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君がかわいくて  作者: 有馬ササコ
1/5

よその子は可愛い

 やってしまった…


 瀬良は自分のベッドで、すやすやと、気持ちよさそうに眠る少年を見ながら、そう思った。

「社長っ!」

 そんなことを考えていると、ドタドタと、階段を駆け上がる音が聞こえて、遠慮なくドアが開く。

「なにやったんですっ!」

 瀬良の秘書である新田がらしくもなく、声を荒らげた。

 叫ばれても、仕方がない。

 相手は未成年、しかも、息子の友人だ。

「いや、私もまさか、こんなことになるとは…」

「社長!?」

 瀬良は眉間にシワを寄せ、苦悶の表情を浮かべた。



       1.


 冬が来たかと思うと、春が来て、夏が来て、秋が来て、気がつけば、目まぐるしく一年が終わる。

 そんな日々をただただ車で移動したり、社長室で書類を眺めたりして過ごしていた。

 二代目社長として会社を継ぎ、二十代で結婚と離婚を経験し、妻が残して行った一人息子は妻にあることないことを吹きこまれたせいで自分に懐いてはいない。高校に入ってからは、自分の身長を越え、元々可愛らしくなかったのに拍車がかかり、一緒に暮らしているのに会話もなく…家族らしい家族もいない。

 きっと、このまま…息子に見下されながら、老いて行くのだろうなと思っていた。

 仕事は嫌いではない。

 会社を動かすのは楽しい。

 やりがいもあるし、不満はない。

 けれど、それはプライベートの充実とは違う。

 そう分けて考えてみると、ちょっとばかり寂しくなる。

 しかし、かといって、若い頃のように夜な夜な女性を漁ったり、もしくは、真面目に二度目の結婚を考えたり…そういう精力的なことはもう面倒だし、したくもない。酷く消極的に、けれど、なにか楽しいことないだろうか~などと受動的に考えてしまう。


 年…かな。


 車の後部座席で何気なく、やや白髪の混じりかけた運転手の後頭部を見ながら、そんなことを考え、瀬良忠則はため息を付いた。

 老けているでなく、若くも見られず、歳相応の四十一歳。

 仕事柄、身奇麗にしている必要があるので同世代の平均を取ると、割と身なりも容貌も良いほうだろう。若い頃はすっきりとした顔立ちで男前と言われたが、今は優しそうな顔立ちと言われていて、この前、取引先の娘さんからは『素敵なおじさまって感じ』と言われたぐらいだ。

「社長、よろしいでしょうか?」

 助手席に座っていた新田の座席を今にも立ち上がりそうな、慌てた声に瀬良は我に返った。

 新田は二十代後半ながら、瀬良の秘書で瀬良のスケジュール管理が上手い男だ。

 神経質そうな眼鏡が似合い、綺麗な顔立ちで女子社員の人気もある。しかし、あまり、年の割に動揺することが少ないのでその様子は少し珍しい。

「どうした?」

 新田の視線の方向へ目をやるが歩道に行き交う人が多く、何を気にしているのかも判らない。

「車を止めてもよろしいでしょうか?」

「ん?」

 運転手もよっぽどのことと思ったらしく、瀬良にも断らず、車道の脇へと車を寄せた。

「春日井君が…」

「誰だ?」

「芳樹さんの…お友達です」

 瀬良の息子の名前を出しながら、新田はそう言い、車を降りた。



「春日井君、どうかしましたか?」

 しゃがみこんだまま、自転車を呆然と見つめている少年に新田は声をかけた。

 息子と同じ制服、新田が知っているということは…芳樹の同級生だろうか? 

