花開く、綻ぶ。あれはそう、小さな夢だった。
ガス灯の明かりにほんのりと照らし出された夜のレンガ道を、お仕事からの帰り道に、寒さで身を縮めながら一人のお兄さんが足早に帰宅を急いでおりました。
――ねえオルハ、雪が降ってきたよ。
ふわり、と、お兄さん……オルハさんの目の前へと舞い降りてくる、曇天からの純白の贈り物がオルハさんの目に映ります。それと同時に頭の中へとよみがえる高い声音に、彼はそっと目を閉じました。
冬がくるたびに、雪が降るたびに、オルハさんの脳裏へと呼び起こされるのはあの日の彼女の声。気がつけばオルハさんは、幼い頃の記憶をなぞり始めていたのです……
※※※※※
あれはそう、オルハさんがまだ腕白でやんちゃ坊主だった頃のこと。
オルハさんが住んでいる街の近くに広がる森には、いつ頃からかは分からないほど大昔より、親から子へと戒められている言い伝えがありました。
寒い木枯らしが吹く冬の季節になると、あの森の奥にある妖精の広場で雪の妖精がダンスを踊っている。この世のものとは思えないほど美しいその光景を見た者は、冬の妖精界に連れて行かれてしまうよ、と。
利かん気の強いオルハさんは、街の大人たちが口を酸っぱくして冬には決して森に入ってはいけないと言ってくる事に、いつも腹を立てていました。自分は決して、冬場の近くの森に行きたいとダダをこねたりした事なんて無いのに、どうして同じ話を聞かされて何度も何度も注意されなくてはならないんだ。そんな風に、冬がくるたびにオルハさんと顔を合わせるなり、大人たちが口を揃えて同じ話をしてくる事に、すっかりウンザリしてしまっていたのです。
だからオルハさんは、真冬の寒い寒い木枯らしが吹きすさぶ季節に、あえて近くの森を探検してやる事にしたのです。たとえ、春から秋にかけては街の子どもたちの良い遊び場であり、歩き慣れた森だったとしても。何度も『いけないよ』と言われさえしなければ、昼間であろうともわざわざこんな寒くて地面に雪が積もる中、探検しようなんて考えもしていなかったに違いないと、オルハさんは考えます。
誰も足を踏み入れていない森の中の事。新雪が積もった歩きにくい地面に、一歩足を踏み出すごとにズボズボと膝まで雪に埋まりながら、オルハさんは後ろを振り向きました。
「おい、アリサ。なんでついて来たんだよ」
オルハさんは、わざと顔をいかめしくしかめながら、せいいっぱい偉そうにふんぞり返ってそう尋ねました。振り返る動作で、うっかり転びそうになってしまったのは絶対に秘密です。
「ねえ、オルハ。もう、帰ろうよ」
オルハさんの後ろを、遅れまいとけんめいについて来たオルハさんと同い年の女の子、アリサさんは息を切らしながらそう答えました。
街の子どもたちのガキ大将という立場に君臨しているオルハさんにとって、彼の幼馴染みでありそこそこ可愛らしいアリサさんは、いわゆる『ボスのオンナ』といったポジションにあります。「ケンリョクをにぎる男のとなりには、良いオンナがつきものだ」とは、子分たちに向けて口にしたオルハさんの言です。
出発前に街の子分たちを集めて、冬の森に探検に行く事を宣言したオルハさんでしたが、子分たちは怖がって誰ひとりとしてついて来ようとはしてくれませんでした。
オルハさんが自分の右腕、参謀役として目している同い年のバスク少年曰く。「こんなクソさむい中、たかだかめーしん深い大人へのイシュガエシによけいさむい思いしに行くなんて、メンドーな事はごめん。行くならオルハ一人で行って」と、実にさばさばとクールなご返答を返してきたのです。オルハさんの右腕であるブレーンの少年は、とっても現実主義でした。
だからオルハさんは、ボスのメンツにかけても前言を翻す事なく、単独探検を敢行しなくてはならなくなったのですが……一生懸命反対意見を掲げたアリサさんだけは、森に向かうオルハさんの後を街からずっとついて来ていたのです。「もう帰ろう」の一点張りをクドクドと主張しながら。
「うるさいな。良いからお前だけ先に帰れよ」
