プロローグ
その日も、いつもと何も変わらない一日だと思っていた。
まだまだ未成熟な八歳の体を限界まで痛めつけ、精神を極限まで追い込み、後はただただひたすら泥のように眠る。そんないつもと変わらない自分にとっての日常が、その日も来ると思っていた。
だがその日は違った。
いつものように訓練が退屈になると、闘練場の横にある庭に逃げ出す。そこで何をするでもなくただひたすらに流れる雲をぼんやりと眺めるのが好きだった。
その日もそのつもりで庭に行った。ところどころに木が植えてあるものの、その他には闘練場以外なにも遮るもののない広い草原が広がって、遠くの方には名前の分からない山が連なっている。
そこに彼女はいた。
腰のあたりまで伸びた金色の髪に奥の方まで見通せそうな、澄んだ蒼い瞳。滑らかな白い肌はその少女の清らかさを表しているかのようだった。
少女は自分が近付いてもこちらに気づくことなくただ空を眺めている。
いつも自分がしているはずの行動を彼女がやっているのを子供ながらに気に入らなくて、邪魔してやろうかと声をかけた。
「?」
ゆっくりと振りむいた少女は不思議そうに首を傾げながらその蒼い瞳を自分へと向けてくる。横顔を見ていたときから感じていた少女の整った顔立ちに少し緊張しながら、ここで何をしているんだと問いかける。
「何か怒ってるの?」
自分の問いかけからとげのようなものを感じ取ったらしい少女はまたも首を傾げ、こちらの顔を下から覗き込んでくる。
「!」
普段なら知らない人間に不用意に近付かれるような失敗はしないはずなのに、なぜかその少女には簡単に接近を許してしまう。
そんな自分にとっての失敗と、少女から香る甘い匂いのせいで自分の思考が余計に鈍くなっていくのを感じていた。
「何か怒ってるの?」
自分が返事をしないのをちゃんと聞こえなかったからだと思ったのか、少女はもう一度問いかけてくる。
違う。それだけの言葉を言えればいいのに、なぜか自分の口は思うように開いてくれない。この施設で暮らす、大抵の大人たちには子供とは思えないほどに堂々と言葉を発することができるのに、同い年くらいの少女にたった三文字の言葉すらうまく言えないとはどういうことか。
それでも何とか言葉をひねり出して、自分が怒ってはいないことを伝える。
すると、その言葉に安心したのか、少女は笑みを浮かべながら
「遊ぼう?」
と聞いてくる。
その笑顔になぜだか余計に鼓動が速くなって自分がどうなってしまっているのか分からなくなった。
「遊ばないの?」
思わず顔をうつ向けた自分の反応を少女は拒絶と受け取ったのか、瞳は悲しみの色で翳ってしまう。
少女をそんな表情にした自分がなぜだか許せなくって思わず大きな声で否定した。
その大声に少女は一瞬びっくりしたような顔をするが、一緒に遊べるんだとすぐに理解してまたも可憐な笑みを浮かべながら走りだす。
「おいかけっこしよう」
この広い庭では他にすることもないだろうと思ったのか、少女は相談をすることもなく走っていく。
長い髪をなびかせたその後ろ姿を眺めながら考える。
体をあちこちいじられて、更に普段から地獄のような訓練を積んだ自分が本気で走れば一般の大人にすら負けない。その化け物じみた能力を見せれば少女がおびえた表情をするのではないかと。
それを考えただけでなぜだか急に怖くなって、自分の能力に制限をかける。これで自分の限界は八歳の子供相応の体力になる。
そんな長い思考を終えて顔を上げると、いつまでも追ってこない自分を不思議に思ったのか少し離れた位置から少女が自分を見つめていた。
また少女が悲しい表情になるかもしれないと思い、普段ならしない笑みを浮かべて彼女の方へと走り出す。
その行動に満足したのか、少女も笑みを浮かべながらまた走り出す。
少女はその可憐な見た目とは裏腹に子供にしては速い足で軽快に駆けていく。その速さは普通の子供と同じぐらいの体力になった自分にはちょうどいい。
久しぶりに子供らしく遊んでみるとなぜだか笑いが止まらなくて、少女と一緒に土にまみれながら転げ回った。
見上げればこの施設の飛行士たちが飛行訓練をしているらしく、甲高い音を発しながら戦闘機が風を切り裂いていく。
「楽しい?」
少女は満面の笑みを浮かべながら、問いかけてくる。
自分は楽しいのだろうか? 普段なら大人に囲まれてずっと訓練をしているはずだ。
だが、今は同い年くらいの少女と馬鹿みたいに笑いながら転げ回っている。
楽しいのだろう。自分の感情をそう判断することにした。いつもなら笑うことも泣くことも怒ることもないはずの自分が、今日に限って笑っている。
この少女のおかげなのだろうか?
横で楽しそうに笑う少女の横顔を眺めながら考えてみる。すぐに物事の答えを出すはずのいじくりまわされた頭は、それでもいっこうに答えが出ない。出ない以上考えても仕方ない。そう決めてまた少女と走り出す。
思えば、
この時から春宮ルイスは感情というものに執着するようになったのかもしれない。