 それにしても、これだけ人が歩いている歩道で、よくまぁ、新田は見つけられたものだ。

「新田さん…あ、その、チェーンが……」

「ああ、切れてますね」

 新田が知っているぐらいだから、よほど、仲の良い友達なのだろうと瀬良は思う。

 そもそも、父親たる自分が知らなくて、新田が知っているというのも、不思議な話だなと、苦笑しつつ、瀬良はその様子を眺めた。

「…どうしよう…」

 小さく掠れた声で瞳をぷるぷるさせている。

「急ぎの用事でも?」

 新田がその子の顔を覗きこんだ。

「塾に…けど、連絡すれば休めるから…」

 そうボソボソと呟く割に、最後に唇をかみしめて、残念そうだ。

『サボるなら、ちょうどいい口実』

 きっと、瀬良の息子なら平然とそう言って、サボるだろう。こんな風な顔をするということは、真面目に自分から通っているということだ。

「それはいけないな」

 二人の会話に車から降りて、割り込んだ瀬良に驚いた様子で彼は顔を上げた。

 顔つきは至って普通…いや、息子と比べて、やや、幼気な顔立ちで…というのも、いつも、生意気な感じで睨む顔しか見たことがないものだから、そう思うのかもしれない。

 とにかく、多分普通の高校生らしい、青年というより少年な彼だった。

「芳樹さんのお父様です」

 新田が軽く紹介すると、

「初めましてっ! 春日井穂(みのり)です」

 その彼はきちんと立ち上がって、新人の営業マンのような硬い様子で頭を下げた。

 体育会系の部にでもはいっているのだろうか? きっちりとした挨拶をする子だ。

「塾まで送ろう。新田、自転車を頼む」

 瀬良がそう指示を出すと、躊躇うことなく、新田はどこかへ連絡を入れ始めた。

 新田は行動力のある男で、何事も素早い。

「え、あ、でも…」

 そのスピードの早さについていけないらしく、彼は右往左往しながら、カバンを握りしめた。

「車に乗りなさい、間に合わないんだろう?」

 瀬良は有無を言わさず、肩を抱いて、後部座席へと押し入れた。

 ここから自転車がなければ間に合わないようなところなら、もたもたしていては遅刻してしまう。すったもんだしている暇はない。

「ありがとう、ございます…」

「場所はどこだい?」

「え、あ、あの……そこを……」

 彼が場所を教えると、車がゆっくりと走りだし、外で新田が自転車を支えながら、まだ何かしら電話をしているのが見えた。

 それを心配そうに見送った後、彼は俯きがちにまたカバンを抱きしめるようにして、俯いた。

 友達の父親、しかも、初対面となれば、緊張もするだろう。

「帰りまでに修理は厳しいだろうし、自転車は自宅の方へ送ってもらうようにして、帰りも家まで新田にでも送らせよう」

 塾が何時までやっているかは判らないが、講座から考えて、長くても一時間ちょっと。そう考えると、自転車を自転車屋まで運び、修理してもらうにはギリギリだ。今日は時間に余裕もあるので、送り迎えをするほうがいい。

「あ、いや、そこまで…」

 うつむかせていた顔を上げて、彼は瀬良を見た。

 間近に見ると、鼻筋の取った整った顔立ちとは言いがたい、ちょこんとついた鼻につぶらな瞳。男前だの、かっこいいというなら、息子の方がそうだろうと瀬良は思う。


 思ったより、小さい…


 並んで座ると、瀬良と肩の位置が拳一つ分ぐらい違う。

 立っている時も考えてみると、瀬良よりも小柄だった。

「芳樹がいつも世話になっているようだし、これぐらい大したことじゃない。それに、自分から真面目に塾に通うなんて、偉いじゃないか」

「いえ、俺のほうが芳樹に色々してもらってて、その、新田さんにもっ…けどっ! その、バスもあるし…一人で帰れます」

 子供らしい子供…というと、語弊があるけれども、いまどきいないような、控えめな子だと思った。

 芳樹と友達なのも、なんとなく、瀬良には判った。

 本人は嫌がるだろうが、息子は瀬良によく似ていて、どちらかというと、人を動かす方の人間であって、よく言えば、リーダーシップがあり、悪く言えば何様な男だ。

 会社などで上に立っているなら、まだ許せるが、学校などの中では敵を作りやすいタイプ。けれども、彼のような少し大人しいタイプは、ぐいぐい引っ張っていってくれるので側にいるのが楽だろう。

「できないことを言っているわけじゃない。大したことではないから、甘えておきなさい」

「……ありがとう、ございます」

 好ましい子だとは思ったが、多分二度と会うこともないだろうと、瀬良は思った。

 芳樹の友達という人間に会ったのはこれが初めてであったし、もし、家に遊びに来ていたとしても、瀬良の帰宅する頃には普通の家庭なら、人の家に居座るのを許すような時間ではない。

 なにより、芳樹が瀬良に友達を会わせるはずがないからだ。

 その日のうちに、彼のことなど正直忘れた。

 数日後の朝早く、新田の会社ケータイが鳴るまで、瀬良は思い出しもしなかった。


        ◆


「お礼? ですか…」

 新田の電話から漏れる声で、相手は芳樹と知れた。

「どうした?」

 朝に一回顔を合わせたというのに、何故、新田に電話なのかが判らない。

 大体、番号だって教えているはずなのに、瀬良へ電話がかかってきたことなどなく、いつも新田ばかりだ。思わず「可愛くない」と心の中で呟いて、瀬良は顔を曇らせる。

「春日井君がどうしてもお礼をしたいので、いつ社長が自宅にいらっしゃるかと…」

 スケジュールを知っている新田は困ったように眉を寄せた。

「今日は無理だな」

 今日は夜に外せない付き合いがある。

 どう早くても、自宅に戻るのは九時以降になってしまう。

 明日の休みか、それとも…?