「オルハを置いていくなんて、そんなのダメだよ。ねえ、もう森の中ならじゅうぶん歩いたじゃない。帰ろう?」
オルハさんが立ち止まってふんぞり返っている間に、足を早めたアリサさんは、オルハさんのそばにまでたどり着き、その手をギュッと握りしめました。何の前触れもないまま、アリサさんと手袋ごしとはいえ手をつなぐ事になったオルハさんは、心の中ではコッソリどぎまぎしながらぷいとそっぽを向いてしまいます。
「まだだ。冬の妖精のダンスとかいうのを、この目で見てからだ」
「妖精界に連れて行かれちゃうよ!?」
「バカバカしい。オレたちは、冬以外はこの森の中をナワバリにして遊んでんだぜ? 妖精界なんて、カゲもカタチも見た事ないじゃねーか」
オルハさんはフンと鼻を鳴らしながら、寒さにカタカタと小さく震えるアリサさんのピンク色のほっぺたに付いた雪の結晶をそっと払いのけました。アリサさんの温もりに結晶は水滴になって溶け落ちていきます。
そろそろおうちに帰って、震えているアリサさんを暖めてやらなくては、彼女が風邪をひいてしまうなと、オルハさんは眉をしかめながら続きを口にします。
「オレが思うに、妖精の広場ってのはこの先の空き地の事だ。
大人はおおかた、雪がふぶいてきて迷子にならないように、冬は入っちゃダメだって言ってるだけだろ?」
大人たちが言ってくる言葉にこれでも全く何も考えていない訳でもないオルハさんは、「サッサと行って、何もおこらないってショーメイしてやるよ」と、アリサさんに向かって肩を竦めてみせます。実は本当は、この推測を立てたのはブレーンであるバスク少年だったりするのですが、そこはオルハさん、裏事情を女の子の前では伏せておくのも忘れません。
「広場って、この木立をぬけたところだよね?」
「ああ。そこを見回ったら帰る。オレは、ゆうメシにはチコクしない男だ」
雪のせいで足場が不安定なせいか、オルハさんの腕に抱き付きながらたずねてくるアリサさんに、オルハさんはよく分からない自慢を、胸を張って得意気に宣言しました。もしかすると、アリサさんと急接近したせいで、ドキドキしすぎて頭の中がちょっと混乱しているのかもしれません。
「じゃあ、ホントにそこまでだからね?
……あ、ねえオルハ、雪がふってきたよ」
二人がお話ししている間に、パラパラと、森の木々の寒々とした枝からこぼれ落ちてくる雪ではなくて、どんよりと曇ったお空から冷たい風に乗って降りてくる白い結晶に、アリサさんは不安そうに呟きます。
「いそぐか。チンタラしてたら、母ちゃんからメシぬかれちまう」
ギュッとアリサさんの手を握って引きながら、オルハさんはなんでもないように振る舞いつつ、ズボズボと新雪の上を進んで行きます。妖精の広場と予想を立てた……本当に考えたのはバスク少年なのですが……ぽっかりと開けた空き地は、本当にすぐそこだったのです。
アリサさんが歩きやすいように、雪を踏み固めながらえっほ、えっほ、と木立を抜け出たオルハさんは、雪が降り積もった広場の中心部に仁王立ちしながら辺りをぐるりと見回して、それから両腕を組みました。そのお隣に、アリサさんも『ここがマイ・ポジション』とばかりに佇みます。
「雪はちょっとふってるけど……やっぱり、なんにもないな。昼だからか?」
「もっと奥に、本当の妖精の広場があるのかもしれないね」
ビュオォ……!
「やっぱりムダ足か……ま、今日はここで何にもおこらないって、ショーメイしに来たんだしな。よし、帰るかアリサ!」
ビュオォォォ……!
「そうだね、オルハ! さむいし、どんどん白くなっていくし、帰ろ」
ビュオォォォォォ……!
「せっかくだからよ、今夜はウチでメシ食ってけよ。母ちゃんの作るシチュー、最高なんだぜ!」
「うん、楽しみ!」
実に朗らかに語らいながら、オルハさんとアリサさんは、笑顔で広場から離れようと足を踏み出します。
《子らよ、その白々しいさえずりを止めるがよい》
ですがその時、二人のとても大事な『嬉し恥ずかし関係進展の第一歩』に、割って入る冷たい声が響き渡ります!
