存在しない婚約が破棄されました ~知りませんよ、私と王太子殿下の婚約なんて~
「シーナ・イルミナータ、貴様との婚約は破棄させてもらう!」
王立学園の卒業パーティにて、エドワルド王太子殿下の口から衝撃の言葉が飛び出した。
一瞬の静寂と、直後に広がるざわめき。
会場に集まっていた貴族達――生徒や教師のみならず、果ては執事やメイド達まで、私と殿下に注目を向ける。
「婚約者だというのに貴様は俺様への敬意と慈愛がまったく足りん! 政略結婚だからと今まで我慢していたがもう限界だ! 俺様に尽くさない女などいらん!」
訳が分からなかった。
耳では彼の声を捉えているのに、頭が理解を拒んでいる。
殿下は側で控えていた女子生徒の肩をこれ見よがしに抱き寄せた。
そして高らかに宣言する。
「そんなわけで、俺様はクラリッサ・ナシュー男爵令嬢と新たに婚約を結ぶことにした。彼女は優しいしかわいいし、俺様のことを常に考えていてくれるのだ。貴様と違ってな!」
クラリッサと呼ばれた女子生徒は小さくはにかむと、私に向けて「ごめんなさい」とばかりに頭を下げた。
彼女の儚げな仕草に魅了されたのか、周囲の生徒達の間に祝福ムードが広がる。
身分上は公爵令嬢である私が上でも、この場での立場は完全に逆だった。
「分かったとっとと俺様の前から消えるんだな! この冷酷女め!」
「……あのぅ」
そこまで言われて、私は思わず口を挟んだ。
わかっている。どんなに荒唐無稽な主張でも、王太子殿下に抗議することがいかに不敬であるかなんて。
でも、それを承知で言わざるを得なかった。
「……私、あなたと婚約した覚えはありませんけど」
「……………………は?」
瞬間、時が止まった。
そう錯覚するような静寂。
あれだけ啖呵を切っていた殿下はというと、ビシッ!と私に向けていた人差し指を、へにょんとさせている。
「バ……バカなッ!? イルミナータ家とは正式に婚約の文書も交わしたし、貴様とは8年前――俺様が10歳のときに誓いの儀式も行ったはずだ! よもや忘れたとは言うまいな!」
「忘れたも何もそんな事実はありません。記憶を捏造しないでください」
「ほ、本気で言ってるのか……?」
殿下の戸惑いの声に、遅れて周囲がざわつき始める。
というか、私が殿下と初めてお会いしたのは入学後――つまり6年前より後だ。
殿下は8年前に婚約したと主張しているが、そもそも会ってもいない人間と婚約なんて結べるはずがないだろう。
そういえば初対面のときから妙に馴れ馴れしい男だと思っていたけど、去年の今頃をさかいに私への態度が急に冷淡になってたな。
まさかこの人、勝手に私を婚約者と勘違いして、勝手に愛想つかしていたのか。彼に興味なかったから気づかなかったけど。
「父上や母上からも婚約の話など一度も聞いたことがありません。人違いではないですか?」
「そ、そんなわけあるか! おいクリス! クリスはいるか?」
「はい、ここに」
殿下の呼びかけに応じ、後方で控えていた細身の執事が前へ出た。
随分と若いな。一瞬生徒達と見間違えて気がつかなかった。
「クリスも覚えているだろう? 8年前に俺様とシーナが婚約を交わした日のことを」
「ええ、もちろん。フフッ……エドワルド様がひどく緊張されていたご様子、今でも鮮明に覚えておりますよ」
「余計なことは思い出さなくていい! それより、そのときの合意文書はあるか?」
「こちらでございます」
あらかじめ準備していたのか、執事は一枚の羊皮紙を広げて殿下に差し出した。
私も一緒に覗き込む。と、そこには確かにエドワルド王太子殿下と私が婚約を結ぶ旨、そして私の父上ーーイルミナータ家当主のサインが印されていた。
でもこの筆跡、父上のサインに似ているような似ていないような……。
偽造書の可能性もあるし、単に父上が酒に酔って書いた可能性も……うーん。
「どうだ! やはり貴様との婚約は存在しているではないか!」
「ですが、文書だけでは婚約手続きは不十分です。誓いの儀式をしていない以上、やはり婚約も無効では?」
「まだ言うか! 俺様と貴様は儀式も行っている! 間違いなくな!」
「しかし……」
どうも釈然としない。
微塵も記憶にないけど、本当に儀式なんてやっただろうか?
