、資料を見ながら今回の総評を聞かせてくれた。

「未帰還はあと二組かな?今回はやたらと頑張る組が多くて、ほんの数日で早々終わらせて戻って来たっていう組があったけど・・・。それと、最初の一日目で大喧嘩して戻って来た組があったよ。勿論、ミッションは未完に終わったが、それも一組あった。それに、今年の最難関となったのが君たちの組だった、って事だね」

 学生たちはどよめいた。難しいミッションだと思っていたが、それが本当に一番難しいとされたものだったのだ。

「最難関って、一番難しかったってことだよねっ、すごーい!」

「凄いよね、ぼくたち」

 喜んだ半面、時事的なことが織り込み済みだったのか質問したい、と思ったエルネストとエミルだった。

「だけど、大公殿下の件は本部も知っていたのだろうか」

「そうですね。一番の危機でしたから、その点はご存知でしたか?」

 開催する側としては痛い所を突かれ筈だ。だがシュツルムは、その件については失敗することを前提に作られているので大丈夫だと言った。その場合、本当に失敗したら学生たちには不利である筈だが、一般的に考えて不可能な状態であれば大目にみられるという事であった。これは外交ではよくあること、として処理されるという。

「それだったら、アタシたちは失敗しても良かったんだよね?」

「んー、結論から言うとそういうことだね」

 シュツルムはあっさりと認めた。

「失敗するだろうと思われていても、ぼくたちはやり遂げた!」

「うむ。だから君たちにはご褒美が出ているよ」

 シュツルムは書類の束から何枚か抜き出すと、彼らに二枚ずつ渡した。それはミッション完了認定書と成績優秀者表彰であり、マシェリが欲しかった物を手にした瞬間だった。感激した彼女の目からは嬉涙が零れ落ちた。

「ご褒美はその紙だけではないよ、読んでごらん」

 再び渡されたのは厚手の封筒だった。開封すると上等な便箋に成績優秀者諸君へと書かれてあり、カリナンで7月に行われる立太子式と、その後に催される舞踏会に招待するとあった。

「わぁ、感激しちゃう!・・・嬉しいけど、アタシはエヴァンスだから遠すぎるよぉ」

 エヴァンスから一人で行くにはカリナンは遠い、だがシュツルムによるとエヴァンスの隣のラフィネ州から招待を受けている者がいるので、一緒に馬車で来ればいいと言った。招待者には往復の馬車を国が手配するという異例の待遇である。

「素敵!でもドレスが必要よね?」

「それも大丈夫だよ、自前でなくても貸してもらえるから。学生はいいね」

 シュツルムは親しみのある笑顔を向けてくれた。そして、この様な招待は今までには無かったと言った。

「無かったと言うことは、初めてだと?」

 エルネストは、いつもは下がっている目じりを上げて目を丸くした。

「うむ。そこにも書いてあるけど、立太子式ってあるだろ?王子が次期王として、公表される大切な場なんだ。滅多にあるものじゃないからね」

 余りにも重大な事だと気付いた学生たちは頷くだけだったが、そんな彼らにシュツルムは優しく微笑んだ。

「次の国王となる人は、どんな方なんだろう」

「未来の国王に会えるなんて素敵だね」

「ロマンチックよねぇ楽しみぃ」

「身に余る光栄だと思います。ミッションを完遂して良かったです」

 学生たちの言葉に、シュツルムは満足げに頷いた。

「君たち、ミッション完遂おめでとう!」

「ありがとうございます」

 学生たちは満面の笑みで応えた。そしてシュツルムが退出すると、学生たちとマリオットは、帰宅についての相談をしなければならなかった。エヴァンスはこのエムスから比較的近く、マシェリは非対象者である為に駅馬車で帰る事になり、カリナンの三人はマリオットと一緒に、特別に手配した軍の馬車で帰ることに決まった。そして、彼らの解団式は州庁舎の前で馬車が来るまでの間、彼らだけで行った。

「これを以ってミッションに於ける我々の任を解く。今までありがとう!」

 エルネストの発声でミッションの全てが終わり、彼らはそれぞれ固い握手を交わした。

「マシェリ、卒業したらどうする?」

 握手をしたマシェリにシャインはどうしても訊きたかった。

「んー、まだ決めてないよ」

「良かったら、君さえ良かったら、カリナンにおいでよ!」

「そりゃあいいな、オレも思った。同じ武人として面倒みるぜ」

「良い考えですね、わたしも協力します」

「うん、考えてみる。どうせカリナンに行くんだし、いいかも」

 微笑んだマシェリは、再び涙を見せると突然エミルに抱きついた。

「エミル・・・」

「・・・・はい」

 エミルもマシェリを優しく抱きしめた。

「エミル、必ずまた会おうね」

「はい・・・・」

 二人の抱擁を見ることになってしまったシャインは、目の前が真っ暗になった感じがした。自分が温めてきた物は何だったのか、だがそれは心のどこかで、否定されるのを待っていたのかも知れないと感じた。そして、心の疼きがはっきりと分かっるのは恋していたからなのだろうか、シャインは自分の気持ちに嘘をつきたくなった。やがて一台の馬車が彼らの前に停まり、マリオットがドアを開いて乗るように促した。

「お待たせしました。お別れは済みましたか?」

 三人が乗り込むと、一人残ったマシェリは笑顔を作って大きく手を振った。

「二ヶ月後に会おうねーっ!!」

「おう!待ってるぞ」

 にこやかに手を振ったエルネストとエミルとは対照的に、寂しさと悔しさが入り混じった気持ちがシャインを泣かせた。馬車が動き出し、段々とマシェリから遠ざかる。シャインは小さく手を振り、その口元が何かを伝えていた。

「青春・・・ですね」

 マリオットは懐かしむように呟いた。


 2 認め合うとき


 エムスの城門を出る頃に、シャインは泣くのを止めた。エミルもエルネストも、彼が心に大きな傷を負ってしまったのだと感じている。泣き腫らした目を恥ずかしいと思ったのか、シャインは俯き加減になって笑った。

「ああスッキリした。久しぶりに泣けたよ、驚いただろ?ぼくは小さい頃から泣き虫なんだ」

「ふむ、そうかい?オレもだぞ!」

 エルネストの発言に他の三人は驚いた。特にマリオットは目が飛び出そうな位驚いたが、エルネストはニヤリと笑うと直ぐに「嘘だ」と言った。

「びっくりしました。意外に本当かと思ったので驚きましたよ」

 エリオットは大人として落ち着いた態度でいたかったのだが、エルネストの方が役者が一枚上手だったようだ。一方でエミルは、自分が原因でシャインを傷つける事をしてしまいすまなく思っていた。

「シャイン・・・」

 襲る襲る声を掛けてみると、シャインは何事も無かったような顔をしてエミルを見た。

「ん?」

「あなたの気持ちを傷付けてしまいました。ごめんなさい・・・」

 隣に座っているシャインの手を取った。

「やだなぁ、エミル。エミルは謝らなくてもいいよ。だってもう済んだことだし、ぼくの一方的な感情だったからね」

 優しいエミルの気持ちに触れ、シャインは照れ笑いをして頭を掻いた。

「いいですね、昔を思い出しますよ」

 マリオットのその言葉に、エルネストがニヤニヤして質問した。

「ケネスさんの昔って何年前ですか?」

「ああーん、想像に任せます。失恋も大切な人生経験ですから」

 シャインはマリオットのひと言に敏感だった。

「ぼく、失恋なんてしていませんからっ!ただ、いいなあって思っていただけですからねっ!」

「うむ、バッキオ君。その恋心が成就しなかったのを失恋って言うのだよ?」

「わあーん!ケネスさんが苛めるぅ」

 大声で泣きまねをしたのはシャインだった。この一幕を見ていたエルネストとエミルは、もう苦笑するしかなかった。

「大人のあなたが傷口に塩を塗るようなことをして、よいと思っていらっしゃいますか?」

 シャインを擁護するようにエミルが言うと、マリオットは平謝りをした。

「すまん、すまん!何だか昔の、学生時代の自分を見ているようで」

「はーぁ?ぼくは大人になると、ケネスさんの様に意地悪になってしまうんですね」

 しみじみと呟いたシャインに、マリオットは誤解だと言った。恋愛に関して言えばとても不器用だけど、そんな自分に好意を寄せてくれる女性がいたことを告白した。

「じゃあ、その女性とはどうなったんですか?結婚したとか?」

 対抗心なのか、シャインが訊いた。

「それはですね、自分の勤務地がエムスに決まり、結婚するつもりで彼女に一緒に行こうと言ったのですが、遠くへは行けないって言われてしまいましてね。それで結局は別れて・・・って!こんな話をする為に来てる訳ではないのです。全く君たちは・・・」

 そう言いながらも、ふと懐かしさに浸ったマリオットだった。


「ところで、何日間の予定でカリナンへ戻る予定ですか?」

 いつの間にか地図を開いていたシャインだった。

「ほほう、バッキオ君は地理が得意かい?確か君は・・・」

「算術学校の学生だけど?」

「君の才能を算術だけで終わらせるのは実にもったいない。作戦立案とか運用に興味ないかな?」

 突然、畑違いの事を言われシャインは驚きを隠せなかった。

「ハハハハッ、流石ケネスさん気付くの早い!コイツ、凄くセンスいいんですよ」

 エルネストは少し愉快そうに笑った。

「エルネスト、それはどういう意味ですか?」

 エミルも意味が分からなかった。

「それはだな、エミルだと全くの畑違いになるけど、算術は軍とは切っても切れない仲なんだ・・・」

 そこで、エルネストの代わりにとマリオットが説明することになった。大所帯の軍を維持しながら動かすには、それなりに莫大な金が掛かる事や、戦になった場合、その地形を把握して効率の良い戦い方をしなくてはならない。軍にはその専門家がいるが、その殆どが軍関係の学校の出身者で占められているために、作戦立案には特徴のある戦い方になってしまう場合がある。そこで外部からの知恵を拝借するのが近年の策だというのだ。

「蛇足ですが、エスナール君は軍医として、軍でも働けますよ」

「そうなのですか?」

 シャインとエミルは顔を見合わせた。お互いに学んだその先だけを目指していたが、実はその他にも色々と活躍出来る場があるということを知ったのだ。そしてマリオットは、シャインの地図を見ながらカリナンまでの行程を説明した。

「ケネスさん、アマレは通れませんよ?」

「ええっ?そんな筈はないですよ、軍関係だったら通ることができますから。でも、どうして通れないと言うのですか?」

「橋が封鎖されて、ぼくたちは実際に通れなかったんですよ」

「封鎖?」

 そこで、エルネストがアマレの橋について簡潔に、かつ城壁の大規模補修の件も付け加えて話した。マリオットは全て聞き終わると腕組みをして唸った。

「アマレは領主が変わっていますよね。今は確か、あのダヴィーノ卿」

「あの、とは?」

「ああっ、君たちには関係ないですよ。貴族の間では有名な方ですから」

 と言うとマリオットは口をつぐんだ。学生たちは、どうしてそのダヴィーノ卿が有名なのかを知りたくなったが、それに関してはマリオットの口から聞くことは出来なかった。彼らが乗る馬車は、通常の旅客を乗せてはいないので、駅馬車が通る主だった街道を避けているようだ。それは、エミルが考えついた最短を行く方法に近いものであり、更に時間短縮出来る軍の専用道を通っている。だが、このような道路網があるのは一般には知られていない。

「フォレス君、泊まる宿は軍関係者がよく利用する所だ。君もこれから利用するかも知れないから、覚えておいても損はないと思うよ」

「はい。それって、特徴はあるんですか?」

「無い!けどある」

 その理由は宿に着いて分かった。規律を守る為の整然とした宿か、息抜きの為のその反対の宿かのどちらかであった。今回は学生だということで前者の宿だけの利用である。それを「エミル向け」と「エルネスト向け」と例えたのはシャインで、エルネストからの物言いがついた。そして次の日の朝、マリオットはやはり気になるようで、アマレの様子を見たいと願ったので、特に遠回りにはならないという理由で学生たちは同意した。そして、学生たちが通って来た道を返すような順路を辿りアマレへ入った。軍の移動ならば、事前予告があるのでバリケードを片付けるだろうが、やはりアマレの橋は封鎖されたままであった。

「ふむ、君たちの言った通りでしたね。やれやれ・・・」

「軍への報告をされるのですか?」

 エミルの問いにマリオットは「誰かが報告を上げているかも知れない」と言い恨めしそうにアマレの城壁を眺めていた。そして、彼らは無理のない行程で四日目にはカリナンまで戻って来ることが出来た。


「とうとうカリナンまで帰って来たね!」

「懐かしく感じるものなんだな」

「あの城壁を見ると安心しますね」

 それぞれの感想にマリオットは満足そうだ。

「君たちは州庁舎前で降りるんだね?」

「はい、勿論!」

 学生たちにはやる事があった。それは、あの役人「バグスタ」に会って問い質すことだった。

「しかし、本当にいいのかな君たちだけで・・・」

「ご心配でしたら、ご一緒にどうぞ」

 という訳で馬車を州庁舎前に停めると、四人は揃って建物に入って行った。

「すみませんが、こちらにバグスタさんという方はいらっしゃいますか?」

 受付の無表情な役人に訊いた。

「ん?バグスタですか?聞いた事が無い名前ですな」

「そんな筈はないです。ミッションの世話係りだと言っておられました」

「ミッション?でしたら少しお待ち下さい、訊いてきます」

 役人が立ち去ると、学生たちは口々に信じられないと言った。彼らが出会ったその人物は偽名か、それとも元々役人でない人間なのだろうか。彼らは胸がざわざわと波立つのを感じた。暫くして無表情な役人は、ミッションの担当者だという杖をついた男を連れて来た。