「今日、先方と会う前に、会社に来て頂くのはどうですか?」

 新田の提案は瀬良にはちょうどよかった。

「どうしても…というなら、そうだな」

 休みを潰すのはさすがに可愛そうだし、こちらもゆっくりしたい。

「分かりました、そう致しましょう」

 息子の怒声が漏れ聞こえたが気にしない。

 向こうだって、好き勝手やっているのだから、こちらに口は挟ませない。

 来たこともない会社に来るなんて、彼にはかなり無理をさせるかもしれないが、新田がそれはうまくやるだろう。

 瀬良は少しばかり、胸のすくような思いをしながら、自分の席についた。



「すみません、逆に…その、お手間取らせてしまって、本当は母が一緒に来るべきなんでしょうけど、この時間、仕事で忙しくて」

 夕方のビルの窓がオレンジに染まる頃に春日井はやってきた。

 少しは瀬良に慣れたらしく、表情は少し緩んでいる。

「いや、いいよ。自転車、大丈夫かね」

「はい、他のところも、綺麗にしてもらって、ほんと、ありがとうございます」

 春日井は出会った時と同じく、深々と頭を下げながら、真っ白な洋封筒を差し出した。

 封筒の表には何も書かれていない。

「ああ、いいんだよ」

 中には自転車の代金相当の札が入っているのだろう。

「母がここまでしてもらったんだから、きちんと代金はっ…あと、瀬良君に…好きなもの知らないかって聞いたんですけど、判らかなくて、そんで、これどうぞ」

 次の予定が入っていると知っているせいか、慌てながら、和菓子か、なにかの袋を彼は差し出してきた。

「ありがとう」

 白い封筒と菓子を受け取りながら、しっかりとした親子関係があるのだなと、瀬良は思った。

 母親にきちんと今日の出来事を話し、そして、母親もそのためにきちんとこうやって、お礼をしてくる。それは当然のことでありながら、この年頃でなかなか出来ることではない。


 これくらいの子供は…なんでも、隠すからな。


 とかく、十代も半ばを過ぎると、男は気難しくなる。親というものが煩わしいし、特に、母というものが鬱陶しい。

 瀬良もその道を通ってきたし、当然のことだと思っていたが、この春日井少年を見ていると、彼の母親が羨ましくなってくる。

「じゃ、俺、これで」

「ああ、すまないね、バタバタさせて」

「いえ、時間作って頂いて、ありがとうございました」

 また、大きく頭を下げて、顔を上げ、ふんわりと笑う。


 なごむ、なぁ…


 小さな背中を見送りながら、瀬良は目を細めた。

 子供とは生意気なものだとばかり思っていたから(自分もそうだったし)春日井のようなタイプは新鮮だ。友達の父親ということもあり、遠慮もあるだろうが、それでも、自分の息子であったらと思わずにはいられない。

 こういう素直な子なら、よい親子関係を築けたのではないだろうか。こんな風に育てるにはどうしたらよかったのだろうか。

 今更ながら、芳樹のことを考えてしまう。

「社長、先方が急用でキャンセルになりました」

 うだうだと考えていると、新田の声に瀬良は現実に引き戻された。

「それは困ったな」

 せめて、昨日なら良いのに、当日の直前キャンセルとなると、店側もいろいろと困るし、次に使うときに心苦しい。けれど、一人で行って、二人分食べるというのは無理だ。

「どう致しましょう? 直前のキャンセルは店の方にも悪いですし…」

 新田が渋い顔をしている。

 どうせだから、新田を連れて行くべきか…と、瀬良は思いかけて、

「春日井君。これから、時間あるかね?」

 思わず、制服姿の背中に声をかけた。

「え、あ、はい?」

 部屋のドアの前で、春日井は立ち止まり、瀬良を振り返る。

「一緒に夕飯でも食べないか? 芳樹の話も聞きたいし、店の方へキャンセルを入れるのも気が引ける。お母さんには私から連絡を入れよう」

 そこまで瀬良が話すと、彼はしばし硬直し、目をまんまるにして、泳がせた。

 急に思いついたこととはいえ、まずいことをしてしまったかもしれない。この年の男の子が人の父親と二人きりで食事とか、嬉しくも楽しくもないだろう。それこそ、何を話していいかも判らない。きっと自分なら、すぐに理由をつけて断っている。