ひとまず思考をほぐすため、この国の婚約手続きについて整理しておこう。
婚約成立にあたって必要なものは2つある。
両家の合意文書と、本人同士による誓いの儀式だ。
まず、合意文書については政略的争いを避けるため、密書により行われるのが通例だ。
一方の家から侍者を通じて密書が送られるのだが、そこには婚約を申し込む旨と儀式の日時・場所の候補が記されている。
それを受けた家は同じく密書で返答。合意の場合には儀式の日時・場所も併せて回答し、これをもって両家合意とみなすのだ。
その後、指定された教会にて婚約者二人による神への誓いの儀式を行う。
儀式では婚約の宣誓を行った後、誓いのキスをすることで正式に婚約が成立する。
いわば結婚の儀式の簡易版のようなものだ。
何とも面倒な手続きだけど、歴史的には相次ぐ文書紛失事件や教会の権威強化など、複雑な経緯があって今の形に落ち着いたらしい。
ちなみに、婚約を公表するか否かについては当人達の自由であり、一般には成人した日あるいは卒業パーティ時に公表する者が多い。
まさか婚約宣言より先に婚約破棄する人が現れるとは思わなかったが。
「というか、少なくともエドワルド殿下は婚約の儀式を覚えているのですよね? 相手が私本人ではないと気づかなかったのですか?」
「アホか! ただでさえ女と二人きりで、はっ、初めてのキスだったのだぞ!? 疑う余裕などあるわけなかろう!」
どうやら緊張していたのは本当だったらしい。
この王子、性格が終わってることで有名だけど、割とピュアなところもあるんだな。
それはさておき。
「私に覚えがない以上、殿下がなさった儀式の相手はシーナ・イルミナータではない別の誰かです。つまり、この婚約は偽装されていたと考えられます」
「婚約を偽装ぅ?」
殿下が眉根を寄せる。
会場の観衆はというと、呆れる者、驚く者、陰口を叩く者と反応は様々だ。
「バカバカしい。そんなことできるわけないし、仮にできたとして一体誰が得するというのだ?」
殿下の言う通り、婚約を偽装することは至難の業だ。
そもそも合意文書の内容は限られた人物――各家の当主と婚約者本人にしか知り得ない。
それを偽装するだけでも困難なのに、その後私になりすまして殿下と儀式を行うのは容易ではないだろう。
儀式を行う都合上、少なくとも犯人は私になりすませる人物――つまり『私と同年代の令嬢』であることは言えるが、肝心の偽装方法については検討もつかない。
ただ、犯行の『動機』についてはある程度想像がつく。
「おそらく、犯人の目的は『時間稼ぎ』と思われます」
私は思考を巡らせ、言葉を紡ぐ。
エドワルド殿下は腐ってもこの国の次期国王。
政略的に彼と婚約を結びたい貴族なら山ほどいるはずだ。
「確か、殿下にはご兄弟がいらっしゃらないのでしたよね? 跡取り候補が一人しかいない状況を国王陛下も大変憂慮されていたとか」
「まあな。おかげで俺様は幼い頃からさっさと婚約者を決めろと強要され、貴様との婚約を余儀なくされたわけだ」
「しかし中には殿下の早期婚約を面白くないと思う貴族もいたことでしょう。特に当時何らかの理由で婚約者としての資格を持てなかった令嬢などは」
何らかの理由――例えば一家の財政悪化で婚約どころではなかった家とか、可能性はいくらでもある。
「そんな貴族からすれば、ひとまずは偽の婚約を結ばせておき、殿下が成人するまでの間に好感度を上げてから婚約を奪う、という戦略は有効ではないでしょうか?」
「こじつけが過ぎるぞ。そんな回りくどいマネをするなら、婚約を直接妨害したほうが早いであろう」
「先程申しました通り、国王陛下は殿下の早期婚約を焦っておられました。となれば下手に婚約を妨害して反感を買うのはデメリットの方が大きいでしょう」
それに、と私はあえて声を張る。
「エドワルド殿下は当時からわがままで横暴で女好きなクソ王子として有名でした。ならば貴族の間でも『齢10才で婚約を結んだところで、どうせ将来破棄されるだろう』との噂が流れていても不思議ではありません。犯人はそれを見込んでいたのです」
「貴様、よくも本人の前でそんな暴言が吐けたなおい!」
殿下がギャースカ騒ぐのを無視しつつ、周囲を観察してみる。
もし私の推測におかしな点があれば、多少でも首を傾げる者が現れるはず。
結果、異議のありそうな者は見当たらなかった。
特に当時の噂を知る大人――教師や使用人達の中には納得したように頷く者もいる。
少なくとも婚約破棄の噂は当時からあったとみてよさそうだ。
「要するに、犯人は8年前に婚約候補先になり得なかった貴族家の出身で、最近になって殿下にアプローチをかけて婚約を奪おうとしている者、ということになります。……心当たりはありませんか?」
「そう言われても……」