「こんにちは、私がミッション担当のオルバです。君たちは?」

「わたしたちは、ミッションを完遂して戻って来た学生です」

 それを聞いたオルバは目を細めて喜んだ。そして、自分が怪我で休んでいた間に、素晴らしい成績を修めてくれて感謝すると言った。

「あなたが休んでいた間は、どなたが代行されたのでしょうか?わたしたちが会った方はどなただったのでしょうか」

 予期しなかった質問にオルバは首を傾げた。

「えっと、彼と何かありましたか?」

「大いにあります!」

 シャインが横から大きな声で言ったので、周囲の役人たちの注目を浴びた。

「ちょっと、こちらへ」

 オルバは受付台の向こう側にある椅子に座って話すように彼らを手招きした。

「どんな事なんです?話してもらえたらいいのだが・・・」

「ぼくたちは、直接あの人に聞かなければならないことがあるんです!」

「それは重要な事?私には話せない?」

「悪いけどそうなる。どこに居るんだ、あのバグスタって人」

「バグスタという名前ではないが・・・」

「えっ!?」

 学生たちは絶句した。

「では、本当は何という名前ですか?」

 付き添いのつもりで付いて来たマリオットが代わりに訊いた。

「彼の名はギリアム、グアナ・ギリアムといいます。今は別館で資料整理をしている筈・・・」

 最後まで聞かずに飛び出したのはシャインで、続いてエルネストが追って行った。

「すみません、血気盛んな年頃でして」

 マリオットが謝ると、エミルは彼が別館のどこに居るのかを聞いた。

「分かりました、お騒がせしてすみませんでした。ありがとうごいました」

 立ち上がるや否や、エミルもその場から走り出したのでマリオットも後について走った。

「別館ってどこ?」

「ここを出て右隣の建物です」

 外に出ると彼らが乗って来た馬車の後ろに、衛兵隊の紋章が描かれた馬車が停まっていたが、マリオットだけがそれに気が付いた。別館のドアを開けると、エルネストとシャインが一階でギリアムを探していた。

「エルネスト!シャイン!彼は2階の左の部屋です」

「おう!」

 三人の学生と一人の大人は、ドカドカと荒っぽい音を立てて2階へと駆け上った。そして左側のドアを片っ端から開けて行った。最後に残った一番奥のドアを開けると、あの印象的な顔がそこにあった。少年たちは無言で部屋の奥にいる彼に詰め寄った。

「ん?何です?君たちは・・・」

 突如、乱入して来た見覚えのある若者に、バグスタことギリアムは驚いた。

「ほぉ、オレたちの顔を覚えているんだな?イカサマ師が!」

「誰がイカサマ師ですか?失礼な子どもですねぇ」

 ギリアムは、学生である少年たちがなぜここに来たのか想像がつきかねていた。

「なぜあなたは、ぼくたちに罠を仕掛けたんですか!」

 シャインも敵対心から興奮の度を増している。

「罠?・・・誰が罠を仕掛けたと?笑わせるんじゃありません!言い掛かりも程々にしなさいっ」

「言い掛かりだと言われるのですね?あなたは、わたしたちにしたことを忘れたのですか?」

 エミルの言葉に、ギリアムは全く心当たりがないと言ってのけた。それを聞いたエルネストは、我慢出来ずにギリアムに掴み掛かったが、寸でのところでかわされ、彼が手にしていた金属の縁がついた分厚い本がエルネスト目がけて投げつけられた。ドスッと鈍い音がして頭に強い衝撃を受けたエルネストは、その場にうずくまってしまった。唸り声を上げ頭に手をやるとその手にはべったりと血が付いた。

「畜生!」

 エルネルトは立ち上がると、再びギリアムにと飛び掛かろうとしたのでシャインが制止した。

「ダメだよ、エルネスト!ぼくたちは手を出したらいけないんだ」

 マリオットがエルネストの止血をしようと駆け寄ると、ギリアムはその隙に逃げようとしてドアに向かって走ろうとした。だが、シャインの足の速さはギリアムに勝り、彼の前に両手を広げて立ちはだかり逃走するのを阻止した。

「バグスタさん、いや、ギリアムさん!観念して下さい。あなたは逃げられませんよ」

「ふん、そうですか?そう思っているのですね?愚かな少年たち・・・」

 不適な笑みを浮かべると、ギリアムは壁にもたれている大型の書架の支えを思い切り蹴飛ばした。支えを失った書架はシャインに向かって次々と倒れて来たその時、横にいたエミルがシャインを突き飛ばし、間一髪シャインは逃れた。だが、逃げ遅れたエミルがその下敷きになってしまった。

「エミルーッ!!」

 再び逃げようとしたギリアムに、今度はマリオットが飛び掛かり、羽交い絞めにして捕らえると、本を括る為に置いてあった頑丈な紐で縛り上げた。

「エミル!大丈夫?エミル!!」

 シャインは必死に書架を動かそうとしていたが、彼一人だけでは重くて動かなかった。マリオットも直ぐに手を貸したが、少し動かせただけで助け出すまでは行かなかった。

「バッキオ君、誰か呼んで来て!早く!!」

 シャインが廊下に飛び出し階段手前まで走ると、衛兵を四人連れた大柄な男性が階段を上ってきた。

「助けて下さい!エミルが!親友が・・・」

 蒼白なシャインの顔が尋常でないことを物語っていた。

「分かった」

 男性は衛兵を連れ、シャインと伴に走って奥の部屋に入って来た。

「何事か?」

「少年が下敷きになっているんです!」

 マリオットは必死の形相で棚をどけている。衛兵たちは直ぐに重い書架を立ち上がらせると、本の山をどかしに掛かった。男性は部屋の中をさっと見渡すと衛兵に命令を下した。

「下敷きになられているのは殿下だ!早く!急ぐんだ!!」

 崩れ落ちた本の間からエミルが見えた。シャインは駆け寄るとエミルを抱き起こしたが、彼はぐったりとして目を閉じたまま動かなかった。

「エミル!起きて、起きてってば!」

 シャインの顔は涙でくしゃくしゃになっている。マリオットはエミルの首筋で脈を確認した。

「大丈夫、生きていますよ」

「私が殿下をお連れする。君たちは、侍医を呼ぶように!」

 衛兵に指図をした男性は、彼らにも同行を求め、縛られているギリアムを連行するように言った。

「あなたは?」

 マリオットが男性に訊いた。

「私ですか?私は執事です」

 執事だというその男性は、軽々とエミルを抱き上げると衛兵隊の馬車に向かった。頭を怪我したエルネストはマリオットに支えながら、ふらつく足で彼らの馬車に乗り込むと、衛兵の一人が軍の御者に必ず後に付いて来るように指示してきた。

「エミルは?」

 エルネストは顔を歪め、痛む傷口を布で押さえながらも心配している。マリオットは彼をシートに横たわらせると、先頭の馬車に乗っているから心配しなくてもいいと伝えた。そして、今頃になって足がガクガクと震えているシャインは、抑えようとした両手や袖に血が付いているのに初めて気が付いた。それは彼自身のものではなく、エミルを抱き起こした時に付いたのだった。

「ぼくを助ける為にエミルが・・・」

 再び泣き出したシャインにマリオットは優しく言った。

「バッキオ君落ち着いて、泣いていても解決はしません。エスナール君が心配ですね」


 彼らの乗った馬車は、ある方向へとひた走っている。初めてカリナンを訪れたマリオットは、この馬車がどこへ向かっているのか全く見当がつかない。

「バッキオ君、君ならこの馬車が、どこに向かっているのか分かりますか?」

「はい、分かります。このまま行くと夏の離宮ですよ、多分・・・」

 アングレールで一番美しいと云われる夏の離宮は、国民の憧れの地でもある。だが、そこに向かって行くということはもしかすると、とマリオットは混乱し出した頭の中を整理した。あの執事がエミルのことを「殿下」と呼び、医師を「侍医」と言った。

(エスナール君は、あの子はもしかすると王子?だとしたら・・・)

 マリオットは一気に肝が冷えた。やがて馬車は目的地に着き、衛兵が護る離宮の正門から敷地へと入って行くと、プチパレスと呼ばれる王の家族が暮らす部分の前で停まった。到着して直ぐに、前の馬車では慌しく人と声が行き交っていたが、やがてそれが収まると衛兵の一人がやって来た。

「お待たせしました。皆さんもこちらへどうぞ」

 降り立ったそこは、おとぎの国の宮殿と見まごうばかりに美しかった。通された部屋は、侍従たちが使う部屋だと言われたが、家具や調度品も立派な物で、部屋の広さも庶民の彼らにはとても広いと感じられた。暫くして、医術の心得がある侍女と籠を持った少女が来ると、恐れることもなく顔を血で汚したエルネストの手当てをした。少女は籠から布や包帯に薬瓶、水差しと小さな洗面器を出すと彼の顔の汚れを拭い取り、傷口を丁寧に洗ってくれた。その後、侍女が傷の様子を見て、薬を塗った布を当てると丁寧に包帯を巻いた。そして次に、少女はシャインの両手を取ると丁寧に洗った。

「いや、ぼくは怪我してない。これは、ぼくを助けてくれたエミルの・・・」

 そこまで言うと、シャインはエミルのことを何と呼んだらいいのか困ってしまった。少女はそんなシャインの気持ちが分かったのか、微かにほほ笑むと手を拭く為の布を貸してくれた。

「そちらの軍人さん、お怪我は?」

 手当をしくれている侍女は、はつらつとした美人だった。その侍女が訊ねると照れているのか、マリオットは表情を硬くして、怪我はしてないので気遣いには感謝を表すと言った。その時、マリオットはとんだ事になってしまったと思っていたのだ。自分が仕える国の、それも王子に怪我を負わせてしまい、普通ならば咎めを受けなければならない身である事を自覚していたのだ。マリオットは大きく溜息をつくとかぶりを振った。

「申し訳ございませんが、こちらよりの沙汰があるまでは、この部屋からはお出にならないようにお願いします。それと、学生さんにはお召替え願います。そちらのドアを開けると衣裳部屋になっていますので、ご自由にお選びになって下さい。では失礼します」

 侍女が言うように、エルネストとシャインの服は埃と血に汚れてこの場には相応しくない。侍女が少女を連れて部屋から出ると、マリオットはブツブツと何かを呟きながら部屋の中を歩き回った。その落ち着かない動作はシャインの疳に障ることになった。

「何に苛立っているか知りませんが、大人は大人しくして下さい!」

「あっ、すまん。こんな経験したことないから・・・」

「ぼくたちも!ですよ」

「ああ、そうでした」

 マリオットは歩き回るのを止め、どっかと椅子に座った。

「今までなら、こんな時にはエミルが全部背負ってくれていた。けどそのエミルが・・・どうしたらいいのか・・・」

「そうだ、エミルはオレたちの事を考えていてくれた。それにいつも的確に指示してくれて、オレたちはただ、ついて行けばよかった。ミッションはもう終わったというのに、オレは・・・」

「・・・・・うん」

 二人はいつの間にか、エミルと一緒にいるのが当たり前のように思っていたのだ。あのエムスでそれが終わったというのに、これからもまだ続くという感覚でいたことに気が付いた。明日からは、また別々の人生を歩むという現実を直視しなくてはならなかった。

「君たち、希望を持ちましょう?エスナール君は良くなりますって」

「・・・・・・・」

「やだなぁ、これじゃまるで・・・。そうだ!気分転換に君たちは着替えたら?」

 マリオットは立ち上がると、衣裳部屋のドアを開いて中へ入って行った。暫くして、何着か抱えてくるとテーブルに広げて彼らに選ぶように見せた。

「素敵な服が沢山ありましたよ。流石に式典儀礼の類の服は置いてなかったですがね」

「ありがとうございます」

 エルネストはタックの沢山入ったドレスシャツと緑の上着を選び、シャインはごく普通のドレスシャツと濃い灰色の上着を選んで着替えた。

「ふーむ。君たちでもその服装でいれば、なりたての役人に見えるね」

 褒めたつもりのマリオットだった。

「いや!オレは役人にはならない。やっぱり軍人になるんだ!」

「おや。それはもう、総監殿に正式に伝えたのかな?」

「オヤジにはまだ言っていないけど、オレ、エミルの為に働きたいと思う、働くんだ!」

 エルネストは軍人になる理由、それは単純に精鋭部隊を率いてみたいという思いからで、どうしてなりたいのか、なぜなりたいのかは考えてはいなかった。戦になれば、真っ先に先頭で剣を振るう。そんな状況に置かれた場合、それこそ理由なんて関係ないと思っていたのだ。しかし、今の彼には、自分にもはっきりとした大義名分があることに気が付いたのだ。

「うむ。立派な考えだと思いますよ。きっと総監殿も喜ばれると思います」

「ぼくは、ぼくはどうしたらいいのか分かりません。でも、ぼくもエミルの為にと思うけど・・・」

「バッキオ君はバッキオ君でいいのでは?」

 それを耳にしてシャインは頷いた。

「あはっ、マシェリとエミルにも言われた・・・シャインはシャインでいいって」

「・・・そうですか」

 それから暫くするとドアがノックされ、侍女が王妃さまがおいでになられると伝えたので、彼らは立ち上がり不動の姿勢を取ったが、緊張で体の震えが止まらないでいた。再びドアがノックされるとドアがゆっくりと開き、お付きを従えた王妃がゆったりとした足取りで入って来た。彼らは最敬礼をして王妃を迎えた。

