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売られた花嫁は、隣国の駅で逃げ出しました

作者: くるみ
掲載日:2026/07/14

 私が十八歳になった春、父は私を売った。


 売った、という言葉を、父は使わなかった。

 母も、村長も、仲立ちをした女商人も、誰もその言葉だけは避けた。


「嫁に行くのだ」

「おまえのためでもある」

「隣国の大商人様だぞ。村の娘なら、一生見ることもできない暮らしができる」

「家の借金もなくなる」

「これで家が助かる」


 皆、そう言った。

 けれど、父の手に分厚い金貨袋が渡された時、その袋が重たく沈む音で、私は理解した。

 私は嫁に行くのではない。

 値をつけられ、買われたのだ。


 相手は隣国の大都市オルレアに住む大商人、ガストン・オルランド。

 年は六十を過ぎているという。

 妻を三人亡くし、四人目を探していると聞いた。


 村の人たちは言った。


「金持ちの家なら、飢えることはない」

「親孝行だと思いなさい」

「女は嫁ぎ先で幸せになればいい」


 私は笑わなかった。

 泣きもしなかった。

 泣けば母が困った顔をする。

 笑えば父が安心する。

 どちらも嫌だった。


 私には弟がいた。

 リクという名前だった。

 けれど、リクはもう家にいない。

 去年の冬、山向こうの鍛冶屋へ奉公に出された。


 まだ十二歳だった。

 薄い上着一枚で馬車に乗せられた弟は、最後まで私の名前を呼んでいた。

 父はその時も言った。


「リクが行けば、春まで食える」


 母は泣いていた。

 泣いていたけれど、止めなかった。


 そして今度は、私だった。

 弟を売り、次に私を売った。

 それでも父も母も、家族のためだと言った。


 家族。

 その言葉は、いつからこんなに冷たいものになったのだろう。


     *


 出発の朝、母は私の髪をきつく結った。

 栗色の髪を三つ編みにして、白いリボンを結ぶ。

 それは、母が昔、祭りの日につけていたものだった。


「向こうで、いい子にしているのよ」


 母はそう言った。


「いい子にしていれば、きっと可愛がってもらえるから」


 鏡の中の私は、知らない娘のようだった。

 色の薄い頬。

 古いけれど洗われた旅服。

 白いリボン。

 市場へ引かれていく子羊も、きっとこんな顔をしている。


「お母さん」


「何?」


「リクの時も、そう思った?」


 母の手が止まった。

 けれどすぐに、また髪を整え始めた。


「仕方なかったのよ」


 それが答えだった。


 父は玄関の外で煙草を吸っていた。

 私と目を合わせなかった。

 仲立ちの女商人マルタは、馬車の前で待っていた。

 細い目で私を見て、口元だけで笑う。


「まあ、村娘にしては見られるわね。旦那様は若い娘を好まれるから、大人しくしていれば悪いようにはされないわ」


 悪いようにはされない。

 その言葉を、本当に信じている顔ではなかった。


     *


 村から隣国の都市へは、汽車で半日かかる。

 私はマルタに連れられて、初めて汽車に乗った。


 黒い煙を吐く機関車。

 鉄の車輪。

 煤けた窓。

 湿った革の匂い。

 油と石炭の匂い。

 硬い座席に腰を下ろすと、膝が小さく震えた。

 窓の外では、畑が後ろへ流れていく。

 見慣れた森が遠ざかる。

 川が遠ざかる。

 村の教会の尖塔が、灰色の空に溶けるように小さくなっていく。

 私はそれを見ていた。


 涙は出なかった。


 悲しみが大きすぎると、人は泣けないのだと知った。

 向かいの席で、マルタは私を品定めするように眺めていた。


「背筋を伸ばしなさい。旦那様は姿勢の悪い娘を嫌うそうよ」


「はい」


「返事は小さくしすぎない。けれど、生意気に聞こえないように」


「はい」


「向こうへ着いたら、まず旦那様に礼をするの。目を合わせすぎない。笑いなさい。女は笑っていたほうが得をするわ」


「はい」


 返事をするたび、自分の声が遠くなる。

 まるで私の中からではなく、汽車の壁の向こうから聞こえてくるようだった。


