売られた花嫁は、隣国の駅で逃げ出しました
私が十八歳になった春、父は私を売った。
売った、という言葉を、父は使わなかった。
母も、村長も、仲立ちをした女商人も、誰もその言葉だけは避けた。
「嫁に行くのだ」
「おまえのためでもある」
「隣国の大商人様だぞ。村の娘なら、一生見ることもできない暮らしができる」
「家の借金もなくなる」
「これで家が助かる」
皆、そう言った。
けれど、父の手に分厚い金貨袋が渡された時、その袋が重たく沈む音で、私は理解した。
私は嫁に行くのではない。
値をつけられ、買われたのだ。
相手は隣国の大都市オルレアに住む大商人、ガストン・オルランド。
年は六十を過ぎているという。
妻を三人亡くし、四人目を探していると聞いた。
村の人たちは言った。
「金持ちの家なら、飢えることはない」
「親孝行だと思いなさい」
「女は嫁ぎ先で幸せになればいい」
私は笑わなかった。
泣きもしなかった。
泣けば母が困った顔をする。
笑えば父が安心する。
どちらも嫌だった。
私には弟がいた。
リクという名前だった。
けれど、リクはもう家にいない。
去年の冬、山向こうの鍛冶屋へ奉公に出された。
まだ十二歳だった。
薄い上着一枚で馬車に乗せられた弟は、最後まで私の名前を呼んでいた。
父はその時も言った。
「リクが行けば、春まで食える」
母は泣いていた。
泣いていたけれど、止めなかった。
そして今度は、私だった。
弟を売り、次に私を売った。
それでも父も母も、家族のためだと言った。
家族。
その言葉は、いつからこんなに冷たいものになったのだろう。
*
出発の朝、母は私の髪をきつく結った。
栗色の髪を三つ編みにして、白いリボンを結ぶ。
それは、母が昔、祭りの日につけていたものだった。
「向こうで、いい子にしているのよ」
母はそう言った。
「いい子にしていれば、きっと可愛がってもらえるから」
鏡の中の私は、知らない娘のようだった。
色の薄い頬。
古いけれど洗われた旅服。
白いリボン。
市場へ引かれていく子羊も、きっとこんな顔をしている。
「お母さん」
「何?」
「リクの時も、そう思った?」
母の手が止まった。
けれどすぐに、また髪を整え始めた。
「仕方なかったのよ」
それが答えだった。
父は玄関の外で煙草を吸っていた。
私と目を合わせなかった。
仲立ちの女商人マルタは、馬車の前で待っていた。
細い目で私を見て、口元だけで笑う。
「まあ、村娘にしては見られるわね。旦那様は若い娘を好まれるから、大人しくしていれば悪いようにはされないわ」
悪いようにはされない。
その言葉を、本当に信じている顔ではなかった。
*
村から隣国の都市へは、汽車で半日かかる。
私はマルタに連れられて、初めて汽車に乗った。
黒い煙を吐く機関車。
鉄の車輪。
煤けた窓。
湿った革の匂い。
油と石炭の匂い。
硬い座席に腰を下ろすと、膝が小さく震えた。
窓の外では、畑が後ろへ流れていく。
見慣れた森が遠ざかる。
川が遠ざかる。
村の教会の尖塔が、灰色の空に溶けるように小さくなっていく。
私はそれを見ていた。
涙は出なかった。
悲しみが大きすぎると、人は泣けないのだと知った。
向かいの席で、マルタは私を品定めするように眺めていた。
「背筋を伸ばしなさい。旦那様は姿勢の悪い娘を嫌うそうよ」
「はい」
「返事は小さくしすぎない。けれど、生意気に聞こえないように」
「はい」
「向こうへ着いたら、まず旦那様に礼をするの。目を合わせすぎない。笑いなさい。女は笑っていたほうが得をするわ」
「はい」
返事をするたび、自分の声が遠くなる。
まるで私の中からではなく、汽車の壁の向こうから聞こえてくるようだった。