「ごきげんよう、楽にして下さい」

 よく通る透き通った声だ。王妃が椅子に腰かける布ずれの音を合図に、彼らは顔を上げると一斉に椅子に座った。王妃と対面するのは初めてで、何をどうやって話したら良いのか分からなかった。シャインはまともに王妃の顔を見ることが出来なかった。勿論じっと見つめては失礼に当たるのだが、そんな緊張を察してか、王妃から声を掛けてくれた。

「あなた方が、エミルと一緒にミッションを終了してきた学生ですね?慣れない旅で疲れたでしょう、あの子に代わって礼を言います。道中は難儀したようですが、やり遂げることが出来たのですね、おめでとう」

「ありがとうございます。お褒めのお言葉、身に余る光栄です」

 エルネストの言葉でふと視線を上げたシャインは、エミルが王妃にそっくりで驚いた。髪の色に輪郭と、そして目元も生き写しだと思った。この人が、8年近くも息子のエミルに会うことがなかった彼の母なのだと、改めて思うとエミルの心に触れた感じがして自然と涙が零れてきた。彼らは王妃に貴重な体験をして来た事と、それが国王陛下のご意志であもあると思うと有難いと話した。

「何事も貴重な経験でしたね。ところでわたくしからの願いがありますが、聞いて頂けますか?エミルは訳あって、わたくしたちとは離れて市井で育ちました。その為に王族としての心構えが備わっていないのです。これから色々と勉強をさせなくてならないのですが、あの子の周りには支えてくれる人が少な過ぎます。ですからあなた方もあの子を、エミルを盛りたててあげて欲しいのです」

 王妃は親としての気持ちを素直に語った。

「お任せ下さい王妃さま!我々は全力で支えさせて頂きます」

 驚いたことにマリオットがその発言の主だった。

「あなたは軍人ですね?宜しいのですか?」

「はい、出来れば直ぐお傍でお役に立ちたいと考えたしだいです」

「頼もしい発言、嬉しく思います。わたくしの話を聞いてくれてありがとう。エミルはまだ、意識は戻っていませんが、帰る前に会ってやって下さい。では、いずれまたお会いしましょう」

 彼らは立ち上がると、再びの最敬礼をした。王妃は立ち上がると再びしずしずと歩み、ドアがゆっくりと閉じられた。三人は暫くの間その余韻に浸り、突っ立ったままで思考が停止していたが、我に返ったエルネストが、マリオットに発言の真意を訊ねた。マリオットは悪びれもせず、心からの発言だと言い、カリナンの軍施設に出向いて申告しようと思うと言った。

「でもそうすると、エムスでの巡検隊の地位とか名誉の全部失う事になるけど、それでもいいの?」

 エルネストは、マリオットに全てを捨てる決心があるのか念を押すように訊いた。

「勿論!二言はないですよ」

 強く短く頷くとマリオットは、自分の人生を掛けるべき対象が見つかったのだから、と胸を張った。

「自分は単純に人の為に役立ちたいと思っていました。けれど、大きな目標を成し遂げた君たちに出会って、自分はそれでいいのか?と疑問に思った訳です」

 マリオットは武術学校で優秀な成績を修め、その上級教育校である仕官学校でも優秀な成績で卒業した。何の苦労もなく得た地位で、安穏と暮らす生活に慣れてしまい、軍人になった当初の目標とは違う自分に薄々気が付いて来た時、ハッキリと思い出させてくれたのがこの出会いだったという。それを受けて、シャインは素直に思った事を口にした。

「ぼくは、ケネスさんと話をしてやっぱり大人だなって思いましたよ?少し意地悪だと思ったり、へへっ。だって、ケネスさんは色んな事を知っているんだもの。広い視野を持っているっていうのか、知識があるって言った方が正しいのかな?だからぼくも、ぼくらしくある為に、もっと勉強しないといけないと思った。それが、エミルを助けて支えることになるようにって」

「うむ。エライぞ、バッキオ君。誰かの為にすることは、自分の為でもあるんだ」

 彼らがそんな話をしていた時に、先ほどより違う侍女がやってきて、エミルの部屋へ案内すると言った。三人は揃って侍女に付いて奥の階段を上って行くと、ステンドグラスのように美しい湖の景色が広がっているのに驚いた。そして、湖側の部屋の一つの前まで来ると侍女はドアをノックした。

「どうぞ」

 その部屋中からは男性の声で返事が帰って来た。

「失礼します」

 彼らが部屋に入ると、奥に置かれた大きなベッドにはエミルが寝かされ、その傍らには初老の紳士が椅子に座って付き添っていた。

「どうぞこちらへ」

 紳士は立ち上がると、彼らをベッドの脇へと招いた。エミルは、頭や両手に包帯が巻かれている痛々しい姿になっていた。目は閉じられたままで、まだ意識が戻ってはいない状態だった。

「お疲れのところ、とんだ災難でしたね。はじめまして、わたしは彼の学校の校長をしているミハエル・ヴィクターといいます」

「はじめまして、校長先生がどうしてこちらへ?」

 シャインが訊いた。

「はい。王室侍医を申し付けられていますので」

「えっ、エミルはそれを知っていたのでしょうか?」

「いいえ、彼は全く知らない筈ですよ。彼が医術学校へ入学してきたのも偶然でしたから。確か、病で苦しむ人を救う為に医術師になるのだと言ってました。正義感の強い子です」

「先生!エミルはどんな、どんな状態ですか?オレ、心配で・・・」

 エルネストもエミルが心配でならなかった。

「そうですね、心配でしょう?」

 エミルは、倒れて来た書架と大量の本により、酷い打撲と擦過傷を負ったと言った。頭部は腕で庇ったものの、庇いきれずに傷を負い、一時的な圧迫によって気を失ったという説明だった。

「骨折もなく、命に別状はないですよ。意識も、もう暫くすると戻る筈です」

「ああ、良かった・・・」

 エルネストは呟くと、大粒の涙を流した。シャインもまた泣いている。大人たちには仲間を思う純粋な少年の気持ちが伝わった。

「良いお仲間を得られたのですね」

 ヴィクターは、慈しむような笑みをエミルに向けた。

「せ、先生、ぼくたち明日もエミルのお見舞いに来たいです、許してもらえますか?」

「ええ、それでしたら侍従長に聞いてみましょうか?」

 ヴィクターが席を外すと、三人はそれぞれ意識のないエミルに話し掛けた。エルネストとマリオットはそれぞれの新たな目標が見つかった事を話し、シャインはエミルの手を取りながら語りかけた。

「エミル、君が本当にこの国の王子だなんて、君自身が一番信じられないんだろうな。父上が国王陛下で、母上が妃殿下なんて想像さえしなかっただろうね。何だか、君が遠い存在になってしまいそうだよ。ぼくは、助けてもらったお礼は今は言わないよ?だって、君が目覚めていなければ意味ないし・・・」

 その時、エミルの唇が微かに動いた。

「えっ?エミル、今何って言ったの?!」

 シャインの叫ぶような声に、エルネストとマリオットもエミルの顔を覗き込む。伝えたい事があったのだろうか、誰もその声を聞くことが出来なかった。それから暫くの間、ヴィクターが戻って来るまでは何の変化もなかった。ところが彼が戻って来て直ぐに、エミルは突然苦悶の表情を浮かべ手足を動かした。

「大丈夫ですよ、大丈夫。落ち着いて」

 ヴィクターはエミルに語り掛け、彼らには意識が戻る前兆だと言った。意識が無い時に感じない痛みが、意識が戻ってくると、はっきりと感じる様になるという。彼は今、痛みと戦っているのだ。

「大丈夫ですよ、坊ちゃん。皆いますから、安心して下さいね」

 エミルが小さな頃に、坊ちゃんと呼んでいたヴィクターの声に頷いた様に見えた。

「お見舞いありがとうございます。下の部屋で侍従長がお待ちですから、そちらでお話しをされてからお帰りになって下さい」

 エミルと校長に別れを告げ、三人は後ろ髪を引かれる思いで部屋を出て行った。窓から見える夕景は、それは美しく去り難い感情を溢れさせるのだった。彼らは先程まで待たされた部屋に戻ると、部屋の中ではあの執事が待って居た。

「もしかして、あなたが侍従長さんですか?」

 マリオットが訊ねると、執事は否定しなかった。

「私は侍従長であり、この王室ファミリーの執事でもあります。名前をヨハン・グーテンホーフと言います」

 侍従長は自己紹介をして三人と握手をした。


 3 分かち合うとき


 目を開けると、エミルは懐かしい感じがする天井を眺め、長い夢から覚めたように思った。親友たちが去った、ほんの少し後に意識が戻ったのだ。

「おお、目が覚めましたね」

 学校長のヴィクターがエミルの顔を覗き込んだ。

「せ、ん、せ、い?」

「はい。ご気分はいかがですか?お身体が痛むとは思いますが、明日には少し良くなると思いますよ。おや、そのお顔・・・私がなぜここに居るのか知りたいですか?」

 エミルは無言で頷いた。州庁舎の別館でバグスタことギリアムと相対し、倒れて来る書架を前にシャインを突き飛ばした。彼の記憶はそこで止まっているのだ。

「あなたには、沢山のお話を聞いて頂かなければなりませんが、まずはここがどこか、という所から始めましょうか」

 ヴィクターは、エミルが理解し易いように順を追って、置かれた立場を嚙み砕くようにして説明を始めた。その途中では、ランタンとシャンデリアに灯が点され、窓にはカーテンが引かれた。やがてその話も終盤に差し掛かると、夕食のワゴンを押した侍女と共に王妃がやって来た。

「ミハエル、ご苦労です。ああ、エミル・・・やっと気が付いたのですね」

 王妃が嬉しそうに小走りでベッドの傍らに来ると、エミルは不思議そうな表情をした。

「どうしたのですか?エミル・・・母を忘れてしまったのですか?」

「いいえ、驚いています母さま。ああ、母さまですよね?わたしの母さま!」

 エミルは飛び起きると母に飛びついた。夢にまで見た母との再会を喜ばない訳がない。しかし、彼の体が自由に動くことを拒み、鋭い痛みが体中に走り、あえなくベッドに戻ることになってしまった。

「嬉しいからといって、だめですよ。急に動いては傷に障ります」

 校長に窘められても、今のエミルは痛みより嬉しさが上回っている。長い間会うことがなくても子は子である。

「大きな子どもですね、あなたは」

 王妃は思わず苦笑した。

「わたしは素直に嬉しいのですよ母さま。でも、もう子どもではありません。とっくに15を過ぎて、今ではお髭も生えますから」

 王妃はエミルの頬を包むようにすると、会えなかった時間に大人になってしまったと涙を浮かべた。彼女もどんなに会いたかったのだろう、しかしなぜ彼らが息子であるエミルと会うことが出来ないでいたのか、それはこの場では語られることはなかった。それは、もう少し後になってから語られるのだろう。

「エミルにお食事を運んで来ましたの。ミハエルも下でお食事して来て下さいな」

 ミハエルは、エミルが2,3歳の頃に何度も熱を出しては、心配した王妃が一晩中看病をしたことを思い出していた。

「はい、マリエールさま。暫く失礼を致します」

 ミハエルを見送り侍女を下がらせると、マリエールは嬉々としてエミルの世話をし出した。エミルの半身を起こしベッドに座らせると、自らの手でスープを飲ませたり食べさせたりして、長い間離れていた親子の時間を取り戻す努力をしている様でもあった。彼女は再び息子と生活出来る喜びを噛みしめているのだろう。息子であるエミルも、母との時間を温めたいと思っている。食事が済むと、ベッドの傍らの椅子に腰を下ろした母にエミルは感謝した。

「色々とありがとう、母さま。わたしは長い間、母さまにも寂しい思いをさせていたのですね」

 久しぶりの親子の時間が、とても貴重だと思えるようになっていた。親と子が一緒に居られる時間は、一生のうちの僅かな時間だというのが、今更のように意識出来た。

「いいのよ、それはお互い様です。私はあなたに忘れられていなくて良かったわ。あの人は・・・あなたの父さまは悲しんでいたわ」

「父さまが?・・・どういう意味ですか?」

 エミルには父が悲しむ理由に心当たりが無かった。正確に言えば、気が付かなかったのだ。マリエールが言うことには、ヴィエナからカリナンへの移動、つまり「夏の移動」の前に、自らエミルへの荷物を運んだというのに、学校では不在で会う事が出来なかったという。そこで行先を尋ねると薬草採取に出掛けているというので、馬に乗って会いに行ったけれど、当のエミルから「どなた様ですか?」と訊かれ、しょげて帰って来たというのだ。