「前の奥様方は、どんな方だったのですか」


 私が尋ねると、マルタの目がわずかに動いた。


「前の奥様方?」


「三人、いらしたと聞きました」


「病弱だったのよ」


「三人とも?」


 マルタは黙った。

 窓の外を、黒い森が流れていく。

 枝の隙間に残った雪が、白い骨のように見えた。


「一人目の奥様は、熱病で亡くなったそうよ。二人目は階段から落ちた。三人目は、心を病んで田舎へ帰されたと聞いているわ」


「帰されたのですか」


「そう聞いているだけ」


「その方は今も」


「知らないわ」


 マルタは小さく肩をすくめた。


「オルランド様の屋敷から生きて戻ってきた女はいないから」


 汽車が鉄橋を渡った。

 車輪の音が、床の下から腹の奥へ響く。


 がたん、がたん、がたん。


 帰れない。

 帰れない。


 そう告げる音のようだった。


「脅しているわけではないのよ」


 マルタは言った。


「大人しくしていればいいの。旦那様は、逆らう女が嫌いなだけ」


 逆らう女。

 その言葉は、長い針のように胸の奥へ沈んだ。


     *


 オルレア駅に着いた時、空は低く曇っていた。

 駅は、私の知っている世界とはまるで違っていた。


 高い鉄骨の屋根。

 煤で曇った玻璃。

 大きな時計。

 石の床に響く無数の靴音。

 汽笛。

 蒸気。

 荷物を運ぶ男たちの怒鳴り声。

 香水と石炭と焼き菓子の匂いが混ざり合い、空気そのものが黒く重たく感じられた。


 人々は皆、急いでいた。


 誰も私を見ていない。

 誰も私を知らない。

 そのことが恐ろしく、同時に、少しだけ救いのようにも思えた。


 私はマルタに腕を掴まれながら、汽車を降りた。


「はぐれないで」


「はい」


「旦那様のお迎えが来ているはずよ」


 心臓が急に大きく鳴り始めた。


 駅の出口近く。

 黒い外套を着た使用人が二人立っていた。

 その奥に、老人がいた。


 背は高い。

 腹は少し出ている。

 白い髭を整え、指には大きな宝石の指輪をいくつもはめている。


 上等な服。

 上等な杖。

 上等な帽子。


 けれど、その目が嫌だった。

 暗く、湿っていて、動きがない。

 腐りかけた水の底に沈んだ石のような目。


 その目が、私の顔から肩、腰、足元までをゆっくりと見た。

 迎えに来た花嫁を見る顔ではなかった。

 家畜市場で、羊の脚を見る男の顔だった。


「思ったより痩せているな」


 老人は笑わずに言った。

 私の足元で、駅の床がひどく冷たく感じられた。

 マルタが慌てて笑う。


「村娘ですので。ですが、若くて丈夫です。よく働きます」


「顔を上げろ」


 私はゆっくり顔を上げた。

 老人の唇は濡れていた。

 髭の間から、黄ばんだ歯が少し見えた。


「歯は?」


「……え?」


「歯を見せろ。病気持ちは困る」


 胸の奥が冷たくなった。

 マルタが私の背中を小さく押す。


「旦那様の前ですよ」


 私は唇を少しだけ開いた。

 老人は私の口元を覗き込み、満足したように鼻を鳴らした。


「まあ、若い。磨けば見られるようになるだろう。腰は細いが、子を産める年だな」


 耳の奥が真っ白になった。

 私は人間ではないのだと思った。

 この人にとって、私は妻でも、娘でも、名前のある誰かでもない。


 若い体。

 借金の代わり。

 家に置くためのもの。

 それだけだ。


「逃げ癖はないだろうな」


 老人がマルタに尋ねた。

 マルタは笑った。


「この子の両親は、まだ村におりますから。逃げれば違約金を請求できます」


「違約金は三倍だ」


「承知しております」


 私は息を止めた。

 逃げれば、父と母はひどい目に遭う。

 畑も家も取られるかもしれない。

 村中から責められるかもしれない。


 でも、リクを売ったのは父だ。

 私を売ったのも父だ。

 母は泣きながら止めなかった。


 老人が手を伸ばした。

 宝石の指輪をはめた太い指が、私の顎に触れる。


「泣くなよ。泣く女は嫌いだ」


 私は泣いていなかった。