「前の奥様方は、どんな方だったのですか」
私が尋ねると、マルタの目がわずかに動いた。
「前の奥様方?」
「三人、いらしたと聞きました」
「病弱だったのよ」
「三人とも?」
マルタは黙った。
窓の外を、黒い森が流れていく。
枝の隙間に残った雪が、白い骨のように見えた。
「一人目の奥様は、熱病で亡くなったそうよ。二人目は階段から落ちた。三人目は、心を病んで田舎へ帰されたと聞いているわ」
「帰されたのですか」
「そう聞いているだけ」
「その方は今も」
「知らないわ」
マルタは小さく肩をすくめた。
「オルランド様の屋敷から生きて戻ってきた女はいないから」
汽車が鉄橋を渡った。
車輪の音が、床の下から腹の奥へ響く。
がたん、がたん、がたん。
帰れない。
帰れない。
そう告げる音のようだった。
「脅しているわけではないのよ」
マルタは言った。
「大人しくしていればいいの。旦那様は、逆らう女が嫌いなだけ」
逆らう女。
その言葉は、長い針のように胸の奥へ沈んだ。
*
オルレア駅に着いた時、空は低く曇っていた。
駅は、私の知っている世界とはまるで違っていた。
高い鉄骨の屋根。
煤で曇った玻璃。
大きな時計。
石の床に響く無数の靴音。
汽笛。
蒸気。
荷物を運ぶ男たちの怒鳴り声。
香水と石炭と焼き菓子の匂いが混ざり合い、空気そのものが黒く重たく感じられた。
人々は皆、急いでいた。
誰も私を見ていない。
誰も私を知らない。
そのことが恐ろしく、同時に、少しだけ救いのようにも思えた。
私はマルタに腕を掴まれながら、汽車を降りた。
「はぐれないで」
「はい」
「旦那様のお迎えが来ているはずよ」
心臓が急に大きく鳴り始めた。
駅の出口近く。
黒い外套を着た使用人が二人立っていた。
その奥に、老人がいた。
背は高い。
腹は少し出ている。
白い髭を整え、指には大きな宝石の指輪をいくつもはめている。
上等な服。
上等な杖。
上等な帽子。
けれど、その目が嫌だった。
暗く、湿っていて、動きがない。
腐りかけた水の底に沈んだ石のような目。
その目が、私の顔から肩、腰、足元までをゆっくりと見た。
迎えに来た花嫁を見る顔ではなかった。
家畜市場で、羊の脚を見る男の顔だった。
「思ったより痩せているな」
老人は笑わずに言った。
私の足元で、駅の床がひどく冷たく感じられた。
マルタが慌てて笑う。
「村娘ですので。ですが、若くて丈夫です。よく働きます」
「顔を上げろ」
私はゆっくり顔を上げた。
老人の唇は濡れていた。
髭の間から、黄ばんだ歯が少し見えた。
「歯は?」
「……え?」
「歯を見せろ。病気持ちは困る」
胸の奥が冷たくなった。
マルタが私の背中を小さく押す。
「旦那様の前ですよ」
私は唇を少しだけ開いた。
老人は私の口元を覗き込み、満足したように鼻を鳴らした。
「まあ、若い。磨けば見られるようになるだろう。腰は細いが、子を産める年だな」
耳の奥が真っ白になった。
私は人間ではないのだと思った。
この人にとって、私は妻でも、娘でも、名前のある誰かでもない。
若い体。
借金の代わり。
家に置くためのもの。
それだけだ。
「逃げ癖はないだろうな」
老人がマルタに尋ねた。
マルタは笑った。
「この子の両親は、まだ村におりますから。逃げれば違約金を請求できます」
「違約金は三倍だ」
「承知しております」
私は息を止めた。
逃げれば、父と母はひどい目に遭う。
畑も家も取られるかもしれない。
村中から責められるかもしれない。
でも、リクを売ったのは父だ。
私を売ったのも父だ。
母は泣きながら止めなかった。
老人が手を伸ばした。
宝石の指輪をはめた太い指が、私の顎に触れる。
