冷血王弟殿下は今夜も子守唄をご所望です!〜「白髪のババァ」と捨てられた吃音令嬢ですが、高い塔のてっぺんで守られて溺愛されています〜
ムーンライトでランキング7位に入った作品の全年齢版です^^
セリフが少しだけ違います。
「――ここなら、どれだけ声を上げても、決して外には聞こえない」
低く、鼓膜を甘く撫でるような恐ろしい声が頭上から降ってきた。
リリーは今、硬く逞しい両腕の中にすっぽりと抱き抱えられている。鼻先を掠めるのは、冷たくて静謐な、冬の夜気を思わせる彼特有の高級な香水の匂いだ。サラサラと流れる金髪に、鋭い灰色の瞳がまるで狼のよう。
王弟、ハーヴィ・スノウ・バッキンガム。
バッキンガム公爵であり、国庫を握る冷徹な銀行家。そして、国で一番大きな新聞社の筆頭株主。
彼が纏う漆黒の礼服には、流行のフリルなどの甘さは一切ついていない。ひたすらにシンプルだが、極上の仕立てと生地の光沢が、かえって彼の持つ圧倒的な権力と、服の上からでもわかる屈強な肉体を雄弁に物語っていた。
「ひっ……は、ハーヴィ様……、あの……っ」
身長160センチのリリーの身体など、彼にとっては羽のように軽いのだろう。
大きな体躯を持つハーヴィは、リリーを腕に抱いたまま、コツ、コツと石造りの階段を上っていく。
連れてこられたのは、彼が支配する首都ザイオンの時計塔の最上階だった。
重い鉄の扉が開き、薄暗い部屋に足を踏み入れる。そこには小さな窓が一つあるだけだったが、そのたった一つの窓すらも分厚い窓ガラスで固く閉ざされている。
窓の向こう、はるか眼下には地上の灯りが星屑のように小さく瞬いており、ここが途方もなく高い場所であることを示していた。
「俺を信じろ。大丈夫だ」
退路を断つように背後でバタンと重い扉が閉まり、密室に完全な静寂が落ちる。
ハーヴィの仄暗い熱を帯びた瞳が見下ろしてくる。
「いいか、リリー。ここなら、お前の声は誰にも届かない」
「あっ……」
逃げ場のない密室。冷徹なはずの彼から漏れ出す、圧倒的な男の気配。
女嫌いで、女が近づけば「蛆虫」と暴言を吐くはずの氷の公爵が、なぜこんなにも熱く、全てを喰らうような危険な瞳で自分を見つめているのか。
(ど、どうしよう… 私、こんな密室で殿下と二人きりなんて、絶対に無理……っ!)
これ以上、彼に見つめられたら心臓が破裂してしまう。
恐怖と羞恥、そして全身を絡め取られるような強烈な視線にあてられ、リリーは防衛本能からぎゅっと強く目を瞑った。
――なぜ、のほほんと暮らすことだけが夢だった逃亡令嬢の私が、冷血王弟殿下に囲い込まれ、こんな息もできないような甘い状況になってしまったのか。
時計の針を、ほんの少しだけ巻き戻そう。
★
「素晴らしい! ブラボー!」
「ああ、なんて心が洗われる歌声なんだ……!」
世界中を巡回するジブラールサーカス団の豪奢なステージ。この日は、バッキンガム帝国の首都、ザイオンにて開演していた。割れんばかりの拍手喝采の中、頭からすっぽりと深いベールを被った小柄な歌姫が、エンディングの曲を歌い、そっと裾を摘んでお辞儀をした。
舞台袖に下がると、待機していた従者が感極まった様子で彼女の手を引く。
「お疲れ様でした。リリー様の歌声は、何度聴いても本当に癒されますね」
「あ、あり、ありがとう、ございます……」
でもリリーは今日だけは少し不安に思っていた。客席で一際目立つ貴賓席にいた男性が、爆睡していたのが見えたからだ。
「あ、あででで、でも、一人、すご、くね、寝ている人、い、いま、いました」
「あは!きっとリリーの歌に癒されて寝ちゃったんだね!気にすることないさ」
ベールの奥で、リリーはホッと息を吐きながら小さくどもって返事をした。
歌っている間だけはスラスラと言葉が紡げるのに、ひとたび歌を止めれば、極度の緊張から言葉がうまく出てこない。
楽屋に戻り、一人になってからそっとベールを脱ぐ。
鏡に映ったのは、ストレートの真っ白な髪、そして水色の瞳を持つ女性。
――リリベット・スプリング・スタークだった。
彼女は元々、隣国ハイエンナ王国の公爵令嬢である。
しかし、元婚約者である王太子トレヴァーから与えられる過酷な仕事と、酷い虐待から逃れるため、国を捨ててこの世界を巡回するジブラール劇団にベールをかぶって身を寄せていた。
トレヴァーは最低のモラハラ男だった。リリベットの白髪を「ババァみたいだ」「不気味なゴースト」と嘲笑い、日常的に髪を引っ張った。あまつさえ無理やり乱暴しようと押し倒してきたことすらある。この世界では、初婚まで処女を守るのが貴族の慣例のため、その行為は彼女にとって逃亡の決定打となった。
恐怖のあまり重度の吃音になってしまった彼女にとって、その白髪と素顔を隠すベールは、自分を守るための絶対の鎧だった。
(絶対に、あんな場所には戻りません。ハイエンナを出た日から、私の座右の銘は『戦わない。逃げるが勝ち』…です!)