 泣いていないのに、そう言われた。


「前の女はよく泣いた。泣いても扉は開かんと、最後までわからん女だった」


 前の女。

 妻ではなく、前の女。


 老人は私の髪を見た。


「屋敷に着いたら、まず髪を切らせるか。窓のある部屋も必要ないな。外を見ると女は余計なことを考える」


 その言葉で、私の中の何かが切れた。


 母が結んだ白いリボン。

 リクが「姉ちゃん、町のお嬢様みたいだ」と笑った髪。

 私に残された、わずかな私のもの。

 それさえ、この人は当然のように奪うつもりなのだ。


 老人が使用人に顎で合図した。


「馬車へ乗せろ。両側を固めろ。屋敷に着くまで手を離すな」


 使用人が私の荷物へ手を伸ばす。

 その時、駅の奥で汽笛が鳴った。

 鋭く、長く、天井の玻璃を震わせる音だった。

 白い蒸気が一気に噴き上がる。


 人々が一斉にそちらを振り返る。

 マルタの手が、私の腕から少しだけ緩む。

 老人の視線が外れる。


 今しかない。


 私は荷物を落とした。

 どさり、と小さな鞄が床に倒れ、中身が少しこぼれる。

 マルタがそちらを見た。


 その一瞬に、私は走り出した。


     *


「待て!」


 叫び声が背中に刺さる。

 振り返らない。

 振り返れば足が止まる。

 人混みに飛び込む。

 肩がぶつかる。

 誰かの帽子が落ちる。


 スカートの裾を踏まれ、膝がかくんと折れた。

 転びそうになったところを、私は近くの柱に手をついてこらえた。


 出口は前方。

 けれど、黒い外套の使用人がすでに回り込んでいた。

 私は反射的に左へ曲がった。


 荷物台の列。

 木箱。

 麻袋。

 積まれた旅行鞄。

 その隙間に体を押し込む。


 背後から男の手が伸びた。

 肩を掴まれた。


 終わった。

 そう思った瞬間、布が裂ける音がした。


 掴まれたのは外套の肩だった。

 古い縫い目が破れ、私は前へ転がるように抜けた。


「この娘!」


 男が怒鳴る。

 私は膝を打った。


 痛い。

 けれど痛がる時間はない。

 立ち上がって走る。

 駅員用の細い通路に飛び込むと、そこには掃除用具と古い荷車が置かれていた。


 行き止まり。


 違う。

 奥に低い扉がある。


 私は扉の取っ手を掴んだ。

 開かない。

 鍵がかかっている。


 背後から足音が近づく。


「そっちへ行ったぞ!」


 私は扉を叩いた。


 誰もいない。

 もう終わりだ。


 その時、横の壁に、小さな通気口があるのが見えた。

 人が通れる大きさではない。

 でも、木枠は古い。


 私は掃除用具の柄を掴み、夢中で木枠を叩いた。


 一度。

 二度。

 三度。


 木が割れた。

 指に棘が刺さる。

 血がにじむ。


 それでも木枠を引き剥がし、体を横にして押し込む。


 狭い。

 胸がつかえる。

 スカートが引っかかる。

 後ろから男の手が伸びた。


 足を掴まれた。


「捕まえたぞ!」


 私は悲鳴を飲み込んだ。

 足を必死に蹴る。

 靴が脱げた。

 男の手には、私の片方の靴だけが残った。


 私は通気口の向こうへ転がり落ちた。

 石の床に肩を打つ。


 息が止まる。

 そこは、駅の地下通路だった。

 薄暗く、湿った匂いがした。

 天井の低い通路に、遠くから水の落ちる音が響いている。


 上では男たちが怒鳴っていた。

 私は片足だけ靴下のまま、走り出した。


 右か、左か。

 わからない。


 でも、立ち止まれば捕まる。


 左へ曲がる。

 階段を見つける。

 上がる。

 扉を押す。


 そこは貨物ホームだった。

 石炭の匂い。

 油の匂い。

 貨車の連結音。

 夜のように暗い屋根の下で、作業員たちが怒鳴り合っている。


 私は柱の陰に身を隠した。

 黒い外套の男が二人、ホームへ降りてくるのが見えた。


 早い。

 駅員に話をつけたのかもしれない。

 私は息を殺した。


 片足が冷たい。

 靴下はすでに真っ黒だ。

 白い旅服は破れ、髪はほどけ、頬は煤で汚れている。


 それでも、まだ私は見つかるだろう。

