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君がかわいくて  作者: 有馬ササコ
3/5

覚悟を決める


        3.


「瀬良さん、髪切ったんですけど、どうですか?」

 ぼっさぼっさだった髪が綺麗に整えられて、目に入りそうだった前髪がこざっぱりと切られている。

 なにより、髪を切って、恥ずかしそうに、瀬良に感想を求めてるのが可愛い。

 春日井は肌寒い季節らしく、少し厚手のネイビーのジップパーカに、中はボーダの長袖のTシャツ、ボトムは色の黒っぽいカーゴパンツ。小柄な身体に少しダボっと着ているのが可愛らしく、切った髪型によく似合っている。

 諦めないと言ってから、春日井は女の子のような可愛い格好をするわけではないが、瀬良のことを意識しているなと思えるような歳相応のおしゃれな服を少しは着るようになった。年にしてはまともな格好をしているつもりだが、適当に着ている瀬良の方が気後れしそうだ。

「ホントですかっ、よかった」

「服も、似合ってる」

「あ、はいっ! ありがとうございますっ」

 恋をすると変わるというが、こんなに変わるとは思いもしなかった。

 いや、顔が変わったわけでも、背格好が変わったわけでもない。

 瀬良に気に入られようと、少しでも好きになってもらおうと、努力している感じが今までとぜんぜん違う。目もキラキラさせて、褒めると喜び、今まで以上に屈託のない笑顔で瀬良を見上げる。

 その姿があまりにも可愛く、健気で、綺麗に見える。


 イカン…このままじゃ、他の女に盗られてしまう。


 目立たない子だし、地味な子だけれども、決して、顔が悪いわけでも、見栄えが悪いわけでもない。

 共学なのだからこの良さに気づく女の子がいないとも限らない。

 自分もそれなりの格好をしていないと、愛想をつかされてしまいそうだ。

「それで、ファッション誌などを読んでいるわけですね」

 移動の車の中でコンビニで買ってきたらしき、中年男性向けのファッション誌を必死で見ている瀬良を新田は呆れたように見つめる。

「悪いか、移動時間ぐらいいいじゃないかっ、暇がないんだ」

 やや、瀬良には派手とも思えるようなイタリアブランド、モノトーンのコーディネートですら、少々、奇抜にさえ感じる。

 春日井の好みはこういう服なのだろうか、それとも、もっと渋い方がいいのだろうか。

 似合っていれば、春日井なら何でも許してくれそうな気がする、しかし、瀬良自身、どれを着たら似合うものなのか、さっぱり判らない。

「……そんなの読んでも、参考になりませんよ」

 新田はため息混じりに、その雑誌を覗き見た後、目をそらした。

「そうなのか?」

「こういう時は…」

 新田は瀬良のスマホを取り上げると『四十代男、ファッション、コーディネート』で検索をかける。

「どれがいいです?」

 瀬良のスマホの設定もアプリも新田がやっているので、本人よりもうまく使いこなす。

 指で軽く画面を動かし、新田は二つの画像を瀬良に見せた。

「ん?」

 一つは紺色のカーディガンに白いシャツ、麻色のチノパンを着たナチュラルな感じの男と、もうひとつは、真逆に薄い臙脂か、茶ぐらいのジャケットに、黒っぽいシャツ、グレイの細身のパンツを身につけた、少し小洒落た感じの男だ。手元のファッション誌よりもだいぶとカッコよさは落ちる。けれども、これなら瀬良でも十分気負うことなく着れそうだ。

「どの格好がいいように見えます?」

「これ…かな」

 最初のは瀬良にとってはあまり代わり映えのない格好に見えた。

 スーツをよく着ているせいか、外出着となると、ジャケットを着なければならないような思いから、瀬良は二つ目の暖色系のコーディネートを指差した。

「サイズはMでよろしいですよね。じゃ、これをクリックと…明日か、明後日には、会社に届くでしょう」

「ん? もう、買ったのか!?」

 今の少しの時間で何が起こったのか、瀬良は動揺が隠せない。

「ええ、どうせ、社長のことですから、迷って、わけがわからなくなってやめてしまうでしょう? 雑誌に載ってるのなんて、店を探して、買いに行く手間を考えるなら、それほど知られていないブランドでもこっちのほうが早い。新品のものをハンガーにかけておいたら、皺もそこそこ伸びて、週末には間に合いますよ。ただ、靴だけは合うものじゃないと困るので、家にあるもので間に合わせてください」