殿下はしばし熟考していたが、やがてハッと何かに気がついた。
どうやら誰が思い当たるフシがあるようだ。
というか、私も心当たりは一人しかいない。
「まさか…………シルヴィア嬢か!?」
殿下の声で生徒達のざわめきが大きくなる。
次第に群衆は二手に割れ、その中央に立つ女子生徒一人に注目が集まった。
「まさかわたくしが容疑者扱いされるなんて思いませんでしたわ」
女子生徒はひどく面倒そうな面持ちで、割れた人海の中から進み出る。
彼女はここ数年になって殿下と仲良くなった令嬢の一人だ。
出自もかなり特殊で、私が挙げた条件にも合致する。
「シルヴィア・ライズベリー嬢。少々お話を伺っても?」
「どうせ拒否しても疑われるのでしょう? 勝手になさいまし」
シルヴィア嬢は腕を組んでむすっとしているが、質問には答えてくれるようだ。
では遠慮なく。
「まずは確認です。あなたは8年前、どこでどんな生活を送っていましたか?」
「8年前でしたら、わたくしはまだ辺境の田舎暮らしをしていましたわ。あなたもご存知でしょうけど、わたくしは4年前にライズベリー伯爵家の養女となって、それからこの学園へ編入学しましたのよ」
「ライズベリー家とは8年前から繋がりが?」
「繋がりというか、それなりのお付き合いはありましてよ。元々わたくしの実家はライズベリー家の領地にありまして、ライズベリー家の当主――今のお父様が視察に来られたときからご縁がありますの」
妙にぎこちない口調で受け答えするシルヴィア嬢。
おそらく田舎暮らしが長かったせいで、貴族の言葉遣いに無理が生じているのだろう。
言葉の抑揚にも独特な訛りが感じられる。
「それで? わたくしを疑う理由はどこにありますの?」
「あなたの経歴はまさに偽装婚約の動機に適しているのです」
8年前の当時、ライズベリー家には王太子の婚約者になれる娘がいなかった。
そこで偽装婚約で時間を稼ぎ、正式に養女を取ってから殿下にアプローチし始めた、という可能性は十分ありうる。
「言いがかりですわ! そもそも8年前にライズベリー家でなかった私が、どうして婚約の儀式を行うことができますの?!」
「先程あなたは仰いましたよね、8年前にはすでにライズベリー家との付き合いがあった、と。であれば儀式の日だけライズベリー家と結託することは可能なはず。あとはライズベリー家当主があらかじめ合意文書を偽装しておけば――」
「お父様とお母様はそんなことしませんわよ!」
突然、シルヴィア嬢に激昂され、私は口をつぐんだ。
しまった、さすがに言いすぎたみたいだ。
これでは私の方が悪者だ。
「……なぁシーナ、犯人は本当にシルヴィアなのか?」
私があれこれ思考を巡らせていると、今度は殿下がシルヴィア嬢を擁護し始める。
「シルヴィアはこの学園に編入して以来、勉学や芸術の成績は常にトップクラスの優等生だ。生徒や教師からの信頼も厚い。そんな彼女が偽装婚約なんて悪事を働くとは到底思えん!」
彼女の成績が優秀であることは私も知っている。
けど、信頼度だけでは無実の証拠にならないだろう……と思ったのだが、私はあえて言及しなかった。
どうやら観衆の反応はシルヴィア嬢に優しいものが多く、反対に私に対しては訝しむ視線が多いようだ。
彼らの信用をも否定する言動は、今は慎むべきだろう。
「それにシルヴィアは政治や軍事にも明るくてな。俺様も次期国王として、最近はよく彼女とも議論しているのだ。特に二年前にシルヴィアが提案した戦略は秀逸でな、あれを採用したことで北のホポ国の侵略を牽制できたと、国王も実に感服していたものだ!」
「殿下、関係のない話は控えてもらっても……今なんて言いました?」
聞き捨てならない発言に自分の耳を疑う。
「二年前の戦略って……まさかそれ、北部の防衛を厚くするために南部の兵のほとんどを招集したっていうあの世紀の愚策ですか?」
「愚策とは失敬な! 確かにあのときは運悪く南部をナーブ国に奇襲されてしまったが、戦略全体としては悪くなかっただろう」
「運悪くって、あのせいで南部の町一つが陥落寸前までいったんですよ?」
「今さらグチグチ言うな。結果的に撃退できたのならそれで良いではないか」
いいわけあるか。あの町は要衝の一つだから、もし占領されてたらそこを起点にもっと被害が拡大していた可能性が高いんだぞ。
そしたらナーブ国との戦争も長引いて……。
「……それで? 結局わたくしの疑いは晴れたってことでよろしくて?」
私と殿下のやり取りにシビレを切らしたのか、シルヴィア嬢が若干イラついた口調で割り込んできた。
……いけない、思考が脱線してしまった。
彼女には申し訳ないことをしたし、これ以上の詮索はやめておこう。
「不躾な質問ばかりで大変失礼いたしました」
恭しく頭を下げると、シルヴィア嬢はふん、と鼻を鳴らした。