 女の服を着ている限り。

 私は貨物の陰に干されていた作業員用の上着を見た。


 盗むことになる。

 でも、ためらっていたら捕まる。

 私はそれを掴み、上から羽織った。

 髪を帽子の中へ押し込み、顔の煤をわざと広げる。


 白いリボンは、もうない。

 靴も片方ない。

 十八年間、いい娘でいようとしてきた私が、どんどん剥がれていく。

 それでも、足は止まらなかった。


「おい、そこの!」


 駅員に呼び止められた。

 私は振り返らず、低く咳き込むふりをした。


「石炭積みの手伝いか?」


 私は首を縦に振った。

 声を出せば女だとばれる。


「なら急げ。三番貨車が出るぞ」


 駅員はそれ以上見なかった。

 私は貨車のほうへ歩いた。

 走らない。

 走れば怪しまれる。


 でも背後から、マルタの声が聞こえた。


「白い服の娘よ! 栗色の髪の娘! 見つけたら捕まえて!」


 心臓が跳ねた。


 私は貨車の影へ入った。

 三番貨車は石炭を積んでいた。


 黒い山。

 汚い。

 冷たい。

 でも、隠れるにはちょうどよかった。


 私は貨車の縁に手をかけた。

 高い。

 片足ではうまく上がれない。

 爪が割れそうになる。


 背後で足音が近づく。


「この辺りを探せ!」


 私は歯を食いしばり、貨車の金具に足をかけた。

 手のひらが痛い。

 片方の靴下が破れる。

 それでも体を引き上げ、石炭の中へ転がり込んだ。


 冷たく硬い石炭が、腕と頬に食い込む。

 私は体を丸め、黒い山の陰に沈んだ。

 男たちがすぐそばまで来た。


「貨車も見ろ」


 足音。

 はしごを上る音。

 私は息を止めた。

 咳が出そうだった。

 石炭の粉が喉に入り、目に涙が浮かぶ。


 男が貨車の上から中を覗き込む。

 私は石炭を両手で掴み、自分の肩と髪にかぶせた。


 黒くなれ。

 ただの石になれ。

 娘ではなくなれ。


「石炭だけだ」


 男が言った。


「白い服の娘がこんなところに入るかよ」


 別の男が笑った。


「向こうだ。市場へ逃げたんだろう」


 足音が遠ざかる。

 私はまだ動かなかった。

 動けなかった。


 その時、貨車が大きく揺れた。

 連結の鎖が鳴る。

 汽車が動き出す。


 しまった。

 どこへ行くのかもわからない。

 でも降りれば見つかる。


 ホームの向こうに、老人が見えた。

 杖を握りしめ、顔を真っ赤にして怒鳴っている。

 マルタが駅員に何かを訴えている。


 黒い外套の男たちが走っている。

 私は石炭の中に身を沈めた。

 汽車はゆっくりと、でも確実に駅を離れていく。


 逃げた。

 本当に、逃げてしまった。

 父と母はどうなるのだろう。

 違約金を払えと言われるだろう。

 畑を取られるかもしれない。

 村で責められるかもしれない。


 けれど、リクを売ったのは父だ。

 私を売ったのも父だ。

 母は泣きながら止めなかった。

 その事実が、私の胸に冷たく刺さっている。


 私は悪い娘だ。

 親不孝だ。


 それでも、この貨車から飛び降りて戻ることだけは、もうできなかった。


 汽車が速度を上げる。

 駅の大時計が遠ざかる。

 老人も、マルタも、全部が小さくなっていく。


 私は石炭にまみれた両手で顔を覆った。

 声を出さずに泣いた。

 誰も助けてくれなかった。

 誰も手を引いてくれなかった。

 私は、自分で逃げた。

 自分で選んだ。


 それなのに、胸の奥でまだ、母の声がする。


『おまえが行けば、家が助かるのよ』


 私は、その声に初めて心の中で答えた。

 ごめんなさい。

 でも、私はもう、売られたくない。


     *


 貨車が止まったのは、夜更け近くだった。

 私は石炭の中で眠っていたらしい。

 体が冷え切っていて、指先の感覚がなかった。

 外では、作業員の声がする。


 途中駅だ。

 ここで降りなければ、どこまで行くのかわからない。

 私は貨車の縁からそっと顔を出した。


 小さな駅だった。

 オルレアの大駅とは違い、灯りも少なく、人影もまばらだ。

