騙された女
川野静子が浅田と知り合ったのは、週一回通っているダンススクールだった。新しく入会してきたハンサムな中年の紳士に、すぐに夢中になってしまった。
長距離トラックの運転手、津路と不倫の関係にあって、そろそろ清算しなければと、思っているところへ王子様のように現れたのが浅田だった。背の高い、中年にしては細身の体でリードしてくれる。かろやかにステップを踏んでいると、身も心もとろける思いだった。
一度結婚してはいるが、今は独身だという浅田と、再婚に漕ぎ着けるのに何ヶ月もかからなかった。
一人娘の恵美も、二年前に結婚して、マンションを借りて新所帯を構えている。静子はもともと恵美が住んでいた狭いアパートに、一人で住んでいたので、そこを引き払って、〇〇市の浅田の家で同居することになった。二階建ての小ぢんまりとした家だ。
浅田は、入籍はしないと言う。静子の方もその方が好都合だった。夫の保険金、財産のこともあるし、正式に結婚するとなると、いろいろ不都合なことが生じてくる。
浅田は津路のように、すぐに体を求めてくるようなことはなかった。セックスに関しては、静子を避けているようにも思われたが、それがまた紳士的だと解釈して、私が男にしてみせるわと、年甲斐もなく気負っていたのである。
ともかく、浅田が傍にいるだけでうっとりしていた。
静子は十人前の器量で、これといった特技もなく、恋愛経験もなかった。見合い結婚した夫とは五年前に死別。夫は、まじめを絵に描いたような男だった。年も十二歳離れていて、母子家庭で育った静子には父親のような存在だった。茨城の片田舎に住んでいたが、夫が亡くなって一年後、一人娘の恵美を頼って上京した。ここで、パートの仕事にも付いて、親子水入らずの楽しい生活が続いた。茨城の田舎には、まだ自宅が空き家のままで残っている。
そんな平凡な結婚生活を送った恵美子には、津路との濃厚なセックスは、熟した体を刺激して女を蘇らせた。というより、やっと性に目覚めた、と言った方が正解かもわからない。そこへシンデレラを迎えに来た王子様のような浅田が現れたのだ。
ところが、同棲しても浅田は性に淡泊だった。たまに性交渉を持っても、一方通行で終わってしまう。津路の官能的な性に慣らされた静子は、毎日悶々とした日々を送るようになる。
当然のことながら、津路とよりを戻してしまうことになった。浅田と同棲してから六ヶ月ほどしたときのことである。
あの日は秋の霰混じりの雨が降っていた。
モーテルのだだっ広いベッドから起き上がって、腰の弛みを隠すように、慌てて服を着ようとすると、津路が半身を起して手を伸ばしてきた。
「今日は、浅田は出張だろ。送って行ってやるよ」
静子は、一度は引っ込めた手をまた伸ばして、津路の手に絡ませた。手を引っ張られて、再びベッドにもつれこんだ。
津路は家まで送ってきて、大胆にも道路わきの駐車場まで車を押し込んだ。静子は車から降りかけて、ふと道路よりも高くなっている家を見上げると、窓に明かりが灯いている。まさか、出張に行っていたはずの浅田が帰ってきたのだろうか。心臓が早鐘のようになり始めた。さっきは二回も奮闘した後、一寝入りしてしまったのでもう夜中の一時をまわっている。車がやっと通れるだけの狭い道路は、薄暗い街灯の明かりがついているだけで人気はなかった。
「電気が灯いてるわ?」静子が怖いものでも見たように言った。
「浅田は出張ではなかったのか」
「三日間北海道に出張するって言ってたわ」
「大丈夫か?」津路が心配そうに訊いた。
「うん、大丈夫よ」と言った声が震えている。
大丈夫ではなさそうだが、「じゃあね」と、小声で言って、門の扉を開けて階段を上がっていく。
玄関口に背の高い浅田が仁王のように立っていた。 静子はギョッとして立ちすくむ。いつもの浅田とは違う。
「こんなに遅くまで何処へ行ってたんだ!」
静子はしらばっくれて、訊かれたことには答えず