しかし、なぜか彼女はその場に居続け、
「そもそも、わたくしを疑う前にもっと疑うべき方がいるのですわ。ほら、そこに!」
ビシッ!と人差し指をとある女子生徒に突きつけた。
「わ、私ですか!?」
指定された女子生徒だけでなく、殿下や会場の観衆までギョッとする。
その人物は先程、殿下が新たに婚約を結ぶと宣言したお相手。
クラリッサ・ナシュー男爵令嬢、その人だった。
「犯人の目的は『時間稼ぎをしてからエドワルド様の婚約を奪うこと』なのでしょう? まさにその目的を達成しようとしている人物こそ、彼女なのではなくて!?」
「無礼だぞシルヴィア! いくら貴様でも、クラリッサを悪く言うことはこの俺様が許さん!」
新しい婚約者を疑われ、大層ご立腹の殿下。
とはいえ、シルヴィア嬢の言う通りだ。
ひとまず話だけでも聞くべきだろう。
「クラリッサ・ナシュー嬢、あなたは8年前何をされていましたか?」
「わ、私はそのころ体が弱くて、あまり外には出られなかったのです……。だから婚約を偽装? したりはムリだと思います」
クラリッサ嬢の弁明に、逆だ、と内心でつぶやく。
当時病弱だったのなら、王家からの婚約申請はされにくかったはず。
だとすれば、ナシュー家はまさしく『時間稼ぎ』したい貴族の条件そのものだ。
あとはたった一日だけ儀式に出る体力が彼女にあれば、偽装婚約も可能だろう。
「そんな理由で逃げられると思いまして?」
「え!? な、何ですか!」
やはり彼女の説明で納得できなかったのは、私だけではなかったようだ。
後退るクラリッサ嬢を追求するように、シルヴィア嬢が彼女の右手を掴む。
その手にはドレス用の白い手袋がはめられていた。
「そういえば貴方、潔癖症なんですってね。ここ一年ほど貴方が手袋を外しているところ、見たことありませんわ」
「すみません……これをつけていないと外に出られなくて……」
「ふぅん、それはそれは、いろんなものが隠しやすそうですわね。例えば……婚約指輪、とか」
「それは……」
「シルヴィア、いい加減にしろ! クラリッサが潔癖症なのは外の汚れに触れないほど病弱だからだ! 事実、彼女がまだ元気だった頃は手袋なんてつけてなかったしな!」
クラリッサ嬢を庇うように前に出てシルヴィア嬢と睨みあう殿下。
でも、私はむしろ殿下の発言の方が気になった。
「クラリッサ嬢と面識があったのですか? 彼女が病弱になる前に」
「ああ、一度だけな。幼い頃の彼女はそれはそれは可憐で、俺様は子供ながら一目惚れしてしまったのだ!」
どうやら殿下の中で何かの”スイッチ”が入ってしまったようだ。
その後しばらく、クラリッサがいかに優しい令嬢か、つらつらと語りだしてしまった。
「そうそう、クラリッサは心優しいだけでなく、猫好きでかわいい一面もあってだな。彼女の屋敷で飼っている猫は使用人に頼らず、すべて彼女自身が世話をしているのだ! そんな慈悲深い彼女が新しい婚約者になってくれるなんて、俺様はなんて幸せ者なのだ!」
正直半分以上がノロケ話で、私もシルヴィア嬢も辟易とする。
それはさておき、困ったことになったな。
現状、クラリッサ嬢はこの中でも一番犯人の可能性が高いのに、どうにも証拠となりそうな情報が乏しい。
少しだけ揺さぶりをかけてみようか。
「一つ質問してよろしいですか、クラリッサ嬢?」
「え? あ、はい」
「殿下との初めてのキスはいかがでしたか?」
「初めてのキス、ですか?」
彼女は何故そんなことを?といった様子でキョトンとしてしまった。
私が追加で質問しようと口を開くと、横から殿下が割り込んできた。
「フハハ、どうしたシーナ? 急に嫉妬でも湧いてきたか? 安心しろ、実は俺様とクラリッサは誓いのキスをまだしていないのだ。あくまで今日の婚約宣言は予定を明かしただけさ。ま、それも時間の問題だがな!」
いや殿下には聞いてないんだよなぁ。
結局、クラリッサ嬢は後ろに引っ込んでしまったし、殿下のノロケ話も止まりそうにない。
これ以上はクラリッサ嬢の情報は出てこないだろう。
と、横で置いてけぼりを食らっていたシルヴィア嬢が大きくため息をついた。
「……もういいですわ。結局犯人もよく分からないし、すべてシーナ様の妄想だったのではなくて?」
そんなはずはない、……と思う。
ただ、8年前の婚約当日というピンポイントの日に何をしていたかまでは、さすがに覚えていない。
実は私の記憶に残っていないだけという可能性も、ゼロではないのかもしれない。
周囲の観衆もだんだんと呆れ始めている。
私は熟考する。
殿下と交流が深い令嬢は、私、シルヴィア嬢、クラリッサ嬢以外にはいない。
この中に犯人がいることは間違いないはずなのだ。
考えろ。今まで得た情報に何かヒントはなかったか?