 私は貨車から降りようとした。


 その時、聞き覚えのある声がした。


「栗色の髪の娘よ。十八歳くらい。白い旅服を着ている」


 マルタだった。

 息が止まった。

 彼女は追ってきていた。

 駅員に金を渡している。

 黒い外套の男も二人いる。

 私は慌てて貨車の陰に身を隠した。


 だが、足元の石炭が崩れた。

 小さな音だった。

 でも、男がこちらを見た。


「今、音がしたぞ」


 私は走った。

 けれど、片方の靴がない足では速く走れない。

 石畳に足裏が擦れて、焼けるように痛い。

 貨物の柱を回り込んだところで、誰かに腕を掴まれた。


「捕まえた」


 黒い外套の男だった。

 私は暴れた。

 腕を引く。

 蹴る。

 噛みつこうとする。


 だが、もう一人の男が反対側の腕を掴む。


「暴れるな!」


 頬を打たれた。

 世界が白く弾けた。

 膝から力が抜ける。


 私は駅舎の中へ引きずられた。


 マルタが私を見下ろしていた。

 その顔には、昼間の笑みはなかった。


「馬鹿な子ね」


 彼女は冷たく言った。


「逃げられると思ったの?」


 私は答えられなかった。

 口の中に血の味がした。


「オルランド様はお怒りよ。あなたの父親に違約金を請求するとおっしゃっているわ。もちろん、あなたもただでは済まない」


 私の胸が凍る。


「旦那様の馬車が明け方には着く。それまでここにいなさい」


 私は駅舎奥の小さな物置へ押し込まれた。

 扉が閉められる。

 鍵がかかる。


 暗闇が落ちた。


     *


 絶望というものには、音がない。


 私は物置の床に座り込んでいた。

 石炭まみれの服。

 片方だけの靴。

 腫れた頬。

 血のにじむ指。

 扉には鍵。

 窓はない。


 外ではマルタと駅員の声がする。


「明け方まで見張ればいい」


「オルランド様から礼は?」


「十分に出るわ」


「逃げた娘はどうなる?」


「屋敷へ戻れば、二度と外へは出られないでしょうね」


 マルタは笑った。


「前の奥様たちと同じよ」


 私は膝を抱えた。

 逃げられなかった。

 あれほど走ったのに。

 リボンも靴も捨てたのに。

 石炭まみれになって、貨車に隠れて、泣きながら駅を離れたのに。


 結局、捕まった。

 明け方には、あの老人が来る。

 老人は私の髪を切るだろう。

 窓のない部屋へ入れるだろう。

 泣いても扉は開かないと言った。

 前の女のように。

 前の奥様たちのように。


 私は、自分がどこか遠くの屋敷で、少しずつ声を失っていく姿を想像した。


 嫌だ。

 嫌だ。

 でも、もうどうにもならない。

 私は初めて、声を出して泣きそうになった。


 その時、物置の外で足音がした。


 鍵が鳴る。

 扉が少しだけ開いた。


 私は身を固くした。


 入ってきたのは、四十を過ぎたくらいの女だった。

 袖をまくり、赤く荒れた手をしている。

 大きな洗濯籠を運んでいた。

 駅の洗濯係だろう。

 女は私を見るなり、息を呑んだ。


 石炭まみれで、頬を腫らし、片方の靴を失った私を見て。


「……あんた、逃げてきたんだってね」


 私は何も言えなかった。


 女は扉の外を見た。

 見張りの男たちは少し離れたところで話している。


 女は小さな声で言った。


「オルランドに買われたのかい」


 私は頷いた。

 女の顔が歪んだ。

 怒りとも、悲しみともつかない顔だった。


「あの男は、まだやってるのか」


「知っているんですか」


「娘がいた」


 女は短く答えた。


「十六だった。あの屋敷へ下働きに出された。給金がいいと言われてね。私は、行けば幸せになると思った」


 彼女の声は震えていなかった。

 だからこそ、痛かった。


「一年後、帰ってきたのは小さな箱だけだった。病気だと言われた。でも、あの子は出ていく時、どこも悪くなかった」


 私は息を呑んだ。


「娘の名前は、ネリアだった」


 女はそう言った。

 その名前は、暗い物置の中で小さく灯る火のように聞こえた。


「あんた、あの屋敷へ行ったら戻れないよ」