リリーは引き出しから革袋を取り出し、じゃらりと鳴る重みを確かめた。
現在の彼女の夢は、たっぷり貯金をして、誰にも怒られず一人で引きこもって、のほほんと暮らすことだ。何もしないでボーッとするのが何より大好きなのだ。
「で、でも……まだ目標の、はん、半分も貯まっていませんね……」
袋の中身を見てがっくりと肩を落とす。のほほんライフへの道は、まだまだ遠そうだった。
――そんな彼女の運命が急転したのは、宮殿から劇団へ招待状が届いた日のことだ。
★
王族や貴族が集う夜の舞踏会。
そこでベール姿のまま歌声を披露したリリーは、信じられない光景を目撃した。
列席していた一人の大柄な男性が、彼女の歌を聴いた途端、立ったまま壁にもたれかかってスヤスヤと爆睡し始めたのだ。
彼の名は、ハーヴィ・スノウ・バッキンガム公爵。
バッキンガム王国の国庫を管理する財務大臣にして冷徹な銀行家。そして何より、極度の不眠症(脳の過緊張)に悩まされている、王弟殿下その人だった。
リリーの歌には、実は「極上の癒しを放つ」という癒しスキルが宿っているのだが、本人はそれに全く気づいていない。
★
翌日、リリーは公爵邸である『ザイオン塔』へ、半ば無理やり呼び出された。
「お前の歌は俺の不眠に効くようだ。もう二度も爆睡できた。俺の専属の子守唄係になれ。報酬は一晩金貨1枚払おう」
冷気を纏うような威圧感でそう告げられた瞬間、リリーの頭の中でチャリンと黄金の音が鳴った。
(き、金貨1枚!? それなら、のほほんライフの目標金額が一瞬で貯まります!)
「 や、やらせてください!」
恐怖よりもお金に目が眩んだリリーは、現金にも即答で頷いていた。
しかし、彼女が住み込みで働くことになったザイオン塔は、異様な空間だった。
なんと、見渡す限り男性しか働いていないのだ。
執事のルイスが言うには、ハーヴィ公爵は、重度の女嫌い。幼い頃からベタベタ触ってくる女性集団がそもそも苦手であったが、婚約者に浮気された挙句、王族である自分の私物を勝手に売り捌かれ、婚約破棄後もストーカー化されたという壮絶なトラウマのせいだ。今では女が少し近づいただけで「近寄るな蛆虫ども」と暴言を吐き、吐き気を催すようになってしまったのだ。
初日の夜。ハーヴィの寝室に、ベールを被ったリリーがビクビクと縮こまりながら立っていた。
(こ、怖い……。怒られたらどうしよう……)
ハーヴィは冷たい目で舌打ちをした。
――しかし。不思議なことに、女特有の香水や媚びた気配を一切発しないこの小さな生き物からは、全く吐き気がしなかったのだ。
(ふむ。ベールをかぶっているからだろうな)
「……歌え」
「は、はい……っ」
リリーが小声で歌い始めると、心地よい浄化の空気が部屋を満たし、ハーヴィは数年ぶりに深い眠りへと落ちていった。
だが、リリーは超がつくほど真面目でビビリだった。
(本当に眠った!? 途中で起きて、ちゃんと仕事をしていないと殴られたらどうしよう…!)
仕上がりが怖くて何度も何度もハーヴィの寝顔を覗き込み、息をしているか確かめ……そして、極度の安堵から、気づけば自分もハーヴィの足元の絨毯で丸まって寝落ちしてしまったのだ。
翌朝。目を覚ましたハーヴィは、自分の足元でスースーと無防備な寝息を立てている小さな丸い毛玉(ベールを被ったリリー)を見て、呆れ果てた。
「……子供か、こいつは」
女特有の計算高さなど微塵もない。ただ穏やかに眠っている。
「もしくは、猫みたいだな」
そのあまりにも無害で間抜けな姿に、ハーヴィの中で張っていた警戒心がふっと解けた。
こうして、冷徹な氷の公爵と、のほほんライフを夢見る小動物のような歌姫の、不思議で穏やかな同居生活が幕を開けたのだった。
★
ザイオン塔での生活が始まって数日が過ぎた頃。
執務室に呼ばれたリリーは、立っていたハーヴィに盛大にぶつかった。
「す、すみっ、す、すみま、せんっ……!」
慌てて謝るリリーの声が激しくどもる。それを見たハーヴィが、不快そうに眉をひそめた。
「お前のそのしゃべ……」
「いんやー! 大っ変いい天気でございますなぁっ!!」
ハーヴィが最後まで言い切る前に、部屋の隅に控えていた執事のルイスが、鼓膜が破れそうな大声で強引に割り込んできた。そして小声でこう捲し立てた。
「殿下っ 私は貴方を、女の子にそんな暴言を吐くような子に育てた覚えはございませんぞっ」
「ちっ……煩いぞ、ルイス。誰が育てただと」
「女性には優しくしてくださいとあれほど申し上げたはありませんかっリリー様は吃音と言って、生まれつきもしくは極度のストレスウンタラカンタラ…」
それを聞いて、ハーヴィは彼女が自分と同じように、過去のトラウマに悩まされているんだなと少しだけ憐れんだ。
ルイスはハンカチを噛んで「ああもう!すれっからしになられて……」と大袈裟に嘆いている。
リリーはベールの下で小さく縮こまっていた。
★
数日後。ベッド横の床で眠るリリーを哀れに思ったのか、そこにはクッションがいくつも並べられるようになった。
リリーは、キラキラした目ではハーヴィを見るが、ハーヴィは「黙れ」と言っただった。
「な、何も言ってま、せん」そう言いながらもリリーはニコニコと笑った。
(優しい人なんだわきっと…口悪いけど、いい雇用主様ね)
★
さらに数日後。
書類から顔を上げないハーヴィが、冷たい声で告げた。
「今夜からしばらく、子守唄は良い。自由に過ごせ」
「えっ……あ、あ、はい」
解雇されたわけではないらしいが、やれと言われた仕事を休むのは、リリーにとって恐怖でしかなかった。(な、何かしでかしたでしょうか……?)と、自分の部屋に戻ってもソワソワして落ち着かない。
恐る恐る執務室を覗き込んだリリーは、思わず息を呑んだ。
ハーヴィの目の下に、恐ろしいほどのクマができていたのだ。大きな身体から発せられる威圧感は普段の三倍増しで、周囲の秘官たちも怯えて近寄れないでいる。
「あの、あの……は、ハーヴィ様、お疲れ、ですか……?」
オドオドと尋ねるリリーに、ハーヴィはため息をついてペンを置いた。
「はぁ。気にするな。新しい同盟国との税関管理について立て込んでいるだけだ。俺がやらねば国庫が回らん。……これが終わったら、また頼む」
そう言って額を押さえるハーヴィは、不遜で恐ろしい男だが、本質的には国民と国のために身を粉にして働く立派な為政者だった。
それでも不安だったリリーは、近くにいたルイスに聞いた。
「ああああ、あの、わた、私、何かしでかしたでしょう、、、か!?」
「いえいえいえいえいえそ〜んなっ!リリー様はなーんっにも気にせずともよろしいのですよ?そうだ、この私めがこの街一番のスイ…」
「はぁ。気にするなと言っているだろう」
執務室の奥からハーヴィの声が聞こえて、思わずビクッとなるリリーを見て、さらにため息をついた。
「おい、ルイス。こいつにマカロンか何か買ってやれ」
「おやまあ! 殿下が女の子に甘いものを!」
「うるさい、黙って買え!おいお前!しばらく休みだと思って、お菓子でも食ってろ!」
ちゃっかり甘やかされたリリーは、数分後、高級な箱に入った色とりどりのマカロンを前に目を輝かせていた。ベールを少しだけ持ち上げ、小さな口でハムハムと頬張る。
その様子を横目で見ていたハーヴィの口元が、微かに緩んだ。
(……リスみたいだな)
女特有の媚びた笑みなどない。ただひたすらに菓子を咀嚼する丸い頬だけがベールの下から見えていて、それがどうしようもなく無害で、可愛かった。
★
ようやく税関管理の激務を終えたハーヴィは、寝室のベッドに倒れ込んだ。しかし、過緊張に陥った脳は悲鳴を上げており、全く眠りに落ちることができない。
「……リリーを呼べ」
呼び出されたリリーは、ベッドの脇に立ち、気合いを入れていた。
(ハーヴィ様、本当にお疲れ様です……! これは美味しいマカロンのお礼です!)