何かヒントは――
「……………………あれ?」
記憶の中で、何かが頭に引っかかった。
それはほんの小さな矛盾の“欠片”だ。
でも考えれば考えるほど“欠片”は増えていって、
「あ」
瞬間、すべてがつながった。
散らばっていた“欠片”がパズルのように次々とハマっていく。
そして、形作られた全体像が見えてきて、
「犯人がわかりました」
私の一言に会場がどよめく。
本音を言うと自信はなかった。
だって、もしこの推理が正しいのだとすれば、
私はいままで大きな勘違いをしていたことになるのだから。
「本当かシーナ!? 一体誰なのだ、俺様を8年間も誑かした不届き者は!」
「待ってください。それを明かす前に、まず確認しておきたいことがあります」
それでも、止まるわけにはいかなかった。
たとえそれが、偽装婚約どころじゃない真相に近づく一歩だとしても。
私は口を開いた。
「シルヴィア嬢。あなたはナーブ国のスパイですね?」
途端、観衆がギョッと蠢いた。
生徒達や教師達も揃ってざわめき出し、殿下も「どういうことだッ!」と騒いでいる。
「貴様適当なこと抜かすな! 偽の婚約の話から、どうしてシルヴィアがスパイだって話に繋がるのだ!」
「落ち着いてください殿下。これはあくまで私の推測なので、正しいとは限りません。……ですが、どうしても気になるのです」
彼女の発言を思い出しながら、私は問う。
「あなたは昔辺境の田舎町で暮らしていたと仰いました。4年程前にはライズベリー伯爵家の養女になったとも。そしてこの学園に編入学してからは勉学や芸術の成績は常にトップクラスだそうで」
「ええ、それが何か?」
「……入学前はどこで勉強なさったのですか?」
シルヴィア嬢の目をジッと見つめる。
語弊を怖れずに言えば、一般に王都と比べて辺境の田舎ほど教育を受ける機会は圧倒的に少ない。
しかし彼女は養女となってすぐ学園へ編入学したにもかかわらず、学内でも上位に位置するほど優秀な成績を修めた。
私達貴族が通うこの学園は、いわゆる一般市民の学校よりもただでさえレベルが高い。
編入学者が勉強についていくには、事前にどこか特別な施設での学びが必要なはずだ。……例えば、スパイの養成所とか。
「もちろん、自己努力の賜物ですわ。田舎者だって商売をするには算術は必要ですし、読み書きの能力も生活に直結しますの。むしろ庶民にこそ自主学習は必須でしてよ」
「それは芸術も、ですか?」
私の問いに、シルヴィア嬢の口が閉じる。
「通常の学問であれば市民の生活に直結するのは確かでしょう。しかし芸術は違います。いわば経済的余力がある貴族の娯楽です。よほど特殊な教育でも受けない限り、田舎者が知識を身につける機会も必要性も皆無でしょう」
一方、スパイであれば芸術も必須科目だ。
有力な貴族に取り入るためには、彼らの趣味に合わせた教養が必要なのだから。
「あなたのその独特な口調も、実は田舎訛りによるものではなくナーブ語訛りに由来するものだったのでしょう。そして極めつけは、殿下とのやりとり」
「俺様、だと?」
「二年前、あなたと殿下が兵戦略について意見を交わし、殿下が兵の配置を変えた直後、ナーブ国から奇襲を受けた。……あまりに偶然すぎませんか? そういえば、他にも殿下とたびたび意見交換をしていたようですね。主に国の政治について」
「……確かにシルヴィア嬢からは国の施策や経済状況についていくつか質問されたり……いやしかし、そんなはずは……!」
どうやら殿下にも心当たりがあるようだ。
過去の出来事を思い出しては、顔面を青くさせている。
でも、ここで早とちりしてはいけない。
「おのれ……ッ! だから貴様、俺様の婚約を偽装して――」
「いえ、彼女はおそらく犯人ではありません」
「何ッ!? おいシーナ、さっきと言ってることが違うぞ!」
「違いません。彼女はナーブ国のスパイであるがゆえにシロなのです」
動機だけ考えれば、シルヴィア嬢が犯人である可能性は十分ありうる。
でもそれ以上に、彼女は犯行に及べない理由があるのだ。
「ナーブ国は完全に虚を衝く形で奇襲を仕掛けてなお、我が国に撃退されてしまうような弱小国です。情報収集のためのスパイは送れても、わざわざ8年も前から破棄されるかも未知数な偽装婚約を結ぶ計略を立てる余力などあるとは思えません」
というか、本気で王太子を取り込みたいなら、事前準備して直接婚約を狙った方が早い。
国であれば『時間稼ぎ』をする必要もないだろうし。