 わかっていた。

 でも、他人の口から言われると、胸の奥が冷たく落ちた。


 女は二つの大きな洗濯籠を乗せた台車を私に近づけた。


 私は迷っていた。

 助けを求めれば、この女も危ない。

 それは私にもわかった。


 マルタたちは金を持っている。

 駅員を買収できる。

 この女が私を隠したと知られれば、どんな目に遭うかわからない。

 もうこれ以上、私のために人を巻き込みたくなかった。


 私は小さく首を振った。


「いいです。私、もう」


「もう?」


「逃げられません」


 女の目が、鋭くなった。


「逃げる前に諦めるんじゃないよ」


「でも、あなたまで」


「私はもう、一度見送った」


 女は低く言った。


「泣いている娘を、何もしないで見送った。二度はしない」


 外から声がした。


「おい、洗濯女。まだか」


 女はすばやく動いた。

 私の上着を脱がせ、代わりに黒い作業着を押しつける。


「着替えな。早く」


「でも」


「早く!」


 私は震える手で服を替えた。

 女は私の髪を帽子の中へ押し込み、顔の煤をさらに広げた。


 そして大きな洗濯籠の中へ、私を押し込んだ。


 濡れた布が重い。

 冷たい。

 息が苦しい。

 その上から、さらにシーツが何枚もかけられる。


「なぜ」


 私は布の下で小さく聞いた。

 女は短く答えた。


「ネリアを、今度こそ逃がすんだよ」


 女は、洗濯布をまとめて、私が先ほどまで着ていた服を被せる。

 暗い部屋では、遠目には私が横たわっているように見えるだろう。


 女は私を隠した洗濯籠を乗せ台車を押して、扉の外に出た。


「おい、何をしてる」


 黒い外套の男の声だった。

 女は面倒そうに答えた。


「汚れ物を回収してるんだよ。娘が石炭まみれで床を汚したからね」


「洗濯籠を見せろ」


 布の下で、私は息を止めた。

 女の手が、洗濯籠の縁に置かれる。

 彼女は少し黙った。


 そして、わざと大きな声で言った。


「いいよ。見るなら見な」


 終わった。

 私は目を閉じた。


 その時、女は洗濯籠の別の山を蹴った。

 濡れた下着と作業服が床にどさりと落ちる。


「ただし、あんたが触った洗濯物は全部、自分で洗い直しな!」


「汚いな!」


「汚いとは何だい!」


 女が怒鳴る。

 その勢いに、男が一歩引いたのがわかった。

 男はちらっと部屋の中を覗き、作られた私を見て、舌打ちした。


「もういい。早く行け」


「言われなくても行くよ。あの娘のせいで仕事が増えたんだからね」


 女は散らばった洗濯物をもとに戻した。

 私は布の下でさらに丸くなる。


 廊下へ出る。

 マルタの声が近くでした。


「逃げた娘を甘く見ないで。ああいう子ほど、急に何をするかわからないのよ」


 足音が止まった。

 洗濯籠が少し傾く。

 私は息を止める。


「中を見た?」


 マルタが尋ねた。

 男が答える。


「汚れ物だけだ」


「本当に?」


「ならおまえが見るか。臭いぞ」


 マルタは舌打ちした。


「早く行って」


 籠が再び動き出す。

 私は布の下で、泣きそうになりながら口を押さえた。


 助かった。

 いや、まだ助かっていない。


 駅舎の裏口が開く音がした。

 冷たい夜風が入る。

 幾重にも重なっていた布がめくられる。


 私は空気を吸い込んだ。

 女は小さな包みを差し出した。

 中には、古い靴、硬いパン、少しの硬貨が入っていた。


「裏の水路沿いに歩くんだ。明け方、東へ向かう荷馬車が出る。御者には顔を見せるんじゃないよ。荷の陰に潜るんだよ」


「あなたは」


「私はここに残る」


「でも、見つかったら」


「わかってる」


 女は私を見た。


「娘を助けられなかった母親には、それくらいの罰がちょうどいい」


「罰じゃありません」


 思わず言った。


 女は少しだけ驚いた顔をした。

 私は泣きそうになりながら続けた。


「あなたは、私を助けてくれました」


 女は何か言いかけて、やめた。

 そして、私に帽子をかぶせた。