「まあ、帰ってらしたんですか …明日まで出張ではなかったのですか?」
「何処へ行ってたのかと聞いてるんだ!!」
頭を殴られたような一喝が飛んできた。
あまりの浅田の剣幕に恐怖を憶え、玄関のドアを開けて外へ出ようとした。浅田は裸足のまま敲きに飛び降りて、後ろから長い髪の毛を掴んで引っ張った。床に倒れた静子は、そのままずるずると引きずられて、リビングの床に叩き付けられた。俯せになってかろうじて手を突いた。背中の方に戦慄が走る。殺されるかも分からない。「やめて!!」喘ぐように言って泣き始めた。その静子の髪の毛をまた鷲掴みにしてくるりと向きを返さすと「この淫売女」といって拳骨で横っ面を殴った。小柄な静子の体はソファの横に落ち込むようにして倒れた。
その静子を起こしにかかろうする浅田の肩を、津路が掴んだ。
「もう、やめろ!」
静子のことが心配で様子を窺っていた津路が、いつの間にか家に入っていたのだ。浅田はその津路の顔面に、振り向きざまに一撃食らわした。不意を衝かれて後ろへ吹っ飛んだ津路が、襲いかかろうとする浅田をかわして起きあがると、ちょうどリビングテーブルの上にあった灰皿を掴んで、脳天目がけて振り下ろした。「うわぁ~!!」と浅田は叫んで、頭を押さえ込んで崩れるようにしゃがみ込む。そして仰向けにバッタリと倒れて動かなくなった。静子と津路が這い寄って顔をのぞき込む。額から血が流れている。
救急車を呼ばなければと、電話の方へ走っていく静子に
「何処へ行くんだ?」と言って津路が追いかけてきた。
「救急車を呼ぶのよ」と、ダイヤルしようとしている静子の手から、受話器を取り上げて「もう死んでるんだぞ!」と、言った。
「未だ死んでないわよ!」
「いや、もう死んでる!」
静子は津路の顔を見据えた。傷害致死で捕まるより、このまま葬ってしまった方がいいと言っているようである。津路は床下に埋めるといった。この時、それだけはやめてと言ったのだが、こんな図体の大きな男、俺一人では運び出せないと言う。浅田は背の高い男で、痩せてはいるが、体重が八十キロ位あった。
「切り刻んで運び出すか」と言って津路は静子の顔を見る。静子はぞうっとして「そんな恐ろしい!…座敷の床の下に埋めて!」と喉から声を絞り出すように言って、ふと気がついた。
「でも…、座敷の下って…、コンクリートじゃないの?」
「この家は古い家だよ。床下は土だよ」
「えっ!…」そう言われて、見回してみて、初めて気がついた。垂木などは天井で塞がっていて見えないが、梁や天井の黒ずみ、引き戸の擦れ具合からみて相当古い家だ。
津路は一人で浅田を座敷の方へ引きずっていった。スコップを渡して震えながら立っている静子に「あっちへ行ってろ!」と、怒鳴った。
静子はリビングのソファで、ずっと泣き続けていた。
一時間ほど後、津路はハア〜ハア〜と肩で息をしながら
「終わった。お前も共犯者だぞ。このことは誰にも言うなよ」と、だけ言って帰っていった。エンジンを噴かす音が静まりかえった家の中に聞こえてきた。不意に、後を追いかけていきたい衝動に駆られて窓際に走り寄った。車は何事もなかったように去っていった。
そのまま朝まで眠ることが出来なかった。
朝八時頃になって、会社に風邪気味なので休むと電話した。
この家をすぐにでも出て行きたかったが、空き家になると怪しまれるのではないかと思った。浅田は行方不明になったことにして、警察に捜査願いを出した。嫌でもこの家にいてじっと夫の帰りを待っている、貞節な妻を演じていなければいけない。
浅田の一人いる兄の隆にも、行方不明になったことを告げたが「そうかい」と一言いっただけで、気にもとめてないふうである。一体この家はどうなっているのかしらと不思議に思った。
あの忌まわしい出来事があってから二週間が過ぎた。
