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なすび  作者: 小田マキ
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前編

 どうも、のぞみ製薬株式会社神奈川営業所MRの真田千尋です。


 今日は営業所のみんなと飲みに行きました。


 花見の時期は過ぎたけれど、先輩MRの桐生敬一郎さんが退職されることになって、それが薬品製造業の大手、グレーシア薬品工業への引き抜きだったり何だったりで、お別れ会兼お祝いです。


 神奈川営業所いきつけの寿司屋『和か竹』で散々盛り上がった後、さあ二次会ってときに所長は持病の腰痛で、同期の山田くんはそんな所長を送っていくって、紅一点で事務員の茜さんは「じゃあ、私もこれで」って……結局残ったのは僕と桐生先輩だけでした。僕も茜さんを送っていきたかったんですが、それは先輩が許してくれなくて、二人で適当な居酒屋を探して転がり込むことになったんです。


 今思えば、それが僕の運の尽き……。





「おらっ、つげ、真田!」


「痛っ……もうやめときましょうよ、一倉さん」


「これが飲まずにやってられますかっ! 早くしなさいっ!」


「いひゃひゃひゃっ……ひんじょぉふぁーーん(新城さーーん)っ!」





 すっかり出来上がった同業者の先輩二人に両脇を固められて、頭を小突き回され、頬をつねり上げられ……真田はとにかく泣きそうだった。


 桐生と入った居酒屋には先客がいたのだ。





 グレーシア薬品工業株式会社神奈川支部エリアリーダー、一倉正和いちくらまさかず


 グレーシア薬品工業株式会社神奈川支部MR、村田碧むらたあおい


 グレーシア薬品工業株式会社神奈川支部MR、新城愛梨しんじょうあいり





 それは製薬会社MRの中では知らない者がいないほどの錚々たるメンバーで、二人の酔いはすっかり吹っ飛んだ。


 しかし、さすがは元のぞみ製薬でトップのMRの桐生、クリアになった頭でしっかり三人の状態を把握……言葉巧みに村田を丸め込んで、一倉、新城に口を挟む間も与えずに二人でドロン。


 そして、機を逸した真田は残り二人の悪酔いMRにあえなく確保、現在に至る。何がどうしてそうなったのかは不明だったが、奥の座敷の掘り炬燵型のテーブルの上に、足元にと、それは相当な数の空になった一升瓶が転がっている。二人から論理的な思考が欠落していることは一目瞭然で、提携製薬会社の先輩をこのまま放置して帰るわけにもいかず、一人正気の真田が世話を焼く以外に道はなかった。


 生まれついての世話焼き肌で、悲しいかな人に使われ慣れている真田……両側から加えられる酔っ払いの加減のない打撃に半泣きになりながらも、今にも灰が零れ落ちそうな一倉の咥え煙草の下には灰皿を差し出したり、新城が不意に突き出した肘にぶつかって倒れそうになった中身の残ったビール瓶を間一髪で捕まえたりと、まるで首から下の神経が切り離されているように、テキパキと惨劇を防いでいる。


 こうなれば、空気が読め過ぎるのも、要領がいいのか悪いのか微妙なところだった。その一部始終をカウンターの奥から見ていた店主は、この乱れようで注文以外は給仕いらずに済んでいる奇跡に、真田を店にスカウトする機会を本気で窺っていた。


「大体なんだっ、あの駄犬! 人の話の途中にっ……」


 駄犬とは桐生敬一郎のことである。今度自分の会社に引き抜かれてくる彼を毛嫌いしている新城は、首尾よく村田を盾にしてこの場を脱出したことをことさら忌々しげに毒づく。きっとそりが合わない先輩MRの村田と彼の仲がいいことも、気に食わないのだろう。


「お前、まだ毒づき足りないのか……もういいから、飲んで忘れろ。


 どうせ、お前も断るつもりだったんだ」


 そんな新城を宥めるように言いながら、一倉は真田に向かって空のコップを差し出した……真田は条件反射のようにその手で押さえていたビールを注いでしまう。一倉はそんな彼の頭をガシガシと、それこそ犬の頭でも撫でるように掻き回した。仕事上での接点はあまりなかったが、この一時間あまりの酒の席で分かった、理不尽な打撃を与えられながらも要求通り小まめに自分の世話を焼く、よく気がつく人の好い真田が殊の外お気に召したらしい。


 よって、すっかり村田と桐生から興味を移した一倉は、こいつなら前後不覚になっても卒なく自分の面倒をみるだろう、と真田にとっては甚だ迷惑なとことん飲む決心を固めたのだ。