国のためにボロボロになるまで働く不器用で優しい主人のため、リリーは初めて「誰か一人のため」に、ありったけの心を込めて熱唱した。
彼女の癒しスキルが「ハーヴィへの想い」と結びついた瞬間、リリーは今までにない感覚を覚えた。それは、見えない光の波が部屋中を満たすような、暖かい感情だった。ハーヴィは一瞬で深い眠りの底へと突き落とされた。
(ふふっ、よく眠っていますね。任務完了です!)
リリーは満足げにうなずき、いつものようにクッションの上で丸くなって眠りについた。
「おや、おやすみなさい、ハーヴィ殿下…」
★
――翌朝。
すっきりと目覚めたハーヴィは、ベッドから身を起こし、我が目を疑った。
「…………なんだ、これは」
ザイオン塔の広い主寝室が、アマゾンジャングルになっていた。
床を覆い尽くすシダ植物。天井を突き破らんばかりに成長した巨大なヤシの木。壁一面に絡みつく太いツタと、むせ返るような極彩色の花々。
「敵襲か!? いや、異常気象か何か……!?」
慌てて剣を手に取り構える。草をかき分けて進むハーヴィの耳に、微かな泣き声が聞こえた。
「ひぐっ……うう、取れ、取れない……」
声のする方を見上げると、天井まで伸びた木の枝に、見覚えのある黒い布――リリーのベールが引っかかっていた。
そして木の根元には、泣きながらそれを取ろうとする女がいた。
「お前……リリー、か?」
ハーヴィの声にビクッと肩を震わせ、少女が振り向く。
その瞬間、ハーヴィの呼吸が止まった。
ベールの下から現れたのは、輝くような白髪だった。朝の光を浴びてプラチナのように煌めくその髪は、絹糸のように滑らかで美しい。
そして、涙に濡れてこちらを見上げる瞳は、澄み切った冬の空を思わせる深い水色だった。
小柄な身体。ほんわかとした可愛らしい顔立ち。
トレヴァーから「ババァ」「ゴースト」と嘲笑われ続けたその姿は、ハーヴィの目には、おとぎ話から抜け出してきた『冬の妖精』そのものにしか見えなかった。
(なんだ……この、恐ろしいほどの可憐さは……)
剣を持つ手がだらりと下がる。心臓が、今まで経験したことのない早鐘を打ち始めた。
学生時代の裏切りから、女の顔を見るだけで吐き気がしていたはずなのに。リリーの素顔を見た途端、胸の奥底から甘く疼くような熱が込み上げてくる。
「あ、あ、あのっ……私、ち、違くて……!」
「お前が、やったのか。このジャングルを」
「ひっ……ご、ごめんなさ……っ!」
怒られると思い、真っ赤になって首をすくめるリリー。
その仕草すらも、愛おしくて目が離せなかった。
「お前、この力…」
「し、しら、知らなかったのです!昨夜急に!」
(つまり、昨日初めて開花したと言うことか)
ハーヴィは、隣国のハイエンナ王国に時々現れるという聖女という存在のことを思い出した。
「お前、もしかしてハイエンナの出身か?」
リリーは、びくりと震えた。
(図星か。ジブリールにいたくらいだ。何か事情があるのだろう)
こんな恐ろしい力(豊穣の力)を持つ女が、こんなにも美しい素顔を隠していたなんて。もし他の国に見つかれば、間違いなく奪われる。
絶対に、誰にも見つかってはいけない。
もし見つかれば、俺の安眠ライフはおしまいだ!