家事も手に付かず、料理をする気にもなれず、ありあわせのもので夕食を摂っていた静子の元へ電話がかかってきた。誰かしら。友達かしら。それとも娘の恵美かしら。静子は口をもぐもぐさせながら、ご飯を飲み下してから、受話器をゆっくりと耳に当てた。
「もしもし浅田でございます」
「私、知ってるのよ」
「えっ?…」
「……」
「えっ、あのう、なんのことでしょう?」
「あなたが、浅田を殺したってことよ」
「ええっ、なにをおっしゃるんです!私は浅田を殺してなんかいませんよ!浅田を殺したのは……」殺したのは津路だと言おうとしてやめた。
「知ってるのよ。浅田を座敷の床下に埋めたことも。このこと警察に知らせてもいいかしら」
ええっ!!まさか、どうして、誰も知らないと思っていたのに。静子の受話器を握っている手が震え始めた。
「あなた、いったい誰なの?」
「私はあなたの知らない人よ。警察に知られたくなかったら、五百万円用立ててくれない」
「そんな大金、私にはありません」
「あら、あなたは東京銀行に多額の貯金をしているはずよ。亡くなったご主人の保険金をそのまま蓄えてるでしょう」
死んだ夫が残してくれた保険金のことまで知っている。何もかも知っているんだわ。この女は。
「分かったわ…。五百万払うわ」
「あら、分かってくれたのね。じゃあ早速明日口座にお金を振り込んでほしいのよ。口座番号は東土銀行1463705よ。口座名義は川村良夫よ」
電話の女はもう一度、口座番号と銀行名と名義人の名前を繰り返して、電話を切った。
静子はすぐに津路の携帯に電話したが、留守電になっていて繋がらない。津路が誰かに漏らしたのかもわからない。津路の知っている女に間違いない。
恵美に相談しようかと、思ったが浅田を殺害したことも言わなければいけなくなってくる。そんなことを話したら、ショックで仕事も手に付かなくなるだろう。娘婿にまで、迷惑がかかって、家庭が崩壊するのが目に見えている。恵美には絶対に隠しとおさなければいけない。
あくる日も津路の携帯は留守電になったままだ。
会社の昼休みに、静子は川村の口座に五百万円を振り込んだ。
銀行員は振り込み詐欺ではないのかと、怪訝な顔で静子を見るが、結局何も言わずに処理してくれた。もし振り込め詐欺ではないかと聞かれたら、「違います」ときっぱりと言うつもりだった。
五百万だけではすまないだろうと、静子は思っていた。よくドラマにもあるが、こういう類の犯罪は底の底まで吸い尽くしてしまうのだ。あの女がいったい誰なのか調べる必要がある。とはいっても、どうやって調べればいいんだろう。誰かに頼むわけにもいかないし。いったいあの女は?とにかく浅田が床下に眠っていることを知っているのは、私と津路だけだわ。やはり、あの津路がしゃべったのかしら。いや、実際に手を下したのは津路だわ。その本人がしゃべるはずがない。いや、やっぱり私を脅迫しているのは津路かもしれない。あの男ならやりかねないことだわ。携帯が繋がらないのもおかしい。頭の中は堂々巡りで、混乱して訳が分からなくなった。
その夜、津路の方から電話が掛かって来た。
「どうしたのよ!何度も呼んでるのに!」
「すまん、すまん。九州の方まで行ってたんだ」
津路は長距離トラックの運転手だった。そんな遠いところまで行っていたのか。でも、携帯繋がらないはずないのにと思いながら、見ず知らずの女に脅迫されて五百万振り込んだことを話した。
「浅田の事を知っているのは私とあなただけよ。誰なのよ!あの女は?」
「なに言ってるんだ!知らないよ!俺が喋るわけないだろ。いいか、これは絶対に誰にも言ったらだめだぞ」と、念を押した後「それで五百万は払ったのか」と、訊いた。
「仕方がないから、払ったわよ」
「ふうん、こんど電話掛かってきたら、俺に知らせろ」といって電話を切った。どうも、怪しいなあ、と静子は思った。夫の保険金のことを、つい口が滑って、言ってしまったことがある。