「あの人はあなたに名乗った、と仰っていましたよ」

 エミルはやっと、あの丘での出来事を思い出したのだ。

「ああっ、申し訳ない事をしました。ですが困ったことに、わたしは父さまのお顔を覚えていなかったのです」

 済まなそうに俯いたエミルの手を、マリエールは優しく包んだ。

「そうだと思いましたよ。あなたが戻らなくなる前から、父さまは国のお仕事が忙しくて、あちこちに出掛けて不在がちでしたからね。小さなあなたが忘れても当然です」

「そう言って頂けて嬉しいです。わたしは、父さまにお会いしたいです。会って謝りたいと思います」

 マリエールはエミルが愛おしくて仕方が無いのか、彼を抱き寄せると頬にキスした。暫くの間、エミルは母に身をゆだね、温もりを感じていた。

「あなたは、私たちが知らない間に沢山の苦労を重ねて、立派な成績を修めるまでになったのですね。私たちは、そのことを嬉しく思っていますよ」

「ありがとうございます。あのぅ、母さま。母さまは、今までわたしが書いた手紙は読んで頂けましたか?」

 今までに書いた手紙は、執事のヨハンの所で停まっていたのではと一抹の不安があった。しかしそれは杞憂であり、開封して父であるイザナと伴に読んでいたのは母であり、返事の内容をヨハンに伝えていたのは父であった。あの丘で、父がミッションを受ける事を知っていたのは、何も不思議ではなかったのだ。

「ミッションでは色々と大変でしたね。まさか、あなたがわたくしの故郷に行くとは想像もしていませんでしたよ」

 驚いたエミルは母の顔を凝視した。マリエールは、慈愛に満ちた微笑をエミルに向け「無理もありません」と言った。それは、マリエールがエスナン出身であることを、今までは公私の場で口にすることがはばかられていたからだ。

「母さま、わたしはあるご婦人に似ていると言われ・・・」

 エミルは思い出したことがあった。行きの馬車の中で出会った老婦人の言葉だ。親の反対を押し切ってアングレールへ嫁いで行った人、その人は目の前に居る母ではなかろうか、エミルは母に訊いた。

「ええ、そのご婦人の仰る通りですよ。多分、その人は私の乳母のハンナだと思います」

 マリエールは懐かしそうな表情を浮かべた。

「では、わたしがエスナンのエリエール皇女さまと、エステルのアリエール妃殿下と似ていると言われたのはなぜなのでしょうか」

 素直に疑問をぶつけた。

「エミル、あなたは父さまよりも、母であるわたくしに似ています。父さまは、長い間あなたに会っていなくても、成長したあなたがエミルだと分かったのは、わたくしに良く似ていたからだと仰いました」

 それからマリエールは、エステルのアリエール妃、エスナンのエリエール皇女とは、姉妹であることを明かした。

「病の姉とは、とうとう最後まで会うことも叶いませんでした。大公さまから、偶然にもあなたに会えて、心より嬉しかったと仰る手紙が昨日届きましたよ。少しはお慰めになったのでしょう・・・。でもエリエールは、アングレールに嫁いでしまったわたくしを、今でも恨んでいるのでしょうね」

 エミルは涙を滲ませてた母に、どうしてもエリエールの事を言わなければと思った。

「母さま!エリエールさまは、少しもお恨みではないと思います。だって、母さまの身代わりのわたしを抱きしめて仰いました。神様がいらっしゃるならば、感謝しないといけないと・・・それと、あのお方のお腹には新しい命が宿っているのです」

「おお!!そうなのですか・・・」

 マリエールは自分の事の様に喜び涙を流した。それから間もなく、校長で侍医であるヴィクターが、エミルの父である国王イザナと伴にやって来た。エミルはイザナの姿を認めるとぎこちなくお辞儀をした。イザナは紛れも無くあの丘で会った人物であった。

「気分はどうかな?」

「はい、おかげ様で快方に向かっております」

「はははっ、畏まらなくても良い。昔のように無邪気に父さまと呼んで欲しいのだが、どうかな?」

「・・・父さま!」

 エミルが意を決して呼びかけた。

「ん?」

「ごめんなさい!色々と至らなくて、申し訳ありませんでした」

「ふふふふっ、マリーから聞いたのか?」

 愉快そうに笑ったイザナだった。彼はそのことが、マリエールの口から耳に入れば良いと思っていた。立ち上がったマリエールが椅子を勧めたが、イザナは部屋の隅にあった椅子を運んでくると、マリエールの隣に置いて座った。十数年ぶりの親子揃っての団欒だ。ヴィクターは気を利かせ、音も立てずに部屋から出て行った。

「ミッション完遂おめでとう、よく頑張った。それに、素晴らしい友にも出会えたようだね」

 イザナは心より嬉しく思っている事を伝え、その友たちがエミルを支えると誓ってくれたと言った。

「父さま、ありがとうございます。わたしは幸せ者ですね、あの親友二人がわたしを支えてくれると言ってくれたのですね?」

「いや、三人だ」

「三人?まさか、ケネスさんも?」

「ああそうだ。彼は善き軍人だけれど、この王国よりも君に仕えたいらしい。余程君が気に入ったようだな」

 イザナはそこまではにこやかに語ったが、エミルが知りたいであろう今回の事件についての話では、その表情は曇りがちであった。まだ全体像は不明ではあるが、彼らが捕縛したギリアム自身は、指示した黒幕が誰であったのかは、本当に知らないようだと言った。そして、この事件が起きたのは、ある出来事が発端であるには違いないと語った。


 その事の発端とはイザナの父、先王のアナムの兄であったクロムに関係するというのだ。王室ではこれをクロム公の亡霊と称している。王位をアナムに譲ったクロム公は、最後までアナムの善き理解者であったが、彼の妻であったマキュリア妃が、マクラス神国帝室出身であったために問題があったという。アングレールの産出する豊富な金を手にするために、マクラス側が画策したアナムとの政略結婚であったのだ。王位継承権一位の長兄に血縁者を送り込めば、その国の中枢で権力を振う事が出来る、と踏んでいたようだ。だが運悪く、その目論見は失敗に終わる事になった。それは、王位を継承する寸前のクロムが、暴れ馬から落ち半身不随の大怪我を負ってしまったのだ。当然の事ながら、王として執政出来る見込みがなくなったクロムは、アナムに王位を譲ると潔く表舞台から引退した。その前後から、マクラスの陰謀だと推測出来る良からぬ出来事が、アングレールで続いたようだ。政略結婚といえども、夫であるクロムを深く愛していたマキュリアは、祖国の蛮行を見かねてマクラスの帝室に対して絶縁状を送ったそうだ。

「伯母上であるマキュリアは、感情の起伏が激しかったけれど、情の厚い女性だったよ」

 イザナは彼女を思い出していた。伯父よりも三つ年上だったが、とても仲睦まじい夫婦だったのだ。

「父さま、お爺さまは呪われてしまったのですか?」

「いや、亡霊と言っても愛称だよ。ただ、マクラスの名を出さない為の工夫だね」

「それがどうして、今回のことと関係しているのですか?」

「推測だが・・・」

 そう前置きするとイザナは語った。アナムが王となり年を追う毎に、マクラスの帝室も目立った横槍を入れて来なくなった。しかし、困った事にマクラスと親交の厚い貴族、親マクラス派が力を付け、王室に圧力を掛けて来るようになったという。そしてそれが一番の頂点に達したのが、イザナに王位が譲られる事が決まった頃だと言った。既にマリエールと結婚していたイザナに、当時のマクラス帝の姫との結婚を持ち掛けて来たのだ。妻は一人だけでなくとも良いというマクラスの風習に則り、獅子姫と揶揄されたソシエテを妻にするように迫ったという。イザナは生涯一人の女性を愛することを誓っていたので、その申し出を丁寧に事断ると、ソシエテはともかく国内の親マクラス貴族たちが騒ぎ出し、エスナンとの国交を断絶しなければ、王族の安全は保障しないとの強硬な姿勢を見せた。マクラスとは表立った諍いは無かったものの、今までに何度も煮え湯を飲まされてきたアングレールだ。そこでイザナは思い切って、マクラスに対しての温和策を改める政策転換を公布し、これに反する者は身分に関係なく厳罰に処す事を決定したのだった。そして国境のマーカス州全体を王室直轄地にし、適切な運営管理が出来る王立の商業集団を立ち上げた。結果的には不正に持ち出されていたアングレールの金が適切に管理され、マクラスからの絹織物や農産物に破格の高値が付くことが無くなった。経済面では正しく機能するようになったものの、長年甘い汁を吸っていた権力者たちは、その不満から暴動を引き起こしたが直ぐに制圧され、国家反逆の罪でその多くの者が処罰されたのだ。その時国民は、腐敗した権力者を一掃した国王に親近感を覚え、誇りに思うようになったという。だが、生き残った権力者の一部が地下に潜ったと言われ、宮殿内でも時にその影がちらつくと言った。

「その奴らに、正しいアングレールがこれからも続くと思い知らせるのだ」

 イザナの決心は揺るがない。

「悪い因縁が影響して今度の事件が起きたのですね。もしかするとわたしは、亡き者にされていたのかも知れなかったのですね?」

 胸が寒くなる思いのエミルだった。

「ああ、確かにそう思うかも知れないが、今の奴らにはそこまでの意気地がないだろう。見つけ次第、根絶やしだ。せいぜい見つからないように、意地悪をするのが精一杯だろう」

 イザナはエミルの肩にそっと手を置いた。厳しい言葉が父の口から出てエミルは驚いたが、父は身分には関係無く、国にとっての絶対悪は許さない姿勢でいる。そして、実際にそれはじわじわと、権力を持つ者たちに浸透しているようである。

「わたしは親友たちを巻き込んでしまい、申し訳なく思っています。彼らには謝らなければいけません」

「そうだな。謝らないといけないが、その前に私が謝ろう。全ての始まりは私の父であり、それを未だに解決出来ないのは私の所為だからな」

 自他ともに厳しい、父の性格を垣間見たエミルであった。

「ですが父さま、父さまのお話ですと、全てはマーカスの特権階級が関係しているようですが、わたしはエスナン・エステルの、エスナール制度が原因だと思っていました」

 エミルはエステルで、自分の身の上に起こった事実を伝えた。

「ふむ、ウォルフィール殿の書簡にも書かれていたな。運悪く、君はその両方の対象になってそまったのだな・・・」

 父は苦虫を噛み潰したような顔をした。それを見た母も、落ち着かない視線を父に送っていた。

「イザナ、もうこの辺で良いでしょ?これからは一緒に住むのだし、話は明日も出来るのよ?エミルも疲れているから、わたくしたちはお暇しましょうね。おやすみ、エミル」

「おやすみなさい、父さま母さま」

 マリエールに促され、国王夫妻はエミルの部屋を後にした。入れ替わるようにして、侍医でもあるヴィクターが部屋に入って来た。

「お疲れになりましたでしょ?明日からは様々な教育が始まります。今日はもう休まれた方が良いと思いますよ殿下」

「先生、殿下は止めて下さい。今はまだ実感がありませんし、わたしはとても困惑しています。寄宿舎のわたしの部屋もそのままで片付けが必要だと思いますし、それに、皆に挨拶もしていないです」

 エミルはそのままにしてきた部屋が心配だった。しかしそれは、既に片付けられいると言われた。部屋に置かれてあったエミルの私物は、この部屋の隣にある執務室へと移してあるという。明日からは執務室で勉強が始まり、マナーからしきたり、護身術や乗馬、経済や軍事について、それぞれの専門講師の講義を聴いたり、実技を学ぶことになる。

「エミル、いえ殿下。私も臣下として殿下とお呼びしなくてはなりません。学生たち、特に同級生には、卒業式でお別れを仰ればよいかと思いますよ」

「卒業式ですか。ブランドンにはもっと乗馬を教えてもらいたかったですし、ザザビーにはチェスを相手して欲しいかったです。それにシェノワには・・・」

 エミルの口から学生の名が次々出て来たので、ヴィクターは苦笑しながら欲張りですと言った。

「欲張り?」

「ええそうです。殿下は殆どの学生に愛されていらっしゃる。その学生たちが全員こちらへ召されたら、学校には学生が居なくなってしまいます」

「あっ、ごめんなさい。わたしは皆に支えて頂いたので、今でも必要だと思ってしまうのです。・・・やはり欲張りですね」

 エミルには、まだ学生でいたい気持ちがあるのだが、現実はそれを許してはくれないようだ。

「殿下がお望みでしたら、何名かはこちらに招聘することが出来ると思いますよ」

 ヴィクターの言葉は嬉しかったが、彼らを強制的に招くことはしたくなかった。そこでエミルは、時間などに余裕のある者が自由に来てくれるのが嬉しいと伝えた。

「自由というのには無理がありますが、殿下のお気持ちを考えまして、学校でも最善策を考えますよ」

 約束をするとヴィクターは挨拶をして下がって行った。今日はあらゆる事が目まぐるしく過ぎ、一日が終わろうとしている。エミルはベッドに体を置き直すと、これが人生の転機だろうかと思った。


 今朝は気持ちの良い目覚めだった。寄宿舎ならば誰かの声や歩く音、ドアを開けたり閉めたりする音など沢山の生活の音がする。ここでは殆ど雑音が聞こえて来ないが、どこかで誰かが何かをしている音が微かに聞こえてくる。ふとエミルは、自分がここにいても良いのだろうかと頭の片隅で思ったりしたが、父と母がここに居るならば、自分はここに居ても良いのだと思い直した。そして、今日から始まるという勉強がどんなものか興味もある。ベッドから起き上がると、まだ体のあちこちが痛んたが、ゆったりとした寝間着のままで隣の執務室へと行くと、立派な机の上には飾り物のように、今まで使っていた秤や薬瓶が置かれ、たっぷりとインクが入った壷にペン、たくさんの紙も用意されていた。エミルは椅子に座ると薬を作ろうと思い付き、早速材料となる薬草の名前を書き出していた。暫くすると、寝間から呼ぶ声が聞こえたので、エミルは紙をそのままにして戻って行った。