ハーヴィは、リリーが他の男に連れていかれる様子を連想した。
腹の底からドロリと湧き上がった強烈な独占欲を自覚したハーヴィは、低い声で告げた。
「お前のその異常な能力が外に漏れたら、どんな騒ぎになるか分からん」
そして、怯える彼女の手首をガシッと掴む。
「今日から、お前の寝室を移す。」
「あああ、あの私、この髪を、あの隠したいのでベールを!」
「なぜだ?」
「な、なぜって、み、醜いでしょう…?」
「何を言ってるんだ。美しいと思うが。」
あまりに当然のように言われて、リリーは固まった。
「もうベールは被らなくていい。俺が守ってやるから、俺の前でははずしていい。」
リリーは、心臓が高鳴るのを感じた。
(勘違いしちゃダメよ。殿下はただの社交辞令で言っただけ…)
リリーは、自分に言い聞かせたが、頭の中で何度も美しいと思うがと言ってくれた言葉が繰り返されたのだった。
こうして、リリーはザイオン塔の最上階にある部屋へと連れ込まれることとなったのだ。
★
「お、お、女嫌いでは、なか、なかったのですか……っ!?」
誰の声も届かない最上階まで、抱き上げられて連れ込まれたリリーは、ベールを剥ぎ取られた素顔を真っ赤に染めながら、大柄なハーヴィを必死に見上げて抗議した。大柄と言っても180センチで平均より高いだけだが、そのオーラからさらに大きく感じた。
女が近づくだけで「蛆虫」と吐き気を催すほどの女嫌いだと聞いていたのに、手首を掴む彼の掌は驚くほど熱い。だが、ハーヴィは不遜に鼻で笑い、屈み込みもせずに冷ややかに言い放った。
「はっ!お前は女ではない。ただの子供か、よくて猫の類いだ。蛆虫ほどの害もなさそうだから、ここに置いてやるだけだ」
「こ、子ども……っ!?」
これでも一応、成人した令嬢なのだが、身長160センチの小柄な身体を、180センチを優に超える軍人あがりの巨躯で見下ろされれば、そう言い返したくなる気持ちも分からなくはなかった。
――しかし、リリーの予想に反して、防音の塔での監禁生活は、信じられないほど快適で安らかなものとなった。
★
ハーヴィは国の国庫を預かる財務大臣であり、大手銀行の経営者でもある。日中は執務に追われて塔を留守にしており、夜遅くに「眠るため」だけにこの部屋に帰ってくる。
つまり、昼間のリリーは完全な自由の身だった。
「リリー様、今日のお昼は特製のミートパイでございますよ」
「わぁ……っ! ル、ルイスさん、ありがとう、ございます!」
男しか働いていないこのザイオン塔で、老執事のルイスは、部屋をノックするたびに両手を叩いて喜ぶリリーを、まるで本物の孫のように目に入れても痛くないほど可愛がった。
人目を気にして分厚いベールを被る必要もない。三食昼寝つき、美味しいお菓子は自動的に運ばれてくる。お金の心配は一切なく、むしろ貯金は増える一方だ。
(……待って? これって、私がずーっと求めていた『のほほん引きこもりライフ』そのものじゃないの……!?)
戦わない、逃げるが勝ち。
一人でぼーっとするのが大好きなリリーにとって、ここは牢獄どころか至高の楽園だった。これで本や暇つぶしがあったら、最高なのに…
味を占めたリリーは、ある夜、帰ってきたハーヴィに恐る恐るおねだりをしてみた。
「あの、お、お部屋で読む本や、……それから、お、お部屋着を、か、買いに行っても、よ、よろしいでしょうか……?」
「……好きにしろ。」
ハーヴィは書類から目を離さずに無関心を装ったが、翌日には流行の本や、ふんわりとした上質なシルクのネグリジェやナイトドレスが山のように届けられた。お金を払うと言っても、ハーヴィはボーナスだと言って受け取らなかった。
リリーは、彼の不器用な優しさに、俯きながらもそっと微笑んだのだった。
★
「そんな彼女を上から見下ろすハーヴィ様の顔ときたら!!!」
その日の厨房。ルイスはハンカチを噛んだ。
ルイスは、「きいいっ!!早くくっついておしまいなさいよ!!!」と叫ぶが、独り言の多い彼の言葉を、使用人たちはまた言っている、とそっぽ向いた。。
★
数日後の昼下がり。
ハーヴィがふと、ルイスに塔でのリリーの様子を尋ねた時のことだ。
「リリー様は、買い与えられたナイトドレスが大変お似合いで。昼間はそれはもうリラックスされておりますよ」
嬉しそうに報告するルイスの言葉に、ハーヴィの胸にふと奇妙な好奇心が湧いた。あの小動物が、どう過ごしているのか。
気まぐれに最上階へ向かい、扉に設置された小さな覗き窓から、こっそりと部屋の中を覗き見る。
――その瞬間、氷の公爵の思考が完全に停止した。
「…………っ!?」
湯浴みを終えたばかりなのだろう。
部屋の中のリリーは、ネグリジェを着るどころか、体にタオル一枚を纏い、歩いている。そして、はらり…、タオルが落ちた。それなのに、慌てることもなく、完全に素っ裸の状態で、贅沢な毛足の長い絨毯の上をごろごろと寝そべった。誰も来ないのをいいことに、完全に油断しきっている。
「な、南国の方って、海、海辺にこうして寝そべってるって本に書いてあった…おか、おかお金が貯まったら、海辺に行くのもいい、な」
白磁のように真っ白な肌。ストレートの白髪が、露わになった背中にハラリと散っている。
子供だと思っていた身体は、予想に反して大人の女性そのもので、驚くほど扇情的だった。
リリーは寝そべったまま、本を広げて気楽そうに歌をハミングしている。
ゴクリ、と。ハーヴィの喉が、無意識に鳴った。
頭のてっぺんから足の先まで、カチカチと理性が凍りつく音がした。女の肌を見るだけで吐き気がするはずの身体が、今、猛烈な熱を帯びていた。
真っ白な胸が、彼女の呼吸に合わせてふるふると揺れる。ハーヴィは目が離せなくなって口元を押さえた。
(……ふざけるな、あんな格好で……!)
