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破『幸せの最小単位』

 繰り返し一日目の、簡単な変化で、私は美味しい朝食を食べる事に成功した。

「ん、焦げたパンも悪くはないけど、食べ過ぎも……って、関係ないか」

 食事を終えて、いつものように庭園に出た私は、大きく伸びをして、現実を考え直す。


 これからどれだけ繰り返したとしても、焦げたパンをいくら食べようが、私の身体に影響は起きない。

 だって、私は戻っている。繰り返される最初の日に戻るという事はつまり、その期間で起きた事しか影響しないという事だ。爪が伸びっぱなしにもならず、髪の毛も伸びやしない。うっかりしてつけた傷すら治っている。


 だからこそ、焦げたパンが身体に悪いとはいえ、いつの間にか笑って食べるようになっていたのかもしれないと、普通の食事をして、やっと気付いた。


――だったら、もし私が死んでも……。

 そう考えた自分にゾッとした。それは短絡的な思考すぎる。

 繰り返しが起こるきっかけは分からなくても、繰り返される日は明確に決まっている。

 だからこそ、逆に言えば私は、生きて繰り返しの終点に辿り着かなければいけない、という事だ。


「こんな事思うなんて、疲れている……というより、擦り切れてるな……」

 言葉にした瞬間、どっと身体が重くなるような感覚を覚えた。やっとこの繰り返しという奇妙な状態を、現実として飲み込んでしまったような気分で、出来る事なら吐き出してしまいたかった。


――それでも、飲み込んだからこそ分かる事もある。


 今までも私は、この状況のおかしさに対して、何かしらの動きはしていたけれど、それは藻掻いていたに過ぎないのだという事。

 きっと、それらには明確かつ、具体的な意図が無かった。今回の朝食の一件は、ある意味でマリィを操っているみたいで気は引けたし、思いのままというには、簡単すぎる事だったけれど、私は他の皆と違って、これから起きる事――婚約破棄を告げられるまでの大体の事を理解している。


 何を言われるかという事も、何をされているという事も、知っている。

 

 だからこそ私はこの前の繰り返しの終端で、オーディアン伯と直接論戦をするという形で、より多くの情報を得る事に決めていたのだ。

 しかし、反抗は繰り返しを止めるトリガーでは無かった。確実に、論戦という意味では私は彼を問い詰めきれていたはず。挑発した事は否めないにしても、自らボロを出す程の事を言わせたつもりだ。


 私との婚約は、我が家の収益を元に考えているという事。

 怒りに任せて見た目の美醜にまで、根拠もなく責めてくる事。

 林檎という国の特産品を扱いながらその実、林檎という果実について何も知らない事。


 もし神様がこの繰り返しを起こさせているならば、何が足りないというのだろうか。

 裁きを受けるべきは、彼なのではないかと訝しんでしまう程だった。

「でもまぁ……私が観測してるだけで、皆も繰り返してるってことなのかな」

 だとすると、少し申し訳ない気もする。記憶こそ、私しか保持していないとはいえ、この繰り返しから私が出られない限り、皆の未来も私視点からは観測出来ない。


 ただ、少なくとも何度も繰り返しを体験して、その記憶を持った私から観測した皆は、冷たい言い方をすれば道具のようにも思えてしまう。さっき、私がマリィにやった事が何よりの証拠だ。

 私は今まで、マリィの気持ちを考えて泣き止ませるという事を繰り返してきた。

 今回は明確に違う、マリィの感情をおさめるように見せかけて、実を取った。

「冷たいのは……もう知っているから、だよね」

 風が頬を撫でる。ぼうっと庭園を歩いているうちに、私はヴァロに会う道も外れていたらしい。

 だけれどきっとヴァロは、いつもの林檎の樹の下にいて、私がそこを通れば林檎を差し出してくるのだろう。それは既に、決められた私の行動に対しての反射――というより定められた反応を返しているだけだ。