「泣くなよ。泣く女は嫌いだ」
私は泣いていなかった。
泣いていないのに、そう言われた。
「前の女はよく泣いた。泣いても扉は開かんと、最後までわからん女だった」
前の女。
妻ではなく、前の女。
老人は私の髪を見た。
「屋敷に着いたら、まず髪を切らせるか。窓のある部屋も必要ないな。外を見ると女は余計なことを考える」
その言葉で、私の中の何かが切れた。
母が結んだ白いリボン。
リクが「姉ちゃん、町のお嬢様みたいだ」と笑った髪。
私に残された、わずかな私のもの。
それさえ、この人は当然のように奪うつもりなのだ。
老人が使用人に顎で合図した。
「馬車へ乗せろ。両側を固めろ。屋敷に着くまで手を離すな」
使用人が私の荷物へ手を伸ばす。
その時、駅の奥で汽笛が鳴った。
鋭く、長く、天井の玻璃を震わせる音だった。
白い蒸気が一気に噴き上がる。
人々が一斉にそちらを振り返る。
マルタの手が、私の腕から少しだけ緩む。
老人の視線が外れる。
今しかない。
私は荷物を落とした。
どさり、と小さな鞄が床に倒れ、中身が少しこぼれる。
マルタがそちらを見た。
その一瞬に、私は走り出した。
*
「待て!」
叫び声が背中に刺さる。
振り返らない。
振り返れば足が止まる。
人混みに飛び込む。
肩がぶつかる。
誰かの帽子が落ちる。
スカートの裾を踏まれ、膝がかくんと折れた。
転びそうになったところを、私は近くの柱に手をついてこらえた。
出口は前方。
けれど、黒い外套の使用人がすでに回り込んでいた。
私は反射的に左へ曲がった。
荷物台の列。
木箱。
麻袋。
積まれた旅行鞄。
その隙間に体を押し込む。
背後から男の手が伸びた。
肩を掴まれた。
終わった。
そう思った瞬間、布が裂ける音がした。
掴まれたのは外套の肩だった。
古い縫い目が破れ、私は前へ転がるように抜けた。
「この娘!」
男が怒鳴る。
私は膝を打った。
痛い。
けれど痛がる時間はない。
立ち上がって走る。
駅員用の細い通路に飛び込むと、そこには掃除用具と古い荷車が置かれていた。
行き止まり。
違う。
奥に低い扉がある。
私は扉の取っ手を掴んだ。
開かない。
鍵がかかっている。
背後から足音が近づく。
「そっちへ行ったぞ!」
私は扉を叩いた。
誰もいない。
もう終わりだ。
その時、横の壁に、小さな通気口があるのが見えた。
人が通れる大きさではない。
でも、木枠は古い。
私は掃除用具の柄を掴み、夢中で木枠を叩いた。
一度。
二度。
三度。
木が割れた。
指に棘が刺さる。
血がにじむ。
それでも木枠を引き剥がし、体を横にして押し込む。
狭い。
胸がつかえる。
スカートが引っかかる。
後ろから男の手が伸びた。
足を掴まれた。
「捕まえたぞ!」
私は悲鳴を飲み込んだ。
足を必死に蹴る。
靴が脱げた。
男の手には、私の片方の靴だけが残った。
私は通気口の向こうへ転がり落ちた。
石の床に肩を打つ。
息が止まる。
そこは、駅の地下通路だった。
薄暗く、湿った匂いがした。
天井の低い通路に、遠くから水の落ちる音が響いている。
上では男たちが怒鳴っていた。
私は片足だけ靴下のまま、走り出した。
右か、左か。
わからない。
でも、立ち止まれば捕まる。
左へ曲がる。
階段を見つける。
上がる。
扉を押す。
そこは貨物ホームだった。
石炭の匂い。
油の匂い。
貨車の連結音。
夜のように暗い屋根の下で、作業員たちが怒鳴り合っている。
私は柱の陰に身を隠した。
黒い外套の男が二人、ホームへ降りてくるのが見えた。
早い。
駅員に話をつけたのかもしれない。
私は息を殺した。
片足が冷たい。
靴下はすでに真っ黒だ。