ハーヴィは自身の凄まじい動揺に毒づきながら、這うようにして執務室へと引き返した。
翌日、リリーの部屋の前に呼び鈴が置かれた。
そしてドアの前には大きな張り紙が。
「呼び鈴を鳴らし、リリーがよしとするまで入室不可。ただし雇用主は除く」
★
そんなある日、秘書官のカーソンが青い顔をして報告書を持ってきた。
「殿下、大変です。ザイオン塔の眼下……いえ、この塔の周囲の植物の育ちが異常なほど良く、敷地内の木々があり得ないスピードで成長していると、王宮で噂になっております」
「……チッ」
ハーヴィは舌打ちをした。リリーの豊穣の力が、塔から降り注いでいたのだ。
さらに不運なことに、その噂はハーヴィの兄であり、この国の王であるマルクス・ローズ・バッキンガムの耳にまで届いてしまった。
「『不作に喘ぐ北部の領地で、その不思議な歌姫に歌ってもらってはどうか。ついでに、弟が囲っているという美姫の顔を拝みに行こう』と、マルクス殿下よりお触れが!!あ、明日来られると!」
ザイオン塔に激震が走る。
ルイスが慌てて、王宮の迎えに恥じない貴族用のドレス数着を部屋に運び込んだ。
だが、男ばかりで侍女のいないこの塔だ。リリーはなんとか自分で試着のドレスに身体を通したものの、背中のコルセットの紐だけはどうしても結ぶことができず、困り果てていた。
見かねたハーヴィが、大きな身体を屈めるようにしてリリーの背後に立った。
「……じっとしていろ」
「は、はい……っ」
男の大きな掌が、リリーの剥き出しの背中に触れる。その熱さに、リリーの身体がビクッと跳ねた。
(は、恥ずかしい…どうしてこんなにドキドキしてしまうのかしら。)
ハーヴィは細いリボンを指に絡め、ゆっくりと、だが確実にキュッと引き絞っていく。
コルセットが締め上げられるたび、ドレスの胸元が押し上げられ、豊かな二つの膨らみが中央へと寄せられていく。リリーの白い胸に、信じられないほど深い、扇情的な谷間が作られていくのを、ハーヴィは後から見下ろす形になった。
最後に、胸の前にある小さな飾りリボンを結ぶため、ハーヴィが正面に回る。
すぐそこにある胸につい目がいってしまい、ハーヴィは慌てて首を振って邪念を振り払った。
ふと見ると、リリーも耳まで真っ赤にして、視線を泳がせている。
至近距離で重なる二人の息遣い。部屋の中に、じっとりとした妙な沈黙が流れた。
どちらからともなく、視線が交差する。
ハーヴィの目が、リリーの小さく震える、桜色の唇へと向けられた。
★
限界だった。五年間、凍りついていたはずの衝動が、ハーヴィを動かした。
グッと引き寄せると、お互いの視線が唇と瞳の間で交差する。
「リリー、お前に、キスがしたい」
こくりとリリーがうなづくのを待って、ハーヴィはリリーの形の良い顎をすくいとると、熱いキスを交わした。
★
「――っ!」
ハッと目を覚ますと、視界に飛び込んできたのは、いつもの薄暗いザイオン塔の天井だった。
「夢……か」
ハーヴィは寝台の上に上体を起こし、どっと溢れた汗を拭った。
そして、自分の唇をそっと撫でる。
氷の公爵は人生で初めて、絶望のあまり頭を抱えた。
(俺は……あんな子供みたいな小娘を相手に、破廉恥な夢を……!?)
顔を真っ赤にして息を荒げるハーヴィが、ふとベッドの下に視線を落とす。
そこには、いつの間にか寝入ってしまったハーヴィの足元で、丸くなってすやすやと眠るリリーの姿があった。まるで主人の帰りを待つ健気な猫のようだ。
夢の中で貪った体が、すぐそこにある。
その時、リリーがうーん、と声を漏らして、ゆっくりと水色の瞳を開けた。
「……あ、あれ?ハーヴィ様。お、お目覚めですか?」
リリーは寝ぼけ眼で頭を掻きながら、不思議そうに呟いた。
「……黙れ。お前のせいだ。」
「えぇっ?わた、私、寝言か何かでおこ、起こしましたか?」
朝から強烈にツンツンするハーヴィに、リリーは眉をハの字に下げた。
ハーヴィはなんとか湯浴みをして、朝の支度を整え、ほっと窓辺のソファに腰掛けた。そしてリリーも昨日試着したドレスを着た。ハーヴィが彼女を見ると部屋の隅で本をニヤニヤと南国について書かれた冊子を読んでいるのをぼーっと見つめた。
(お金が貯まったら、南国へ行くと言っていたな…いや待て!あんな破廉恥な格好で!?それは俺が許さ…)
その時だった。
バアアアン!!!
リリーの部屋の重い鉄の扉が、お触れを無視してガラリと豪快に開け放たれた。
「やあハーヴィ! 噂の可愛い子ちゃんを隠しているというのは、本当だったんだね!」
現れたのは、顔が小さく、モデルのように細身で華やかな体型をした超絶イケメン。
ハーヴィの兄であり、この国の公務や外交を一手に担う皇帝
――マルクス・ローズ・バッキンガムその人であった。
マルクスはリリーの姿を見るなり、その水色の瞳と美しい白髪にパッと目を見張った。
「おや……これは驚いた。本当に妖精のような聖女様じゃないか。
よし、決まりだ! 君!僕と一緒に来るんだ!深刻な不作に悩む北部へ行こう!」
突然の王の乱入と北部への誘いに、リリーはパニックになり、ハーヴィは夢の残滓のイライラも相まって、猛烈な嫉妬の炎をその瞳に宿すのだった。
★
「あ、あ、あの……お初にお目に、かかります。バ、バッキンガム国王陛下……」
突然の王マルクスの乱入に、リリーは一瞬パニックになりかけた。しかし、ぎゅっと目を瞑って恐怖を遮断すると、ドレスの裾をそっと持ち上げ、驚くほど滑らかで美しい流れるようなカーテシーを披露したのだ。
その隠しきれない気品が漂う完璧な礼儀作法に、部屋にいた全員が目を見張った。
「おや?ほうほうこれは予想外だなぁ……」
「リ、リリー様……?」
マルクスだけでなく、ルイスも、そしてハーヴィすらも驚きに眉を動かす。まるで幼少期から徹底的な教育を受けてきた最高位の貴族の令嬢そのものの動きだったからだ。
マルクスはすぐに楽しげな笑みを浮かべ、モデルのような細身の身体を屈めて、リリーの手をそっと取り、チュッと手の甲へキスをした。
「麗しいお姫様。隠し立てするには惜しい美しさだ。僕と一緒に、深刻な不作に悩む北部へ来てくれるね?」
その瞬間、今まで黙って不機嫌そうにしていたハーヴィが、弾かれたように動いた。
バシッ!!!