 考えれば考える程に、自分の消耗に気がついていく。人情みたいな物、感情みたいな物が薄くなっていっている。

 私の現状を訴えかけても、大体は信じてもらえなかったという記憶の保持がある。それに、仮に信じてもらえたとしても、その繰り返しが終わればまた同じ事。

 私以外は記憶の保持が出来ないと考えたなら、私がこの繰り返しから出るまで、心苦しいけれど皆に役に立ってもらうしかない。


――頼るのではなく使うと、決めなければいけない。


 そう思っていたからこそ、私の足はお祖父様の元に向いたのだろうか。

 私の話を唯一、すぐに受け入れてくれて、協力してくれる大好きなおお祖父様様。

「おや、メリアか……少し、疲れた顔をしているね」


 繰り返しの中で、何度かお祖父様とは初日に会っているけれど、こういう会話の導入に記憶は無かった。きっとこれも、私の中に蓄積された疲労と、私の心からすり減っていった感情の状態が合わさって出来た状況の変化への『反応』なのだろう。

「えぇ、少し体調が優れなくて、少し風にでも当たろうかと」


 会話に、悩む。


 さっき決めた、人を使うという行為について簡単に踏み切れる程、私の心は冷徹になりきれていない。

 それに、お祖父様に出来る事を考えても、繰り返しを壊す手がかりが手に入るとは考えにくい。

 だけれど私は、おお祖父様様が好きだった。だからこそ、こんな話もしてみたかったのだ。


「今年の林檎も、良い出来ですね」

「あぁ、手塩にかけて育てているからね。ヴァロも、一生懸命やってくれとる。ワシもそろそろ現場からは身を引く頃合いなのかね」


 それは、聞いた事のない事だった。何気ない会話もまた、繰り返しという異常の中では起こしづらかったのだと、身に沁みて分かる。

 何気ない事を引き出す事も、大事な事を引き出す事も、決められた軸の中では、同じくらい難しい事なのだ、きっと。


「身を引く……? では、協会の……?」

 お祖父様は既に、この国の林檎産業組合について、かなりの権威を持っている。

 生産の現場から身を引くという事は、つまりきっと、そういう事だ。


――まさか、オーディアン伯は、それも知った上で?


「そうだね。組合長にでもなれと、急に周りがうるさいもんで困っているよ。ワシとしてはまだ生涯生産に携わりたいのだけれどね」


 少しずつ、状況が見えてきた。

 私は前回、オーディアン伯の暗部をオーディアン伯自身から暴く事に必死になっていた。

 それはあくまで、感情の話でしかない。だけれど暗部を知った今、現実の暗部を暴く事が、繰り返しから出る為の鍵になるのではないか、と思い始めたのだ。


「おお祖父様様……質問をしてもいいでしょうか……?」

 私の真剣な表情を見て、林檎の世話をしていたお祖父様の手が止まる。

「ふむ……メリアにしては珍しい顔だ。それは、体調が悪い事と関係しているのかな?」

 お祖父様に記憶の保持はないはずだ。だけれど、察しがとても良いのは、きっと彼自身の見る目が養われているからなのだろう。何十年も繊細な果実を見ていたのならば、物こそ違えど、私程度の人間の状態を見抜く事も容易いのかもしれない。


「体調というよりも、少しだけ心苦しい話があるんです」

 だからこそ、誤魔化しは無しだ。正直に言える事だけを言おう。

 お祖父様は過去に私が繰り返しの事を話した時も信じてくれた。だけれどそれを私が繰り返しても、きっと意味がないのだ。優しく寄り添って貰う事を、私の目標にしちゃ、いけない。


「私の婚約は……正解、だったのでしょうか?」

 促すのだ。そうして、引き出すのだ。私という立場から。

 言葉を紡ぐ度に、心に針が刺さるような気持ちになる。優しいお祖父様を、自分の目的の為に使っているという酷い罪悪感に、頭がクラクラする。

「おや、どうもメリアらしくない事を言うね」

 その言葉で、一気に胸を貫かれたような気がした。

 私らしくない事を、無理して言っているのだから当然だ。だけれどお祖父様は言葉を続けた。

「それはね、僕に聞く事じゃないよ」

 

――何か、心のつかえが外れたような気がした。

 それと同時に、摩耗した心が作り出しかけていた私が壊れて、澄んでいく感覚。


 彼の悪事を暴いて、どうなるというのだろうか。

 

 私は、お祖父様の立場を利用して、オーディアン伯の汚点を見つけ出そうとしていた。

 だけれど結局の所、私がやろうとしている事は、繰り返しというズルを使ってオーディアン伯を陥れるという、オーディアン伯よりも酷い事だ。

「……仰る通りです。私が決める事、ですよね」

 私は、グルグルと渦巻く感情を必死に吐き出さないようにしながら、お祖父様に頭を下げる。

 もう、何も言える事はない。お祖父様の優しさは、同時に厳しさでもあった。

 