「はい!」

 瀬良の意に反して、思ったより元気な返事が返ってきた。



 外からは少し古めかしい喫茶店のように見えるが、中に入ると、真新しい木の柱に梁、珪藻土をペインティングナイフで波打つように慣らしたシンプルな白い壁に驚く。

 テーブルの一つ一つには白いテーブルクロス、その上には邪魔にならない程度のややうつむきがちなピンク色の花が数本、切子の細長いグラスに生けてある。バーとしても楽しめるようなカウンター席もあり、落ち着いた感じの小奇麗な内装だ。

 今日の相手がナイフとフォークなどを嫌うため、瀬良はややカジュアルなところを予約していた。

 瀬良の顔を見ると、店員はそのまま、二階の方へ案内した。

 予約していたのは個室なので、春日井は制服のままでも問題はなく、店員は息子を連れてきたと思われているようだ。

「すまないね、付きあわせて…私と二人で食事なんて、つまらないだろう?」

 席について、オーダーを終えると、早々に瀬良は謝った。

 いくら美味しい物が食べれるかも? なんて、楽しみがあったとしても、女の子ではないのだから(瀬良の経験上、女性は下心が見えていても、食事に誘うとついてくる)人の親と二人きりで食事なんてしたくないだろう。誘うにしても、順序立てれば良かったと瀬良は思う。

 最初に食事を持ちだしておいて、暇かと聞けば、この春日井君だって「今から、◯◯があって」なんて、逃れる道があったのに考えなしに誘ってしまった。

「いえ、ウチ、父さんいないんで、こんなかんじかなとか思って…なんか嬉しいです」

「そうか、それならよかった」

 最近は片親というのは珍しくはない。

 なんとなく、この春日井が母親と仲が良いのも頷けた。

 一生懸命育ててくれた母の背中を見ているので、彼は多分親一人子一人で、親に反抗したり、無視したりしている場合ではないのだ。

「お母さんは立派な人だ」

「そ、そうですか?」

「君を見ていたら、判るよ」

 そして、こちらは仕事しかしなかったダメオヤジだ。

 どこで間違って、どこで失敗したのか。

 考えたところで、時間が取り戻せるわけもない。

「俺、優しいお父さんがいて、瀬良が羨ましいです」

「あいつはそうは思ってないだろうなぁ…なにしろ、私は妻に逃げられた男だし、仕事ばっかりして、子供のことは人に任せっきりで、つまらないオヤジと思ってるだろうな」

 無言で俯く様子からいって、息子の芳樹がどんなことを、春日井に吹き込んでいるのかが判る。

 きっと若い頃は女にだらしなかったとか、仕事ばかりで子供の面倒もみないとか、一週間顔を見なかったことがあるとか、旅行も連れてってくれたことがないとか…まぁ、事実だったのだから仕方ない。

 個室のドアがちょうどよく開いて、料理が運ばれてくる。

「さぁ、食べよう」

「はい、頂きます」

 きちんと両手を揃えて、箸を手にした。

 どこまでも、育ちのいい子だと、瀬良は思った。



「甘いものは和菓子ぐらいしか食べなくてね。よかったら、私のも食べなさい」

 春日井は最初から最後まで、嬉しそうに綺麗に食べて、デザートに出てきた小ぶりのモンブランと、添えられたソルベを綺麗に平らげたので、瀬良がそう聞いてみると、

「はいっ」

 春日井は嬉しそうに、遠慮無く、差し出した皿を受け取った。

 甘いものは得意…いや、好きなようだ。

 少し顔が赤らんだ気がしたが、それは店の照明のせいだろうと、瀬良は思っていた。

 会計を済ませ、タクシーに乗ると、

「…ありがとうございました……美味しかった、れす」


 れす?


 瀬良の肩に、春日井の頭がストンと落ちてきた。

 妙な語尾、しかも、肩越しに、すんすんと寝息が聞こえる。

「春日井…君?」

 まだ、時間は七時過ぎ、高校生が寝るには早過ぎるだろう。それとも、今日の授業で疲れたとか? いや、それにしたって、早すぎる。

 じゃあ、なんで寝てるのか?

 寝息から、ふわんと漂う洋酒の香り。

 彼が食べて、瀬良が食べなかったもの。

『イタリア栗のモンブランと、シャンパン風味の国産レモンのソルベでございます』

 そう言えば、店員はそんなことを言ってた!

