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第3話 小さな奇跡ーー風に祈る

旅路は、王都を離れて三日が過ぎた。

 朝靄の立つ森を抜け、丘を越え、遠くに青い山脈を望む。

 リリアはその景色を見つめながら、胸の奥に小さな痛みを覚えていた。

 ――生きている、という実感。

 けれど同時に、命がゆっくりと削れていく実感でもあった。


 彼女の掌に刻まれた聖紋は、日を追うごとに光を増している。

 それは力が強まっている証であり、同時に命が短くなっている証でもあった。

 そんな彼女の歩みに合わせるように、アイクはいつも数歩前を歩いていた。


「疲れていませんか、リリア様」


 振り返った彼の声は低く、けれどどこか優しかった。

 無愛想な表情の奥に、確かな気遣いがある。

 リリアは小さく微笑み、首を横に振る。


「大丈夫です。こうして歩いていると……少しずつ、世界が広く感じます」

「……広い世界を、今のうちに見ておくのも悪くない」

「え?」

「いや、なんでもありません」


 不器用な沈黙が流れた。

 だが、その沈黙は不思議と居心地が悪くなかった。

 風が木々の間を抜け、柔らかな葉音がふたりの間を満たしていく。


 やがて、彼らは一つの小さな村に辿り着いた。

 そこは森の入口にある静かな集落で、子どもたちの笑い声が遠くで響いていた。

 けれどその明るさの裏には、どこか重い空気が漂っていた。

 家々の窓は閉ざされ、祈りの札がいくつも貼られている。


 村長の老人が、彼らにすがるように言った。


「……どうか、助けてください。

 息子が病に倒れてもう七日、医師も手の施しようがないと……」


 リリアは静かに頷いた。

 そして、その家へと足を向けた。


 中は薄暗く、湿った空気と薬草の匂いが満ちていた。

 小さな寝台の上で、少年が苦しげに息をしている。

 まだ十にも満たぬ年頃。額には冷たい汗が滲み、手は小さく震えていた。


 リリアは膝をつき、少年の手をそっと包み込んだ。

 その掌は氷のように冷たく、生命の光が今にも消えそうだった。


「大丈夫。もう苦しまないで……」


 彼女の声は、風のように優しく響く。

 次の瞬間、聖紋が淡く輝いた。

 金色の光がリリアの手から広がり、部屋を満たしていく。

 壁に映る影が消え、空気が澄み、外の風が窓を開かぬままにそよいだ。


 アイクは、ただその光景を見つめていた。

 彼の瞳に映るのは、静かに祈るリリアの横顔。

 光に包まれたその姿は、まるでこの世に生きる者ではないかのように美しかった。


 やがて、少年の呼吸が穏やかになる。

 その頬に、わずかに色が戻った。

 母親が嗚咽を漏らし、リリアの手を取って泣き崩れる。


「ありがとうございます……! 本当に……!」


 リリアは優しく微笑んだ。

 その笑顔の裏で、彼女の胸の奥に小さな痛みが走る。

 ――命が、またひとつ削れた。

 けれど、悔いはなかった。

 この小さな奇跡が、誰かの未来に繋がるなら、それでいい。


 外へ出ると、夕陽が村を赤く染めていた。

 リリアは沈む太陽を見上げ、深く息を吐く。

 少しだけ、心が軽くなっていた。


「……命を削ってまで、他人を救うのですか」

 アイクの声が背後から響いた。

 振り返ると、彼は腕を組み、険しい表情をしている。

 けれどその瞳の奥には、怒りではなく――迷いがあった。


「ええ。でも、それが私の“生まれた意味”だと思うんです」

「意味、ですか」

「はい。

 人は誰かのために生きられたとき、初めて“生きていた”と言える気がします。

 たとえ、それが短い時間でも……」


 夕陽の光が、彼女の頬を染めた。

 アイクはしばし言葉を失い、その横顔を見つめる。

 儚くて、危うくて――けれど、眩しいほどに強い光。

 彼女の中には、恐れも悲しみもあるはずなのに、それ以上に“生きたい”という意志があった。


 アイクは小さく息を吐く。


「……あなたは、本当に不思議な人ですね」

 その言葉に、リリアは少しだけ笑った。


「そうでしょうか?」

「そう思います。

 普通の人間なら、死を前にしてそんな顔はできない」


「でも、あなたはできるんですね。

 死を前にしても、笑っている」


 リリアは目を伏せ、少し考えたあと、そっと答えた。


「笑っていないと、怖くなってしまうんです。

 だから――笑うんです。

 怖くても、泣きそうでも、笑っていれば、少しだけ強くなれるから」


 その言葉に、アイクの心が微かに揺れた。

 胸の奥に、知らず熱いものが灯る。

 それが何なのか、彼にはまだ分からない。

 けれどその瞬間、彼の中で何かが確かに変わった。


 風が吹く。

 追憶草の香りが、遠く森の方から漂ってきた。

 その香りは、どこか懐かしく、やさしい。


 リリアの微笑みは、沈む陽の中で光を帯びていた。

 それは、世界がほんの少しだけ温かくなるような笑顔だった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

リリアが初めて見せた“奇跡”は、彼女の命を削る代償を伴うものでした。

けれどその姿を見たアイクの心に、確かな何かが芽生え始めます。


次回、第4話「心がほどける夜」では、旅の途中の静かな夜を通して、

二人の距離が少しだけ近づいていきます。

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