 男の服などよほど奇抜なものでない限りサイズも似たり寄ったりではあるし、中肉中背の平均的な体型の瀬良はMかLなら問題なく着こなすことができる。

「…お前も、こうやって、選んでいるのか?」

 あまりにもあっけなさ過ぎて、びっくりする。

「そう…ですね。みっともない格好は見せられませんから」

 誰に? と、聞きかけたが、瀬良は口をつぐんだ。

 新田にもプライバシーはあるし、仕事中におくびにも出さないが、付き合っている相手がいてもおかしくない年だ。

「そうか、ありがとう…」

 やや強引ではあるがそう値の張るものではなく、無難であったし、文句はない。

 むしろ、瀬良の性格から言って、この服全部を買うためにかなり無駄を踏みそうだ。

「いえいえ、みっともない格好で、春日井君が幻滅してくれると、ありがたいんですけどね。それはそれで春日井君が可哀想なので」

 口は減らない。

 新田は窓の外を見ている。

 ほっそりとした首筋にそうそう日に焼けることのないきめ細やかで白い肌、ニキビもそばかすもなく、一種ロシア系でも入っているのかと思うような彫りの深い顔立ちをしていて、春日井と比べて、美形というなら、新田の方が言うまでもなく、美形だ。

 ツンとした気の強そうな美人、多分、女性ならば瀬良の好みにぴったりだ。

「何か?」

 まじまじと見ていた視線に気づいたのか、眼鏡の奥の瞳が細められ、新田は瀬良へ視線を寄越す。

「いや、歳とともに好みは変わるものだなと思ってな」

「変な目で見ないでください」

「私が変な目で見るのは、春日井君だけだよ」

「それ、犯罪ですから」

 冷ややかな新田の言葉が、瀬良に突き刺さった。



 待ち合わせ場所に選んだ服を身につけていくと、春日井は少し驚き、そして、微笑んだ。

「おかしくないかい?」

 着慣れないものだけに、少しこの着方でいいのか悩む。

 まぁ、モデル通りに着こなせるほど、瀬良は肩幅も広くないし、長身でもない。

「いいえ、似合ってますっ」

 しかし、そう言って、春日井が喜ぶなら、新田に礼を言わねばならないと思う程度には嬉しいものだ。

「春日井君も、似合っているよ」

 今日は紺のジップパーカーは変わりないが、麻っぽいボタンダウンのシャツに、パーカーよりも色の濃いジーパンだ。学生らしい清潔感のある服装は好感が持てる。

「ありがとうございますっ」

「じゃあ、行こうか」

 段々、本当に行くところがなくなってきたので、本日はアメリカから初上陸とかいうドーナッツ店だ。

 半年前ぐらいにはできていたけれども、かなりな評判らしく、まだまだ並ばないと買うことができないそうだが、テイクアウトのみなので割とすんなり進んで買えるだろうと、新田は口コミサイトを見ながら、瀬良に教えてくれた。

「三つに分けてもらったほうがいいかな。春日井君のお母さんと、ウチの芳樹と…あと、公園で二人で食べる分と…」

 最寄りの駅から降りて、歩きながら、瀬良はそう言い、指を立てながら、春日井に話しかけると、

「は、はいっ!」

 妙に落ち着きがなく、瀬良の言葉に春日井はびくっと身体を震わせた。

 春日井は店へ向かって、歩き出すと、挙動不審になり始めた。

 初めて会った時よりも明らかに緊張している。

 服のせいだろうか? それとも、なにかあったのか?

「いくつ食べるかい? なんか、ふわふわしてて、軽いドーナッツなんだそうだよ。私は二つは食べれそうだ」

 最近、春日井の甘党に付き合っているので、それなりに洋菓子も食べるようになった。

「……じゃ、俺……三つぐらいは……食べようかな」

「色々味があるそうだから、味見がしたいなら、二人で分けてもいい。楽しみだね」

「そ、う…ですね」


 もしかしたら、人が多いのが苦手なのだろうか?