「なので彼女は今回の事件とは関係がありません。……まぁ、我が国の敵であることに変わりはありませんが」
会場の全員がシルヴィア嬢に疑惑の目を向ける。
彼女はしばらく黙っていると、突然「……フフッ」と笑った。
「フフ、アハハハハ! 面白い妄想ですこと! 頭の使いすぎでついにおかしくなりましたか?」
「……そうね、どうせあなたはそう言うでしょう」
悪いけど、私はしっかり見ていたのだ。
私がスパイ容疑を明かしたとき、あなたの表情が一瞬だけ強張ったところを。
まあ、いくら証拠を並べてもスパイが自ら自白することはないだろうし、彼女の追求は一旦ここまでにしておこう。
「……ふん、よく分からんが、シルヴィアの件はひとまず保留だ。それより奴が犯人じゃないということは、やはりシーナの勘違いだったということか?」
「その前に、クラリッサ嬢にも確認すべきことがあります。……殿下はご覚悟を」
「は? 覚悟って?」
眉をひそめる殿下を横目に、クラリッサ嬢の前に立つ。
そして、一度場が落ち着いたタイミングをみて、口を開いた。
「あなた、エドワルド殿下のことが大嫌いですね? それも反吐が出るほど」
私の発言にまたもや周囲がどよめく。
しかし一方、殿下は一瞬きょとんとしたものの、すぐさま豪快に笑い飛ばした。
「クハハハ! 今度は何を言い出すかと思えば、そんなはずはなかろう!」
殿下はクラリッサ嬢を抱き寄せると、誇らしげに胸を張った。
クラリッサ嬢は変わらず笑みを顔に貼りつけている。
「こんなに仲睦まじい関係を見てもそう思うか? 貴様の目は節穴のようだな!」
「そうですね。……ところで殿下、彼女の手袋は本当に潔癖症のためですか?」
「……何が言いたい?」
「単純な話、殿下が嫌いすぎて直接触れたくないだけなのでは?」
「貴様、無礼にもほどがーー」
殿下が何かを言いかけるが、それを遮って主張を続ける。
「彼女は大の猫好きで、屋敷の猫はすべてご自分で世話をされているとのこと。加えて彼女は『手袋をつけないと外に出られない』と言いました。裏を返せば、屋敷の中では手袋を外しても問題ないということです。おそらく猫の世話をするときも」
私は確かめるようにクラリッサ嬢の目を見つめる。
彼女は小さく頷いた。
「貴族の生活中心では実感しにくいですが、猫の世話というのは決して楽なものではありません。毎日のエサやりに始まり、ブラッシングに爪切り、抜け毛の掃除、排泄物の処理……。特に後半は潔癖症では勤まらないような仕事ばかりです」
ではなぜ彼女は自分が潔癖症だと偽る必要があったのか。
カギとなるのは、手袋を外さなくなったタイミングだ。
「シルヴィア嬢は、クラリッサ嬢が『ここ一年ほど』手袋を外していないと証言していました。つまり彼女が手袋を外さなくなったのは去年の今頃。殿下が偽の元婚約者に対して冷淡になった時期――おそらく殿下とクラリッサ嬢の関係が接近し始めた時期と重なります。」
「ま、まさか……!」
ようやく殿下も気づいたようだ。
クラリッサ嬢がいかに殿下のことを嫌っているかを。すなわち――
「彼女が手袋を外さないのは潔癖症だからではありません。彼女にとって殿下と触れあうことが、猫のう○ちに触れるよりも苦痛だからなのです」
明かされた衝撃の事実に、一同の視線がクラリッサ嬢に集まる。
クラリッサ嬢はしばらく目を閉じると、「……仕方ないですね」と観念したようにつぶやき、
にっこりと、聖女のような笑みを浮かべて言った。
「ええ、ご明察です。私にとってエドワルド様は猫のうん○ほどの価値もありません」
「なッ――!?」
雷に打たれたように固まる殿下に対し、クラリッサ嬢は彼の腕の中から抜け出すとドレスの肩口をぺっぺっと払った。
「お父様とお母様からは『王太子様の機嫌を損ねるな』と命じられていました。……ですが、ここまでバレてしまえば隠しても無意味ですよね」
「どうしてそこまでして殿下とお付き合いを?」
「すべてはナシュー家のお金と権力と地位のためです。エドワルド様と懇意になればナシュー家も安泰だと、お父様が張りきっておられましたので」
クラリッサ嬢は先程よりすっきりした表情で、事の顛末を話し始めた。
「私が幼い頃――今から10年ほど前に、お父様が用意した縁談で一度エドワルド様とお会いしました。ですが、初めてお会いしたときから私は彼が嫌いでした。乱暴だし自分勝手だし平気で人を見下すし、正直彼とだけは絶対に結婚したくないって思いました。まさに”一目萎え”って感じです」
殿下が彼女を一目惚れしたのとは対照的だ。