「そりゃ、そうですけどねっ……でも、分かったからには、腹立つでしょう! 何で私があの人のお古なんて、掴まされなければならないんですかっ!」


 ガンっと、手に持っていたコップをテーブルに叩き付け、吐き捨てる新城に、真田は小動物のようにビクっと震えながらも、テーブルにぶつかった衝撃でコップから飛び散った日本酒を慌ててお手拭で拭き取る。


「お古ってお前なぁ……別に村田の元彼ってわけじゃないだろ。そんな関係になる前にスルーしたんだから」


 一倉は新城に答えてやりながらも、視線は律儀に働く真田に向けており、その姿に子供時代に飼っていた従順だが気の弱い性格の愛犬の姿を重ねてビールを呷る。


「それが腹立つって言ってるんですよ! あの人が断った見合い話が私に回ってくるっていうのは、私の方があの人よりも劣るとっ……落とし易いって思ってるんじゃないですか!」


 ひどい屈辱だ、と捲くし立てる新城の言葉から、真田は彼女がひどく酒に飲まれている理由を悟った。


 村田の一年後輩の新城は、同じ大学出身でもあり、その足跡を綺麗になぞるような経歴から、彼女と比較されることは少なくない。その村田が断った縁談が自分のもとに持ち込まれたという事実が、新城の高いプライドをひどく傷つけていたのだ……真田は、このとき初めて同情の念を覚える。


「大体あの男もふざけてますよっ、訊いてもないことをベラベラベラベラっ! 何も知らないくせに何が無能ですかっ……断られた腹癒せに相手を罵るなんて、異性どうこういう以前に人間として最低ですよ」


 それが、続けられた言葉に真田はさらに驚いてしまう。顔を合わせば敵愾心剥き出しの慇懃無礼な姿勢、後輩とは思えない強気な態度でチクチク嫌味を言う彼女に、ずっと新城は村田のことを嫌っているものだと思っていたのだ。


「村田さんも村田さんです、見合いの席でくらい嘘の一つも吐けばいいものをっ……そんなだから、いつまでたってもお偉方の心証が悪いんですよ。そろそろうまく立ち回ることを覚えてもらわないと困ります、あの人はグレーシアにとって必要な人なんだから」


 酒のせいとはいえ、初めて吐露された新城の本心に、真田の手は完全に止まり、ほんのりと頬を染める彼女の顔に釘づけになる。


 ああ、この人はまともな人間だったんだ。


 そんな当たり前の言葉がすんなりと心に落ちてきて、真田の新城に対して築いてきた偏見の壁はすっかり粉砕された。


 散々彼女から受けてきた理不尽な仕打ちも吹っ飛び、勝手に口角が上がる……自分でもひどく単純だと思うが、新城の意外な一面を発見したことが、まるで誰も知らない自分だけの秘密基地を見つけた子供のように嬉しかった。


「……っ、何笑ってるんです! 真田のくせにっ!」


「痛ぅっ、いひゃひゃひゃひゃっっ……!」


 新城は自分の顔を覗き込む真田のヘラヘラした笑みが気に食わなかったらしく、酔っ払い特有の加減のない力でその笑み崩れた頬の肉を思いっきりつねる。酔うと見境なく傍にいる者の頬をつねるくせがあるようだ。


 真田にとってはいい迷惑だったが、それでも彼女に対して張っていた気のようなものがなくなって、さきほどに比べれば気分は楽になっていた。実は真田も二人と同じ大学出身者……恐ろしく頭が切れ、おまけに美人で本人非公認のファンクラブまであった村田の噂は七年経って自分が入学したときにも健在だった。さすがにここまで年が離れると恋心まで抱きはしなかったが、同じ業界に進んだ高嶺の花に憧れる気持ちは少なからずあったのだ。同じ人物の人柄に同じように惚れ込んでいるという、一種の連帯感のようなものが真田の心に芽生えていた。


「わはははっ……もっとやってやれ!」


 一倉はそのやや一方的な攻防戦に、相変わらずの微笑ましいとでも言いたげな生温い視線を送りながら、今度は手酌で日本酒をやっている……彼は新城にも、そのまた昔飼っていた寂しがり屋のくせにプライドの高かった愛猫の姿を重ねていたのだ。いい感じに酒が回ってふわふわした頭で、「また何か、生き物飼うかな」などと能天気に考えていた。


「……っ、……うっ……」


 その暴走を止められる人間がいないため、限界に挑戦するかのように真田の頬を引っ張っていた新城は、突然その手で己の口もとを押さえる……綺麗にピンク色に染まっていた頬が、一気に血の気を失っていった。