「痛っ! 何をするんだ、ハーヴィ!」
「兄上。気安く触るな。こいつは俺が金で買ったんだ。たとえ兄上といえど、権利を渡すつもりはない」
ハーヴィはマルクスの手を容赦なく叩き落とし、リリーを自身の巨大な身体の後ろへと庇い隠した。その冷徹な銀行家らしい、あまりにもビジネスライクな物言いに、リリーの胸がチクリと痛んだ。
(あれ……? どうして私、ショックを受けているのかしら。お金で買われた子守唄係だってことなんて、最初からわかっていたはずなのに……)
己の割り切れない感情にリリーが戸惑っていると、マルクスは赤くなった手を振りながら、極上の美貌でニヤリと微笑んだ。
「いーや、連れていくさ。僕は金でなんか買わない。道中彼女にたっぷり尽くして、お友達になりたいんだ。ね?」
ウインクを投げる兄の言葉に、ハーヴィの額にド派手な青筋が浮かぶ。
「……ルイス。今期の財務監査と銀行の決済をすべてカーソンに回せ」
「へっ!? 公爵様、無茶でございます!」
「俺も北部へ行く。」
こうして、嫉妬に狂った氷の公爵も同行する形で、一行は不作に喘ぐ北部領へと向かうことになった。
★
北部の地は悲惨だったが、リリーは歓待を受けた。やせ細った子供たちと、冷害で立ち枯れた小麦畑を前に、リリーはそっと胸に手を当てた。
(お腹をすかせた北部の人たちのために……!)
リリーが溢れんばかりの心を込めて、北部の中心でその美声を響かせた瞬間、奇跡が起きた。
歌声に呼応するように地中から凄まじい力が噴き出し、茶色く枯れていた畑が一瞬にして瑞々しい緑へと変わり、あっという間に黄金色の穂が頭を垂れたのだ。
「おおお! これは凄いぞ! 豊作だ、奇跡の聖女様だ!!」
領民たちが大歓声を上げる。リリーの『豊穣の聖女』としての力が、完全に証明された瞬間だった。
――その大仕事を終えた、帰りの馬車の中。
慣れない癒しスキルを使い、疲れ切ったリリーは、がくんと頭を揺らしてハーヴィの逞しい肩に寄りかかって眠りに落ちていた。
ハーヴィは凍りついたように硬直しながらも、その小柄な身体を愛おしそうに見つめ、そっと肩を貸してやっていた。
その時、リリーがううーん、と苦しそうに眉を寄せた。
「……大丈夫か?」
ハーヴィが低く掠れた声で囁く。すると、リリーはうっすらと瞳を開けてうわ言のように小さく唇を動かした。
「……と、トレヴァー、様?」
心臓がドクリと嫌な音を立てた。ハーヴィは冷静を装ったが、片眉が明らかに上がる。
(誰だそれは。その男は、一体誰なんだ……)
嫉妬と独占欲で脳が沸騰しそうなハーヴィの正面で、兄のマルクスがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた。
「…なぜ笑う、兄上」
「いーや? 僕の可愛い弟が、教科書通りの嫉妬をしているものだからね」
「嫉妬だと? 俺が、こんな子供に?」
「そうさ。お前、さっきからリリーを見て、見たこともないような優しい顔で微笑んでいるよ。それは完全に恋する男の目だ。……まさか、自覚がなかったのかい?」
恋。
その言葉が、ハーヴィの胸にすとんと落ちてきた。
女を見るだけで吐き気がしていた自分が、この小さな、どもりの歌姫を四六時中目で追い、他の男に触れられそうになれば殺意を抱き、夢の中でその白い肌を貪っていた。
(そうか……。俺は、こいつが好きなのか)
『恋』を、ハーヴィは完璧に自覚したのだった。
★
だが、事態は最悪の方向へと転がり始める。
北部の奇跡を、密かに尾行していた新聞社の記者がスクープしてしまったのだ。ハーヴィが大株主である新聞社ではないため、情報統制が間に合わない。
新聞の第一面には、美しく歌うリリーの姿がデカデカと掲載されてしまった。
★
――隣国ハイエンナ王国。
「まだ見つからないのか! あの役立たずがしていた実務がすべて滞っているではないか! 国中が不作で飢饉寸前だぞ!!」
王太子トレヴァーは、執務室で怒り狂って書類を撒き散らしていた。リリベットが「ただの実務家」ではなく「国を支えていた聖女」だとも知らずに追い出したツケが回ってきたのだ。
そこへ、執事がガタガタと震えながら一枚の新聞を持ってきた。
「で、殿下! これをご覧くだされ!」
紙面を見たトレヴァーの目が、憎々しげに見開かれる。
「これは……リリベットではないか! なんだと、豊穣の聖女!?バッキンガム公爵家に囲われているだと!? ふん、ババァのくせに生意気な! すぐに使者を出せ、迎えにいくぞ!」
★
数日後。バッキンガム王宮に、トレヴァー率いるハイエンナの軍勢が突撃してきた。
謁見の間に呼び出されたリリーは、目の前に現れた元婚約者の姿を見るなり、ガタガタと身体を震わせた。髪を引っ張られ、乱暴されそうになった記憶が蘇り、息が上手くできない。
「リリベット! 今すぐハイエンナへ帰るぞ!」
トレヴァーはリリーを見るなり、周囲の目を気に留めることもなく罵声を浴びせた。
「このどもりの役立たずが! ババァみたいな不気味な白髪を隠して、こんな国で聖女面か!? お前は俺の所有物だ、さっさと歩け!」
怯えるリリーの前に、壁のような巨躯が立ちはだかった。ハーヴィだ。その瞳には、トレヴァーを今すぐ八つ裂きにしかねない絶対零度の殺気が宿っている。ハーヴィはリリーにだけ聞こえるように少しだけ体を傾け、こういった。「必ず守ってやる」そう囁くと、スッと離れて立ちはだかった。
「どもりの役立たず?ババァって言ったか?」
ハーヴィが確認するかのように話しながらコツコツとトレヴァーに詰め寄る。
「この雪のような髪を罵るとは、お前の目は節穴だな。この女は俺が雇用した特別な女だ。これ以上の妄言は許さん!」