白い旅服は破れ、髪はほどけ、頬は煤で汚れている。
それでも、まだ私は見つかるだろう。
女の服を着ている限り。
私は貨物の陰に干されていた作業員用の上着を見た。
盗むことになる。
でも、ためらっていたら捕まる。
私はそれを掴み、上から羽織った。
髪を帽子の中へ押し込み、顔の煤をわざと広げる。
白いリボンは、もうない。
靴も片方ない。
十八年間、いい娘でいようとしてきた私が、どんどん剥がれていく。
それでも、足は止まらなかった。
「おい、そこの!」
駅員に呼び止められた。
私は振り返らず、低く咳き込むふりをした。
「石炭積みの手伝いか?」
私は首を縦に振った。
声を出せば女だとばれる。
「なら急げ。三番貨車が出るぞ」
駅員はそれ以上見なかった。
私は貨車のほうへ歩いた。
走らない。
走れば怪しまれる。
でも背後から、マルタの声が聞こえた。
「白い服の娘よ! 栗色の髪の娘! 見つけたら捕まえて!」
心臓が跳ねた。
私は貨車の影へ入った。
三番貨車は石炭を積んでいた。
黒い山。
汚い。
冷たい。
でも、隠れるにはちょうどよかった。
私は貨車の縁に手をかけた。
高い。
片足ではうまく上がれない。
爪が割れそうになる。
背後で足音が近づく。
「この辺りを探せ!」
私は歯を食いしばり、貨車の金具に足をかけた。
手のひらが痛い。
片方の靴下が破れる。
それでも体を引き上げ、石炭の中へ転がり込んだ。
冷たく硬い石炭が、腕と頬に食い込む。
私は体を丸め、黒い山の陰に沈んだ。
男たちがすぐそばまで来た。
「貨車も見ろ」
足音。
はしごを上る音。
私は息を止めた。
咳が出そうだった。
石炭の粉が喉に入り、目に涙が浮かぶ。
男が貨車の上から中を覗き込む。
私は石炭を両手で掴み、自分の肩と髪にかぶせた。
黒くなれ。
ただの石になれ。
娘ではなくなれ。
「石炭だけだ」
男が言った。
「白い服の娘がこんなところに入るかよ」
別の男が笑った。
「向こうだ。市場へ逃げたんだろう」
足音が遠ざかる。
私はまだ動かなかった。
動けなかった。
その時、貨車が大きく揺れた。
連結の鎖が鳴る。
汽車が動き出す。
しまった。
どこへ行くのかもわからない。
でも降りれば見つかる。
ホームの向こうに、老人が見えた。
杖を握りしめ、顔を真っ赤にして怒鳴っている。
マルタが駅員に何かを訴えている。
黒い外套の男たちが走っている。
私は石炭の中に身を沈めた。
汽車はゆっくりと、でも確実に駅を離れていく。
逃げた。
本当に、逃げてしまった。
父と母はどうなるのだろう。
違約金を払えと言われるだろう。
畑を取られるかもしれない。
村で責められるかもしれない。
けれど、リクを売ったのは父だ。
私を売ったのも父だ。
母は泣きながら止めなかった。
その事実が、私の胸に冷たく刺さっている。
私は悪い娘だ。
親不孝だ。
それでも、この貨車から飛び降りて戻ることだけは、もうできなかった。
汽車が速度を上げる。
駅の大時計が遠ざかる。
老人も、マルタも、全部が小さくなっていく。
私は石炭にまみれた両手で顔を覆った。
声を出さずに泣いた。
誰も助けてくれなかった。
誰も手を引いてくれなかった。
私は、自分で逃げた。
自分で選んだ。
それなのに、胸の奥でまだ、母の声がする。
『おまえが行けば、家が助かるのよ』
私は、その声に初めて心の中で答えた。
ごめんなさい。
でも、私はもう、売られたくない。
*
貨車が止まったのは、夜更け近くだった。
私は石炭の中で眠っていたらしい。
体が冷え切っていて、指先の感覚がなかった。
外では、作業員の声がする。
途中駅だ。
ここで降りなければ、どこまで行くのかわからない。