 店側も春日井の姿を見て、多少は酒を控えたとは思うが、モンブランは洋酒を風味付けに使うお菓子であるし、その上、シャンパン風味のソルベ…

「春日井君っ!?」

 春日井を家まで送るとは言ったが、住所が判らなければ、どうしようもなく、寝ている本人から聞き出すことも出来ない。しかも、本人は揺さぶろうと、声をかけようとも、ぐっすり眠っていて、起きてもくれない。仕方なく自宅へ向かい、慎重に自分のベッドへ運び…どうしていいか判らず、瀬良は新田に急いで来てくれと、泣きついた。


        ◆


「アルコールに…弱いんですかね。体質的なものですね、仕方がない。ご自宅に電話して、このまま、社長の家に泊めましょう」

 新田は春日井に肩まで布団をかけると、ため息混じりにそう言いながら、電話をし始める。

 呆れた口調、けれども、どこか、ホッとしたように瀬良には聞こえた。

「電話番号知っているのか?」

「ええ、この前、自転車を持って行ったでしょう?」

「ああ、そうか…」

「お母さまは温和そうな方でしたよ?」

「そうか…家に送って行かなくて、大丈夫か?」

 夜遅くなった上に泊まるともなれば、母親も心配するだろう。

「気持よさそうに寝てますけど、また車に乗せて酔われても困りますし、酒に酔っているのだとしたらできるだけ、動かさないほうがいいかもしれません。とりあえず、自宅にお電話を…」

 春日井の自宅にかかったらしく、新田は電話を瀬良に差し出した。

 春日井の母親に平謝りに謝り、瀬良が事情を話すと、逆に向こうが謝りはじめ、しばらく、二人で謝りあいをし続けた。新田の提案を告げると、案外、すんなりと母親は受け入れた。

 春日井が微量のアルコールでも弱いのは知っていて、それほど驚きはしなかった。

 よくやらかすことで、気持よく寝ているなら、そのまま動かさない方がやはり良く、甘えるようですまないが、朝起きたらすっきりとしているから、安心していて良いと告げられた。

「はぁ、では、息子さんをお預かり致します」

 そう言って、思わず、目の前に居もしない春日井の母親に頭を下げながら、瀬良は電話を切った。

 これで一段落だ。

「にしても、かわ…いいな」

 春日井は寝相が良い方ではないらしく、最初に寝かせた格好から、やや斜めにうつ伏せ気味に、枕を抱えるようにして、眠っている。

 まるで無邪気に眠る子犬か、子猫のようだ。

「はぁ?」

 新田は怪訝そうな顔をして、瀬良の方を見る。

 小学生ならまだ良い。男に可愛いなんていうのは、ギリギリ中学生までだろう。

「いや、よく、ウチの子可愛いって言うだろ? 私はあまりそう思ったことがない」

 まずいことを言ったと思い、瀬良はそう付け加えた。

 食事をしながら、学校の話や、芳樹のことを聞いた。

 予想通り、春日井は体育会系で、陸上競技部に所属しているそうだ。中でも、短距離とハードル走が得意なのだが、息子には勝てたことがないにだそうで、身体に筋肉がつきにくい体質らしく、芳樹は恵まれた体格で羨ましいと言った。

 話し始めると、人懐っこい子で、受け答えもはっきりとしていて、初めて会った時、そして、礼を言いに来た時はかなり緊張していたのだと話してくれた。

 息子よりよく話せるっていうのは、他人だからなのだろうか?

 疑問が頭にふっと浮かんだ時もあったが、春日井が屈託のない笑顔で話すので、すぐにそれは消えてしまい。話に夢中になった。

「まぁ、芳樹さんを可愛いって言ってる、社長は見たことないですね。でも、しかたがないんじゃないですか、一番、芳樹さんが可愛い時期に、それどころじゃなかったんでしょう?」

 新田はそう慰めのようなことを言う。

「そうだな…社長見習いみたいなもんだったしな」

 そう言って、瀬良はタバコを咥えかけてやめた。

 母子家庭だと言ってたし、タバコに触れる環境にないかもしれないし、他人にもよろしくはない。

「けど、可愛いよな。春日井君」

 芳樹は可愛くないのに、同年代の春日井は可愛い。

 どこが違うのだろう? 身長か? 性格か? それとも、親という責任がないからか?