夫の死亡時支払われた保険金と、会社勤めをしていた夫の退職金と合わせて、一億近い貯金がある。色男にうつつを抜かしていたら、文無しにされてしまう。それにしても、浅田は乱暴を働くような男に見えなかったのに、どうしてあんなに変身してしまったのだろう。静子は浅田に殴られた頬に手を当てて考え込んでいた。あの時、浅田は死んでなかった。座敷から庭に飛び降りて逃げたのかもわからない。二人が組んでやった狂言だとすれば、周到に計画された犯罪ではないのか。
それから後は、津路の携帯は不通になった。いくら掛けても
「ただいまお掛けになった電話番号は現在使われておりません。もう一度番号をお確かめのうえ……」バシッと電話を切ってため息をついた。一体何処へ行ったのだろう。自分だけ行方をくらまして、私を脅して金を巻き上げる。私がたまりかねて警察に訴えた時は外国に逃亡している。それとも、まさか殺されたということもないだろうと、いやな予感もしないでもなかった。
こうなったら、座敷の床下を掘り起こして調べてみようと思い始めた。
日曜日の朝、意を決して、スコップを持って座敷に向かった。静子は座敷の襖を開けて、手を合わせた。「南無阿弥陀仏」とお題目を唱える。座敷に入る前の儀式で、浅田を葬ってからずっと続いているのである。当初は毎晩恐怖に慄いていたが、そのうち慣れてきた。
重い畳を持ち上げて、釘がはずされたままになっている板を外す。薄暗い床下に目を凝らすと、土を掘った跡が見える。
静子はスコップを持ってきて掘り起こしにかかったが、二、三カ所スコップを入れると急に恐怖がわいてきて、スコップを放り出して二階に駆け上がって布団を被って寝てしまった。
一人ではとても出来ない。どうしよう。誰かに頼むわけにもいかないし。掘った跡があるということはやっぱり浅田が殺されて埋められているのか。静子は浅田の額から、流れ出ている血を思い出していた。
その夜、夢を見た。
床下を掘り起こすと、白骨化した死体が一体、二体、三体といくつも出てくるのである。そのうちの一体を持ち上げると、骨が外れてバラバラと落ちた。静子は「わぁ~!!」と声にならない悲鳴を上げる。ここで目が覚めた。
大きな息を何度も吐きだす。心臓が高鳴った。天井の一点を睨んだままなかなか眠れない。かといって、起き出す気力もない。
電話がなった。反射的に静子の体がピクンと痙攣した。
電話は恵美からだった。
「あ、恵美なの」
「なに、お母さんどうかしたの?」
早くも、恵美は母親の態度に何かを感じたようである。
「え、いや何でもないけど。恵美こそどうしたの?」
「ううん、今日ね、ちょっとお母さん所に行こうかと思って。まだ浅田さん見つからないの?」
「まだ分からないのよ。何処にいるのか」と言ってから、すぐに
「あ、そうね。今日は日曜日だったわね。いいわよ。いらっしゃいよ」
「じゃあね。お昼、食べるからね」
「はいはい」
「雅彦さんも一緒に行くからね」と恵美は付け加えた。
雅彦は恵美の夫である。
電話を切ってから静子は、さっき一瞬だが、脅迫の電話を掛けてきたのは恵美ではないかと思ったのである。結婚するとき、マンションを買いたいので、頭金を出してくれないかとせがまれた。もちろん、父親の保険金を当てにしてのことである。
静子は「まだ、早いわよ。もっとゆっくり探した方がいいわよ。マンションなんか値下がりしてるぐらいでしょう。一軒家にするか、じっくり考えた方がいいわよ」
「そうか、お母さんの面倒も見なくちゃいけないし、一軒家の方がいいかな」と、あっさり引き下がった。静子は、私のこと気にかけてくれているんだわ、と涙が出た。そんな恵美が、小細工をして脅迫なんかするわけがない。
第一恵美は浅田殺害のことなど何も知らないのである。