オルハさんとアリサさんは、しっかりと手を繋ぎあったまま、恐る恐るそちらへと目を向けました。そこには、先ほどから冷気を発して冷たい風を吹き付けてきていた、白い不思議な衣服をまとった青くて長い髪の毛の人がいつの間にか立っていたのです。
「くっ……! このオレのひっさつわざ・その場のノリでうやむやこーげき! をしのぐとは、やるな! 白い男!」
「えっ、あの人、女の人だよね? 髪長いもん」
進退きわまったオルハさんは、ビシッと白い人物に向かって人差し指を突きつけます。必殺技の内容が内容なだけに、オルハさんの微妙なる性格が見え隠れしていますが、それに少しも迷わずうろたえもせず、乗りきるアリサさんとの息の合ったコンビネーションは見事と言うほかありません。
《子らよ。この雪の森はいにしえより我らの領域。決して立ち入らず干渉せずとの契約、よもや破棄するつもりではあるまいな》
「……えっ?」
「冬のこの森はあの人のおうちだから、あたしたちは入っちゃダメだって約束、昔からしてたんだって」
白い人物は、オルハさんとアリサさんの『性別はどちらであるのか議論』を無視して、淡々と問いかけてきます。
ひとまず議論を中断したオルハさんは、眉をしかめました。白い人物の言っている言葉の意味がチンプンカンプンだったので、アリサさんに簡単な言葉に言い直してもらって、やっと理解が追い付きます。
「そんなのはじめて聞いた。オレはただ、『どうして冬にはこの森に入っちゃダメなのか』ホントのコトを知りたかっただけだ」
思わずそう呟いたオルハさんに、白い人物はすぅっと目を細めたのです。
《約定が破られし時、それ即ち我の封じ解き放たれん……!》
白い人物はそんな声と共に両腕を広げ、白い人物の背後からオルハさんとアリサさんに向かって、ビュオォォォ! と冷たい吹雪を吹き付けてきたのです。雪が勢いよく当たってきて、身体中がとても痛くて、目もまともに開けません。オルハさんは、思わず両手で顔を庇います。そう、アリサさんから手を離してしまったのです。
「キャッ!?」
「アリサ!」
その凍てつく強風に煽られて手を離してしまった、体重の軽いアリサさんの身体がぐらりと傾き……痛みを堪えながら、オルハさんは懸命に片手をアリサさんの方へと伸ばしました。オルハさんがはめていたハズの手袋はいつの間にかどこかに飛んでいってしまっていて、真っ白に凍えかじかんだ指先が、雪の合間に少しだけ見えました……
※※※※※
「オルハ? お前、こんなところで立ち止まってどうしたんだ?」
ふと、背後から声を掛けられたオルハさん。昔の出来事を思い出す回想から我に返ったオルハさんは、小さく凍傷の痕が残る自分の両手を見下ろしてから、振り返りました。そちらには、「よっ」と、軽く片手を掲げながら早足で歩み寄ってくる、幼馴染みのバスクさんの姿が。
子どもの時分には毎日のように一緒にいた二人ですが、大人になり別々のお仕事場所で働いているオルハさんとバスクさんは、こうして顔を合わせるのも久しぶりだったりします。
「バスクか……久しぶり」
オルハさんが手のひらを握ったり開いたりしているのを見て、歩み寄ってきたバスクさんはふと、目を伏せました。
「痛むのか?」
「いや、全く。だけど、こういう雪の日は、毎年思い出すな……バカやらかしたガキの頃の事を、さ」
「あれは……アリサの事は、でもお前のせいじゃないだろう!」
なんとなく連れ立っておうちまでの夜道を歩きながら、バスクさんは思わず大きな声を出してしまったのです。けれども、オルハさんはきっぱりと首を左右に振ります。
「お前が悔やむのも、分かる。あの時なんとしてでもオルハを止めておくべきだったって、俺も何度考えたか分からん。
だが、アリサがああなったのは……絶対にオルハのせいじゃない」
言い募るバスクさんには苦笑をもらしただけで、オルハさんは曲がり角で幼馴染みと別れたのです。今度また、一緒にお酒を呑もうと約束を交わして。
家路を急ぐオルハさんの後ろ姿を見送って、バスクさんは小さく溜め息をこぼしたのでした。
※※※※※
強い風に吹き飛ばされてしまったアリサさんは、雪まみれになりながら身を起こして立ち上がると、ぺこりと白い人物に向かって頭を下げました。
