8. 嘘と真実
「桜子さん……」
あの後、僕は急いで彼女を担いで家へと戻った。桜子はびっくりするほど軽かった。それがさらなる不安となって僕を掻き立てる。ベットで眠っている彼女を見つめる。驚くほど青白いその顔は、いつもの快活な彼女の面影などどこにもなかった。
ただ彼女が目を覚ますのを待つしかできない。なんて歯がゆいのだろう。目を閉じて桜子を想う。死のうと思っていたが彼女に邪魔されたこと、無理やり始まった共同生活が案外居心地が良かったこと、美しくも儚い舞い──そして彼女の笑顔。
彼女が行っていた自傷行為の苛立ち、雨に打たれて血を吐いていた桜子を見た。大切な何かを失いそうになってから気づくなんて。
(あぁ、いつから僕は、)
彼女のことを、『愛しい』なんて思っていたのだろう────。
雨はいまだ止まない。
桜子が目覚めたのは、それから3日経った頃だった。
「おはよう」
「────!?」
朝食の用意をしていたとき、台所に突然現れた彼女にぎょっとした。
「あんた何起きてるんですか!?」
「え、起きちゃだめだった?」
「ベットに戻ってください!体がっ」
「ほう?『ベットに戻れ』、ね。……なかなか情熱的だな、ハルト?」
「なっ!?ちが、そんなつもりじゃ、ってもう!」
倒れる前の日の続きをしているようだった。彼女が僕をからかい、僕がむきになって言い返す──そんなかつての日常を。
「……悪い、心配かけたな」
「──っ」
桜子は僕の頭をくしゃり、と撫でた。途端に僕はさっきまでの調子で彼女に言うことができなくなった。
「……そう思うなら、休んでいてください。まだ朝食できないんで」
「ありがとう、そうする」
彼女は素直に台所から出てソファへと向かった。食材を調理しているときに桜子を見るたび、目が合ったのでずっと僕を見ているようだ。それが言いようがなく恥ずかしかった。
「おかゆ……?」
「当たり前でしょう、桜子さんは起きたばかりなんですから」
僕の朝食とは別に、彼女には消化のよい卵がゆを作った。「別に大丈夫なんだけどなぁ」なんていう桜子はゆっくりおかゆを食べ始めた。
「おいしいな。やっぱりハルトの料理は最高だ」
「おだてても何もでませんよ」
あたりさわりのない会話を続ける。桜子には聞きたいことがたくさんあった。でも、怖かったのだ。聞いてしまったらもう知らない頃には戻れないから。
「なぁ、ハルト────っ」
「桜子さん!!」
彼女は突然口元をおさえた。そして何度も苦しそうに咳をする。
「っごほごほ、ぐ、」
「大丈夫ですか!?」
僕は彼女の背をさする。しばらくすると収まり、彼女は何度も大きく息をはいた。
「はぁ、はぁ……すまない」
「いえ」
「ごめん、せっかく作ってくれたのに」
「気にしないでください。……まだ寝てたほうがいいと思います」
「ハルト」
彼女が僕の名前を呼んだ。
「後で私の部屋に来てくれ。……ちゃんと、話すから」
「──はい」
何かが動き出す、そんな気がした。
後片付けをした後、意を決して桜子の部屋へと向かった。大人しく寝ているだろうか、また無理していないといいのだが。
「桜子さん」
彼女の部屋をノックするが返事がない。どうしたんだろう、また何かあったのだろうか。不安になった僕はゆっくりとドアノブに手をかけた。
桜子は窓の外を眺めていた。彼女のその顔には何も感情が浮かんでいなかった。彼女の瞳には、何が見えているのだろう、何を思っているのだろう。
「ハルト」
こちらを向いた桜子さんは、いつもの表情に戻っていた。しかしその微笑みは、どこか陰があった。
「すまない、気づかなかった。とりあえず座ってくれ」
「はい……」
「以前話さなかった本当のことを話そうと思う。あと、これからのことを──」
彼女は僕が座るのを確認すると、静かに話し始めた。
「私はかつて、君と一緒で自殺をしにこの山へ来た」
「──!」
自傷行為をしていたのである程度予想できたが、桜子の口からそう言われるとまた違った印象を感じた。
「理由なんかなかった。ただ『死にたい』、それだけだった」
しかし彼女は死ななかった。今の桜子さんのように、この山を管理している人に助けられたからだ。
「君の比じゃなかったぞ。たくさん反抗したし馬鹿な事もたくさんした。でも、『あの人』は私のことを見捨てなかった」
そして、彼女の恩人が亡くなった後は桜子が山を管理することになったらしい。
「私も、私を助けてくれた『あの人』のように自殺しようとした人間を助けたり、──見放したりした」
「見放す?」
「あぁ。死のうとしている人はなぜかいつもあそこから見える二本のうちのどちらかで首を吊ろうとする。左側は助けられる方、もう一方は──残念だが」
「……」
桜子は言葉を切り、それ以上は何も言わなかった。
「君に言わなかったことがある」
「何ですか?」
「かつて私は。『自殺しようとした魂が一定期間その場に留まると、この山から下りられなくなる』と言ったが、山を下りる方法は一つある」
「え……」
山を下りることができる?
