9. 桜子
桜子はだんだん起きている時間が短くなっていった。ずっと彼女の傍にいたかったのだが、冬ごもりの準備をしなくてはならない。渋る僕を桜子は説得し、彼女が起きている間に何をすればいいのかを聞いて、一人で進めていった。銃の扱い方や動物の見つけ方も教わった。絶対に無理だと思っていたけれど、思いのほか才能があったみたいで冬を越すには十分な食料を確保できた。
「だいぶ体力がついてきましたよ。この1年で一生分の運動をした気分です」
「はは、何言ってるんだか。……ハルトはひょろっこかったもんなぁ。いかにも草食系男子ですーってかんじで」
「桜子さん、『草食系男子』なんて単語知っていたんですね」
「そのくらい知ってるよ」
桜子はほんのり色づくように笑うようになった。活発だった頃に比べるとだいぶ線が細くなったように見える。彼女の頬にそっと手を伸ばす。
「今日は顔色がよさそうですね」
「あぁ、君のおかげだ」
桜子は頬にある僕の手に彼女の手を添えた。その手は温かかった。……この体温がいつかなくなる日が来るのだろうか。この手をすり抜けて、彼女はいってしまうのだろうか──。
本格的に冬がはじまる。
2月になった。
かつて桜子が言っていたように、すごい積雪で家から一歩も出られなくなってしまった。僕は家の中のことをする以外は、桜子につきっきりでいた。彼女の調子がいいときは桜子を担いでリビングにある暖炉で一緒になって温まった。
「──綺麗ですね」
「……?何がだ」
「絵本みたいです。薪が燃えているところ」
「きれい、ね……」
桜子は考え込むそぶりをした。
「毎年見ているから、そんなこと思ったこともなかった。……そうだな。君が綺麗だと言ったら、綺麗だなって思えてきたから不思議だ」
「……そうですか」
桜子と同じものを共有している──僕は嬉しくなり、笑みがこぼれた。薪を燃やしている炎を2人でじっと見つめた。ここには僕と桜子の2人しかいない。そのことが一層浮かび上がるような夜だった。
「綺麗、といえば君の名前も綺麗だ」
「……いきなりなんですか」
「君にぴったりだなって思って────温音」
桜子がこてん、と僕の肩に寄りかかった。ふわりとやさしい香りがした。
時間は緩やかに、確実に進んでいく。そしてついに、その時は来る。
雪解けが終わりすっかり春らしくなってきた。桜子と出会った季節だ。
「桜子さん、桜のつぼみがほころんでいましたよ。満開になったらお花見にでも行きましょうか」
「お花見……」
「俺がおぶって行きますよ。お弁当作りますから、ね?」
「…………」
「桜子さん?」
桜子は何も言わなくなった。何かを言いたそうに口を開いたり閉じたりしていたが、彼女は意を決したように僕に向かって言った。
「──もし、私が死んでも君は死なないよね?」
「は?……縁起でもないこと言わないでくださいよ」
「うん。でも一応言っておきたくて」
「……何を」
「私はハルトに命が続く限りは生きてほしい。もう自ら命を絶つようなことはしないでほしい。──っだから」
「僕の心配より自分の心配をしてください。桜子さんのほうが大変でしょ」
「頼む、約束してくれ……っ」
「桜子さん!!」
苦しそうに咳こむ彼女の背中をさする。咳をしながらも彼女は「やくそく、」と僕に縋ってきた。このままでは休んでくれないかもしれない。
「わかりましたから!桜子さんは早く寝ていてください」
「……ほんと?」
「えぇ」
やっと咳も落ち着いて休んでくれた。彼女は「絶対だからな」と念を押すと、すうっと眠ってしまった。こんな体で僕の心配なんてしなくてもいいのに。お人よしなんだから。
不安な気持ちを押し殺して、彼女の寝顔を眺めた。
ある朝。
「おはようございます、桜子さん。具合はどうですか?」
いつものように彼女に話かける。カーテンと窓を開ける。部屋の中に光が差し込み、爽やかな春の風が入ってくる。
「桜子さん?」
彼女の顔がやさしく照らされる。穏やかな表情を浮かべる彼女の頬に、そっと手をあてた。その頬にいつもの温かさはなく、氷のように冷たかった。
まさか────。
「……『嘘』だって、言ってくださいよ。桜子、さん」
僕の声がやけに大きく響いた。お願いだから、いつものように明るく笑い飛ばしてほしい。たちの悪い冗談だって──。
桜子はその後、目覚めることはなかった。