昼過ぎに恵美と雅彦が、一人息子の雅人を連れてやってきた。舌足らずの声で「おばあちゃん、おばあちゃん」とまとわりつく一歳の孫のお相手でおおわらわ。お昼は、手作りの料理で間に合わせたが、夕方になって、静子のおごりで焼き肉のバイキングに行って、恵美達は腹一杯食べて満足して帰って行った。この日だけは浅田のことはすっかり忘れていた。
案の定一ヶ月して、例の女から脅迫の電話がかかってきた。トーンの高い声の女だった。誰の声だろう。何処かで聞いたことがあるのではと思うが、どうにも思いつかない。やっぱり全然知らない女。でも向こうは私のことを知っている。
こんども五百万円要求してきた。静子は
「もう少し少なくしてくれない。今振り込め詐欺が多いので、調べられるのよ」
「あ、そう。百万でも二百万でも同じじゃないの。それならネットで振り込んでくれない」
「それは無理よ。パソコンのことは分からないわ」
「そう、それなら五十万円ずつITで振り込むのはどうかしら」
「五十万円ずつ十回に分けて振り込めばいいんですか」
「とにかく、一ヶ月の間に五百万円振り込んでくれればいいわよ」
「分かりました」と、力なく言うと
女は最後に、ドスのきいた声で「じゃあ、お願いね」といって電話を切った。
その明くる日、静子はITで、まず五十万円を振り込んだ。
その後、悔しくてむらむらと怒りがわいてきた。このままだと、亡くなった夫が残してくれた保険金を、全部振り込んでしまうことになるかもしれない。相手を突き止める方法がないものか。川村という名前を探す。無理だろう。珍しい名前ではない。ありふれた名前だ。日本全国に何百何万といるだろう。しかし、探して相手をどうすればいいのか。説得する。もうこらえてもらうように哀願する。それとも最後の手段で、相手に消えてもらう。ということは殺す。とんでもない。静子にはそんなことはできない。逆に殺されるかも分からない。その後、二回五十万円を振り込んだ。振り込む度に苛々が募って、眠れない夜が続いた。
更年期も伴って、とうとう寝込んでしまった。会社も解雇にならないうちに退職してしまった。
看病に来た恵美が、鬱病のようになっている静子を不審がる。
「どうしたのよ。あんな元気なお母さんが何か心配事でもあるんじゃないの?」と言った。
静子はいっそ恵美に話してしまった方がいいのではないかと思った。
「お母さんほんとはちょっと困ったことになってるのよ」
「なに、困ったことって?」
「脅迫されてるのよ」
「脅迫?」
「そうよ。もう七百五十万も振り込んだの」
「ええっ!なにそれ振り込め詐欺?」
「そうよ。そうなのよ」といいながら、静子の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。年甲斐もなく手の甲で目をこすりながら咳き込んで泣き出した。恵美はいささか狼狽しながら宥めにかかった。優しく背中をさすりながら
「どうして警察に言わないの」と訊き返えした。
「実は今まで隠してたんだけど、浅田は行方不明になったんじゃなくて
津路が殺して床下に埋めたのよ」
「ええ!!それほんとう!!」
恵美は目玉が飛び出るぐらい驚いたようである。
「ほんとうよ。ごめんなさい」といって静子はまた泣き始めて、後が続かない。
そしてあの夜の忌まわしい出来事を手短に話した。
恵美は驚愕して体が震え始めた。そして
「どうしてそんなことしたのよ。なぜ警察にすぐに知らせなかったの」と、泣きながら言った。
静子は本当に自分でもそう思うので、黙って聞くより他なかった。
恵美が鼻をちーんとかんでから、鼻詰まりした声で言った。
「だいたいあんなへんな男と付き合うからよ。それに、あれほど反対したのに、あんなにや付いたようなやさ男と同棲したりして。気持ち悪いったらありゃしない。少しは私や雅人のことも考えてよ」
「なによ。その言い方は」と、向きになった。軽蔑されたと思った。
二人は少しの間黙っていたが、ふと思いだしたように静子が言った。
「床下を掘り起こしてみれば分かるのよ」