 初上陸などと言っているだけあり、若者向けの人通りの多い場所に店があるので、いつも行く場所よりは混雑している。しかし、イルミネーションの時は、人が多くても平気そうではあったし…もしかしたら、今日は具合でも悪いのだろうか、無理をしているのならやめさせたい。

 瀬良は眉を寄せて、口を開きかけ、


 ん?


 瀬良のぶらぶらとさせていた春日井側の手に手が触れた。

「………」

 瀬良がピタリと足を止めると、ぎゅっと、手が握りしめられる。

「春日井君?」

「は、はいっ!」

 立ち止まった二人を人がゆっくりと避けていく。

 邪魔なはずだが誰も文句は言わないし、まるで、池の鯉が優雅に岩を避けていくのに似ていた。

 しっかりとした男の手…いや、男の子の手だ。

 瀬良は手を振りほどきもせず、そう、思った。

 少し荒れ気味の手が汗ばんで、なのに、妙に冷えきっていて、震えている。

 なにげなく、隣の春日井を見ると、そう見下ろしているつもりもないのにつむじしか見えない。

 よくよく見ると、風もないのに…髪の先がぷるぷると小刻みに震えている。

 今日はドーナッツ目当てでも、瀬良と遊ぶのが目的でもなかったらしい。

 まいったな…と、瀬良は心の中で呟いた。

 男同士ということもあって、距離を図りつつ、けれども、瀬良の懐に入りたくて、近寄りたくて、好かれたくて、健気なまでに、一つづつ、少しづつ好かれようと頑張っている。

 こういう春日井が瀬良は好きだ。

 無性に抱きしめたくなるほどに好きだ。

 新田はなんと言うだろう。

 芳樹は怒るだろうか。

「もう、負けたよ」

 瀬良はため息にも似た息を吐いた。

「はい……?」

 春日井が瀬良を見上げる。

「君は可愛すぎる。だから、付き合おう」

 手を握り返して、逆の手で春日井の頭を撫でた。

 春日井の力のこもっていた手が離れて、目が見開かれた。

「けど、本当におじさんだからね。がっかりしないでくれよ? 穂」

 肩を抱き寄せて、耳元で囁くと、春日井は今度は肩をぷるぷると震わせて、瀬良の腕に抱きついた。



「身の程を弁えてください」

 社長室のデスクに向かって、新田はそう言い放つ。

「いくつだと思ってるんです」

 二言目は瀬良の予想通り、性別ではなく、春日井の歳のことだった。

「後、半年も待ったら、春日井君は十八歳になる」

 十八歳になってしまえば、割となんでも自由はきくようになる。

「貴方が半年も我慢できるとは思わない」

「我慢するよ。というか、私が男に手が出せるかどうかの方がさっぱり判らんよ」

 春日井は可愛いが、軽いキスや手をつなぐのは平気でも、それ以上となると出来るかどうかも判らないし、まだしたいとも思わない。

「春日井君のお母さんにはどう言うんです」

 自転車の一件だけでなく、それ以後も一緒に遊んでいるなど、母親は知っているのだろうか?

 知っていたとしても、信用していた友人の親とのお付き合いなど、どう思うだろう?