「芳樹なんて生意気なことしか言わないしな。アレがあることないこと、耳打ちしたせいだろうが」

「社長の場合、あること、あることしかないと思いますけど」

 新田の目が細まり、低い声が響いた。

 綺麗な顔をしているだけに、かなり冷ややかで、瀬良は心にサクサクと刺さるものを感じる。

「うるさい、お前はっ」

 育児に疲れた刺々しい妻のもとに帰りたくなくて、いろいろやらかしたことは、瀬良自身、身に覚えがある。妻がいなくなったのも、息子との不仲も、仕方ないことだと思う。

「まぁ、若い時はいろいろありますよ」

 新田は目を細め、口角を釣り上げる。

「若いお前に言われたくない」

「ん………」

 春日井が眉を寄せて、寝返りを打つ。

 二人は息を殺して、部屋を出て、そっとドアを締めた。

「よその子は可愛い」

「そういうことにしておきましょう」

 そして、瀬良にとって、春日井の母親よりも難関なヤツが階下で待ち受けていた。



「おい、穂になにしたんだ!?」

 見下ろすような長身、美人だった瀬良の元妻のほっそりとした細面の顔と、瀬良の切れ長の目と鼻筋の通った顔立ち、いわゆる、イケメンと呼ばれるタイプの息子の芳樹だ。

 顔に似合わず、ずけずけと物を言い、生意気だ。

「その前に、こんな時間にどこ行ってたんだ?」

 ため息混じり、瀬良は息子に厳しい目を向けた。

 瀬良が自宅に戻った時には、まだ芳樹は家にいなかった。

 自分も褒められるようなことをしてはいないが、親としては学校や塾でもなく、何も言わずに日が暮れるまでに帰ってきていないのだから、せめて連絡ぐらい入れろと、注意を促すべきだろう。

「別にいいだろっ!…ってか、ちげーよ! 穂はっ!」

 夜にリビングで声を張り上げられ、瀬良は憂鬱な顔をする。

「デザートに洋酒が混ざっててな。二個も食べたら、帰りの車でぐっすり眠ってしまった」

 ありのまま、脚色せず、弁解もせず、瀬良は答えた。

「……無理に食べさせたのか!? 穂は調理実習でアルコール飛ばすの失敗しただけで、酔っ払うような奴だぞ!」

 もし芳樹が犬であったら、噛み付いていただろうと思うような様子に、元妻の顔が思い浮かんで、瀬良は頭が重くなる。

「知らなかったんだ、仕方ないだろう。美味しそうに食べていたし、気づかなかったんだ」

「お前なぁっ!」

「親に『お前』はないだろう」

「うるせぇっ、穂が起きて、二日酔いでも起こしてたら、お前のせいだからなっ」

「それは責任を取る」

「責任って、どうやって取るんだよ! 謝ってすむことかよっ! 取り返しつかね~だろっ!」

 言いたいことは他にもたくさんあるのだが、ああ言えばこう言うタイプは元妻譲りで、瀬良は大きくため息をついた。

「芳樹さん、社長は本当に知らなくて、事故だったんですよ。社長は心配して、私を呼ぶぐらい焦ってたんですよ? 幸い、そこまで重症じゃなく、眠ってるだけですし、春日井君のお母さんにも社長が電話しました。反省してるんです。明日も、きちんと社長が送っていく予定です。それに、そんなに騒いだら、春日井君が起きてしまいますよ」

 新田の言葉に芳樹は小さく舌打ちをして、背を向けた。


 新田の言うことはきくんだな…


 瀬良は息子が自室へ行く背中を見ながら、今さっきのタバコを口に咥え、自分で火を付ける。

「社長、それでは私はこれで」

「悪かったな」

 退社した後に、業務外のことを頼むなど、瀬良も相当焦ったのだと気づく。

「いえ、私も心配だったので、よかったです」

「明日はゆっくり休んでくれ」

「そうさせていただきます」

 明日は土曜日だ。

 春日井を起きるまで、寝かせていても問題はない。

 瀬良は一度だけ、紫煙を吐き出すと、そのまま、灰皿に押し付けて、バスルームの方へと歩き出した。


        ◆


「おは…ようございます…」

 上から、声が聞こえた。

 気まずそうな、けれども、血色の良さそうな顔が覗きこんできて、

「気持ち悪くないかね?」

 瀬良はリビングのソファから身体を起こし、そう聞いた。

「はい、すみませんでした…ベッドまで、とっちゃって」

 自分のベッドには彼が寝ていて、さすがにその部屋で寝る気に瀬良はなれなかった。

 かといって、息子の部屋で寝るという選択肢はなく…客間はあるが、和室のため、布団を敷くのは面倒だったし、それなら、リビングの大きめのソファで毛布をかけて寝る方が楽だった。