私は貨車の縁からそっと顔を出した。
小さな駅だった。
オルレアの大駅とは違い、灯りも少なく、人影もまばらだ。
私は貨車から降りようとした。
その時、聞き覚えのある声がした。
「栗色の髪の娘よ。十八歳くらい。白い旅服を着ている」
マルタだった。
息が止まった。
彼女は追ってきていた。
駅員に金を渡している。
黒い外套の男も二人いる。
私は慌てて貨車の陰に身を隠した。
だが、足元の石炭が崩れた。
小さな音だった。
でも、男がこちらを見た。
「今、音がしたぞ」
私は走った。
けれど、片方の靴がない足では速く走れない。
石畳に足裏が擦れて、焼けるように痛い。
貨物の柱を回り込んだところで、誰かに腕を掴まれた。
「捕まえた」
黒い外套の男だった。
私は暴れた。
腕を引く。
蹴る。
噛みつこうとする。
だが、もう一人の男が反対側の腕を掴む。
「暴れるな!」
頬を打たれた。
世界が白く弾けた。
膝から力が抜ける。
私は駅舎の中へ引きずられた。
マルタが私を見下ろしていた。
その顔には、昼間の笑みはなかった。
「馬鹿な子ね」
彼女は冷たく言った。
「逃げられると思ったの?」
私は答えられなかった。
口の中に血の味がした。
「オルランド様はお怒りよ。あなたの父親に違約金を請求するとおっしゃっているわ。もちろん、あなたもただでは済まない」
私の胸が凍る。
「旦那様の馬車が明け方には着く。それまでここにいなさい」
私は駅舎奥の小さな物置へ押し込まれた。
扉が閉められる。
鍵がかかる。
暗闇が落ちた。
*
絶望というものには、音がない。
私は物置の床に座り込んでいた。
石炭まみれの服。
片方だけの靴。
腫れた頬。
血のにじむ指。
扉には鍵。
窓はない。
外ではマルタと駅員の声がする。
「明け方まで見張ればいい」
「オルランド様から礼は?」
「十分に出るわ」
「逃げた娘はどうなる?」
「屋敷へ戻れば、二度と外へは出られないでしょうね」
マルタは笑った。
「前の奥様たちと同じよ」
私は膝を抱えた。
逃げられなかった。
あれほど走ったのに。
リボンも靴も捨てたのに。
石炭まみれになって、貨車に隠れて、泣きながら駅を離れたのに。
結局、捕まった。
明け方には、あの老人が来る。
老人は私の髪を切るだろう。
窓のない部屋へ入れるだろう。
泣いても扉は開かないと言った。
前の女のように。
前の奥様たちのように。
私は、自分がどこか遠くの屋敷で、少しずつ声を失っていく姿を想像した。
嫌だ。
嫌だ。
でも、もうどうにもならない。
私は初めて、声を出して泣きそうになった。
その時、物置の外で足音がした。
鍵が鳴る。
扉が少しだけ開いた。
私は身を固くした。
入ってきたのは、四十を過ぎたくらいの女だった。
袖をまくり、赤く荒れた手をしている。
大きな洗濯籠を運んでいた。
駅の洗濯係だろう。
女は私を見るなり、息を呑んだ。
石炭まみれで、頬を腫らし、片方の靴を失った私を見て。
「……あんた、逃げてきたんだってね」
私は何も言えなかった。
女は扉の外を見た。
見張りの男たちは少し離れたところで話している。
女は小さな声で言った。
「オルランドに買われたのかい」
私は頷いた。
女の顔が歪んだ。
怒りとも、悲しみともつかない顔だった。
「あの男は、まだやってるのか」
「知っているんですか」
「娘がいた」
女は短く答えた。
「十六だった。あの屋敷へ下働きに出された。給金がいいと言われてね。私は、行けば幸せになると思った」
彼女の声は震えていなかった。
だからこそ、痛かった。
「一年後、帰ってきたのは小さな箱だけだった。病気だと言われた。でも、あの子は出ていく時、どこも悪くなかった」