「おはようございます、殿下。お姿が見えないので心配しましたよ」

 声の主は執事のヨハンだった。

「おはようございます、ヨハンさん」

「さん、は要りませんよエミルさま、これからはヨハンとお呼び下さい」

 久しぶり見るヨハンの髪はだいぶ白くなっていた。エミルが昨日助けてもらったお礼を言うと、大柄なヨハンが初めて笑顔を見せた。今まで執事である彼の笑顔を見たことがなく、とても怖いと感じる存在であったのだ。エミルが小さかった頃はそんな印象だった、と初めて伝えるとヨハンは恐縮したのか、当時は任命されてから日が浅く、エミルにどんな対応をして良いのか迷っていた時期だったと言った。

「前任者にとてもよく懐かれていたエミルさまですから、私は嫉妬をしていたのかも知れません。それであの時、少し強い口調になってしまったのだと思います。お許し下さい」

 体を折り曲げた彼が、当時の事を謝っているのだと直ぐに理解出来た。ずっとエミルに謝りたかったのだろう。ちょっとした誤解と行き違いで、お互いの距離を開けてしまった事に、エミルも反省をしていたのであった。後から彼と話をしたエミルは、ヴィエナでの事があってからヨハンは執事として、すっかり自信を無くしてしまい、そんな様子を気にしていた王妃から温かな言葉をもらい、ようやく自信を取り戻すことが出来た事を知った。その当時、ヨハンは両親からどんな指示を受けていたのだろうか、ふとエミルは思ったがそれは聞かないことにした。昨日の父と母の話では、まだ本当の事を教えてもらえそうでないからだ。朝食が済み身支度が整うと、感慨深げにヨハンが「ご立派になられた」と呟いた。彼もまた両親と同じく長い間エミルとは会ってはいなかったのだ。

「殿下、執務室で講師がお待ちでございます。行ってらっしゃいませ」

 大切な一人の王子に対して最大の尊敬の念を持ち、ヨハンはドアを開けてエミルを見送った。彼が先ほど入った執務室の大きな机の向こう側には、一人の老人が椅子に座って待っていた。エミルの姿を認めると老人は立ち上がり、恭しくお辞儀をした。老人はマルチェロ・ダヴィーノと名乗った。あのアマレで有名なダヴィーノ卿だろうかとエミルは興味を持った。

「お労しや、そのお姿。傷が癒えるまでお待ちしますものを」

 老人は包帯を巻いているエミルに言った。

「時間が無いので仕方がありません。どうぞ、掛けて下さいダヴィーノ卿」

 エミルはマルチェロに、ダヴィーノ卿と呼びかけてみると彼は否定もしなかった。

「ダヴィーノ卿はわたしに何を教えて下さるのですか?」

「教える?うーん、教えるというよりも話を聞いてもらえればいいのじゃが、殿下は無駄話はお嫌いかな?」

 こんな調子でその日の講義が始まった。話は国内の時事問題であったが、途中で話題がコロコロ変わったり、余談ばかりで先に進まないなど、集中して聴くのがなかなか大変であった。言葉の端々に、エミルは彼に試されている様な印象を持った。

「うーん、今日は初回なので、この辺で終わりにしましょうかな」

 老人が予定よりも早く切り上げようとしている様子に見えたので、エミルはアマレの税金が引き上げられた件について、どう考えているのか訊くと、ダヴィーノ卿は驚いた顔をしてエミルを見た。

「ほほぅ、殿下は既にご存知か?我が領地の事・・・」

「あの城壁の補強は中央からの許可制の筈ですよね?」

「・・・・・いやぁ、流石に名君のご子息であらせられる、もうお耳にされたとは大したもんじゃ、恐れ入る」

 老人は声を上げて笑った。そして、許可も無く補強工事をしている理由を上げ、後から申請しようと思ったと言った。

「その嘘は、本気で仰っておられるのですか?」

 エミルが少し苛立ったように言うと、老人は急に真顔になり陳謝した。その実は過去、農民は不作続きで長年に渡り税を軽減されてきたが、今ではそれが当たり前になってしまい、近年は好天に恵まれていても、農作業を手抜きしているので収穫量が激減しているというのだ。そこで、この地に赴任したのを機に改革を始めたという。税は払った分その見返りがある事を知らせる為に、有事の際に逃げ込むアマレ城の堅牢化を進めていたというのが真実であり、橋はその考えの象徴として封鎖していたというのだ。

「それが真実だったのですね?ダヴィーノ卿。やはり話というものは、両方から聴かないと分からないものですね」

「はっ、申し訳ございません。殿下を見くびっていた訳ではござりませぬが、私は殿下が市井でお育ちになられたと聞き、さぞ世間が何かもお分かりでないと勝手に思い込んでおりました。これからは襟を正し、殿下の御為に尽くす所存でございます」

 ダヴィーノ卿は立ち上がると片膝をつき深々とお辞儀をした。それからというもの、すっかりエミルに心酔してしまったこの老人は、領地に居るよりも相談役の一人として、カリナンに滞在している日々が多くなっていた。このアマレの件はエルネスト、シャイン、マリオットにも説明をして理解してもらったが「偶然に知った事でも、その当事者に出会う偶然はなかなか無いものだ」とエルネストは言った。だが、この件に関しては、父であるイザナが裏で画策していた事を後から知ったエミルであった。父が選んだこの講師は、偏屈者として貴族の間では知られているが、独特な視点を持ち偏った考えをしない、そして何よりも彼の話はエミルを飽きさせなかった。そして大いにエミルを驚かせたのは、二回目の講義の時に大量の薬草を持ち込んで来た事だ。それは、机の上に置かれていた薬草のメモを見て、調達して来たという。それからは、離宮の庭園の一部に薬草園が造られ、その管理を任されたのがブランドンであり、彼は乗馬の教師も兼ねることとなった。これについてブランドンは、エミルの本当の身分を知り最初は固辞していたが、彼が次男であり、家業は既に兄が継いでる事を含め、薬草学を学びながら側で仕えることを認めた上で来ることになった。


 ブランドンが初めて出仕して来たその日、居合わせたのがエルネストとシャインだった。彼らが応接室でエミルが来るのを待っていた時に、余りにも緊張してカチカチになっていたブランドンを、彼らが温かく迎えてくれた。彼を最初から同僚として扱った分け隔ての無い態度は、お互いにエミルの親友であることを認めていたからだ。エミルが姿を現すまでの時間、自己紹介や学校でのことやミッションでの出来事を話したりして、お互いに昔からの友人だったように直ぐに打ち解けた。

「お待たせしました」

 あれから一週間半、既に包帯が取れていたエミルが侍従を介さずに、直接部屋に入って来たのでブランドンは驚いた。

「ああ、ブランドン。来てくれたのですね」

 エミルはブランドンに飛びついて喜びを表した。学校に居た頃と変わらないエミルにほっとしたブランドンであった。

「エミル!じゃなかった殿下、本当に僕で良かったのかな?」

「ええ、校長先生が選ばれたメンバーの一人ですから遠慮は要りませんよ?因みに、わたしは全員の名前を挙げておきました」

 エミルはいたずらっぽく笑った。今居る場所が学校から離宮に変わっただけだけで、何も変わらない雰囲気の中、彼らは身近な話題で一通り会話を楽しんだ後「馬に乗ろう」とエミルが提案した。

「賛成!オレ、ヨハンさんに頼んで来るよ」

 エルネストは立ち上がると執事室へと向った。

「シャインもこの際ですから、一緒に乗馬を楽しみましょう?」

 あれから馬には触っても、乗る機会が無かったシャインだった。エミルの勧めに思い切って挑戦することになったシャインである。三人が揃って厩のある裏手に回ると、ヨハンと一緒にエルネストが準備していた。

「すみません、ヨハン。無理を言ってしまいました」

「いいえ、大丈夫ですよ。初心者の人にはこの白い馬を、慣れた人にはこちらの黒い馬をお使いになって頂けます」

 シャインは白い馬に、黒い馬にはブランドンが乗ることになった。エミルとエルネストは栗色の馬に乗り、出発しようとするとヨハンが「あと二人、お供を連れて行って下さい」と頼んできた。一同は誰が来るのかと思っていると、赤色の近衛兵の制服を着た青年、ニックとペリルの二人が加わることになった。優雅に馬を乗りこなす近衛兵は市民に人気がある。エミルも学生時代の夏毎に何度も見かけ、お洒落で格好の良い近衛兵に憧れる子どもをが多いことを知っていた。エミルが外出する時、今までと違う点は必ず護衛を付けなくてはいけなくなった事だろう。

「ブランドン、久しぶりに羊のコブまで行きましょうか?」

 羊の丘の北側にある岩山まで行くことにした。シャインは馬の扱いを簡単に教えてもらったが、心配なので衛兵の一人の馬に引いてもらい、目的地まで行くことになった。街中では急ぎでない限り馬を走らせることが許されないので、人や馬車に交じって進んで行った。初めての街乗りにシャインは興奮を禁じえない。最初はその背の高さが少し怖かったが、段々と慣れてくると目線が高い分爽快に感じた。しかし、彼らに同行している近衛兵が目立つので、嫌でも市民の関心を集めてしまう。この時期市中では、7月には立太式があるという噂で持ち切りだったので、余計に注目の的になってしまうのだろう。城門まで来ると「はっ!」と掛け声と共にブランドンが馬の腹を蹴り、それが合図となって次々と走らせてたので、シャインを乗せている馬も一緒に速度を上げていった。颯爽と走る彼らは実に楽しそうに見える。

「すみません、ぼくも一人で走らせてみたいです」

 ペリルはもう一度手綱捌きについて教えてくれ、白馬の手綱をシャインに渡した。

「はい!」

 シャインは決心して軽く馬の腹を蹴ってみると、それに応えるように速さを上げて走ったので、馬を操るという経験を初めて味わったのだ。北へとそのまま進んで行くと、なだらかな丘も次第に地形を変え、稜線も急峻になってくる頃にゴツゴツとした岩場が見えて来た。遠くから見えるその岩場はコブの様に見えるので羊のコブと呼ばれている。そこは、乗馬の上級者が自らの技術を磨く場所でもあり、馬の性質を見極める場でもある。彼らは岩場まで来ると馬を降りて、腕試しをするコースを考えた。

「あの杉の木の所をゴールにするのはどうですか?」

 全員の事を考えてニックが提案すると、易し過ぎると言ったのはブランドンだった。

「あそこに見える尖った所から降りた、あの皿みたいな所の方が面白いですよ」

 ブランドンの言ったコースは初心者では行けない場所だった。彼は衛兵であるニックとペルリの腕前を見たいのだ。

「へえ、アンタはなかなかのやり手だろ?」

 エルネストもブランドンの技量を見たくてウズウズしている様だった。シャインは最初から見学を決めていたが、エミルも参加したがっているのに気づいて止めるように言った。

「また君に怪我でもされたら、ぼくは死んでお詫びをしないといけませんからね!金輪際、危険な事をしないようにして下さいよ」

「はい、分かっていますよ。立ち場を考えてここから見学しますから」

 シャインはにっこりとして、それでこそ尊敬に値する存在なのだと思った。そして、腕試しの挑戦はエルネスト、ブランドン、そしてペリルとニックの順番になった。

「よーし、一丁やってみるか」

 エルネストは大胆に行くのかと思われたが、意外にも慎重に馬を導き、少し時間は掛かったもの完走させることが出来た。二番手のブランドンは、無駄のない動きで一気に攻めると難なく完走をしたので、エルネストからの拍手を浴びたのだが、衛兵の二人は更に上を行く技術を持っていたので、流石のブランドンも舌を巻き、尊敬の念を持って二人に拍手を送ったのだった。

「流石に近衛ですね、尊敬します。僕も近衛に入れたらなぁ・・・」

 すっかり近衛兵の二人に魅せられたブランドンだったが、薬草園の管理を任されている事でそれ以上は望めないと思っていた。しかしエミルの配慮から、この日を境にしてブランドンは近衛兵隊の所属となり、薬草園の管理者の後任はザザビーになった。ザザビーは他にチェスの相手も引き受けたので、エミル以外にもチェスを嗜むシャインやヨハン、ダヴィーノ卿や離宮を訪れた貴族の相手をすることになり、なかなかの強者だと評判になっていった。


 6月に入ったある日、その日は木剣による剣術の試合日であった。いつものように、屋外で試合をしていると小雨が降り出して来たが、それでも屋根のある場所に移らずに続いた。シャインは濡れるのが気になって集中力を欠き、相手をしてくれた衛兵に簡単に負けてしまい、良い勝負だと思われたザザビーもやはりかわされて負けた。ブランドンも近衛隊の先輩と対戦して負けたが、その剣の筋が良いと褒められ、エルネストは同じく近衛隊の中堅と当たったが、力と力のぶつかり合いでどちらも譲らない白熱した試合となったが、結局は引き分けになった。そしてエミルは、近衛隊に一時預かりになったマリオットを相手に戦ったが、決め手に欠き試合は長引いた。決してマリオットの剣技が劣っていた訳でもないが、エミルが善戦していたというべきだろう。お互いに疲れが見えて来た頃に、雨で濡れた芝に足を滑らせエミルが仰向けに倒れると、マリオットの剣がエミルの喉元に突き付けられた。

「チェックメイト!」

 マリオットの発したひと言は、その場に瞬時に沈黙を与えた。近衛隊からはやり過ぎだと抗議の声が上がったが、マリオットはそれを無視して、エミルを立ち上がせようと手を貸した。