「勝手によそ様のおうちに上がりこんで、さわいでごめんなさい」
「……そうだな。人んチに勝手に入って、ごめんなさい」
いったんは不服そうに唇を尖らせたのですが、アリサさんが頭を下げて謝るのを見て、オルハさんも素直にごめんなさいと言いました。内心、「さいしょから、この人の家になってるから入っちゃダメ、って言ってりゃ良いのに」と、街の大人たちに苛立ちながら。
ダンスをしていませんし、妖精という言葉のイメージからはかけ離れた容姿をしていますが、この白い人物が普通の人間ではなさそうだというのは、オルハさんにもアリサさんにも一目で分かります。
白い人物は、ゆっくりと両腕を下ろしてゆきます。そうすると、不思議な事に吹雪も弱まっていったのです。オルハさんは急いでアリサさんのそばに駆け寄り、アリサさんのコートにくっ付いた雪をパンパンとはたいて落としだしました。どこかに手袋がいってしまったせいで、雪をさわった手がとても痛みましたが、オルハさんはガマンします。
白い人物は、オルハさんとアリサさんから視線を外して遠くを眺め、小さく言いました。
《人はなんと愚かで儚く、変わり映えしない生き物である事か……》
「は? なんだって?」
《……人の子よ。我の領域に二度と立ち入らぬと誓え。二度目は無いと、しかと心に刻むがよい》
思わず聞き返したオルハさんの質問には答えず、白い人物は不機嫌そうに言い捨てて、スゥッ……と、真っ白い雪の景色の中へと文字通り溶けて消えていってしまったのです。
《我が眠りにつく、雪割りの花咲くまではな……》
どこからともなく聞こえてくる、そんな言葉を最後に残して。
※※※※※
自分のおうちの玄関にたどり着いたオルハさんは、軽く咳払いをしてからドアノブを回しました。おうちの中に入ると、とても暖かい空気がオルハさんを包み込みます。と、同時に廊下の奥から地響き……もとい、ズンズンというリズミカルな足音が、オルハさんの耳に聞こえてきたのです。
「お帰りなさい、オルハ!」
「ああ、ただいま、アリサ……ゲフッ!?」
待ち構えていたように体当たりを仕掛ける……もとい、大喜びで飛び付いてくるアリサさんと、帰宅のお決まりのスキンシップ、愛の抱擁を交わしたオルハさんは、思わず息が詰まってしまいました。
「どおしたの、あなた?」
「な、なんでもないさ。ハハ、ハハハハ……」
目を白黒させているオルハさんに、アリサさんは不思議そうに首を傾げます。しかし、オルハさんは持ち前の見栄っ張り性分を大いに発揮して、弱味をみせようとしません。
あの、子どもの頃の無謀な冒険、冬の森探検から帰ってきたアリサさんは、オルハさんが手に小さな凍傷を負った事を知り……どういった思考回路でか、『自分が細くて頼りないからだ』という結論に至り、健康的な身体を目指して、ご飯をたくさん食べ、身体を鍛え。大人になった今では、とても逞しい女傑へと素晴らしい成長を遂げていたのです。そこいらの男程度ならば、片手で吹き飛ばせるほどの頼もしさ。
アリサさんの幼少期の華奢な愛らしさを知る幼馴染みの男たちは、『残念すぎる』『オルハ、責任とれ』『無念だ……』『悪夢も真っ青だ』と、アリサさんのいささか特殊な方向性での素晴らしい成長っぷりを、口々に称えています。
そんな素敵な女性へと成長したアリサさんを、『当然、うちの娘をもらってくれるんだろうね?』と、子どもの頃からの二人の睦まじさを知るアリサさんのお父さんから、笑顔で脅さ……もとい、笑顔で結婚のお許しをもらったオルハさんは、無事にアリサさんと幸せに夫婦として暮らす事になったのでした。
「今日もお仕事お疲れ様、オルハ。いつも、約束した時間までにおうちに帰ってきてくれてありがとう」
「当たり前さ。昔から言ってるだろ? オレは、夕飯には遅刻しない男だ」
オルハさんが子どもの頃に思い描いていた未来図とはちょっと違うような気もするのですが、奥さんになったアリサさんへと笑顔で答えながら、オルハさんは温かなご飯が用意されている食卓へと向かいました。
アリサさんの花のような柔らかい微笑み、昔からそれだけは変わらない優しい笑みにこっそりと胸をときめかせながら。
今宵もしんしんと降り続ける雪は、また春になれば、暖かな日差しに包まれる事でしょう。