椅子がないんだが
「……はぁ。」
コーヒーの香ばしい香りが、部屋に広がっている。
温かいカップを手に、ふぅっと息を吐きながら、俺は少し落ち着きを取り戻していた。
確かに異常だ。
キッチンが女の子になってるとか、コーヒーが手から湧いてくるとか、
そんなの、ありえないに決まってる。
でも──目の前のコーヒーの温かさと香りが、どうしようもなく現実感を突きつけてくる。
「……とりあえず、飲むか。」
そう言って、俺はコーヒーを持ったまま、いつもの癖で椅子に座ろうと振り返った。
──椅子が、ない。
「……あれ?」
シンプルな木製の椅子が、いつもテーブルの横に置いてあるはずだった。
でも、今は空っぽ。
家具を片付けた記憶なんて、もちろんない。
「……あれ? 椅子、どこ行った?」
混乱しながら、あたりを見回したそのとき──
「……あ、あのっ……!」
小さな声が耳に届いた。
視線を落とすと、そこには──
金髪で小柄な少女、シトリが、頬を赤く染めて膝を揃え、うつむきながら立っていた。
両手を胸の前でぎゅっと握りしめて、震える声で言葉を続ける。
「そ、その……ご主人様……椅子は……わ、私なので……」
「…………。」
言葉の意味が、一瞬、理解できなかった。
でも、彼女の恥ずかしそうに揺れる長いまつげと、赤らめた頬と、指先をもじもじと絡める仕草を見て──
ああ、そういうことかと、ようやく理解した。
「え、じゃあ、俺が座るってなると……」
「……は、はいっ……」
小さく頷き、シトリはそっと膝をつき、
「どうぞ……私に、座ってください……」と、か細い声で言った。
膝を揃えて正座のような姿勢になり、少し震えながら、視線を逸らして頬を赤くする彼女。
「…………。」
いやいやいや、待て待て待て。
俺、これからコーヒー飲みながら座るつもりだったんだぞ?
普通にリラックスして、椅子に体重預けて、のんびりくつろぐ予定だったんだぞ?
それを、この──どう見ても恥ずかしがりながら小さくなってる女の子に──?
「そ、それとも……やっぱり、嫌ですか……?」
シトリが小さな声で、不安そうに上目遣いでこちらを見てくる。
「椅子として……ご主人様に、座ってもらいたいですけど……恥ずかしいので……優しく……してください……」
最後の方は小さな声で、ほとんど聞き取れなかった。
でも、ちゃんと聞こえてしまった。
「…………。」
コーヒーの香りが、やけに広がる部屋の中で、
俺は冷めた頭を必死に動かしながら、
「いや、そうはならんだろ……」と心の中で絶望的なツッコミを入れていた。