「殿下の頭を使った攻撃や防御はとても宜しいと思いますが、殿下に欠けているのは、何も考えずに体が勝手に反応するような勘です。あなたがもしも戦場で倒れてしまう様な事になったら、この国の民はどうしたらよいのですか?心身とも、もっと強くおなりなさい。それから、悩み事があったならお一人で解決しようとなされないで、我々にもその悩みをお聞かせ下さい、きっとお力になります」

 このマリオットのこの言葉は、エミルに対する愛情の表れでもあった。最近は顔を会わせる機会が無かったので、この場を借りて言ったのだった。

「ありがとう、マリオット。あなたの想いはしっかりと受け取りました。わたしは未熟者です、これからも沢山の迷惑を掛けると思います」

「迷惑だなんて、ここに居る誰もがそうは思いせんよ殿下」

 マリオットは深々と頭を垂れると、近衛隊の詰所へと帰ってしまった。

「大丈夫かい?やっぱりケネスさんは意地悪だ」

 一番に走って来たシャインが言った。心配したエルネストたちもエミルの周りに集まって来ると、エミルは一礼をして「不甲斐ない主だけれど、宜しく頼みます」と言ったのだった。

「何を水臭い事を言ってんだ?オレたちは、もうとっくに君の臣下じゃないか!王子は堂々として、オレたちに指示をしてくれればいいんだよ!」

 ぶっきらぼうな言い方をしてエルネストは優しく微笑んだ。

「ありがとう、エルネスト。わたしはいつも、励まされてばかりですね」

「いいってことだよ。僕たち好きで君に仕えているし、友情も信頼も全部分かち合ってるじゃないか。だから、君は遠慮するな!だよ。さあ、体が冷えないうちに着替えよう」

 ブランドンに背中を押され、エミルも離宮へと戻って行き解散となった。親友たちは人の上に立つ役割の人には、自分たちが思うよりも孤独で苦悩するのだと感じ、そんな親友の為ならば、どんな事でも支えてあげようと、思いを新たにしたのだった。そして、エミルは人知れず雨に濡れながら涙を零した。試合に負けた悔しさもあったが「自分の命は自分だけのものでない」ということを強烈に印象付けられたからであった。


 それから何日か後のダンスの練習日。毎日が講義や練習に明け暮れる日々の中でも、舞踏会に向けてのダンスの練習には少し骨が折れていた。エミルを含め、少年たちはダンスは一般教養として学んだ位なので、殆どの親友たちは一ヶ月以上経つのに、ステップを踏み間違えないかと足元ばかりに注意が行き、音楽に合わなかったりと、未だに整然としたダンスが出来ないでいた。唯一、マリオットだけは踊れるので講師と共に指導に回り、社交的でダンスが上手いエバンスとシェノワも参加することになった。更にシャインの親友であるゼノとナリス、エルネストの親友のひとりヴィクトルも呼び寄せたので、賑やかな練習風景になっていた。何回目からの練習からか、近衛隊のあの二人も強制参加させられていたので、受講者は全員で10人になっていた。その日、練習場所の小ホールから漏れてくる彼らの笑い声と音楽に誘われたのは、外出先から戻って来たイザナであった。従者を廊下に置いたままホールに入って来たので、驚いた演奏家たちが音楽を止めてしまった。

「余りにも楽しそうだったので、つい見たくなった。そのまま続けてくれたまえ」

 一同は礼をして再び練習を始めたが、見学者が見学者だけにた緊張してしまい、カチカチでぎこちないダンスになってしまったのだ。腕組みをして見ていたイザナも、これには渋い顔をした。

「君たちが緊張するのは分かるが、もっと大勢の、それも外国からの招待客や貴族が居る前で披露するのだ。私一人でこの様では思いやられるぞ」

 この日、初めて国王と対面した親友たちが殆どなので無理もないのだ。

「申し訳ございません、陛下」

 ダンスを指導しているアシュリー夫人が、深々と頭を下げて詫びた。

「ご安心下さい父上。当日には必ず、最上級のステップをお見せするとお約束致します」

 エミルも頭を下げると、親友たちも深く頭を下げた。イザナは楽しみにしていると言い残し、片手を挙げるとホールを後にして行った。ほっとして緊張が解けた親友たちは、国王に会えた事に興奮していたが、その反面、当日の事を思うと少し気が重くなってしまった。どうしたら足並みが揃うのかと頭を悩ませている受講者たちである。そこで「参考になると思うので」と夫人が、マリオットとダンスが得意な侍女の模範演技を見せると言ったので、少年たちは喜んだが何も聞かされていなかったマリオットは驚いた。

「エメリア、入って!」

 その声が掛かると、見たことのある侍女が入って来た。あの日、怪我の手当をしてくれた女性だったのだ。マリオットは、思い出すと酷く緊張してしまう自分を何とか落ち着かせようとして、胸を押さえて深呼吸を繰り返した。

「皆さん!いいですか?皆さんとどこが違うのかをしっかりと見て下さいよ」

 演奏が始まると二人はお互いに会釈を交わし、手を取り合ってステップを踏み出した。流れる音楽に、流れるようなステップ。彼らの堂々としたダンスは、見ていた少年たちもため息を吐くほど、それは優雅で素敵なダンスだった。曲が終ると二人は見つめあい、その余韻で静まりかえっていたが、誰かが拍手をすると、それは大きなものになり模範演技は成功に終わった。見ていた少年たちには、最上の手本となったダンスであった。

「とても素敵でしたね。とにかく皆、頑張りましょう。苦手な所は自主練習で何とかするとして、あとは度胸と雰囲気が必要ですね」

 エミルが自主練習を持ち出したので、指導者として夫人は、毎日自宅で練習をするようにと宿題を出した。それ以後、彼女からは「驚くべき進歩」と言われるまでになっていった。

「今日の練習はここまでに致しましょう」

 夫人がにこやかに手を打つと、それを待っていたかのようにヨハンが入って来て伝言を伝えた。

「陛下からのお達しで、諸君の卒業祝いをするとの事です」

 つまり、各学校の卒業式が全て終るであろう7月下旬に、その祝いとして国王主催の狩りに招待するというものであった。これを聞いた少年たちは驚いて騒ぎ出した。彼らは狩りが初めてであり、それも国王主催の狩りに参加出来るという事に名誉を感じた。一般に狩りは猟師がするものであるが、貴族も嗜みとして狐や鹿、野うさぎを狩ったりする。

「恥ずかしながら、僕の家は一応爵位はあるけど、父は狩りをしたことが無いから初めてなんだ」

 とシェノワが頭を掻いた。子爵のシェノワの父は算術師として働いている。貴族と言えども、この国では爵位が権力と結びついていないのである。爵位に固執しない家では爵位を返納したり、ごく普通の一般市民と同じ様に自由に職業を選び、当主は当たり前に仕事をして家族を養っているのである。これは、イザナが王位を得る以前から続いていることである。一方、爵位に拘る家の場合は、生き残り策として王室に娘を送ったり、商人と手を組み経済的な維持に励むのであった。因みに、王立カリナン医術学校のヴィクター校長は、伯爵であるが前者に属している。

「初めての狩りを、皆で体験出来るなんて楽しみですね」

 狩りが楽しみだと言ったエミルに、ザザビーはその前に行われる立太子式はどうなのかと訊くと「少々憂鬱」と素直な答えが返って来た。

「そうだよね?大勢の中で注目されるんだから、ぼくだったら失神してしまうよ」

 シャインの言葉に、殆どの親友は自分がその立場であれば、と想像したのだった。そんな中、エルネストは無言でエミルに近づくとそっと彼を抱きしめた。

「大丈夫だよエミル王子!君にはオレたちがいるじゃないか」

 エルネストは言葉で励ますよりも、エミルに安心してその場に臨めるように、態度で励ましたかった様だ。

「そうだよエミル王子。僕たちには君の代わりは出来ないけど、いつでも君の傍らにいるからね」

 エミルの親友たちは胸を張って応援してくれている。

「ありがとう。わたしは、皆が誇れる君主になるように努力します。約束しますから」

「ええ、そうですとも。あなたは真っ直ぐ前を見て、自分たちを導いて欲しいのです」

 マリオットは年長者らしくエミルに将来を託した。


 4 成長するとき


 7月になり、立太子式を明後日に控えた日。その日は朝から、式の手順やダンスの披露についての説明と予行があり、エミルはマリオットとシャイン、シェノワとザザビーの四人だけを連れ、忙しく城内をあちこちと移動していた。最近ではマリオットがエミルの執事として動き、それをあとの三人がフォローする形になった。そして他の彼の親友たちも、それぞれの得意分野で尽力出来るような形が取れるようになって来たのだ。

「殿下、あとはご衣装についてなのですが」

 城内から伸びるプチパレスに続く廊下を歩きながら、マリオットが試着する事を勧めた。

「衣装ですか?わたしの服よりも先に皆の衣装が見たいです。皆の衣装が相応しい物になっているのか、早く見たいです」

 エミルは自分の衣装よりも、忠誠を誓い仕えてくれる親友たちの衣装の方が心待ちであった。用意するに当たり、親友たちに心尽くしの衣装をと父であるイザナに願ったのだ。

「分かりました。では、先にそちらをご覧いただきます」

 彼らが専用の衣裳部屋に行くと、試着したエルネストが近衛の制服を着たブランドンと居た。

「皆の衣装を見に来ました。ああ、ブランドンは赤い制服が良く似合いますね」

「ありがとうございます。こうしていられるのも殿下のお陰です」

 嬉しそうにブランドンが微笑んだ。その胸にはまだ入隊間もない証である小さな銅のメダルが付けられている。

「エミル王子いかがです?オレ、じゃない、私も似合っていますでしょうか?」

 エルネストは、エミルと話す敬語にまだ少し戸惑いがあるようだ。しかし彼は、シャインに文句を言われながらも臣下としての言葉づかい身に付けている。

「無理をしなくてもいいですよエルネスト。わたしたちだけの時には、大目にみてもらいますから」

 気を遣ってくれているエルネストを微笑ましく思うエミルだった。ヨハンと同じ位の背の高さがあるエルネストは、新しい服を着るとだいぶ大人びて見える。

「色のせいもあると思うけれど、エルネストはずっと前からいる人みたいだね」

「ん?シャイン、それはどういう意味だ?オレだけ爺だと言いたいのか?」

 上着の色は部署別に決められ、例えば軍関係は黒、商工・総務関係は青色、外交・政治関係は緑、宮中・式典関係は赤などである。それにより、エルネストは黒、シャインは青、シェノワは緑、ザザビーは赤を着る。また、本来は赤を着る執事職は特別に濃紺の上着を着る。

「許してあげて下さいエルネスト、とても良く似合っていますよ。色は国王の現職と同じですが、見習いの皆には、若々しいこのデザインで良かったと思います」

 父王に仕える臣下の衣装とは、色こそ同じだが彼らの上着は丈が短めであったり、若者用に装飾もされているのだ。

「自分もこちらのデザインが良いと思います、殿下」

 マリオットが真面目に応えたのを見て、シャインがマリオットに本当は黒が着たかったかと訊くと、彼はわずかに小さく頷いたのだった。だがマリオット自身は、それについては何も触れなかった。

「あっ!忘れるところでした。大切なお知らせですよ」

 エミルがシャインとエルネストに、マシェリたちが明日到着する事を伝えると、一瞬複雑な表情をしたシャインだった。しかし彼は、直ぐににこやかな顔に戻って応えた。

「彼女も招待されていたんだものね・・・。ぼく、明日はオフだから迎賓館に顔を出すようにするよ。マシェリには、エミル王子の事と、今のぼくたちの事は内緒にしておくけどいいかな?」

「うむ、マシェリを驚かせたいよな?オレ、明日は周辺警備の日で抜けられないからなぁ。代表として行ってきてくれ、頼んだぞシャイン!」

 エルネストも行きたそうな様子を見せたが、任務優先であるので仕方がない。

「シャイン、わたしからも頼みます。それと、正式に移住するのであれば、要望などを聞いてあげて下さい」

「承知しました王子。何かあったらケネスさんへ報告します」

 エミルはシェノワとザザビーにも試着を勧め、細かい打ち合わせをすることを伝えると、マリオットだけを連れて自分の執務室に戻って行った。


 次の日、立太子式前日。シャインをはじめ親友たちは、他の侍従たちと同じように離宮に住み込みでいるのだが、シャインは迎賓館に行く前に一旦自宅に戻り、気分を切り替えることにした。しかしその事が、母に余計な心配をさせてしまったようで、母は粗相をして帰されたのではないかとオロオロしたのだった。

「大丈夫だよ母さん。ぼくはしっかりやっているし、王子からも信頼されているから心配ないよ。今日はお客さまを迎えるにあたって、庶民でないといけないんだ」

 母はその理由については理解し難い様子だったが、彼が好む葉を使って温かい茶を淹れてくれた。シャインは久しぶりに、母の笑顔を見ることが出来て嬉しかった。柑橘系の香りがする茶をゆっくりと飲み干すと、何ヶ月か前の今までの自分に戻れた様な感じがした。やはり我が家は良いものだと思いながら、母にまた来るからと言い、元気良く自宅を出て迎賓館へと向かった。今までは徒歩だったシャインは、今日は例の白い馬に乗って来たのだ。そして、迎賓館に到着すると門番に馬を預け、近くに居た赤い上着を着た関係者に声を掛けた。