「もしものときは、老後の面倒はみる」

 そういう問題じゃないと、新田の目が言っている。

 瀬良だって、そんなことぐらい薄々は感じている。誰だって、こんなおじさんに息子を奪われたりでもしたら、即座に警察に駆け込みたくもなるだろう。

「判ってる、判ってる。けど、な」

「貴方は全然判っていない。わざわざ、社会的制裁を確実に受けるような相手を選ぼうとしてるんですよ?」

 相手は男で、未成年で、しかも、息子の友達。

 真剣に付き合っていたとしても、身内からも、他人からも、バレたら白い目で見られるどころでは済まない。

「お前は社会的制裁を受けないから、好きな相手を選ぶのか?」

 ただ恋をしたければ、無難な相手を選ぶ。

 そんな思春期のような、可愛らしい感情などとうにない。

 何か楽しいことはないかと思っていたが、恋がしたかったわけではない。

 恋愛の酸いも甘いも知っているし、ドロドロとした面倒くさいところだって知っている。

 妻と離婚し、息子が一人。仕事をしながら、ただただ、このまま、老いていくと思っていた。

 もう好き好んでそんなところへ自分から足を踏み入れようなんて、思いもしなかった。


 そう、思っていたのに…目の前に落っこちて来たんだから、仕方がないじゃないか。


「社長…」

 新田は一瞬、目を見開いた。

 目を見開いて、大きなため息を付いて、目をそらした。

「未成年云々というなら、それを超えるまでは我慢する。そもそも、男同士でどうこうできるかも自分でも不思議だしな。男ということに関しては、堂々とは出来ないが、若いころの女遊びのような真似だけはしない。春日井君一人だけだ。私も四十だし、いつ死ぬかもわからないから、犯罪を犯さない限り、好きにすることに決めた」

 腹はくくった。

 春日井がもういらないというまで、付き合うことに決めた。

「判りました。十八歳になる前に手を出したら、私がすぐ通報します。それでいいですね」

「……」

「いいですね?」

「はい…」

 その場で正座させられて、叱られているような気分を味わいながら、瀬良はそう返事をした。


        ◆


「年末年始に郵便局のバイトしてて、それを母さんに渡そうと思ったんですけど」

 チェーン系のコーヒーショップの窓際、ガラス張りの壁際の席で二人並んで飲み物を飲んでいると、春日井は恥ずかしそうに瀬良に話し始めた。

 年末年始は忙しく、瀬良も会えないと言っていたら、春日井は学校で許可されているアルバイトに専念していたようだ。

「母さんが自分で働いたお金だから、自分のことに使いなさいって、受け取ってくれなくて」

 普通の親だったら、そう言うだろう。

 もしくは『貯金しておきなさい』だ。

「それで、ですね…夏に……よかったら、瀬良さんと…近くでいいから、旅行できたらなって思って」

「夏…って、受験だろう? 大丈夫かい?」

 春日井が話しているのを愛でるように見ていた瀬良は口を開いた。

 確か、塾に通っていたぐらいだから、どこか受験するものだろうと、瀬良は思っていたが、

「俺、大学進学から専門学校に変更したんで、全然平気なんです。だから、瀬良さん…次第で…」

 春日井はのんびりとそう答えた。

「それぐらいなら、私が出すよ? 専門学校といえど、大学並みに金はかかるだろう。きちんと取っておきなさい」

 旅行なんて、本当に十数年行っていない。

 一応会社を経営しているのだし、それなりの報酬は頂いている。

 大体、芳樹の学費ぐらいにしか金はかかっていないので、すでに老後の蓄えまで出来ているぐらいだ。

「いえっ! いつもしてもらってばかりだからっ、せめて、俺がっ、温泉でもどうですか!」

「ん~~~しかしねぇ…」

 瀬良として、気持ちは嬉しいが、複雑だ。

 出来れば、春日井の母親と同じく、好きなことに使って欲しいのが心情だ。

「じゃあ、わ、割り勘で! お願いしますっ」

 春日井の押しの強さというより、必死さに瀬良は頷いた。



「温泉……行って、どうするんです?」

 それをきいた新田は呆れた顔をして、瀬良を見つめた。

「いや、のんびりと…だねぇ」

 有名な温泉地でなく、温泉が出ていて、ゆっくりできるところならそれでいい。

 二人きりで泊まるなんて初めてだし、誰にも邪魔されない環境で和やかに過ごすのは魅力的だ。

「思いっきり、社長に合わせてますよね。どうせなら、遊園地とか、テーマパークとかにしたらどうですか? 一日一緒にいて話すことなくなった時に気まずくありませんか?」

 新田はそれを聞き、眉を寄せる。

「気まずくなるかな?」

 春日井との会話に困ったことはないし、黙っていても、別に気まずくなったこともない。

「温泉旅館で二人きり、夜にどうするんです? テーマパークで子供みたいにはしゃいで、夜まで遊んで、疲れて、ホテルで疲れて寝てしまった方が安全じゃないですか? 春日井君だって、泊まりで、期待しちゃってると思いますよ」