――でも、話して良かった。

 この繰り返しが私一人の道だとしても、私にはこんなに優しい家族がいるのだから。

 渦巻く感情が小さくならない事を悲しく思いながらも、灯る新しい感情を宿して、私はお祖父様の元を後にしようと、踵を返す。

「じゃあおお祖父様様、失礼します」


 だけれど、話は終わらない。

 それが、私の変化によるお祖父様の反応なのか分からないくらいの、些細な一言だった。

「メリア、林檎は好きかい?」


 些細で、最大の、一言だった。


「……はいっ! 勿論!」

 

 振り返って答えた私の顔から、さっきまでの体調の悪さが消えていたのかもしれない。

 お祖父様は笑いながら、林檎を差し出す。


「私の孫だからね。嫌いになられるようじゃ、林檎農家として失格ってもんさ」

 彼の言葉は、柔らかくも自信にあふれている。


 受け取った林檎を、齧ると、それは酸味の中にも、しっかりと甘さを感じる。

 甘さだけでもない、酸味だけでもない。正しく育てられて、美味しく育った林檎。


「……そうですね。私は、林檎が、好きなんです」

 貰った林檎を齧りながら、私は一つだけ、思いついた事があった。



 お祖父様がいた場所から、邸宅の方へと戻る。

 来た道を戻るのではなく、回り道をしながら、考えをまとめていく。


 その中心にあるのは、私が林檎を愛しているという事実だけだ。


 だから私はヴァロの元にたどりついた。

「おや、お嬢様……林檎は、もうあるみたいですね」

 彼は私が林檎を持っているのを見て、笑って挨拶をした。

 彼から林檎を受け取らない初日というのも、珍しい話だったけれど、重要なのはそこじゃない。

「おはよう、ヴァロ。今日も精が出るわね?」

「そりゃあ、旬ですからね。今年は良い出来でしたから、精一杯の事をしてやらないと。育てるのは人間でも、育つのは林檎。ありがたく思わなきゃあいけないですよ」

 彼の林檎への情熱もまた、お祖父様ほどではないにしろ、確かなものだ。

 お祖父様が熟していると言うならば、彼は良い土壌で育っていると言ってもいい。


「あのね、ヴァロ。一つだけお願いがあるの。頼み事をしてもいいかしら?」

 彼は私の、真剣な表情から意味を読み取れる程、人間の機微に聡くはない。

 だけれどお願い事と言えば、真面目に耳を貸せる程度に、私達の主従関係も、信頼関係も構築はされている。それはどれだけ繰り返した所で、お祖父様が優しくも厳しい人だったように、変わらない事だ。


「頼み事、ですか? 何とも珍しい。私に出来る事であればそりゃあ、何とかしますけれども」

「オーディアン伯と私が婚約した事は、知ってるわよね?」

 その言葉に、ヴァロは焦ったような顔をする。

「す、すみません! 先にそれを言うべきでしたね。この度はご婚約お……」

 彼は私に叱咤させられたと思ったのか、祝いの言葉を述べかけたが、私はそれを遮る。

「ん、大丈夫。気にする事ないわ。知ってたらいいのよ。それでね、お願い事っていうのは……」

 頼み事を伝えた後、彼は少し驚いた顔をしたが、理由は聞かずに了承してくれた。

 そうして彼は、早々に準備をする為、邸宅の中へと入っていった。

 

――これが、私の繰り返しへの、戦い方だ。


 ヴァロが私の頼み事を適えてくれるまでは、おそらく数日かかるだろう。

 その間に私がすべき事はなんだろうと考えていると、窓の外から、邸宅の掃除をしているマリィが目に移った。

「……彼女も、少しくらい休ませてあげて、いいかな」

 決して、彼女が無理をして働いているわけではない事は知っていた。だけれど、繰り返しの日々の分だけ、彼女はひたすら働いているのを私は知っている。

 遊んだり、休んでいる日が、タイミング悪く繰り返しの観測外に宛てられていたのだ。

 

 だからこそ、彼女がゆっくりと自由な事をしている時間を見たくなった。


 それは、ある意味で罪悪感の払拭をしようとしていたのかもしれない。あまり考えたくない事ではあったけれど、もしかすると私の心の中でどうせ繰り返されるのだからという諦めの残滓が生んだ感情なのかもしれない。