「ええっ!掘り起こすの!?怖いわ!」と、恵美が吃驚して静子の顔を見る。
「何も出てくるわけないわよ。浅田は生きてるんだから」
静子が見たときは、浅田は確かに生きていた。それを津路は死んだと言い張ったのだ。
「でも、もし死んでたらどうするのよ」
「大丈夫だって。ほれ手伝いなさいよ」と、寝込んでいた静子がひょろひょろしながら立ち上がった。
「ええっ!もうマジで!?」と恵美が焦れる。
やれやれ、こんなガキが年取ったような女を母親に持ったばっかりに、娘は苦労するのよね、とぶつぶつ言っていると。服を着替えていた静子が
「うん、何か言った?」
「あぁ、いやなんでもない」
「じゃあ、スコップ取ってくるわね」と、静子は勢いよく部屋を出て行った。
恵美の方は、何で私がこんなことしなけりゃいけないのよ。と、ふにゃふにゃと崩れ込むように畳に座り込んだ。
物置からスコップを取ってきた静子が
「恵美、早く来てよ!」と階下から大声で呼ぶので、恵美は仕方なしに腰を上げた。
静子は長靴で、恵美は運動靴で床下に入った。クモの巣が顔に引っ掛かる。スコップは一つしかないので、交代で使うことにした。一人がスコップを使ってる間、園芸用の小さいシャベルで土を穿る。
「キャアァ!」と、悲鳴を上げて恵美が床の上に這い上がった。静子も何がおきたか分からないが、慌てて床の上に這い上がる。
暫くは、二人とも肩で息をしていたが「どうしたの!」と静子が恵美の顔を見た。
「ゴキブリよ。ゴキブリ」
「ゴキブリ。何よ、吃驚したじゃない。もう」
それから、静子は腹立ち紛れに、床下へ飛び込んで勢いよく掘り始めた。土が意外と軟らかいので、すぐに一メートルほどの穴が開いた。何も大きく掘る必要がなかった。昼前にはドラム缶ほどの穴が出来たが、何も出てこない。
静子と恵美はコンビニの弁当を食べながら、笑顔になっていた。
「なにもなかったわね。やっぱり死んでなかったのよ」
「あ~、でも、よかったあ。なにもなくて」と、恵美はほっとしている。静子も、今までの恐怖がいっぺんに取り除かれたような気がした。
「でも、これからどうしよう」
「どうしようって。脅迫犯のこと警察に訴えるのよ」
「でも、もしほんとに浅田が死んでいたら」
「まだ、そんなこと言ってるの。何もなかったじゃないの」
と、恵美が言った。
しかし静子は警察に訴えることをしぶっている。
津路が脅迫犯で警察に捕まることを恐れているのである。仮にも二年ほど肉体関係を持った男だ。津路が捕まったらどうしようと心配している。
恵美が「じゃあ、私立探偵に頼めばいいわ」といった。
「高いんじゃないの」
「しょうがないでしょう。警察に頼むのがいやなんだから」
「いずれは分かると思うんだけど」
「もうあの詐欺師、いや脅迫犯にお金渡したらだめよ」
「でも、渡さないと訴えられるでしょう」
「なぜなの。死体もなかったことだし、脅迫される何もないのに」
「あ、そうだね」さすが私の娘だわ、と静子は感心する。
「私、今から家に帰るわ。ネットで私立探偵探すのよ」
「ええ、そんなところに堂々と出ている私立探偵大丈夫なの」
「大丈夫、秘密は厳守しますって書いてあるわよ。シャワー浴びるわよ。床下であんなことさせられたので、汗臭いし気持ち悪くて」
といって、恵美はブラウスを半分脱ぎながらシャワー室に走り込んだ。
その夜のうちに恵美から電話があった。岡本私立探偵事務所に明日資料を持って恵美が頼みにいくという。事務所は新宿にあって有名なのだそうだ。静子は別に有名でなくてもいいと思ったが、「じゃあ、頼んで」と、あっさり任せた。
三日ほどして私立探偵事務所から電話があった。職員がご自宅までお伺いしますというのだ。依頼したのは恵美なのに、どうしてうちの方へと思っていると、相手が察したのか
「捜査の費用は浅田静子さんからということでしたので。よろしくお願いします」