「期待…?」

「男同士とはいえ、付き合ってる二人がですよ。温泉でのんびりすごして、夜になにもないなんてありえないでしょう?」

「そ、そうか…?」

「そうです」

 新田はそう言い切った。

 言われてみれば、春日井からキスをされたり、手をつないだり…ということがあったのだから、それ以上を旅行で期待されてもいても、おかしくはない。

 夜に畳の部屋で二人きり、布団を並べて寝ていて、瀬良の布団に春日井が入ってきたら…それはもう、言うまでもないだろう。

「しかし、春日井君は必死ですねぇ~男前で、落ち着いた大人の男で、自分よりも経験もかなり上な…社長が大好きなんですね。射止めたいし、長く付き合いたいと思っている。それには大人な付き合いも必要だと思ってる…蓋を開けたら、ただの冴えない、未成年者に夢中な変態男なのに」

 新田に言わせたら、そんな価値も瀬良にはないのだろう。

「もう少しソフトに言ってくれ」

「これでもかなりソフトなつもりです」

 確かに、同性ではあるけれども、恋人同士だから、そういうことになるというのは自然なことだ。

 特に泊まりということになれば、身構えることも当然だし、期待するのも仕方ない。

 それを気安く、息子との旅行ぐらいの気持ちでオッケーしてしまった瀬良はかなりの鈍感だ。

「温泉はまずいかな」

「まずいですね…」

 瀬良は即座に変更を考え、旅行社にテーマパークのツアーカタログを取り寄せ始めた。



「…ディズニー○ンド、ですか」

 カタログを手にして、春日井は戸惑いを見せた。

「ああ、そうだ! 他のテーマパークでもいい。夏休みらしく、遊べるところに行こう」

 こういうことがは早い方がいいと、学校が終わる夕方の会社に呼び出し、高校生が喜びそうなプランを差し出した。瀬良はできるだけ自然に言っては見たものの、妙に力が入っていて、不自然極まりない。焦りがバレそうだ。

「休みぐらい、ゆっくりしたほうが…よくないですか?」

 瀬良の押し付けるようなテンションに、ますます、春日井は不安げに顔を歪めた。

「そんなことはないっ、温泉でだらだらするのもいいが、一度、思いっきり遊んでみたかったんだ」

 息子をこんなところへ連れてったこともないから、勝手も判らない。

 判らないが判らないなりに、判ったこともある。

 ホテルとチケットのセットはかなりお得ということだ。

 夏の繁盛期であっても、オフィシャルのホテルでなければ、ほぼ、ホテルの宿泊料だけでチケットがついてくる。これなら、割り勘にしても、バイト代だけで十分遊べるだろうし、春日井は辛くはないだろう。

「判りましたっ、パックなら、近くのホテルだろうし、疲れたら休みに戻れるからいいですね。選んでおきます」

 春日井はそう言って、カタログの束をバックにしまった。

「では、私が玄関までお送りしましょう」

 新田は安心したらしく、春日井をドアの方へ促す。

「あ、はいっ」

 新田と春日井の背中を見送りながら、瀬良はホッとした。

 少し不審な顔をしたものの、一応納得はしてくれたようだし、これでなんとか健全な旅行ということになりそうだ。


 同い年…だったら、いや、せめて、二つ、三つぐらいの差だったら…


 それぐらいの歳の差だったら、自分が大学生ぐらいだったら、きっと、春日井の気持ちを喜んで受け止めただろうし、昼も夜も忘れられないような時間を過ごしただろう。けれども、自分は社会人になって、もう、いろいろと臆病だ。