「なら、助かったままでいな」


 その言葉で、私は立ち上がった。

 足は震えていた。

 でも歩いた。


 裏口を出る前に、一度だけ振り返る。

 女はもう私を見ていなかった。

 洗濯物を拾い、台車を押している。

 まるで何事もなかったかのように。


 私はその背中に頭を下げた。

 名前は聞けなかった。

 でも、娘の名前は覚えた。


 ネリア。

 逃げられなかった娘。


 その母親が、私を逃がしてくれた。

 私が生きていかなければ、あの人の嘘まで無駄になる。

 そう思った。


     *


 それから先のことは、細切れにしか覚えていない。


 夜の水路沿い。

 凍える足。

 東へ向かう荷馬車。

 藁の中に潜り込んで、息を殺していた時間。

 遠ざかる駅の灯り。

 明け方の灰色の空。

 どこかの村外れで降りて、畑の畦道を歩いたこと。

 硬いパンを少しずつかじったこと。

 水たまりの水を飲み、腹を壊し、三日間、納屋の陰で震えていたこと。

 それでも、歩き続けた。

 捕まれば終わりだとわかっていたから。


 やがて、私は隣国の小さな村にたどり着いた。


 名前を変えた。

 ミラ、と名乗った。

 本当の名は捨てた。


 最初は洗濯屋の下働きになった。

 洗って、干して、たたむ。

 手は荒れた。

 腰は痛んだ。


 でも、働いた分だけ食べられた。

 叱られても、売られはしなかった。

 それだけで、十分すぎるほど幸せだった。


 一年目、私はよく夢を見た。


 駅の大時計。

 老人の指輪。

 黒い外套。

 鍵のかかる物置。

 濡れた洗濯物の重さ。

 目が覚めると、胸が痛くて息ができなかった。


 二年目、夢は少し減った。

 代わりに、朝の井戸の冷たさや、村の鐘の音を覚えた。


 三年目、私は村の修理屋で働くエリオと知り合った。

 彼は壊れた椅子や鍋や扉を直す人だった。

 余計なことを聞かない人でもあった。


 私の片足が寒い日に痛むことに気づいても、理由を尋ねなかった。

 ただ、古い靴を直してくれた。


「代金は」


 私が尋ねると、彼は言った。


「今度、洗濯物を早めに仕上げてくれたらそれでいい」


「それだけ?」


「それだけ」


 私はその言葉に、少しだけ泣きそうになった。


 何かを差し出さなければ、何も得られないと思っていた。

 でも、エリオは私を買おうとしなかった。

 なにか求めようともしなかった。

 ただ、隣で歩ける速さを待ってくれる人だった。


     *


 さらに数年が過ぎた。


 私は隣国の小さな村で暮らしている。

 夫となったエリオと一緒に、小さな修理屋兼洗濯屋を営んでいる。


 朝は鶏の声で目を覚ます。

 井戸の水で顔を洗い、台所でスープを温める。

 エリオは壊れた椅子を直し、私は洗濯物を干す。

 店の奥には、小さな部屋がある。

 行き場のない女の人が、一晩だけ休めるようにしている部屋だ。


 理由は聞かない。

 名前も、言いたくなければ聞かない。

 ただ、温かいスープと乾いた服を出す。

 必要なら、東へ向かう荷馬車の時間を教える。


 すべてを救えるわけではない。

 それは知っている。

 でも、あの日、私が洗濯籠の中で息を潜めたように。

 誰かが逃げ切るための一瞬を作ることはできる。


 私は故郷のことを、忘れたわけではない。

 父と母がどうなったのか、今も時々考える。

 畑を取られただろうか。

 村で責められただろうか。

 オルランドから取り立てられただろうか。


 私は答えを知らない。

 知る勇気も、まだない。

 それでも、あの日の駅へ戻りたいとは思わない。


 リクを売ったのは父だ。

 私を売ったのも父だ。

 母は泣きながら止めなかった。

 私は家族を救えなかったのかもしれない。

 けれど、私まで売り渡される必要はなかった。


 そう思えるようになるまで、何年もかかった。


     *


 その年の冬、娘が生まれた。


 雪の降る夜だった。

 窓の外で風が鳴り、屋根に積もった雪が時々ずり落ちた。

 暖炉の火は小さく、けれど部屋の中は温かかった。