「はい、分かりました。何時頃お見えになりますか」
「明日午前中、十時頃お伺いします」
「はい、ではお待ちしております」
静子は、依頼主の張本人は私なんだし、当然依頼費用も払うし、うちへ持ってきてもらって、捜査の結果をいろいろ聞きだせるからいいと思った。
明くる日、岡本探偵事務所の職員らしき若い男が来て、捜査費用の三十万円と引き替えに、捜査のデーターが入っているという分厚い封筒を置いていった。若い男は
「この中に調べたデーターが入っていますから。何か不足がございましたら、事務所の方までお電話下さい」などという。全く事務的な処理だ。
静子は半信半疑のまま封を切った。
何行にも渡って細かく書き込まれた浅田の略歴に目を通す。よくも三日間でこれほど調べたと、感心するぐらいだった。
生まれは茨城県**市となっている。あれ浅田はこの家で生まれたっていってたのに、おかしいわね。さらにずっと読んでいくうちに、ある欄に目が釘付けになった。内縁の妻確認。住所は小金市**番地スナックのママと書かれている。ええ、そんな馬鹿な、内縁の妻は私じゃなかったのか。別に女が居たなんて。それで、私とのセックスを避けていたわけだ。残業だなどと偽って女のところへ行ってたんだわ。静子は興奮のあまり荒い息を吐き出した。全然知らなかった。何と呑気なことか。しかも小金といえば三つ向こうの駅で、目と鼻の先ではないか。随分馬鹿にされたものだと、静子はむらむらと怒りがわいてきた。
恵美を電話で呼び出して報告する。
「恵美、大変なことが分かったのよ」
「何よ、大変なことって」
「女がいたのよ。スナックのママだって」
「おかあさん知らなかったの?」
「知らないよ」
「脳天気ね」
「なにが脳天気よ。これから行ってくるわ。小金なのよ」
「すぐ近くじゃないの。でもまだ開いてないでしょう」
「じゃあ夕方行くわ」
その後も、長々と恵美と話をして電話を切った。
スナックは駅から近いところにあった。ドアが閉まっていて、準備中と書かれた札がぶら下がっている。静子が近所を散策しながら、暫く待っていると背の高い痩せぎすの女がやってきてドアを開けた。準備中の札はひっくり返されて、いらっしゃいませに変わった。静子は、五分ほど待ってからスナックに入る。
「いらしゃいませ」さっきの背の高い女が弾んだ声で迎えた。女の顔を見たとたん、静子の闘志は萎えた。優しい細い目が屈託もなく笑っている。
「あのう、ビール下さい」
「今日は冷えますね。奥様どちらから?」
開店とほぼ同時に飛び込んできた客に、女は愛想良く振る舞う。女の名前は西村時子。調査書にそう書いてあった。
おつまみを差し出した時子の手の甲のシミが、年齢を感じさせる。浅田より年上かもと思いながら、浅田のことを切り出そうとしたとき、ドアが開いて若い女の子が入ってきた。「あら晴美ちゃん」と、時子は笑顔で迎えて、
こんどは、静子の方に笑顔を向けて「お客さん、この子うちの都晴美なんですよ。演歌が上手なの」と言って、カラオケの本とマイクを取り寄せ「一曲いかがです」と、本とマイクを差し出した。マイクを手に持たされると歌わないわけにもいかず、選曲して歌い始めた。
歌い終わると拍手が帰ってきたので、振り向いて見ると三人のサラリーマン風の男達が、低いテーブルを挟んで座っている。そのうちの一人が水割りのグラスを持って近づいてきた。
「お上手ですね。どうです、一杯」
その後、夜の更けるのも忘れて、調子に乗って歌い、水割りを自分でも注文して飲んだ。
静子は夕べの二日酔いがたたったのか、頭が重い。昼前になってやっと起床して、コーヒーを飲みながら、夕べは結局何しにいったのだろう。久しぶりにカラオケに行ったので、終電の電車の時間まで、歌って飲んで帰ってきたのだ。まったくもう、私としたことがと腹立たしくなる。あの女は脅迫犯には見えないが、浅田とはもう関係ないのだろうか。それとも…。