「私はエミル王子の申しつけで参りましたバッキオですが、一般招待客のミッションのお客人は到着しましたでしょうか?」

「はい、その事なら伺っておりますよバッキオさん。エヴァンスとラフィネからのお客人はまだのようですから、ホールで待たれては?」

 こうしている間にも、招待を受けた貴族たちが続々と到着しているので、美しい建物もいつも以上に華やいでいる。出入りを担当している者によると、国内外の貴族とその一行は一階と二階に、外国の使節たちは奥の別棟に宿泊する。また、ミッションの優秀者たちは、その横にある小さな離れに宿泊することになっているようだ。マシェリたちが宿泊する離れに行くのにも、このロビーを通っていかなければならないので、シャインは椅子に座って待つことにした。ぼんやりとしていると、どこかの貴族が到着して俄かに賑やかになった。シャインは失礼のないように起立して、深くお辞儀をして彼らが通り過ぎるのを待つと、出迎えの役人がシャインの気遣いに感謝し、今のセティエ公で主な招待客が全員到着したと言った。

「セティエ公ですか?エスナンのセティエ公ですよね?」

「はい。そうですが、よくご存知ですね」

「ぼくは、ミッションでエスナン国にお世話になりましたので存知あげております。とても良い国ですね」

「ほほう、するとあなたは殿下とご一緒だったお仲間ですね?殿下は、善き仲間に巡り合えて幸運だった、と仰っていらしたようですよ」

 役人はシャインを驚きを持った表情で見た。

「ぼくなんか全然ですが、殿下は素晴らしい人ですね。だからぼくは、殿下について行きたいと思いました」

「なるほど、そうですか。私からも是非、心より殿下をお支えして欲しいと願いますよ。ここでは余り大きな声で言えませんが、わざわざ殿下を市井でお育でになった事への反発が強いですからね。おっと、少し口が過ぎました。戯言だと思ってお忘れになって下さい」

 役人は口をつむぐと、そそくさとその場を立ち去って行った。シャインはその時に、王室を取り巻く環境に少なからず不安を覚えたのだ。やがて一台の馬車が到着すると、ドアが開き見覚えのある顔が降りて来た。シャインは思わず外に飛び出すと叫んでしまった。

「マシェリーっ!」

 マシェリは驚いて、照れくさそうに微笑むと小さく会釈した。彼女の後から男女二人づつ降りてきた。ミッションと時とは違う、女の子っぽい姿だったので、シャインの胸は再びときめいた。

「こんにちは、皆さん。カリナンにようこそ!」

「お久しぶり!シャイン。お出迎えは君だけ?エミルとエルネストはどうしたのよ」

「うん、彼らは忙しくって来られないんだ。宜しくって言ってたよ」

 シャインは慌てることなく普通に言うことが出来た。

「そうなの?残念。せっかく皆に紹介しようと思っていたのにぃ」

「仕方ないよ、でも明日会えるからいいじゃない?君の荷物を運ぶの手伝うよ」

 それからシャインは彼らに混じって荷物を運ぶと、離れでは彼らと一緒に茶とお菓子を楽しみ、沢山の色々な話に花を咲かせた。そして西に傾いた太陽が湖面を照らす頃、後回しにしていた話題をマシェリに訊ねてみた。

「ねえマシェリ、例の移住の件は?」

「そうねぇ、それをエミルに訊いてもらいたかったのよ」

 もったいぶる素振りでマシェリが言った。

「はあっ、そうなんだ。やっぱりぼくじゃダメなんだ・・・」

 肩を落としてシャインががっかりしたのを、上目づかいで確かめたマシェリはクスっと笑った。

「やっぱり面白いよシャインは。じゃあ、一番先に返事を聞かせてあげる・・・カリナンに住むよ!君たちを信じて決めて来たんだから」

「えっ、本当!?」

 シャインが顔をほころばせると、マシェリは大きく頷いた。彼女は卒業式が済んで、こちらへ出発する間までの何日かを寮で世話になったと言い、手持ちの大きな物は全部処分してきたとも言った。そして、世話になった男爵家にはお礼の手紙を出して来たという。その手紙には感謝の言葉だけを書き連ね、カリナンへ移住することにはひとことも触れなかったと言った。そこでシャインは、簡単にカリナンでの市民生活の様子などを話すと、他の四人もそれを興味深く聞き、名所や名物についての質問をしたので、シャインは久しぶりに同世代との楽しい時間を過ごすことが出来た。

「さてと、遅くなるからぼくはこのへんで失礼するよ。住む所はどこがいいのかな?女の子一人でも大丈夫な所を探すけど」

「牢屋とあばら家でなければいいわ」

 マシェリの返事が面白いと言って、ラフィネの四人は笑った。

「うん、分かった。明日また話せるからその時に相談しようよ。では、またね」

 シャインはそういい残すと離宮へと続く並木に沿って帰って行った。湖面の残照がひときわ美しく感じ、マシェリも同じ景色を見ているのだと思うと胸に迫る想いがあった。


「ただいま戻りました」

「お帰りなさいシャイン、お役目ご苦労さまでした。ケネスさんから、戻って来たら王子の執務室に来るようにと伝言ありましたよ。で、ちょっと聞いてくれる?シャイン、今日の僕の対戦相手は士官学校の先生だったけれど・・・」

 同室のザザビーは長椅子で寛いでいたが、テーブルの上には今日の闘いを再現したのか、チェスの駒が並べてあった。その先生は常套的な考えをしないのか、とにかく変わった手で仕掛けてきたので苦労したと嘆いた。

「それに僕は、その人にずっと連勝しないといけないようで、この先を思うと頭が禿げてしまいそうな気がするんだ」

 禿げると聞いて笑ってしまったシャインだったが、父の姿が頭に浮かび、自分も父同様に毛髪が薄くなると思うと少しぞっとしたのだった。

「ザザビーは頑張ってくれなきゃだめだよ?だって、君はぼくたちのエースなんだからね。ぼく、執務室へ行ってきますから」

 シャインが部屋を出ると、隣の部屋からはエルネストとシェノワの楽しそうな笑い声が廊下に漏れて来た。この国では明日、とても大切な日を迎えるのだ。この幸せに満ちた時間を長続きさせるには、ぼくたちがしっかりとエミル王子を支えていかなければならない。ぼくたちが彼の手足となって国の為に働き、彼が間違えないように、自分たちが過ちを犯さないようにしなければならないのだから。心の中では分かっているつもりでも、それは日常的にそうでなければならないのだ。重圧ではあるけれど、エミルに比べたら些細なこのなのだとシャインは思った。

「バッキオです。お呼びと聞き参りました」

「どうぞ」

 マリオットの声がしたのでシャインは部屋へ入ると、マリオットだけが書類の束と向き合い、エミルの姿は無かった。

「ああ、忙しい所を呼び出してすまん。バッキオ君、例の彼女の報告をお願いしたいのだが」

 顔にまでインクを付けたマリオットがシャインに言った。

「顔、インクが付いてますよ。王子は?ご不在のようでですが」

「ええ、儀式をされていらっしゃいます」

 マリオットが外を指した。シャインが窓から外を覗くと、城の裏手の湖畔の一部が白い幕で覆われていた。外からは、その中で何が行われているのか見えないようになっている。幕の外にいたランプを手にしていた何人かが、その中へ吸い込まれるように入って行くと、今度は幕ごとゆっくりと動き出した。これが儀式なのだろう、それは何かとても大切なものを厳かに運んでいるようにも見えた。やがてその幕は城のテラスまでやって来ると、やはり幕ごとテラスから城内へと入って行った。

「終わったようですよケネスさん。何だか不思議な光景でした」

「そうですか。バッキオ君、まずは彼女の返事はどうでしたか?」

「すみません、儀式に見とれてしまいました。彼女マシェリ・リディヌ、今はリディヌ改めオーガスタは移住を決心したとのこでした」

「ふむ、それは良かったですよ。説得しないで済みましたから」

「説得?」

「はい。殿下がお召抱えとのことです」

「エミルが?・・・エミル王子が召抱えると?」

 マリオットは書類に目を通しながら頷いた。

「マシェリはメイドになるんですか?」

「いえ、メイドや側女にはなりません。彼女には彼女しか出来ない役目がありますから」

「役目と言うと?」

 書類の束を揃えると、マリオットはゆっくりと顔を上げ、シャインに彼女の出身校と特技について口にした。つまり、マシェリは一人の軍人として、エミルの影として働いてもらうつもりであり、それはマリオットがエミルに提案して承諾してもらったと言った。

「こういう事は、早く動いた方が得策ですからね。バッキオ君には必要以外は口外しないように頼みますよ」

 シャインが頷くと、マリオットは満足そうな顔をした。そして、王室を取り巻く人々の中には、実力も無いのに「あわよくば権力を手に」と考えている、不穏な輩の存在が確認されていると言った。

「そうですか・・・ぼく今日、たまたま役人と話をした時にその人が言ってましたよ、陛下がエミル王子を市井で育てたことへの反発があるって、ぼくには何のことだか分からないけど」

「そのようですよ、バッキオ君。陛下は公私共々大変なご苦労をされていらっしゃいます。陛下の本当のご苦労と実力を知れば、誰もその代わりは・・・」

 語尾を濁してマリオットは立ち上がると、部屋のカーテンを閉めてシャインを食事に誘った。その晩はシャインにとって、アングレール王室の現状を知ることになった日であった。

「ケネスさん、ぼくは今までは、ただ漠然とそう思っていましたがハッキリ分かりました。やはり、本当に命に代えてでも王子をお護りしなくてはならないと決心出来ました」

「それは結構なことです。バッキオ君、お互いに心を合わせて殿下をお護りしましよう」

 二人は固く握手を交わした。その内容はその日のうちに仲間に伝え、異議を唱える者は一人もなく全員が心からの忠誠を誓った。


 朝日はカリナンを幸福な光りで包み、澄んだ空気の中一片の雲もない空で、鳥たちは幸せを高らかに謳っている。離宮内の聖堂では、エミルを王太子として認める儀式が早朝から始まり、つい今しがた滞りなく終わった。立会人の姻戚関係にある貴族たちは、口々に祝福の言葉を述べて祝った。その貴族たちの感想はというと「こんなにも素晴らしい王子が次の国王になるのだから、我がアングレールがこの先ずっと安泰だと信じられる」というものであった。その中でも少し距離のある者は「王子が18歳になるまでよく無事に隠し通せたものだ」と言い、また「王子が偽者とすり替わっていたらと心配した」とも言った。しかし、この件に関しては、エミルが王妃に似ていることが幸いし、直ぐに払拭された。この後一同は、大ホールで立太子式が始まるまで、サロンで寛ぐことになり移動して行った。この早朝の儀式には、マリオットがエミルの従者代表として参列していた。マリオットは、偶然に出会った少年の持つ不思議な魅力に心を引かれ、その少年の為に身を捧げる覚悟をしたのだった。マリオットは、エミルが一国を動かす人物になっていくという事実に感動し、唇を噛み締めて涙を堪えていたが、とうとう我慢し切れずに声を漏らさずに涙を流し、拭おうともしなかった。そして、儀式が終わるとそっと柱の影で涙を拭き、まるで何事もなかったような顔をしてエミルに従っていたのだ。また、エミルの親友たちは、この日より正式な従者として認められる。今までは王子の取り巻きとして、国王の従者の真似事のように扱われていたが、彼らにもそれなりの責任が課せられるようになったのである。やがて大ホールで立太子式が始まり、全員の前でエミルが王太子となった報告がされ、内外に正式な次期国王としてお披露目される。王と王妃の前に進み出たエミルの華麗な姿には、参列者からは沢山の溜息がこぼれた。

「余は汝を王太子とし、余の跡継ぎとする。我が国、民の為に誠心誠意尽くすよう心せよ。これより汝はカリナン公と称するがよい」

「はい、有難く受け承ります。わたくしはこの国を秩序に則り、国王陛下と伴に、より豊かにより強く、そして多くの民に、安寧と幸せを与える努力をする所存でございます」

 シンと静まり返った大ホールでは、粛々と立太子式が行われているが、一般招待客であるマシェリたちは会場最後方での参列であった。彼女たちには、王や王子の姿や声が殆ど見聞き出来ない場所であるにもかかわらず、彼らからは不満の声は上がらなかった。というのも、その場に居るという幸せをかみ締める事が出来たからだ。滅多に無いチャンスに遭遇することは、一生に一度あるかないかと言われているのでなお更の事である。前の方から拍手が起こると、彼らには何が起こったのか分からなかったが、大きな感動が伝わり手が痛くなるまで拍手を送った。

「イザナ王万歳!カリナン公万歳!」

 王と王太子を讃え、会場内のボルテージは最高潮に達した。希望に満ちた新しい歴史が始まるのである。再び拍手が起こり、それが収まると今度は式が終わったのだと理解出来た。

「全然見えなかっけど、感動した!とにかく感動したよ」

 ラフィネから来たジョナスが興奮気味に言うと、周辺の招待客からも同じだと言われた。

「わしたちはナザレブから来たけれど、大変な名誉だと思っとるよ。この国の幸先が良いに決まっとるしな。わっはははは・・・」

 豪快に笑った老人は船大工だと言ったが、軍に納める大型の船を大勢の弟子たちと造っているようだ。ここには国の基幹産業を担う多くの職種の人々も集っている。その一般の人々を国家行事に参列させるのは、このアングレール王国だけである。この国は建国以来、国が民を大切にしている証でもあるのだ。