 

 それでも、そう思ったという事と、そうさせるという事に、意味があるように思えた。

 私の感情がどうか、ではないのだと、思う。


 マリィが安らげる時間を作ってあげる権利を持つのは私だ。

 それを、彼女がどう使うかは、彼女が決める事。だから私がどう思ってそれをしようが、彼女が自由な時間を何かに使ってくれて、少しでも嬉しいと思ってくれたなら、いいなと思った。


 それを、私の本音だと、誰かに定義して欲しかった。


「マリィ? 今日も精が出るわね?」

 私は邸宅の中に入り、掃除中のマリィに後ろから声をかける。

「わぁっ?! ちょっと! 驚かせないでくださいよお嬢様!」

 相変わらず元気な彼女の姿を見て、少しだけ私は和む。

 小さく笑みがこぼれているのを自覚しながら、私はもう少しだけ彼女を驚かせる事にした。

「マリィ、貴方は今日……」

「へ? へ? 今日……? なんですか?」

 その神妙そうな顔を見て、思わず私は吹き出してしまった。

「……お休みよ」

「へ?」

 あはは、と声を出しながら笑う私に、ムーっとした顔をしているマリィ。

「ごめんごめん。マリィはいつも頑張ってくれているからね。お部屋も綺麗だし、それに朝ごはんも美味しかったから、たまにはお休みにしましょう?」

 改めて休日にしようと告げると、彼女のムクレた表情は少しずつ嬉しそうな表情に変わっていった。

「ってことは、お嬢様もお休みですか?! 一緒に何かしましょう?!」

 

――それは、あんまり考えていなかったな。

 私としては、マリィがゆっくりしてくれたらいいなと思っていたくらいだったのだけれど、どうやら彼女は私と一緒に何かする事が、休みの定義になるらしかった。

 確かに私達は幼馴染のようなもので、互いに友人という友人も多い方ではなかったから、マリィが休みとあればなんとなしに街へ繰り出したりするのが日常だった。

「確かに、そうだったわよねぇ……」

 小さく呟く私の言葉に、マリィは少しだけ頭を傾げる。


 そんな彼女との当たり前の日常も、この繰り返しの中で忘れかけていたのだ。

 思い出す度に、少しだけ悲しい気持ちになる。だけれど、思い出せたなら、それでいい。

「婚約も決まった事ですし! 美味しいお食事の準備をしに街に出たりとか?!」

 そうして、マリィはやはり婚約について興奮を隠しきれない様子だ。

 私が幸せになると、本気で信じていて、そうして本気で喜んでくれているのだろう。


 その気持ちに、苦い表情で返すわけにはいかない。

「いやいや……それじゃ貴方、結局働いちゃうじゃないの。今日はゆっくり過ごしましょ?」

「えー……お嬢様がそう仰るなら構いませんけど、でもせめてお茶の準備くらいは……」


 本当はこの子とも、もっと友達みたいに接したいのになと思いながら、私は首を横に振る。


「だーめ。貴方は部屋で私服に着替えておくこと! お茶とお茶菓子は私が持っていきます!」

「お嬢様……場所分かります?」

 前言撤回だ。彼女は無意識のうちに友達みたいに接している時があるかもしれない。

「分かるわよ!」


 そう言って私は彼女を自室に戻らせて、お茶菓子とお茶の準備をする。


 アップルティーとクッキー、それに幾つかのジャムを少しずつ。

 とてもシンプルではあるけれど、私としてはこのくらいが丁度良い。毎日ケーキだとかを食べられる生活に、正直憧れなんてない。

 勿論ケーキは好きだ。生まれから仕方はないにしても、私だって、決して林檎にばかり拘りがあるわけじゃない。それでもまぁ、身の丈に合っていたいというのが本音だ。

 そもそも、言ってしまえば私にとっては自分の家でこんなに美味しい果実が食べられるだけでも、身の丈に合っていないような気がして不安になる時があるんだけれど、それは言うだけ野暮だ。身の丈を合わせたらいいだけの話。その努力をする余地はまだ残っている。


