宿命の橋
自分は運命などに左右されることなく意志の力によってすべてを判断していると、大多数の人間がそう主張するが、いざ人生の岐路に立たされたとき、運命の力に抗える人間はそういない。一見して恣意的に思えるどのような行動も、後の結果から見ると、そのほとんどが本人にとって論理的であったことが判明する。
この夜、言うまでもなく特別な夜であるが、私はとある思い出の場所に向けて外出することに決めた。特に重要な用事があったわけではない。長年の間、この胸に疼く何かに促されるようにある地点へと向かうことにした。とりあえずの目的はこの国随一のターミナル駅であった。
私は生来臆病な人間だから、そうせざるを得なかったのかもしれないし、他の人間の意志、あるいは、目には見えぬ精霊の意志に突き動かされたのかもしれない。あの事件に関わるあらゆる情報を集めて、その上で鑑みれば、今夜の私の行動はまったく不合理である。今行動することは、自分の身を危険に晒すだけだからである。
この十年というもの、ある理由から、この駅を訪れることをなるべく避けるように暮らしてきた。自分の過去から逃れようとしていたわけだ。私の姿を目に留めると、駅員は指定席がかなり混雑しているという理由だけで自由席を勧めてくれた。私は小銭を支払い、その切符を購入すると、二番ホームを目指して、その広大なロータリーを、人混みをかき分けながら進んだ。その途中で見慣れない団体に出会った。
「皆さん、アルウォード鉄橋事件についての情報をお寄せください」
彼らは口々にそう叫んでいた。私は帽子を深々と被り、なるべく彼らとは視線を合わせぬようにして、その横を通り過ぎた。今から十年前のちょうど今日、夕刻にこの駅を発車した列車が、アルウォード鉄橋に差し掛かった頃に、その列車の内部において、乗り合わせていたヴィグナム氏という老富豪が、何者かの手によって、鋭利な刃物により背後から刺された。ヴィグナム氏は病院に運ばれたが、即死だった。犯人は鉄橋から河に飛びこみ、そのまま逃走したと見られている。
この国に住んでいて、この大事件を知らない者はいないだろう。警察は事件後から、一万人捜査態勢を敷いて、懸命なる捜査にあたったが、犯人の身柄を捕えることはできなかった。この事件は、現在もまだ未解決のままである。
十年という月日は人間の外観や人格を変えてしまうには十分である。私の口が語るのはおかしいが、あの事件の真犯人は、今もこの国のどこかをのうのうと歩いていることだろう。警察が時効がくるまでに真相にたどり着くことは、もはや不可能と言える。
大声を張り上げたり、ビラを配ったりしている人々は、どうやら被害者の遺族会のようである。その団体に所属しているらしい遺族のひとりが寄ってきて、通り過ぎざまに私の手に黒い小箱を握らせた。
「これをどうぞ、ぜひ、お持ちになってください」
彼女は暗い声でたしかにそう言った。少し後になって、その小箱のフタを開けてみると、その中からは『E-6』と書かれた紙切れが出てきた。せっかく示された運命に従わない人間はいない。私は列車のE車両の前から六番目の席に腰を掛けることにした。他の車両には多くの乗客がいる気配が感じられたが、このE車両だけはなぜだか空いていた。ムッとするような湿気は感じられたが、静かな夜だった。列車は定刻通りにその駅を発車した。
座席にもたれかかると、しばらく、うとうととしていた。三十分ほどもまどろんでいただろうか、気がつくと、眼前の席に喪服のような黒衣をまとった美しい女性が座っていた。その女性に意識を向けないわけにはいかなかった。
彼女は微動だにせず、最初は眠っているようにさえ見えた。しかし、詳細を観察しているうちに、それはこちらの思い違いであることが分かった。彼女は窓の外の景色の移ろいに気を取られているように思えた。この車両には我々ふたりの他に乗客はいないようだった。つまり、この美しい女性は、わざわざ、私の座っている席の真前を選んで腰を掛けたことになる。この事実に、私はすっかり気をよくした。目の前の麗しき女性に話しかけてみたい気分に駆られた。私は頭を下げて軽く挨拶をした。彼女もそれに応じた。私との対話を望んでいたようであった。
私たちはそれほど盛り上がりすぎることもなく、淡々とした会話を楽しんだ。窓の外に見える夕焼けの美しさや旅慣れない旅行者を題にして、あるいは、人と人との不可思議な縁について、さらに、サマセット・モームやヘミングウェイの作品について、昨今のパリジェンヌのファッションの変化について、いくらかの対話を交わした。その間も、この車両に入ってくる乗客はなかった。私はそのことが何より気になっていた。