浅田が生きているとしたら、浅田を探し出して聞き出せば一番早いことなのだが。居場所が分からない。そうだ私立探偵に頼もう。
その夜、まだ頭の中でアルコールが回っているような状態だが、礼のスナックへ出かけていった。夕べと違って、スナックのママはまた来たのかというような訝しげな顔で迎えた。
「夕べ言いそびれてしまったんですけど。浅田浩一を知っていますか」今度はお定まりの挨拶の後すぐに切り出した。
時子は吃驚して、静子の顔を凝視するがすぐに下を向いて目のやり場に困っているようである。
「浅田を知ってますよね」問い返す。
「はい」
「浅田さんは何処に居るんですか」
「知りません」
「本当に知らないんですか」
時子は顔にしわを寄せて、いやなものでも見るように静子を見た。
「知らないんですよ。本当に、もう関係ありませんから」
いくら聞いても知らない、の一点張りだった。この女も、もしかして浅田に騙されたのではないかと思った。
それから、幾日か経って、不動産会社から電話が掛かってきた。
「実はお家賃の方、お振り込みが遅れているのですが」というのである。
「お家賃、ええっ、何のことでしょう?」
「奥様でいらっしゃいますか」やたら丁寧にいう。
「ま、まあそうですけど」
「お家賃が二ヶ月、遅れているんですけど」
「何処の家賃ですか」
相手は少し苛々してきたのか
「その家の家賃ですよ」
「ええ、この家借りてるんですか」
「ご存じなかったんですか」
「いつ頃借りたんですか」
「今年の二月からです」
「浅田が借りたのですか」
「はい」
「私、関係ございません」
「ええっ!奥様では?」
「違います」と、いって静子は電話を切った。
なんということか、家まで借りて、これは周到に仕組まれた罠だわ。恵美に電話をしてこのことを話した。
「だから、早く警察に知らせた方がいいって言ってるでしょう」
「ええ、お母さん警察に行くわ。それから、もうここには居られないから、恵美のところで当分居候させてよ」
「分かってるわよ。雅人と一緒だけど、大丈夫?」と恵美がいった。
「大丈夫よ。有り難う恵美」涙ぐみながら答えた。
静子は警察に行って今までのことをありのままに話した。
その明くる日、家に刑事が来て
「浅田は結婚詐欺の常習犯でしたよ」
「ええっ!そうだったのですか」予想はしていたものの、確実になると狼狽えてしまう。
「その電話を掛けてきた脅迫犯の女ですが、どうも浅田の女のようです。今取調中です。振り込まれたお金は返ってくるでしょう。今、捜査中ですけど」
「女って、あのスナックの?」静子は訊いた。
「スナック?いや、茨城の田舎で何もしてないですよ」
ああ、よかった、あのスナックの女じゃなかったんだわ…。静子はなぜか安心した。何年か前夫に先立たれて、歌が好きだったので、この商売を始めたのだと言っていた。とても犯罪の片棒を担ぐとは思われなかった。
「スナック?何処のスナックですか?それが、どうかしたんですか」
刑事が訊いてきた。
「いえ、ただ、スナックをしている人が内縁の妻だって、聞いたもんですから」
「浅田には、妻みたいなのが、いっぱいいるようです。なにしろ結婚詐欺ですから」と、刑事は硬い表情を崩してちょっと笑った。
「津路は一体何処へ行ったのでしょう?」
「津路は多分浅田とグルですよ」と、また厳しい顔で言った。
一週間後、刑事から津路が岡山で捕まったという連絡があった。その二日後浅田も茨城のさる田舎町で逮捕された。
時子のスナックに行ってみると、いらっしゃいませの札が出ていた。中に入ると、晴美ちゃんが、ちょうど演歌を披露しているところだった。
「いらっしゃいませ」と、時子がにこやかに迎えてくれた。
静子は新年を、恵美のマンションで迎えた。
雅人が「おばあちゃん」と舌足らずの声で言って走り寄ってくる。静子は抱き上げて、頬ずりしながら「はい、お年玉」と小さい袋を握らせた。