「この後の舞踏会に出席される方はその場にお残り下さい。そうでない方は、あちらのドアからお出になられて下さい。国王陛下とカリナン公の肖像画をご覧頂けます」

 赤い上着を着た何人かが、声を張り上げて会場内を回っている。

「へえー、国王と王子の肖像画を見られるんだ。おれ、行って来ようかな」

「バカ言うなよ、ライアン。あっちへ行ったら帰ることになるんだぞ?ライアンは踊りたくないから帰ったって言われるぞ」

 ジョナスに言われたライアンは口をへの字に曲げた。

「そうだよライアン。ラフィネ一ダンスが下手だと言われて逃げるなんて男じゃないよ?国王陛下や王子は舞踏会で見られるでしょ?私は見にいっちゃうかも、だけど」

 パティーナは王太子がどんな人なのか、早くその目で見たくて仕方がないのだ。それに、彼女なりに素敵な男性をイメージしている乙女でもある。

「あ、そうか。でも俺はね、皆が言うよりは踊れるぜ?ジョナスよりも上手かったりしたらゴメンな」

「ふーん、じゃあ踊ってよ。このセルティーと一緒に」

 むっとしたセルティーは口では言えなかったが、ライアンに好意を抱いているのだ。

「あー、もう君たちどうでもいいよ。ライアンとセルティーが組んで、ジョナスとパティーナが組めば丸く収まるでしょ?」

 余りにも仲の良いラフィネの四人組に、マシェリは少し呆れた。

(あの時はアタシたちも仲良しだった。離れていなかったら彼らみたいだったのかな・・・)

「マシェリは誰と踊る?昨日来たシャインか?」

 ライアンが訊いた。

「ううん、分からない。って言うか、決めていないよ?もしかして王子と踊るかもね」

 マシェリは笑いながら答えた。

「踊ってみたいよね~」

 セルティーとパティーナは声を揃えた。やはり女子が憧れるのはやはり王子様なのである。


 楽団員も席に着き、大ホールは舞踏会場に変わって行った。周囲の壁際には休憩するための椅子が置かれ、所々に配置された大きなテーブルには、小腹を満たすサンドイッチや果物、フレッシュジュースが入った大きなデカンタも置かれた。赤や緑の上着を着た職員や侍従たちが忙しく立ち回り、短時間で準備が整ったので外国の招待客は手際の良さを褒めた。

「お待たせ致しました。只今より、立太子記念舞踏会を始めます。まずは、今年、社交界にデビューする皆さんによるダンスから・・・」

 良く声が通る司会者が紹介したのは、貴族や有力者の子弟によるダンスだった。社交界には興味がないラフィネの四人組とマシェリは、ジュースの入ったグラスをもらうとそのまま椅子に座って見学することにした。

「俺たち一般人には、社交界なんて縁ないもんな?」

「そうよね?縁遠くてドレスも借り物だから」

「そうそう、ぴったりサイズがあって良かったよね」

「オレもライアンのもそうだからな。マシェリもだろ?」

「うん、勿論だよ・・・」

 しかしマシェリの場合は、あなたはこれを着て下さいと係りの人が持って来たのであった。それは他の衣装と違い、マシェリに合わせたかのような作りの新品であった。社交界の新人たちは、どことなくぎこちなさを感じさせたが、揃った綺麗なダンスを踊った。

「次は、皆さんお待ちかねだと思いますが、カリナン公を含めた紳士たちが淑女の皆様と踊る、挨拶ダンスです」

 司会者が遠くて良く見えなかったが、声に熱を帯びたのが分かった。

「何よ?挨拶ダンスって・・・」

 マシェリが初めて聞いたと言った。それは、ダンスと言っても手を繋ぐ事をしない、ただお辞儀をして男女が入れ替わって行くだけのものだ、と隣に居合わせた素敵な年上の女性が教えてくれた。

「ありがとうございます。初めて来たので知らなかったです」

 マシェリが礼を言うと、彼女は外国から招待された商人だと言った。

「この国はいいですね。こうして上下の交流があるなんて憧れですわ」

「あなたは踊られないのですか?せっかく素敵なドレスを着ていらっしゃるのに」

「うふふ、あのダンスは未婚の男女が踊るものですよ。わたくしは結婚していますから踊れませんの。あなた方は踊る資格がありますから行かれたら?」

「はい、良いことを教えて頂けました。行ってきますね」

 マシェリはラフィネの四人を誘ってフロアに行くと、既に大勢の若い男女が集まっている。女子は王子狙い、男子は可愛い娘狙いであるのは確かである。

「女性は円の内側へ、男性は外側にお並び下さい。男女同数になりましたら始めさせて頂きます」

 会場がざわついた。エミルが加わったこにより周囲の女子が騒ぎ出したのだ。マシェリの居る所からエミルの姿は見えない。そして、若い独り身の男性の侍従が調整で数名加わった。

「さあ、皆さん始まりますよ!では、お楽しみ下さい」

 軽快な音楽が流れると動き始め、速さに合わせて男女が入れ替わって行った。しかし始まって早々、どうしたことだろうか娘たちが、次々にバタバタと倒れていった。周囲の大人たちは倒れた娘たちを隣のサロンへと運び、騒然としてダンスどころでは無くなったてしまいそうだったが、エミルが一旦抜けた事によりそれは収まった。原因はエミルであった。王子の関心を買いたい女子たちが、わざと貧血を起こしたふりをして、それを見ていた娘たちが真似をしたというところである。再びエミルが加わると、かまってもらえない事が分かり、女子たちはダンスに誘って欲しいと声を掛け出したのだ。しかしそれには応えることはなく、笑顔でごまかしたエミルであった。やがて王子が回ってくると分かった一般の女子たちは、目の前の相手のことはそっちのけでソワソワし出した。

「久しぶり!」

 声を掛けてきたのはエルネストだった。

「わっ、びっくりした。エルネストじゃないの!久しぶり、後から話そうよ」

 エルネストは頷くとにっこりした。マシェリは、黒い上着を着たエルネストに大人っぽさを感じ、同時にときめきを感じた。

「驚いたろ?」

 次に声を掛けてきたのは青色の上着を着たシャインだった。

「シャイン、何だか凄い!変わっちゃったみたい、別人みたいよ?」

「そう?もっと変わってしまわれた人がいらっしゃいますよ」

「えっ?」

 離れて行くシャインから、目の前のパートナーに視線を移した。

「ようこそ、マシェリ」

 マシェリは絶句した。頭上に王太子の証である冠を載せたエミルが現れたのだ。

「えみ・・・る・・・」

 エミルは優しく微笑んでいる

「後から一緒に踊りましょう」

 思考が混乱したマシェリの頭にその言葉が響いた。やがて挨拶ダンスも終わり、壁際のイスに戻って来てもマシェリはまだ混乱していた。

「マシェリったらどうしちゃったの?王子さまにお会い出来て興奮し過ぎたのかしら?」

 パティーナとセルティーが心配をして顔を覗き込んでいる。

「そんなこと無いだろ?マシェリだもん」

 ライアンはマシェリを女性を女性だと思っていないのか、呆れたジョナスはライアンを突いて注意を促した。

「マシェリだって一応は女子なんだからな!」

「そこ!一応じゃなくて、れっきとした女の子だよ!」

「あっ、元に戻った・・・ごめん」

「ねえ、パティーナ。シャインが青い服着ていたのに気付いた?」

「うん、綺麗な青い服よね?」

「その前に来た、黒い服の背が高いのがエルネストだった・・・」

「うんうん、背が高くてカッコ良い人だったわ。憧れちゃう」

「という事は、マシェリと同じ組だった人たちよね?で、最後の一人は?」

 興味津々のセルティーが訊いてきた。

「頭に冠載せてた!」

「はあ?・・・」

 ラフィネの四人は口をあんぐりと開け、目をパチパチさせた。

「エミルが王子だったのよ!もぅ、驚き過ぎたからっ」

「・・・・・・」

 声も出ない四人だった。

「あとからエミルと踊ることになったわ」

「ちょ・・・と、本当に王子さまと踊るのね?凄いじゃないの夢みたい。私、ドキドキしてきたわ」

 パティーナ頬を赤らめている。どうやら妄想しているようだが、乙女にはよくあることである。

「でもねマシェリ、それってここに集っている女子全員を敵に回すことなのよ?」

「敵に?セルティー!どうしよう困ったわ」

「んじゃ、俺と踊るか?」

 ジョナスが心配してくれているが、ここでパートナーを頼むとセルティーに悪いと思い断った。マシェリはただ、友だちとしてエミルとダンスを踊るのだとばかり思っていたが、この場には未来のお妃候補として、自分を売り出そうと考えている貴族の子女がわんさと集まっているのだ。身分の事を考えるとその差は歴然で、マシェリは片隅に追いやれれそうな気持ちであった。

「あーっ、居た居た!」

 混雑するフロアを掻き分けながら、エルネストがマシェリを探していた様だ。

「みなさん初めまして。わたくし、カリナン公ことエミル王子にお仕えするエルネスト・フォレスです。この度は、殿下の記念舞踏会にようこそいらっしゃいました」

 きりっとした表情で挨拶をしたエルネストは、あのぶきらぼうで人のよいエルネストとは別人に思えた。ラフィネの四人は、それぞれ自己紹介をして握手を交わしている。この二ヶ月間で、こんなにも変わってしまうことがあるのだと思い、マシェリは大人として一歩先を行くエルネストを眩しく感じた。

「マシェリ・オーガスタ伯爵令嬢、王太子殿下がお呼びでございます。ご一緒においで下さい」

 エルネストは一礼すると手を差し伸べた。マシェリが敬称付きで呼ばれた事に、ラフィネの四人は訳が分からずにざわめいた。それはマシェリも同じだった。今までに貴族の位で呼ばれたことは、生まれてから一度もなく身に覚えも無い。

「伯爵って何かの間違えだよ?きっと・・・ちょっと行ってくる」

 訳も分からずにマシェリは席を立ち、エルネストの後に付いてエミルの待つ一角へと近づくと、取り巻いている人々がさっと避け、進路を譲ってくれたので驚いた。そして、その多くの人々の視線が痛くも感じた。

「お待たせ致しました殿下、伯爵令嬢をお連れしました」

 エルネストは丁寧に挨拶をすると、エミルの脇に控え直立した。王太子旗の前に、一段高い位置に置かれた立派な椅子にはエミルが座っていた。マシェリはドレスを摘むと方膝を折り、ゆっくりと深くお辞儀をした。これは、エミルがエステルで見せた仕草を思い出し、咄嗟に真似したものだった。

「お久しぶりです、マシェリ。お変わりありませんでしたか?」

 マシェリに再会出来た喜びを抑え、エミルは冷静に声を掛けた。

「はい、殿下。つつがなく過ごしておりました。この度は、王太子として立たれた事を心よりお喜び申し上げます。おめでとうございます」

 好奇な視線に晒されて、マシェリは喉の奥から声を拾い出した。そんな様子を事前に想像していたのか、エミルは彼女が注目の的になる前に、立ち上がると近くに座っていたセティエ公にマシェリを紹介した。

「叔父上、こちらがわたしと苦難を伴にしたマシェリ・オーガスタ伯爵令嬢です」

 マシェリは一通り挨拶とお礼を言うと、後はどんな話をしたらいいのか話題に困ってしまった。しかし、話上手なセティエ公が雰囲気を悟り、彼らが訪れた後にエリエールがとても元気になった事、そして、子どもが無事に産まれてくれる様に祈願祭をした事など、茶目っ気たっぷりに話をしてくれた。丁度、マシェリの緊張が解れる頃にダンスの開始が告げられた。

「お話中失礼ですが、叔父上、彼女をお返しして頂きます」

 エミルはマシェリの手を取ると、フロアの中央へ進んで行った。それに遅れることなくエミルの取り巻きたちも、パートナーと一緒に彼の周りに集まってくると、何重にも輪が広がり優雅なダンスがフロアいっぱいに繰り広げられ、華やかでうっとりする時間を作って行った。

「エミル・・・いえ、王子。私を驚かせた罪を償って頂きたいと思っています」

 優雅で美しくリードしてくれているエミルに、マシェリは彼の瞳を見つめて言った。

「どのようにですか?マシェリ。わたしは、あなたに幸せになって欲しいと願っています。ですから要らぬ事だったのか知れませんが、あなたの母方の家系を調べさせて頂いたのです」

「それが爵位にたどり着いたと?」

 エミルは優しく頷くと、償いは彼女を自分の配下に置く事でもあると言った。伯爵家を再興し、彼の元で尽力して欲しいというものであった。

「私が一人だからって、気遣って・・・」

「あなたの為でもあるのです、マシェリ。わたしに力を貸して下さい」

「本当にそんなことでいいのかしら?でしたら、喜んで微力を尽くさせて頂ます」


 そしてマシェリは、そのまま夏の離宮の住人となった。代々、王太子が国王になるまでの期間治めるカリナン州は、再び主を迎えて急ピッチでその対応を進めている。王太子府も作られ、エバンス、ゼノ、ナリス、ヴィクトルもそれぞれの分野で活躍出来るように、国王直属の専門の部署で学ぶ事が許され、それを支える職員を含めると百人規模の大所帯となった。更にシャインとエルネストは、王太子に仕えながらも上級士官学校へ進み、将来は国の重要な存在となるべき道を歩み出した。彼らは大きな希望を胸に抱き、輝かしい未来を求め、大海へと漕ぎ出して行ったのだ。


本当の自分が何者かが分かったが、まだまだ謎が多いエミル。どうしてそのようになったのか、その一つでも解き明かして行こうと思うのであった。

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