「お嬢さん、貴女の澄んだ瞳から見て、この私はどのような人間に見えますか?」
私は勇気を振り絞り、唐突にそう尋ねてみた。
「とても愛嬌のある、人好きのするお方に見えます」
彼女はさして表情を崩さずにそう返答した。
「私の顔は卑劣な無頼漢のようには見えませんかね?」
「いいえ、そんな風には見えません。この突然の出会いについて、何か気になることでもおありですか?」
彼女は少し首を傾げてから、そう述べた。
汽車はいつの間にか、あのアルウォード鉄橋のちょうど中央付近にまで到達していた。そこで少し速度が緩んだ。横風が強くなってきたからかもしれない。ここは十年前のあの日、老富豪の殺害事件が起きた場所と一致する。汽車は鉄橋の中央を少し過ぎた地点で完全に停止した。私にはその理由がまるで分からなかった。
「貴方はこの列車やこの場所について、ずいぶんと思い入れがあるようですね?」
彼女はその小さな口を白いハンカチで抑えつつ、そのように言うと、少し笑ってみせた。その柔らかな態度に後押しされる形で、私の口からはあの日の出来事がとめどなく流れ出た。
つまり、十年前のあの日、私が自分の主人である ヴィグナム氏を冷酷にも殺害した地点であることを。そして、あの事件によって支払われた報酬が、私のその後の人生を予想外に豊かなものにしたこと、それと共に、胸に刻まれた罪悪感はまるで消えてくれなかったことなどを。秘密結社とグルになって、自分の主人を裏切り亡き者にしてしまった、そのいきさつのすべてを眼前の女性に語って聞かせた。目の前の大金に負けて犯罪に走った自分が、どれほど弱くふがいない人間であるか、ということまで残さず語り尽くした。もちろん、これらの情報は、警察の方でも掴んではいないものばかりであった。
「罪の意識というものは、例え、何十年が経過しても、犯罪者の心からは消えてくれないものなんです。まあ、こんなことを聞かされても、貴女のようなお若い方には、とても理解できないでしょうけどね……」
「その話の真実性についてはよく分かります。貴方はおそらく本当のことを仰ってます。この私も貴方が長年にわたり握りしめていたその糸に導かれて、ここまでやって来たのですから……」
その冷静な女性はある種の決意を込めて、そのようなことを語った。
「私はもう生きていたくない……。しかし、この通り、死にきれずに生き永らえているのです……」
私の両肩はいつの間にか、ガタガタと震えていた。
「ああ、あのときの幻覚が見える。どうか、許してくれ。私だってやりたくてやったわけじゃない。すべては報酬として積まれていた大金のためなんだ……」
「貴方はたかが金のために、あのような大事件を引き起こしてしまったのですね」
「そうだ、事件の被害者やその遺族は確かに不幸であったろう。しかしね、この私だって、この通り、不幸になったじゃないか。今でもヴィグナム様の幻覚に脅えながら、日々を過ごしている……。復讐鬼の影にも脅えている。心中に溜まった不安感に喰い殺されそうだ。すべてがやりきれない……。私の時間はこの十年間、少しも進んでいないんだ……」
「よく分かりますわ、その気持ち……」
彼女は力なくそう呟いた。ただ、同情ともとれるその言葉は、決して私の不安を拭うために用意されたものではなかった。私はその次の瞬間、彼女のすぐ隣に、故ヴィグナム氏の凛とした姿を見た。彼女の強い精神と私の心の弱さがその幻覚を呼び出したのだ。
「私は運命神の存在を強く信じています。どうやら、貴方の目には見えていないようですけどね。運命の女神がそのお慈悲によって、あの殺人事件から十年後、つまり今夜のことですが、まったく同じ時間に卑怯な暗殺者とここで引き合わせてくれたのです。これを感謝せずにいられましょうか」
彼女がその瞬間に自信ありげに微笑したのが見て取れた。いつの間にか、その右手には漆黒の拳銃が握られていた。乾いた銃声が辺りに響き渡った。もちろん、その銃弾は私の胸を貫いていた。
「私の名はカロン=ヴィグナム。貴方が殺害したフォースター=ヴィグナムの娘です」
彼女が最後にそう語ったのが聴こえた。床に崩れ落ちる寸前、私はこんなことを思った。重い罪を背負ったこの十年の間、確かに警察の捜査は自分の身には届かなかった。しかし、我が身がどこへ逃げようと、宿命の糸によって彼女と強く結びつけられていたのだと。
最後まで読んで頂きまして、ありがとうございます。他にも多くの短編小説がありますので、良かったらご覧ください。よろしくお願いします。