「新城さん?」


 蒼褪め、口もとを押さえたまま小刻みに震えている新城の様相に、真田はずっとつねられていた頬の痛みも忘れる……まさか。


「……吐くっ……」


 もう片方の手で真田の腕を痛いほどに掴んだ新城は、真田の胸元に向けて首を落とす……予感的中。


「わわわわっ、ここじゃ駄目です、新城さん! ちょっ……済みません!」


 そのまま自分の胸の中にストンと倒れ込んでくるので、真田は慌ててその肩を掴んで立ち上がらせる。そのまま力の全く感じられない新城の身体を、二人羽織のような体勢で担ぎ、店のトイレに向かって走っていった。店を汚しては、自分の上に吐かれては堪らないという思いで、そのときの彼からは営業所員に影で呼ばれている「ヘタレ」という有難迷惑な称号が消え去っていた。


「……おぉー、とうとう限界点突破か」


 一倉は二人の背中を見送りながら、他人事のように呟いていた。


 居酒屋の狭い男女共用トイレに滑り込んだ真田と新城だったが、いざ準備万端に舞台が揃うと、そこは女性で、僅かに理性が蘇ったらしく、新城は冷たい洗面台の縁に両手で縋ったまま吐こうとしない。心配して真田が背中をさすりながら努めて優しい声で諭すも、ゆるゆると頭を振るばかりでその状態が十分近く続き、蒼褪めていた新城の顔からはもう色さえなくなる。





 僕は一体、何をやっているんだろう。






 今日は桐生先輩の送別会で、先輩がちょっと暴走したけど結構楽しく飲んでて……現在片想い中の茜さんとも席が隣で結構話せて、写メまで撮れたし。


 途中までは本当に、すごく楽しかった。





 なのに……今、僕は一体、何をやっているんだろう。





 自分の頭の中の、奥の奥の方から、聞こえる筈がないプッツンという音を聞いたような気がした。


 面と向かって「ヘタレ」、「へなちょこ」呼ばわりされても動じず、笑って濁してきた温厚な真田千尋……今このとき、本気でキレた。


「つまらない意地なんて張ってないで、もういい加減吐いちゃって下さいよっ……失礼します!」


 真田は新城をうしろから羽交い絞めにするように片手で抱き止める。もう一方の手を顔の前に回して唇を割り、ガチガチと噛み合わせを鳴らしている歯の隙間から口の中に無理矢理指を突っ込んだ。


「……ぐっ……!」


 喉の奥まで入ってきた硬い異物感に、さすがに新城も競り上がってくる嘔吐感を堪え切れず、喉につっかえていたものを吐き出した。堰を切ったようにしばらく吐き出し続けたものは胃液に混ざった日本酒やビール等の液体で、つまみ等の固形物の姿はほとんどない。





 食事も取らずに散々飲んだんだ……本当に、悔しかったんだ。






 新城の苦しそうな様相に理性を取り戻した真田は、呆れ半分、同情半分に思う。


「……っ……ご、めん……なさい」


 一しきり吐き尽くしたらしい新城が僅かに目線を上げ、鏡越しにうしろから我が身を支える真田を見遣りながらそう投げ掛けた。プライドの高い彼女からの予想外の謝罪の言葉にはもちろんだったが、鏡越しに見たその涙目に、なぜだか真田の心臓が跳ねる。


「……っ、……いえ、僕も強引なことしちゃって……」


 真田は早口に言ってそれをごまかすが、心の底に何だか妙にもやもやとしたものが残った。





    * * *





 二人が身繕いをしてトイレから出ると、一人で飲んでいた筈の一倉の姿が見当たらない。


「お連れ様は、さきほどお帰りになられましたよ。お代も頂きました」


 きょろきょろとそう広くない店内を見回していた真田に、店主がそう声を掛けてきた。


「あと、こちらをお渡しするようにと」


 そう言って、なぜか店名のプリントされた箸袋を手渡される。


 小首を傾げながらも、一応裏側も引っ繰り返して見てみると、酔った人間の書いたものとは思えないような達筆な細かい文字が並んでいた。




『今日は世話になったな、久しぶりにあとのことを気にせずに飲めた。


 店にタクシー回してもらうように言っといたから、新城のことは頼んだぞ。限界点突破したあいつの扱いにはいつも相当てこずらされるが、お前なら大丈夫だ。俺は明日も早いから任せたぞ、人生の先輩の命令だ。


一倉』





 今宵最高の理不尽な先輩命令を読み終えた真田の顔からは、サーッと血の気が引いていく。


「何よ、あんた……顔色悪いわね。大丈夫?」


 振り向いた先には、頼りない足取りで立ち、カウンターの上に置かれた縁起物らしい大きななすびの置物に話しかけている新城……さきほど感じた心のもやもやも吹っ飛ぶ真田だった。

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