私は息を呑んだ。
「娘の名前は、ネリアだった」
女はそう言った。
その名前は、暗い物置の中で小さく灯る火のように聞こえた。
「あんた、あの屋敷へ行ったら戻れないよ」
わかっていた。
でも、他人の口から言われると、胸の奥が冷たく落ちた。
女は二つの大きな洗濯籠を乗せた台車を私に近づけた。
私は迷っていた。
助けを求めれば、この女も危ない。
それは私にもわかった。
マルタたちは金を持っている。
駅員を買収できる。
この女が私を隠したと知られれば、どんな目に遭うかわからない。
もうこれ以上、私のために人を巻き込みたくなかった。
私は小さく首を振った。
「いいです。私、もう」
「もう?」
「逃げられません」
女の目が、鋭くなった。
「逃げる前に諦めるんじゃないよ」
「でも、あなたまで」
「私はもう、一度見送った」
女は低く言った。
「泣いている娘を、何もしないで見送った。二度はしない」
外から声がした。
「おい、洗濯女。まだか」
女はすばやく動いた。
私の上着を脱がせ、代わりに黒い作業着を押しつける。
「着替えな。早く」
「でも」
「早く!」
私は震える手で服を替えた。
女は私の髪を帽子の中へ押し込み、顔の煤をさらに広げた。
そして大きな洗濯籠の中へ、私を押し込んだ。
濡れた布が重い。
冷たい。
息が苦しい。
その上から、さらにシーツが何枚もかけられる。
「なぜ」
私は布の下で小さく聞いた。
女は短く答えた。
「ネリアを、今度こそ逃がすんだよ」
女は、洗濯布をまとめて、私が先ほどまで着ていた服を被せる。
暗い部屋では、遠目には私が横たわっているように見えるだろう。
女は私を隠した洗濯籠を乗せ台車を押して、扉の外に出た。
「おい、何をしてる」
黒い外套の男の声だった。
女は面倒そうに答えた。
「汚れ物を回収してるんだよ。娘が石炭まみれで床を汚したからね」
「洗濯籠を見せろ」
布の下で、私は息を止めた。
女の手が、洗濯籠の縁に置かれる。
彼女は少し黙った。
そして、わざと大きな声で言った。
「いいよ。見るなら見な」
終わった。
私は目を閉じた。
その時、女は洗濯籠の別の山を蹴った。
濡れた下着と作業服が床にどさりと落ちる。
「ただし、あんたが触った洗濯物は全部、自分で洗い直しな!」
「汚いな!」
「汚いとは何だい!」
女が怒鳴る。
その勢いに、男が一歩引いたのがわかった。
男はちらっと部屋の中を覗き、作られた私を見て、舌打ちした。
「もういい。早く行け」
「言われなくても行くよ。あの娘のせいで仕事が増えたんだからね」
女は散らばった洗濯物をもとに戻した。
私は布の下でさらに丸くなる。
廊下へ出る。
マルタの声が近くでした。
「逃げた娘を甘く見ないで。ああいう子ほど、急に何をするかわからないのよ」
足音が止まった。
洗濯籠が少し傾く。
私は息を止める。
「中を見た?」
マルタが尋ねた。
男が答える。
「汚れ物だけだ」
「本当に?」
「ならおまえが見るか。臭いぞ」
マルタは舌打ちした。
「早く行って」
籠が再び動き出す。
私は布の下で、泣きそうになりながら口を押さえた。
助かった。
いや、まだ助かっていない。
駅舎の裏口が開く音がした。
冷たい夜風が入る。
幾重にも重なっていた布がめくられる。
私は空気を吸い込んだ。
女は小さな包みを差し出した。
中には、古い靴、硬いパン、少しの硬貨が入っていた。
「裏の水路沿いに歩くんだ。明け方、東へ向かう荷馬車が出る。御者には顔を見せるんじゃないよ。荷の陰に潜るんだよ」
「あなたは」
「私はここに残る」
「でも、見つかったら」
「わかってる」
女は私を見た。