リリーは、ハーヴィを見上げた。リリーは、雪のようだとほめて、立ちはだかってくれた背中を不安そうに見つめた。
「この女は今、俺と雇用契約中だ。いくら他国の王太子といえど、勝手に連れていくことは規約違反だ」
ハーヴィは雇用契約書をトレヴァーに突きつけた。
「日毎、金貨一 枚の契約だと? ふん、小賢しい銀行家め。こちらにも優秀な弁護士がいる。明日にはそのふざけた契約を無効にして、連れ戻してやる!」
トレヴァーはそう言い捨てて、脅しをかけながら宿舎へと引き上げていった。
★
その夜。ザイオン塔のてっぺん。
リリーは涙を堪えながら、ハーヴィの前に立っていた。彼女の革袋は、これまでの報酬で完全に満タンになっていた。
(明日になったら、あの男に捕まってしまう。ハーヴィ様はああ言ってくれたけど、これ以上甘えてはだめ。 ……逃げなきゃ。今夜、ハーヴィ様を寝かしつけたら、すぐにここから逃げ出さなきゃ。またベールを被って、誰も知らない別の国へ行くのよ)
「あの……、は、ハーヴィ様。今日まで、私のことを、か、買っていただき……あ、ありがとうございました」
吃りながら、深々とお辞儀をして告げられた別れの言葉に、ハーヴィは胸を抉られるような痛みを覚えた。
「あ、あと、今日、あの守ってくれて、うれ、嬉しかったです。」
そういって、にっこり笑って見せたが、目は今にも泣き出しそうだ。あの突きつけられた雇用契約書を思いだす。そうリリベットは、ハーヴィのことを、今まで支払った金が勿体無いから守ってくれているだけだと、そう思っているのだ。
一方、ハーヴィも胸を痛めていた。愛していると伝えたい。だが、この女にとって、自分は「大金を払ってくれる雇い主」でしかなかったのだ。金で買ったから、一緒にいてくれただけ。その冷酷な現実を突きつけられた気がした。
<<本当はお金などなくても、一緒にいる関係になりたい。>>
二人の胸の中に、同じ思いが響き合っていた。
リリーが別れの子守唄を歌い出そうとした、その時。
ハーヴィが大きな手で彼女の口を遮った。。
「……逃げる気だな?」
「ひっ……、い、いいいいいいえ!」
「目が泳いでいる。バレバレだ」
ハーヴィは自嘲気味に笑うと、ベッドに腰掛け、リリーを真っ直ぐに見つめ、手をそっと握った。
「お前の本当の名前は、リリベットというのだな」
「……はい」
「スプリングスターク。春の星のリリベット、お前は本当に、素敵な名前を持っているな」
トレヴァーに「ババァ」「どもり」と全否定されてきた本当の名前を、ハーヴィは愛おしそうに、世界で一番甘い声で褒めちぎった。
(私、本当は、彼と一緒にいたい…のかしら。あぁ自分がわからない。でも、彼といると、すごくドキドキして、甘えたくなる…)
静まり返った防音室の中、二人の視線が、熱くじっとりと言い訳のできない深さで見つめ合った。
★
「……お前が好きだ。」
静まり返った防音の塔。ハーヴィの低く、切実な声が響いた。
逃げようとしていたリリーは、驚きのあまり言葉を失う。
「だから、結婚してくれ」
「え……?」
「金で買うのではない。このままどこへも逃げてほしくない。ここにいてほしい。トレヴァーのような無能な男に、お前を渡したくない」
氷の公爵と恐れられる彼が、まるで縋るような、熱を帯びた瞳でリリーを見下ろしている。
だが、リリーはパニックになり、後ずさった。トレヴァーから何年も植え付けられた呪いの言葉が、彼女の心を縛り付けていたからだ。
「俺のそばにいてほしい。結婚してくれ。」
リリーは一瞬、もしもずっとここで暮らせたら、どれほど素敵だろうかと考えを巡らせた。
でも、自分の髪が視界に入る。そして彼を見る。立派な王弟殿下がそこにいて、眉尻を下げた。
「い、いけません……。だ、だって、私、こ、こんな、ど、どもりで……髪だって、白髪で、ババァみたいで……なんの取り柄も、ないのに……っ!」
顔を覆い、ポロポロと涙をこぼすリリー。
その言葉を聞いた瞬間、ハーヴィの顔に明確な怒りが浮かんだ。リリーに対してではない。彼女をそんな風に傷つけた元婚約者への、激しい怒りだ。
「誰がババァだ。」
「え……」
「いいか、よく聞け。…お前は美しい。」
「…!」
リリーは涙を浮かべて両手で口を覆った。ハーヴィはリリーの肩にそっと触れた。
「お前の髪は、冬の朝に降る、美しい新雪そのものだ。俺の家名である『スノウ(雪)』の名は、お前のためにあるんじゃないかと思うほどだ。……お前は、世界で一番美しい俺の宝だ。喋り方だって俺にとってはまるでリスのようで可愛くて仕方ない。これからは、どんな時でも俺が守ってみせる」
吃音も、白髪も、すべてを丸ごと肯定し、甘やかしてくれる絶対的な言葉。
リリーは顔を上げ、涙ながらに彼を見つめた。
「……触れても、いいか?」
ハーヴィの大きな手が、リリーの頬にそっと添えられる。
リリーは今度こそ頷いた。
どちらからともなく、二人は強く抱きしめ合った。
身長差を埋めるようにハーヴィが深く身を屈め、リリーの桜色の唇を塞ぐ。
そうして二人は、お互いの熱を確かめ合うかのように、深く愛し合ったのだった。
★
――翌朝。
リリーを毛布でくるむと、そのままひょいと抱き上げた。
早朝の澄んだ空気の中、馬車を飛ばして近くの教会へ向かう。
「すでに結ばれました。急ぎで手続きを」
威圧感たっぷりに牧師に告げ、半ば強引に結婚式を挙げると、二人は正式な『結婚証書』を手に入れた。
そして、城へと向かう馬車。二人は横並びに座った。
「ハーヴィ様、あの、ありがとうございます。ほ、本当に嬉しい」
ハーヴィは優しく微笑んだ。
リリベットが顔をあげてハーヴィを見つめると、唇が降りてきた。
