甘い愛の味
甘い愛の味
友人が、窓際でくつろいでいる。汚れた網戸を背に、下ばかり向いている。
安普請のアパート──どこか薄暗い。
私は、大学の寮を思い出した。そう、あの寮は古くて、汚くて、電球はいつも切れかけていた。
ここのアパートも、電球が切れている。
友人の後ろの窓から見える空は、頭痛がするほどに青い。
電球が、切れている。
私は、友人の前に正座をした。
安物の綿のズボンから、冷たいものが染みいってくる──畳の目に、赤い文様ができている。
友人は、私に気がつかない。
遠くで、鴉が鳴いた。
ああ──吐き気がひどい。
「お茶でも、飲んで行ってください──」
出し抜けに声が聞こえた。
振り返る。
夢見るような目をした女が、盆に湯飲みをのせて立っている。
私は、息をかすかに吐きながら、「ええ」とだけ答えた。かすれた声は、うまく言葉にならず、宙に浮いたかと思うとすぐさま畳の上に落ちた。
言葉は、畳の上でもがいている。
その視界に、女の赤い湯飲みが差し出された。
私は、それを受け取る。畳の上の言葉が静かになった。
「この人の学生時代のご友人とのことでしたね」
女の言葉が、私の死んだ言葉の上に覆い被さる。
私は女を問うように見上げた。
女の夢見る視線が私の灰色の視線に絡まる。負けたのは──私の方だった。
つ、と視線を逸らし、畳の赤い模様に視線を流す。
「……古い友人です」
「噂は聞いていますわ。何でも探偵、だとか」
「いいえ……探偵をした覚えはありません」
私はもう一度、女の瞳を見た。夢見る視線に、私の視線は屈折する。
「彼は、きっと思い違いをしているんでしょう。私のような人間が、表に出てはいけないのですから」
それた私の視線は、湯飲みに落ちる。
震えた水面が、私の暗い視線を跳ね返す。
「どうして? この人は、いつでもあなたのことをほめていらっしゃいましたわ」
私は、女の顔を見ようとして、天井を見つめた。
女の手のひらに赤い約束の跡が見える。
私の言葉が、届かない。
塗籠の石室の中で、私の声が反響する。
電球が、壊れている。
私のズボンの膝が、赤い畳目に濡れる。
「……それは、その手は約束ですか」
女は嬉しそうに微笑む。赤い唇が笑みを刻む。
「やっとしてくれたんです」
夢見ている。
私は受け取った湯飲みを、畳に置いた。
電球が、壊されている。
「五年も待ったんです。六年目にやっと。遠回りしたけれど、この人は帰ってきてくれました」
女の赤い唇が幸せを語る。
私の石室の壁の向こうから、女の言葉が届く。
「私、この人と一緒になるんです。なったんです」
赤い唇が動く。
赤い唇の端から、赤い線が垂れる。
赤く染まった歯が唇の合間から見える。
赤く染まった舌がうごめく。
背後の友人は、黙っている。
私はよろめきながら、立ち上がった。
ズボンの裾がずっしりと重い。
足下にからみつく、灰色の泥が私を侵していく。
ひどい吐き気がする。頭痛に眩暈が起こる。
私は、視界にかかる霞を押しのけ、とぎれがちに呟く。
「彼は、そう約束したのですか……」
「ええ。この人は、私のものなんです」
女の赤い唇が微笑む。
引いた赤い線は顎を伝って喉元を舐める。
夢見る瞳は幸せに酔っている。自分の幸せを信じている、純粋な瞳。
私は渾身の力を込めて、その瞳に刃を突き刺す──
「その甘い愛の味……」
刃が、女の瞳に突き刺さる。
頭痛が一層ひどくなる。これ以上は、これ以上、踏み込んではいけないと警報が鳴り響く。
私はそれを無視して、泥の沼に突き進む。
もう少し、もう少しで、真実に突き当たる。
もう少しで、夢の終わりを掴むことが出来る。
相談したいことがあるんだ
出来るだけ早く来てくれないか
崩れ去る甘い夢、女の瞳にひびがはいる。
私は最後の力を込めて、突き刺した刃を下におろす。
「彼は二度と貴方のそばを離れることはない──声も聞こえない。姿を見ることもない。貴方と彼は確かに一つです」
万が一のときがあったら
女の表情に波紋が広がる。
見る見るうちに、女の顔から夢の熱が引いていく。
「彼は、確かに永遠に貴方のそばに。永遠に彼の肉は貴方のなかで生きていくのですよ──」
私の声は壁を跳ね返る。もう誰が聞いているのか分からない。周りが、私を残して流れていく。
ああ、
誰かが死んでいる。
私の視界が闇に沈んでいく──
遠くで、女のすすり泣きが聞こえる。そんなことをしたかったんじゃないと──
その合間にサイレンの音……
影島、おまえならきっと
あいつを 助ける ことが
夢は、終わる。
アカウントを作ったので記念に投稿しました
すごく古いSSです