「それ以来、私はほとんど外出しなくなりました。お父様が事あるごとにエドワルド様とのデートを勧めてくるもので。だからエドワルド様と別の誰かの婚約が決まったと、風の噂で聞いたときは心底ホッとしました。これでようやく病弱のフリをしなくても済むんだって」
「な……!? まさか、仮病だったのか!?」
私は、やっぱりね、と心の中で頷く。
若干引っかかっていたのだ。クラリッサ嬢が病弱だったのは生まれつきではなく、殿下と会った後で病弱になった、ということに。
そして長期にわたる仮病は、結果的に功を奏した。
さすがに彼女の父親も、娘の健康を害してまで政略結婚を勧める気はなかったようだ。
「……ですが去年になって、どうやらエドワルド様が婚約者との間でうまくいっていないと、お父様が噂を聞きつけたみたいで。私にも再度エドワルド様との婚約を強く勧めてきました。……さすがにもう断ることができませんでした。これ以上お父様を仮病で心配させるわけにいかなくて……」
「う、ウソだろ……! あんなに俺様を優しくしてくれたのに……全部演技だったのか……!」
「あ、それ以上近づかないでください。虫唾が走ります」
もはや忖度という言葉を捨て、容赦なく殿下を拒絶するクラリッサ嬢。
さて、ここからが本題だ。
「つまり、クラリッサが偽装婚約の犯人だったってこと、か。王家の金や権力を得るのが目的で……」
「いえ、彼女も犯人ではありません」
「ハァ!? さっきから何なのだ! 貴様、俺様をおちょくっているのか!?」
別にそんなことはない。謎を一つずつひも解いているだけだ。
「私は彼女に尋ねました。『殿下との初めてのキスはどうでしたか?』と。そして彼女はそれに驚いていた」
「……当然ではないか? 突然意図の分からん質問をされたら、誰だって驚くであろう」
「果たしてそうでしょうか? もし彼女が犯人だとしたら、質問の『初めてのキス』とは儀式での誓いのキスを指すはずです」
「…………何が言いたい?」
殿下はいまだにピンと来ていない様子。
仕方ないのでハッキリ言うことにする。
「考えてもみてください。猫の○んち未満の男とキスをしたとなれば、そんな記憶は吐き気を催すレベルの黒歴史と化しているに決まってます。『キス』という言葉を聞いただけで鳥肌が立ち、嫌悪感に苛まれる程には。そうでしょう、クラリッサ嬢?」
「はい、猫のう〇ち未満とキスをするくらいなら死んだ方がマシです」
「貴様ら、俺様の心の傷口に塩を塗って何が楽しいんだ! 言えッ!」
生理的嫌悪感は演技では誤魔化しにくい。
しかし彼女は『殿下とのキス』を尋ねられても、身震い一つしなかった。
「つまりクラリッサ嬢は儀式に出ていないということです。よかったですね殿下、好きな人の黒歴史にならなくて」
「俺様にとってはすでに黒歴史だわクソが!」
傷心状態だった殿下は復活し、いつものように怒鳴り散らかしていた。
元気になったようで何よりだ。
さて、ここまでの結論で、犯人はシルヴィア嬢でもクラリッサ嬢でもないことが分かった。
となれば、残された容疑者は――
「てことは、結局シーナが犯人だったのではないか! 貴様、俺様をからかっていたな!」
「何を仰るのですか? 容疑者ならここにもう一人残っているではないですか」
私は当初、婚約の手続きすべてが偽装されたものだと疑っていた。
だからこそ犯行手口が分からず、代わりに『偽装婚約を結ぶと得をするのは誰か』という、いわば動機の面から犯人を探っていたのだ。
しかし、前提が変わるのなら、また別の視点から考察できる。
「国王陛下が殿下の早期婚約を望んでいたとすれば、王家からイルミナータ家への婚約申請自体はあった可能性が高い。一方、私の父上と母上が婚約申請を知らなかったとすれば、偽装されたのはイルミナータ家からの返信文書ということになります」
「だがいずれにせよ第三者による偽装は困難であろう。合意文書は密書で行われているのだから」
「でもいるんですよ。この中に一人だけ、密書に介入できた人物が」
密書はその存在が秘匿されているだけでなく、いつどこでどうやって送られるかも分からない。
当然ながら第三者が文書を書き換えることは不可能だろう。
しかし、逆に言えば当事者なら介入できるということ。
「そんなことができるのは、密書を運んだ従者だけ。……そうですよね、執事のクリスさん?」
生徒と見間違えるほど若い――私や殿下と同年代の執事に声をかける。
そう、最後の容疑者とは、偽造と思われるイルミナータ家からの合意文書を持っていた、エドワルド殿下の侍者。