ちゅっ、ちゅっと軽い口づけが永遠と繰り返される。まるで、永遠に離れられないとでも言うかのように。
★
――そして、馬車がバッキンガム王宮の広場に到着した。
そこには、血走った目で待ち構えていたハイエンナ王国の王太子、トレヴァーの姿があった。
「出てこい、リリベット! 契約無効の書類を持ってきたぞ! お前は俺のものだ!!」
怒号を上げるトレヴァー。
馬車の扉が開き、ゆっくりと降りてきたのは、ギラギラと灰色の目を光らせているハーヴィ。ハーヴィはリリーの手をとって、ゆっくりと下ろしてやる。
「昨夜、俺たちは結ばれた。そして、今朝、正式に結婚した」
ハーヴィは冷ややかな目でトレヴァーを見下ろすと、懐から結婚証書を叩きつけるように見せつけた。
「リリベット・スノウ・バッキンガム公爵夫人となったのだ。貴様のようなゴミが気安く呼んでいい名前ではない」
信じられない事実を突きつけられ、トレヴァーの顔から血の気が引いていく。
「な、嘘だろ……っ! ふざけるな、その女を離せ!!」
発狂して叫ぶトレヴァーをみて、リリーは思わず一歩下がってしまう。
ハーヴィは鼻で笑い、リリーの背中に手を添えた。
「リリー。言っただろう?お前は美しい。深く息を吸うんだ。そして、胸を張れ。」
リリーは、目を閉じた。そして深く息を吸うと、グッと胸を張った。
その姿を見て、ハーヴィは目を細めた。
「そうだ。お前はできる。お前の歌声は素晴らしいし、お前は美しい。」
そして、周囲の兵士やトレヴァーにも聞こえる声で、不敵に言い放った。
「離すわけにはいかないな。俺たちは昨夜熱い夜を過ごし、馬車の中でも片時も離れられなかったのだから」
「〜〜〜〜っ!?」
あまりにも直接的で、圧倒的な独占欲を見せつけるそのセリフに、リリーはボンッと音を立てて全身を真っ赤に染めた。
「き、貴様ぁぁっ……!!」
自分が手放した「役立たずの吃音女」が、実は国を支える聖女であり、さらには他国の最強の公爵に死ぬほど溺愛され、完全に自分の手の届かない場所へ行ってしまった。
その圧倒的な敗北感と絶望に、トレヴァーは膝から崩れ落ちる。
完全なる敗北。
その後、聖女を失ったハイエンナ王国は飢饉により瞬く間に傾き、バッキンガム王国に吸収されるという悲惨な末路を辿ることになる。
広場に崩れ落ちる元婚約者を背に、ハーヴィは腕の中の愛しい妻にだけ聞こえるよう、甘く低く囁いた。
「さあ、帰ろうか。俺たちの塔へ」
リリーは満面の笑みで頷いたのだった。
★
バッキンガム王国の冬は、新雪の輝きに満ちている。
かつて「窓のない真っ暗な塔のてっぺん」に閉じ込められていた逃亡令嬢は、今やこの国で最も愛される公爵夫人となっていた。
あの電撃的な婚姻から数年後。
リリベットの聖女としての名声が世界に轟き、二人の絆が本物となった頃、ハーヴィは彼女のために改めて国中を挙げた盛大な結婚式を執り行った。ベールを脱ぎ捨てたいま、彼女の美しい白髪にはきらめくダイヤモンドのティアラが戴かれ、その隣には世界で一番誇らしげな顔をした氷の公爵が立っていた。
――そして現在。
かつてジャングル事件を起こしたザイオン塔の広大な私邸の庭園には、あり得ないほどの四季折々の美しい花々が咲き乱れていた。
「……ハーヴィ様。今日の、スープ、とても、美味しい、です」
「ふ、よく言えました」
お日様の光が差し込むテラス席。リリベットは、向かい側に座る大きなハーヴィの頬に優しく手を添えた。
実は、少しだけ奇跡が起きていた。
リリベットの吃音は、ハーヴィが毎日、夜のベッドの中でも、朝の食卓でも、「ゆっくりでいい」「お前の声を聞かせてくれ」と優しく抱きしめながら促し続けたおかげで、今ではほとんど出なくなっていた。
「お前が、俺の隣に、一生……いてくれるだけで、俺は、満たされる」
体を小さく折り曲げるようにして、ハーヴィがリリベットの唇にそっと触れる。
触れ合うだけの、甘く静かな愛の口づけ。かつてのような強引な執着ではなく、深い慈しみに満ちた大人のキス。
――しかし、その至福の静寂は、いつも通り一瞬で粉砕されることになる。
バタバタバタバタ!!!
「あーーーっ!!! お父さまとお母さまが、またチューしてるーーーっ!!」
「ずるい! 僕もお母さまにチューする!」
「わたしもー!」
庭の向こうから、地響きのような足音と共に突撃してきたのは、なんと六人もの小さな子どもたちだった。
どの子もみんな、ハーヴィ譲りのキリッとした灰色の瞳を持ち、そしてリリベットと同じ、まばゆいばかりの美しい白髪をなびかせている。まさに「スノウ(雪)」の名を冠するにふさわしい、大所帯の天使たちだ。
ほんわかとした笑顔で子どもたちを抱き留めるリリベット。その瞬間、彼女の幸福な感情に呼応して、テラスの周囲のバラの花びらがポンッポンッと一斉に弾けるように開花し、極上の甘い香りが辺り一面に広がった。
「まったく、お前のその力は、子どもたちに甘やかされるたびに暴走するな」
ハーヴィが、呆れたように、けれどひどく愛おしそうに目を細める。
彼はリリベットの元へと歩み寄ると、子どもたちごと、その小さな身体を大きな両腕で丸ごと包み込むようにして抱きしめた。
「リリベット。俺の人生に、この美しい雪を降らせてくれてありがとう」
「……はい、ハーヴィ様。私、いま、とっても……のほほんとしていて、幸せです」
世界で一番温かい居場所。
声の漏れない塔のてっぺんから始まった愛の物語は、今、六人の天使たちの賑やかな歌声と共に、永遠のハッピーエンドを迎えたのだった。
めでたしめでたし。
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