「いや、大丈夫ならいいよ。早く親御さんに連絡してあげなさい」

 ズボラしてこんなところで寝たせいで、すこしばかり、背中が痛い。

 瀬良は軽く背伸びをして、ソファに座ると、春日井にそう言った。

「もう連絡しました」

 春日井は恥ずかしそうだ。

 アルコールが弱いというのも程度がある、あんな風に寝てしまうのは恥ずかしいだろう。

「まだ帰らなくても心配しないかい?」

「母さん、土曜も仕事ですから」

 そう言って、春日井は微笑みつつも、少し顔を曇らせる。

「そうか…」

 瀬良は久々に父性的なものを感じて、頭を撫でたいような衝動に駆られた。

「いや、すまないね…芳樹から、アルコール弱いのを聞いたよ。悪いことをした」

 高校生でそんなことをされても嬉しくないだろうから、瀬良はぐっとこらえて、言葉を続ける。

「いえ、ありがとうございました。本当に美味しくて、食い意地張っちゃた俺が悪いんです。すっかり、忘れてて…」


 可愛い…なんで、ウチの子は可愛くないんだ。


「今日はなにか用事でもあるかい?」

 このまま、送っていくだけのつもりだったが気が変わった。

「はい?」

 家でゴロゴロするぐらいなら、息子の友人の親の代わりをする方がいくらか有意義だ。

「今月までの映画の優待券があるんだが、観に行かないかね? それとも、こんなおじさんとはいやかな?」

「いえ、嬉しいです! 家帰って、着替えて来ます!」

 こんなことをするのは、女子高校生なら問題もあるだろうが、男子高校生なら問題はない。


        ◆


 瀬良は映画と軽い食事を二人で済ませた後、夜に母親が戻るというので、春日井を家まで送っていった。

 春日井の家は…家といっても、一軒家ではなく、賃貸のアパートだ。

 瀬良の家に比べたら、かなり小さい。けれど、親子二人なら、ちょうどいいぐらいなのだろう。母親はまだ帰宅してないらしく、家の中に明かりは灯っていなかった。

「こんなに良くして貰って、ありがとうございます。なんか、甘えて…」

 最初から最後まで嬉しそうで、瀬良と十分と機嫌よくいられない芳樹とは正反対だった。

「私が好きでしてることだからいいんだよ。何せ、芳樹はあの通りだし、妻もいない。家族らしい家族はいないんだ」

 瀬良は気が緩んで、思わず弱音のような、皮肉のような…そんな言葉を口から漏らした。

 春日井なら聞き流してくれるような気がして、逆に甘えていたのかもしれない。

「そんなこと言っちゃ駄目です」

 春日井は酷くはっきりと、真っ直ぐな目でそう言った。

「瀬良には、お父さんしかいないんだから、そんなこと言っちゃ駄目です」

 それは拒絶でも叱責でもなく、ただぴしりと額を物差しで叩かれたような気がした。

「…そうだね」

 妻に逃げられ、芳樹と二人でどうしていいか判らず、右往左往していた時に「芳樹の唯一の親になったのだから、しっかりしなさいっ」と、母親から言われた時のことを思い出す。