「娘を助けられなかった母親には、それくらいの罰がちょうどいい」
「罰じゃありません」
思わず言った。
女は少しだけ驚いた顔をした。
私は泣きそうになりながら続けた。
「あなたは、私を助けてくれました」
女は何か言いかけて、やめた。
そして、私に帽子をかぶせた。
「なら、助かったままでいな」
その言葉で、私は立ち上がった。
足は震えていた。
でも歩いた。
裏口を出る前に、一度だけ振り返る。
女はもう私を見ていなかった。
洗濯物を拾い、台車を押している。
まるで何事もなかったかのように。
私はその背中に頭を下げた。
名前は聞けなかった。
でも、娘の名前は覚えた。
ネリア。
逃げられなかった娘。
その母親が、私を逃がしてくれた。
私が生きていかなければ、あの人の嘘まで無駄になる。
そう思った。
*
それから先のことは、細切れにしか覚えていない。
夜の水路沿い。
凍える足。
東へ向かう荷馬車。
藁の中に潜り込んで、息を殺していた時間。
遠ざかる駅の灯り。
明け方の灰色の空。
どこかの村外れで降りて、畑の畦道を歩いたこと。
硬いパンを少しずつかじったこと。
水たまりの水を飲み、腹を壊し、三日間、納屋の陰で震えていたこと。
それでも、歩き続けた。
捕まれば終わりだとわかっていたから。
やがて、私は隣国の小さな村にたどり着いた。
名前を変えた。
ミラ、と名乗った。
本当の名は捨てた。
最初は洗濯屋の下働きになった。
洗って、干して、たたむ。
手は荒れた。
腰は痛んだ。
でも、働いた分だけ食べられた。
叱られても、売られはしなかった。
それだけで、十分すぎるほど幸せだった。
一年目、私はよく夢を見た。
駅の大時計。
老人の指輪。
黒い外套。
鍵のかかる物置。
濡れた洗濯物の重さ。
目が覚めると、胸が痛くて息ができなかった。
二年目、夢は少し減った。
代わりに、朝の井戸の冷たさや、村の鐘の音を覚えた。
三年目、私は村の修理屋で働くエリオと知り合った。
彼は壊れた椅子や鍋や扉を直す人だった。
余計なことを聞かない人でもあった。
私の片足が寒い日に痛むことに気づいても、理由を尋ねなかった。
ただ、古い靴を直してくれた。
「代金は」
私が尋ねると、彼は言った。
「今度、洗濯物を早めに仕上げてくれたらそれでいい」
「それだけ?」
「それだけ」
私はその言葉に、少しだけ泣きそうになった。
何かを差し出さなければ、何も得られないと思っていた。
でも、エリオは私を買おうとしなかった。
なにか求めようともしなかった。
ただ、隣で歩ける速さを待ってくれる人だった。
*
さらに数年が過ぎた。
私は隣国の小さな村で暮らしている。
夫となったエリオと一緒に、小さな修理屋兼洗濯屋を営んでいる。
朝は鶏の声で目を覚ます。
井戸の水で顔を洗い、台所でスープを温める。
エリオは壊れた椅子を直し、私は洗濯物を干す。
店の奥には、小さな部屋がある。
行き場のない女の人が、一晩だけ休めるようにしている部屋だ。
理由は聞かない。
名前も、言いたくなければ聞かない。
ただ、温かいスープと乾いた服を出す。
必要なら、東へ向かう荷馬車の時間を教える。
すべてを救えるわけではない。
それは知っている。
でも、あの日、私が洗濯籠の中で息を潜めたように。
誰かが逃げ切るための一瞬を作ることはできる。
私は故郷のことを、忘れたわけではない。
父と母がどうなったのか、今も時々考える。
畑を取られただろうか。
村で責められただろうか。
オルランドから取り立てられただろうか。
私は答えを知らない。
知る勇気も、まだない。
それでも、あの日の駅へ戻りたいとは思わない。
リクを売ったのは父だ。
私を売ったのも父だ。