 特に新田に言われた通り、手を出したら、犯罪者になってしまう。

 しかし、逆に考えると、あの出会いができたのも、春日井と一緒にいられるというのも、今の歳で今の地位だからというのもある。

「良し悪しだなぁ…」

 ポジティブにとらえるか、ネガティブにとらえるか、悩ましいところだ。

 そうやって、瀬良がひと通り考えて、ため息を付いていると、新田が戻ってきた。

「どうした…?」

 新田らしくもなく、眼が潤んでいる。

「いえ、その…知らぬうちに、私も汚れていたようで…」

「はぁ!?」

 エレベーターに乗ると、

『本当に、テーマパークでいいんでしょうか…夏は暑いし、日差しも強くて…』

 春日井は新田にこぼした。

『社長が行きたいと言うのだから、いいんじゃないですか?』

 さすがに、自分が入れ知恵したとは言えず、新田はそう誤魔化した。

『僕はどこでもうれしいんだけど、瀬良さん、いつも、俺の好きなトコとか、俺が遊べるトコとか、そういうところばっかりだから、たまには休めたり、ゆっくりさせてあげたくて…芳樹とも、やっぱり、うまくいってないみたいだし、いつも寂しそうだから、芳樹の代わりになって、親孝行っぽいことをしてあげたかったんですけど、テーマパークなんて…逆に気を使わせてしまったような気がして……』

 春日井は伏し目がちで、心配そうに悲しそうに呟いた。

 関係を進行させたいとか、一晩一緒に過ごしたいとか、そういうことではなく、純粋に瀬良のことを考えていたと思うと、新田はいろんな意味で胸がいっぱいになったのだそうだ。

「穴があったら入りたかったです…私、汚れて…ましたね。社長レベルで物事考えていました」

 新田は瀬良に一言突き刺すのは忘れない。

「というか、春日井君は……本当に、いい子だろう…」

 汚れた大人の考えで深読みした挙句に、こんなことを聞かされると、思わず目頭が熱くなる。

「なんで、こんないい子が…」

 その先の言葉は言うまでもない。

「もう、夏は春日井君が選んだテーマパークで遊ぶ。身を粉にして、遊ぶぞ。新田っ」

「歳なので、程々にして下さい」

 よもやまさか、いい大人二人がこんなところで自分の言動でホロリとしているなど、春日井は思いもしないだろう。


        ◆


 目の前に大きな真っ白なベッドがあった。

 どこかのホテルのベットのように、ピンっと糊をきかせたシーツらしく、人が乗ると、放射状に皺が寄る。


 穂…


 咄嗟に瀬良はそう思った。

 XLぐらいの洗いざらしのシャツ一枚を身につけて、まるで猫のように、四つん這いになりながら、ベッドを軋ませ、ゆっくりと登っていく。

「瀬良さん…」

 ベッドの真ん中で仰向けに寝転がり、春日井は甘えるような声で名前を呼んだ。

 鎖骨が見えるほどにボタンを外し、程よく日に焼けた足がそのシャツの裾から伸びて、瀬良を誘う。

 ほっそりとした腕もいい、折り曲げた袖から、二の腕の柔肌がちらちらと見え隠れして、吸い付いたら柔らかそうだ。動くたびに気になる。

「瀬良さん…」

 ゆっくりとうつ伏せになったり、仰向けになったりしながら、けれども、絶対に瀬良から視線を逸らさない。うっとりとした、蕩けるような目で瀬良をじっと見つめる。

 女性のように誘うさまなど、春日井には絶対にしない。

 絶対にしない、似合わないと思うのに、目が離せない。

 太ももが見えそうで見えないシャツの裾から、目が離せず、瀬良はごくりと喉を鳴らした。

 本当にこういう時に喉は鳴るものなのだと、知り、それに驚く。

 春日井のこんな姿に喉を鳴らすことに、瀬良は二度びっくりさせられる。

「こういうの…嫌い、ですか?」

 ベッドの上に両膝を抱えて座り込み、小首を傾げて、こちらを見つめる。

 桜色の足の爪、爪先をクロスさせるようにして、きゅっとしまった足首が見え、裾からは張りのある太ももが覗く。肝心な部分はシャツの裾と筋ばった手で隠されていて、見ることは出来ないが、瀬良には十分官能的で、刺激的な格好に見えた。



「………」

 ベッドから飛び起きて、瀬良は真っ先に洗面所へ向かった。

 瀬良は洗面所に備え付けられている全自動洗濯機に、パジャマのズボンとパンツを無言で叩き込み、震える指でスイッチを押す。

 洗面所の鏡で顔を見ると、ぐっすり寝たはずなのに、目が死んでいる。

 乱暴に顔を洗い、また、自分の顔を見てみた。

 やはり、目が死んでいる。

 朝起ちは普通に起きる。

 男の生理現象だし、まだまだ、それについては瀬良も枯れていない。

 しかし、


 芳樹じゃあるまいし、この歳で夢精はないだろう…


 しかも、グラマラスな女性でもなく、スレンダーなボディの美少女でもなく、春日井だ。

 可愛いから、誰にも盗られたくないからと、付き合う事にはなったが、性的な欲に関しては全くないと思っていた。むしろ、どうしたらいいものかと、頭を悩ませていたというのに、身体は容易くも正直に反応してくれた。

「まいったな…」

 こんな状況で二人きりの旅行をして、春日井に手を出さないことができるだろうか?