「な、生意気なこと言ってすみません! あの、」

 よほど、落ち込んだような顔をしていたのだろう。

 春日井は慌てて、謝ってきた。

「いや、その通りだよ。ちょっとした反抗期ぐらいで親がそんなこと言ったら、駄目だね」

 ただ可愛いだけじゃない。

 春日井の芯の強さのようなものを感じて、瀬良は頬が緩んだ。

「あの、いいこと…教えますっ」

「いいこと?」

「はい、多分、いいことっ」

 春日井は嬉しそうにそれを話し始めた。



「芳樹、甘いもの買ってきたぞ」

 瀬良は芳樹の部屋の前でそう声をかけた。

「いらねぇ」

 ドア一枚隔てて、不機嫌そうに芳樹はそう答える。

「春日井君が教えてくれたんだ。お前、こんなもの好きだったんだな」

 いつもなら、イラっとしてそのまま背を向けるところだが、存外、可愛らしいものが好きだと知って、ついつい瀬良の口からそんな言葉が出た。

 芳樹の好物はたい焼きだ。

 頭からしっぽまでパンパンにつぶあんが詰まっていて、焼きたてのサクサクしたのが好きだという。

 春日井から別れた後、芳樹が気に入っているというたいやき屋に寄って、瀬良はたい焼きを買った。

「今まで、穂といたのか!?」

 部屋のドアが開く。

「ああ」

 瀬良は今日あった出来事などは話さず、曖昧に返事をした。

 芳樹に余計なことを言って、また怒らせてしまってはかなわないし、さすがにつぶあんの詰まった五匹のたい焼きを一人で食べきれる気がしなかったからだ。

「…食う」

 伏し目がち、少しバツの悪そうな、なんとも言えない表情は小さい頃を思い出す。

「お茶でもいれよう」

 芳樹の歳相応のスネたような顔に、瀬良はそう言い、笑みを浮かべた。

「朝起きたら、誰もいねーから、静かだと思った」

 居間のソファに座って、たい焼きを食べながら、ぼそぼそと芳樹は話しだす。

 たい焼きのせいか、いつもよりはおとなしく、言葉に棘が少ない。

「春日井君と映画を観に行ってた」

「喜んでた?」

「多分…まあ、判らんがな」

 こちらが楽しかっただけで、もしかしたら、春日井は顔に出すことなく、付き合っていたのかもしれないし、実際のところは瀬良には正直判らない。

「穂、あんたに助けて貰って、すごく喜んでた。『瀬良のお父さん、優しくて、かっこよくて、俺もあんなお父さん欲しいって』俺にしてみりゃ、熨斗つけてやるよって思ったけど」


 可愛くない…


「けど、ありがとう。あいつ、学校では友達多いくせに、誰も頼ろうとしないっていうか、いつも一人でなんでもしようとするから、自転車のことも誰も呼べなくて大変だったと思う」

 もそもそと一つ目を食べて、お茶をすすり、芳樹は二つ目のたい焼きに手を伸ばした。

「それは新田に言うべきだな、私はお前の友達とも知らなかったし、見つけたのも、新田だ」

 瀬良は一つで胃にどっしりくるぐらいの甘さで十分なのだが、芳樹はかなり好きなのだろう。見る見る間に二つ目も消えていく。今まで知らなかったが芳樹は余程の甘党らしい。これなら、何かしっかり話したいときは子供じみてはいるが甘いもので釣るのがいいようだ。

「判った、ごちそうさま」

 二つ目を平らげ、芳樹の手はそこで止まり、やや困ったような顔をした。

 まだ食べたいが、これ以上は入らないといったところだろうか。

「私は一つで十分だから、残ったのは明日にでも食べなさい」

「……ありがとう」

 芳樹は少し恥ずかしそうに呟いて、また二階の自室へ戻っていった。

 まるで、餌目当ての野良猫のようだと、心の中で笑いつつ、瀬良は時計を見つめる。

 外は暗いがまだ七時過ぎだ。後は風呂に入って寝るだけ…いつもよりも時間がある。

 あのまま、明かりのついていないアパートへ帰してしまった春日井のことが気になって、思わず、私用のケータイに手が伸びた。

「もしもし?」

『あ、瀬良のお父さんっ』

 素直な少し高めの声が耳に響く。

「春日井君、ありがとう。芳樹と珍しく話せたよ」

 あのたい焼きがなければ、久々に息子の歳相応の顔など見れなかっただろう。

『よかった』

 ふんわりとほっとしたような暖かな声が聞こえて、瀬良の頬が緩んだ。

 芳樹とは微妙な緊張感を感じることがあるのに、春日井とはそれがない。

 最初の最初にあんな大騒ぎをしたせいだろうか、それとも、情けない弱音を吐いて、たしなめられたせいだろうか。気が抜いて話せる。

「たまに…また、誘ってもいいかな?」

 口を突いて出てしまった言葉に瀬良は絶句した。

 何をバカなことを言っているのか、これではまるで女性を誘っているみたいじゃないか。

 息子の友人となにをしようとしているのかっ、いや、変なおっさんと思われても仕方がない。

「その…嫌なら、はっきり言って欲しいっ、私も君が嫌がるようなことはしたくないし、私だって、嫌がらせをするような暇はないからねっ」

 何を焦っているのか、瀬良にも判らない。

 しかし、頭の中が真っ白で、ますますドツボにハマっていくような言葉しか出てこない。

『…子供の俺なんかつまらなくないですか?』

 春日井はそうぽつりと呟いた。

「つまらなくなんかない。すごく楽しかった。その…君といると、本当に楽しくてね。もう一人息子を持ったような気分になるんだ」

 彼といると、若い頃、遊び回ったときよりも、充実感を感じる。

 見栄を張る必要もなく、無駄にエスコートするような気遣いもいらない。ただ嬉しい顔をする春日井が見たくて、連れ歩くだけだ。

『俺も! 俺も楽しかったです』

「じゃあ、また誘うよ」

 声だけは平静を保つようにと声が裏返しそうなのをこらえた。

『ありがとうございますっ』

「またね」

 電話を切り、一気にいろいろなものが噴き出る。

 ケータイを両手で握りしめ、居間の床に崩れ落ちながら、顔やら身体やらが熱くなるのを感じて、瀬良はしばらく動けなかった。


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