 エリオはずっと私の手を握っていた。

 何度も水を替え、布を温め、私の額の汗を拭いた。

 明け方近く、細い泣き声が部屋に響いた。


 小さな、小さな女の子だった。

 赤い顔で、握った手は驚くほど強かった。

 私はその子を胸に抱いた。


 柔らかくて、温かくて、信じられないくらい軽かった。

 でも、その重さは、私の人生のどんな荷物より確かだった。


「名前は」


 エリオが静かに尋ねた。


 私は赤ん坊の顔を見た。

 小さなまぶた。

 濡れた睫毛。

 まだ何も知らない口。


 その子は、誰にも売られない。

 誰かの借金の代わりにはならない。

 誰かの都合で、遠い屋敷へ送られることもない。

 私は、この子をそういう世界に渡さない。


「ネリア」


 声に出すと、胸の奥が震えた。


「ネリアにしたい」


 エリオは一瞬だけ目を伏せた。


 一度だけ、私は話したことがある。

 駅の物置で、洗濯籠に私を隠してくれた女のこと。

 逃げられなかった娘のこと。


「いい名前だ」


 エリオは言った。


「うん」


 私は娘を抱きしめた。


 ネリア。


 逃げられなかった娘の名前。

 逃げる娘を見送った母親の祈り。

 その名を、私は自分の娘に渡した。


 悲しみとしてではない。

 呪いとしてでもない。

 今度こそ、生きるための名前として。


     *


 ネリアはよく笑う子になった。

 春には庭の土を握りしめ、夏には洗濯物の下を走り回り、秋には落ち葉を集めては私の前に差し出した。

 冬になると、エリオの膝の上で眠る。

 彼女の髪は、私と同じ栗色だった。

 時々、白いリボンを結びたいと言う。

 私はそのたびに、少しだけ胸が痛む。


 けれど、結んでやる。

 きつくではなく、すぐほどけるように。

 この子が走りたい時に、邪魔にならないように。


 ある朝、ネリアは台所の椅子に座って、私に尋ねた。


「お母さん、今日は何を食べる?」


 私は思わず笑った。

 エリオが毎朝、私に聞いてくれる言葉だった。


「温かいスープがいいわ」


「わたしも」


 ネリアは嬉しそうに笑った。

 その当たり前が、私の幸せだった。


 何を食べるか。

 どこへ行くか。

 誰と暮らすか。

 そんな小さなことを、自分で選べること。

 そして、娘にも選ばせてやれること。


 私は鍋に火を入れる。

 炎が小さく揺れる。

 あの日、石炭にまみれて貨車の中で泣いていた娘に教えてあげたい。


 あなたは悪い娘かもしれない。

 親不孝と呼ばれるかもしれない。

 それでも、逃げていい。

 生きる場所を、自分で選んでいい。


 私は今も、故郷の夢を見る。

 駅の夢も見る。

 暗い物置の夢も見る。


 けれど目覚めた時、ここには温かい台所がある。

 私を買わなかった人がいる。

 私を選ばせてくれる暮らしがある。

 そして、私の腕の中で眠った娘がいる。


 ネリア。

 あの夜、逃げられなかった娘の名前を持つ子。

 でもこの子は逃げなくていい。

 逃げなくてもいい場所で、生きていける。

 そういう家を、私は作りたかった。

 エリオがパンを切り、ネリアが小さな手で皿を並べる。


 窓の外では、隣国の村に朝日が差している。

 白い光が、洗濯物の端をゆっくり照らしていく。

 私はスープをよそう。

 湯気が上がる。


 今日も、私の選んだ一日が始まる。

 私はもう、売られた花嫁ではない。

 私は、私の人生を取り戻した人間だ。

 そして今度は、この子が自分の人生を誰にも奪われずに歩けるように、ここで生きていく。


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― 新着の感想 ―
逃げられて良かったよう(´;ω;`) 弟はどうなったんだろうなー クソヒヒジジイに大バチが当たリますように
よくぞ、よくぞ逃げ切った。 娘をもうけ、幸せな家庭を手に入れられてよかった。 マルタを亡くした母親も、ミラを逃せた事で報われたと思いたい。
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