 だからこそ、この繰り返しは止めなくちゃいけないんだ。


 私はティーセットを持って、マリィの部屋を軽くノックする。

 メイド服でも着ていってやろうかと思ったけれど、流石にそれは茶目っ気が過ぎるので止める事にした。それに考えただけで今の私としてはマシな方だ。思ったよりも精神が摩耗している事が分かった今、冗談を考えられているだけホッとする。ただ、それを実際にやるほど元気ではないというのも確か。

「はーい! どなたですかー?!」

 私が来るって分かっているだろうに、マリィははしゃいだ声でノックに返事をする。

 しかし、私じゃなかったらどうするつもりなのだろうと、彼女の無邪気さに少し心配になるが、それは我が家に限っては彼女の美点でもあると考えて、私はティーセットを持って彼女の部屋にあがる。


 繰り返しがノイズになっていたせいで、私の観測としては、マリィの部屋を久々に見た。そうそう、こんな部屋だったと思い出すくらいには、繰り返しを続けていたという事だ。

 思い出して、納得する。マリィらしい、整理整頓が行き届いていて、綺麗な部屋だ。

 マリィの無邪気さやお茶目さ、可愛らしさやお転婆といった印象とは裏腹に、彼女はメイドとしての業務は基本的に正しく丁寧に行っている。

 つまりは、生活規範がそもそも整っているのだ。だからこそ、身嗜みも、部屋の掃除も行き届いている。

 焦げたパンを出すという繰り返しの度に擦り付けられる印象は、結局想定外が起きたという事を積み重ねているというだけで、結局の所、今日みたいにちゃんと落ち着かせて話をしたなら、美味しい朝食も出てくる。それがマリィの普通。

 

――繰り返しで起きる出来事に、飲み込まれてはいけない。

 これが、彼女の普通なのだ。焦げたパンを焼く彼女は、いつもの彼女じゃなかった。それだけの話。


「はい、アップルティーにクッキー」

 私がテーブルにお茶とお茶菓子を置くと、彼女は目を丸くさせる。

「あれ?! こんな美味しそうなクッキー、ありましたっけ?」

「ふふ、マリィにこのクッキーの隠し場所、分かります?」


 家主の娘に敵うと思う? と言わんばかりに私は不敵な笑みを浮かべる。

 こういう関係が、やっぱり好きだ。きっと、主従と友人は、場合によって成立するのだろうと思う。

 現にこんな冗談も、主従関係だからこそ成り立つ物。


「えー! ズルい! でも食べられるからいっか!」

「そ、今日は特別なんだから。美味しく食べましょう? ジャムもあるし。アップルティーは勿論うちの林檎を使ってるわよ?」

 ケーキではないにせよ、単なる友人同士のお茶会に出るお茶とお茶菓子にしては、高級な方だろうと思う。主にアップルティーは高級だけれど、それが無料で家にあるのは、本当にありがたい限りだ。


「ん……おいひい!」

 マリィがあまりにも油断しながらクッキーを食べているのを見て、少しホッとする。

 こういう顔を見るのも、久しぶりだ。

「ジャムを添えても美味しいわよ?」

 私はクッキーに一匙、ママレードジャムをつけて齧る。

 クッキーの甘さ、ママレードの酸味、そうして、アップルティーの優しい甘さ。

 調和が取れている、優しい空気が流れている気がした。


「ん、この林檎ジャムも美味しいですね。流石……」

 彼女が言いかけた所で、私は先んじて失言を止める。

「そのジャムはうちのじゃないわよ? 林檎にも食べ方があるからね。うちのはジャムにするには少し品種が合わないの。要は甘すぎるのよね……」

 加工も勿論、我が家が管轄している。だけれど我が家の林檎は甘くて香り高い高級品種と呼ばれる部類だから、アップルティーや、そのまま食べる事には向いているけれど。唯一酸味を強く必要とするジャムには向かない。

 どうにかして酸味を足す事も出来るけれど、そうすると我が家本来の林檎の味を失う事になる。


「んぐ、ですよね……知ってま――せんでした」

「素直でよろしい。まぁ……貴方がそこらへん全部知っていても怖いわよ。庭師にでもなりたいなら別だけど」 

 適材適所であるべきだ。彼女は彼女の仕事に真っ直ぐで、私が知らないだけで彼女だけが出来る事もあるはず。逆に言えば庭師のヴァロが出来て彼女が出来ない事。彼女に出来てヴァロに出来ない事だって明確に存在する。当たり前の話。