「そんなことできるんですか!?」
「……あぁ」
「だったら、病院に行きましょう!ね、桜子さん」
「……」
山を下りることができるのなら、話は早い。桜子は確実に病魔に侵されている。ここでは十分な治療もできない。病院に行くことができるのなら、もしかしたら──。
彼女は諦めているような微笑した。
「私は無理だ。この山の『管理する者』だからな。ハルトも8月に見ただろう?私はこの山に来たときから……この山に生かされ、そしてこの山で死ぬことをさだめられているんだ。でも君は」
桜子は僕の目をみて言った。
「『生きたい』と心から思うようになれば、自然と山から下りることができるようになる」
「な!」
『生きたい』だと?確かに、ここに来る前よりは『死にたい』という思いは薄れていたが……。
「私は自殺未遂をした者をここで説得して山から返していた。一日もかからない人間もいれば、2、3か月はここに居座った人間もいたな」
「……」
「──私はもう長くない。自分の体のことだからよく分かる。……冬を越せるかどうかも危うい。本当は冬がはじまる前には君を山から返そうと思っていた」
彼女は僕から視線を外し、うつむいた。そしてシーツをぎゅっと握った。
「だから、」
「嫌です」
僕は桜子の言葉を遮った。
「こんな状態のあんたを置いて山を下りることなんかできない」
「でも」
「……この前家を出たとき、山から下りれませんでした。だから今もきっと無理だと思います。それに桜子さん言ったじゃないですか、『いかないで』って。俺は」
「──!」
桜子は息を飲んだ。シーツを握っていた彼女の手に、僕の手を重ねる。
「あんたの傍にいたい」
桜子さんは顔を上げた。彼女は驚きで目を見張っていた。僕はさらに彼女の手を強く握った。たとえ時間があと少ししか残されていなくても──桜子と一緒にいたい。
桜子に手を伸ばす。
「そばにいさせて」
祈るように言い、彼女の薄い肩に顔を埋めた。桜子が震えたのが分かった。
どのくらいそうしていただろうか。
桜子の体温と僕の体温が混ざり合い境界が分からなくなった頃、彼女はゆっくり口を開いた。
「わたし、」
「うん」
「ハルトと一緒にいるにつれて、怖くなった。君がきてから毎日が楽しくて。……先が見えているからなおさらにも。私がリスカしたのは、『死にたかった』からじゃない」
「……うん」
「発作が起きて、どうしようもなくつらかったんだ。何かで気を紛らわさないと、おかしくなりそうだった。まだ、……『生きていたい』、から」
「……」
「わたし、も、思っていいかなぁ?」
「ハルトの、そばにいたい」
とてもちいさな声だった。でも、2人の耳には十分すぎるほどの大きさ。僕のシャツをくしゃり、と握られたその手がどうしようもなく愛しく、切なさを胸に呼び起こす。
「桜子さん──っ」
僕は彼女を力強く抱きしめた。僕はここにいるのだと、そして、桜子もここにいるのだと感じられるように。消えてしまいそうな彼女がどこにも行ってしまわないように。
心臓がぎゅっと鳴って痛いくらいだ。彼女への想いを言葉では伝えきれないと思った。あふれるようなこの感情。こぼれては泡のように増え、消えた。
そして──。
彼女にそっと口づけた。
桜子との初めてのキスは、仄かに甘く、そしてどこか血の味がした。
このまま、時間がとまればいいのに。
彼女の温もりを感じながら、静かに目を閉じた──。