 新田に通報されるよりも、春日井に手を出してしまって、春日井に泣かれでもしたらどうしよう。

 いろいろと大問題だ。

「オヤジ、なにしてんだ?」

 背後から芳樹に声をかけられて、瀬良はびくっと身体を震わせた。

「あ、いや、その…珈琲こぼしてなっ」

 匂いでバレないかと、思わず目が泳ぐ。

「そっか、つけ置きした方がいいぞ。智子さんがそう言っていた」

 芳樹はハウスキーパーの名前を出しながら、瀬良を押しのけるように、洗面所に立った。


 そういや、芳樹もいたんだ。


「なぁ、マジで、穂のオンナ知らねぇ? 教えねぇんだよ。ぜってぇ~人妻とかだったら、俺、許さねぇ」

 顔を洗い終えると、寝ぼけた、けれど、寝起きの悪いひっどい顔で、顔を拭きながら、芳樹はそうぼやいた。

 子持ちの…目の前にいるオヤジです。とも、言えず、瀬良は立ち尽くすしかない。


 バレたら、殺される…


 キスされたなんて、言っただけで最低でも殴られそうだ。

「だ、だから、私に言ってどうするんだ……連絡もとってないんだからな…」

 春日井のことをかなり気にかけていて、まるで、保護者のようだ。

 朝から苦々しく、そんなことをこぼすぐらいだから、相当、頭に来ているのだろう。

「新田さん…知らねぇかな…」

 唸るような低い声は…まるで、猛獣の唸り声だ。

「ああ、き、きいてみる」

 心底、自分の息子に怯えながら、瀬良は返事をするしかなかった。



「それで?」

 朝一番、社長室で、新田の声が響く。

 立場上、どちらが上なのかも判らなくなるような口ぶりと、声のトーン…悲しいかな、瀬良は新田の冷ややかな目には慣れてしまった。

「旅行に…ついてきて欲しい。私が変なことをしそうになったら、止めて欲しい」

「春日井君にはどう言うんです」

 二人きりの楽しい旅行に秘書が同行とはいかがなものか。

 新婚旅行に母親がついてくるより、恥ずかしくはないだろうか。

 そんなことは、瀬良も百も承知だ。

「春日井君は仕事のことはよく知らないから、その…会社との連絡役とか、適当に…理由をつけてだな」

 ぼそぼそと瀬良が申し訳なさそうにつぶやくと、

「まぁ、いいですよ。全部、社長持ちなら、有給休暇も公然と消化できるし、万々歳です」

 新田はさらりとそう承諾した。

 聞き分けがいいのは、乗りかかった船だからか、それとも、春日井が絡んでいるからか…どちらにせよ、瀬良にとってみたら、ありがたい話だ。

「そんなに…春日井君は可愛いんですか?」

 瀬良がほっとしていると、新田はそう言葉を続けた。

「可愛いよ。お前も知ってるじゃないか、真面目で、芯が強くて、案外、強情だ」

 流されているように見えて、そうでもない。

 気が弱そうに見えて、実はそうでもない。

 強情で、強引なところもあって、小ずるくもあり、ウソも付く。

「そういうのが男心をそそるんですかね」

 新田が小さくため息をついたように、瀬良には見えた。

「どうかしたのか?」

 面白くなさそうな、子供っぽい表情など初めて見る。

「いえ、一緒に休みを取るなら、スケジュールを調整しないと、夏になんとか空けますね。春日井君の予定もきいておいて下さい」

 新田はつまらなさそうだったが別に怒ることもなく、けなすこともなく、今日の予定について話し始めた。


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