母は泣きながら止めなかった。
私は家族を救えなかったのかもしれない。
けれど、私まで売り渡される必要はなかった。
そう思えるようになるまで、何年もかかった。
*
その年の冬、娘が生まれた。
雪の降る夜だった。
窓の外で風が鳴り、屋根に積もった雪が時々ずり落ちた。
暖炉の火は小さく、けれど部屋の中は温かかった。
エリオはずっと私の手を握っていた。
何度も水を替え、布を温め、私の額の汗を拭いた。
明け方近く、細い泣き声が部屋に響いた。
小さな、小さな女の子だった。
赤い顔で、握った手は驚くほど強かった。
私はその子を胸に抱いた。
柔らかくて、温かくて、信じられないくらい軽かった。
でも、その重さは、私の人生のどんな荷物より確かだった。
「名前は」
エリオが静かに尋ねた。
私は赤ん坊の顔を見た。
小さなまぶた。
濡れた睫毛。
まだ何も知らない口。
その子は、誰にも売られない。
誰かの借金の代わりにはならない。
誰かの都合で、遠い屋敷へ送られることもない。
私は、この子をそういう世界に渡さない。
「ネリア」
声に出すと、胸の奥が震えた。
「ネリアにしたい」
エリオは一瞬だけ目を伏せた。
一度だけ、私は話したことがある。
駅の物置で、洗濯籠に私を隠してくれた女のこと。
逃げられなかった娘のこと。
「いい名前だ」
エリオは言った。
「うん」
私は娘を抱きしめた。
ネリア。
逃げられなかった娘の名前。
逃げる娘を見送った母親の祈り。
その名を、私は自分の娘に渡した。
悲しみとしてではない。
呪いとしてでもない。
今度こそ、生きるための名前として。
*
ネリアはよく笑う子になった。
春には庭の土を握りしめ、夏には洗濯物の下を走り回り、秋には落ち葉を集めては私の前に差し出した。
冬になると、エリオの膝の上で眠る。
彼女の髪は、私と同じ栗色だった。
時々、白いリボンを結びたいと言う。
私はそのたびに、少しだけ胸が痛む。
けれど、結んでやる。
きつくではなく、すぐほどけるように。
この子が走りたい時に、邪魔にならないように。
ある朝、ネリアは台所の椅子に座って、私に尋ねた。
「お母さん、今日は何を食べる?」
私は思わず笑った。
エリオが毎朝、私に聞いてくれる言葉だった。
「温かいスープがいいわ」
「わたしも」
ネリアは嬉しそうに笑った。
その当たり前が、私の幸せだった。
何を食べるか。
どこへ行くか。
誰と暮らすか。
そんな小さなことを、自分で選べること。
そして、娘にも選ばせてやれること。
私は鍋に火を入れる。
炎が小さく揺れる。
あの日、石炭にまみれて貨車の中で泣いていた娘に教えてあげたい。
あなたは悪い娘かもしれない。
親不孝と呼ばれるかもしれない。
それでも、逃げていい。
生きる場所を、自分で選んでいい。
私は今も、故郷の夢を見る。
駅の夢も見る。
暗い物置の夢も見る。
けれど目覚めた時、ここには温かい台所がある。
私を買わなかった人がいる。
私を選ばせてくれる暮らしがある。
そして、私の腕の中で眠った娘がいる。
ネリア。
あの夜、逃げられなかった娘の名前を持つ子。
でもこの子は逃げなくていい。
逃げなくてもいい場所で、生きていける。
そういう家を、私は作りたかった。
エリオがパンを切り、ネリアが小さな手で皿を並べる。
窓の外では、隣国の村に朝日が差している。
白い光が、洗濯物の端をゆっくり照らしていく。
私はスープをよそう。
湯気が上がる。
今日も、私の選んだ一日が始まる。
私はもう、売られた花嫁ではない。
私は、私の人生を取り戻した人間だ。
そして今度は、この子が自分の人生を誰にも奪われずに歩けるように、ここで生きていく。