 だけれどそれは、技術という物に収まり切るものじゃあない。


「……結婚って、どんなものなんでしょうね?」

 ふと小さく、憧れを抱いた少女が言葉をこぼす。

 マリィは、純粋過ぎる程に、私の婚約を喜んでいる。私もきっと、最初はそうだった。

 そうだったという事を思い出せないのが、悔しいけれど、きっとそういう物であるべきだったのだと思う。

「憧れる?」

「ん、いつかしてみたいなとは思います」

 飲みかけて、口元まで寄せて止めたカップから、アップルティーの香りがあふれる。


「だけれどね、幸せな事ばかりじゃないと、思うの」

 今だから言えてしまう、夢や憧れを潰してしまうような言葉。

 だけれど、現実に則した、正しい言葉。


「かもしれません……なんて、今言える話じゃないですよ? 実際にお嬢様は結婚するんですから」

 それでも、マリィは希望を見ている。実際に私が結婚する事は無いとしても、未だ確定しない未来を、見ている。それが少しだけ、悲しかった。


「だけど」

 小さくマリィがこぼす。

「結婚だけが幸せになる為に必要なこと、じゃないですよね」

 彼女のその言葉は、決して私に向けられた物なんかじゃない。


 これは、彼女自身に向けられた言葉。彼女はメイドで、私は令嬢だ。

 歳は同じなのに、立場は明確に違う。

 なのに私は彼女の思う幸せの形の一つという『結婚』を先に手に入れてしまった。少なくとも今この時点で彼女が観測出来る状況としては、そうなる。


 だからこそ、それを手に入れられない彼女自身を、彼女は小さく慰めたのだ。

「あ、その、ひがんでるとかじゃ勿論ないです、ないですからね?!」

 僻みを言ったつもりがない事は分かっている。だけれど、それ以上に大事な事を言っている事に、彼女は気付いていない。

 だから私は、そっと笑って、彼女の言葉に頷いた。

「そう、幸せの形はね。結婚だけじゃないの。ちなみにこれは婚約が決まったから言っているわけじゃないからね?」

 マリィは、不思議そうな顔をしながら、パキリ、とクッキーを齧る。


「ほら、それだって幸せの形だと思わない?」

 半分に割れたクッキー、その半分は今彼女の口の中で優しく甘く、飲み込まれていく。

 彼女はクッキーをモグモグと咀嚼しながら、手に持ったクッキーを皿に置いて、見つめていた。

「幸せの……形、確かに、そうかもですね!」

 クッキーを飲み込んだ彼女は、パッと明るい表情を浮かべる。そうして何かに気付いたようにアップルティーを啜って、飲み込んだ後に、色が見えるような綺麗な笑みをこちらに向けた。


 それを見た私はテーブルに置かれていた半分のクッキーをそっと取って、口に含む。

「そーいうこと。幸せの最小単位なんて、自分で決めたらいいのよ?」

「あ! お嬢様っ! 自分のもあるのにズルい!」

 クッキーを取られて、笑いながらムクレたフリをする彼女に、私は自分のクッキーを一つ置いた。

「それでこれは、幸せのお裾分け」


 幸せの最小単位を、分け合う意味。幸せを考える意味。

 これは私達友人が、それぞれ、この繰り返しの中だからこそはじめて気付けた真実だと、思いたい。


――だからこそ、この記憶は、忘れちゃいけない。

 私も、マリィも、忘れちゃいけない事だ。だけれど、繰り返しが起きた時に、私は同じ温度で彼女と話をする事が出来ない。冷めすぎても、熱すぎても、アップルティーは美味しくならない。


 だからこそ私は、もう繰り返させない。

 この感情を、この出来事を、この温度のまま、残す。


 私が繰り返しを打破するべき動機が一つ、増えた。

 それも、今回で打破しなければいけないという大きな縛り付きだ。


「ご馳走様、楽しかったわマリィ。今日の事、忘れないでね?」

 しばらく話してから、私はマリィにお礼を言って、部屋をあとにする。


 お茶とお茶菓子をご馳走したのは私、だけれど意味をご馳走してもらったのは私。

 

 だから私は気の抜けた返事をしているマリィに苦笑しながら、扉を締めて、軽く拳を握った。


――忘れてもらっちゃ困るような事が、生まれた。


 それは、今までの繰り返しの中で、一度も私が起こしていない行動だった。

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