クリスさんは一瞬だけ意外そうに目を見開くと、静かに一歩前に出た。
「国王陛下からあなたに密書を託されたとき、あなたは返信を偽装しようと思い立った。普段から王家の執務を行っているあなたであれば、イルミナータ家当主のサインも見慣れているでしょう。そして儀式はあなた自身が私になりすまして行った。違いますか?」
「……面白い筋書きですね、シーナ様。根拠をお伺いしても?」
「合意文書のサインは普段の父上のものより歪でした。初めは酒に酔って書いた可能性も考えましたが、子供の模倣だと考えれば納得できます。それに、先程あなたは儀式当日の殿下について『ひどく緊張していた』と笑っていました。儀式は婚約者と二人きりで行われるのに、なぜあなたが殿下の表情を知っていたのですか?」
違和感は他にもある。
私が婚約の存在を否定したとき、クリスさんはすぐさま合意文書を示すことができた。
普通、婚約の合意文書なんて重要な書類を普段から持ち歩いたりはしないだろう。
婚約破棄に対する私の反応を予測でもしていない限りは。
「何を言ってるんですの!? 男性が女性になりすまして儀式を行うなんて無茶が過ぎましてよ!」
そこで意外にもシルヴィア嬢が待ったをかけた。
今にして思えば、無関係なはずの彼女がこうして推理に口出ししていたのは、周囲の注目を自分から逸らすためだったのかもしれない。
今さらもう手遅れだけど。
「当時の私達は10歳前後ですから、今よりごまかしは効きやすいでしょう。……ただ」
これは推理でもない、いわば私の勘だ。
でも、ある種の確信をもって、私は彼――いや、彼女に訊ねる。
「クリスさん……あなた、実は女性ではないですか?」
周囲からも「えっ!?」と驚きの声が上がる。
一方、クリスと殿下だけは無言だった。
「少し気になっていたんです。昔からわがままで横暴で女好きなクソ王子として有名だった殿下が、なぜメイドではなく執事を侍者にしているのかと」
しかし、女執事であれば話は別だ。むしろしっくりくる。
では、なぜ彼女は殿下から私への婚約申請を奪ったのか。
私は初め、偽装婚約の動機は『時間稼ぎ』にあると思っていた。
しかし、クリスさんは『当時婚約を結べなかった貴族家の令嬢』ではないから、時間稼ぎをしたところでメリットがない。
……でも、違ったのだ。
おそらく彼女の動機は、もっと単純なもの。
婚約の儀式で殿下が緊張していたと語ったときの、彼女のやさしい笑顔を思い返す。
「クリスさん……あなたは殿下に恋してしまったのではないですか? だからあなたは私と殿下との婚約に嫉妬し、奪おうとしてしまった」
まさにクラリッサ嬢とは対極的な感情。
執事として彼の裏の顔を知るがゆえに、私達とは異なる想いを抱いてしまったのだろう。
「クリス……貴様は……」
「…………ハハ。まさか、こうもあっさりとバレてしまうとは」
彼女の心の内を知った殿下は、戸惑いながらもそっと彼女に近づいた。
クリスさんは、力なく笑っていた。
「ボクの家系は代々王家に仕える家柄でした」
そして語りだす。
彼女が隠し続けてきた想いを。
「ボクも生まれた頃からエドワルド様の執事として育てられました。身の回りのお世話をしたり相談相手になったり、エドワルド様が楽しいときや辛いときは、ボクも一緒に笑ったり泣いたり……。そうやってともに時間を過ごしているうちに……気づいてしまったんです。いつの間にか、ボクはエドワルド様のことを好きになっていたことに」
気づけば会場の全員が彼女の言葉に聞き入っていた。
「それからはもう、気持ちを抑えられなくなりました。エドワルド様の笑顔、エドワルド様の涙、エドワルド様の汗、エドワルド様の着た衣服、エドワルド様の使った道具、そのすべてが欲しい。エドワルド様のすべてを得たい。何一つ誰にも渡したくない!」
…………ん?
なぜだろう、さっきまで切ない恋の話を聞いていたつもりだったのに。
一気に空気が変わった気がする。
「8年前、エドワルド様の婚約の話を聞いたときは憤りましたよ。どこの馬の骨とも知らない女にエドワルド様を渡すわけにいかない! ……だからボクは婚約の儀式を奪ってやったんです」
クリスさんは燕尾服の内ポケットから小さな小瓶を取り出した。
中には干からびた粘液のようなものが入っていて、それを恍惚な表情でベロリと舐めた。
「この小瓶はですね、儀式のときのボクとエドワルド様の初めてのキスを保存してるんです。儀式を終えた直後、ボクの口の中で混ざったエドワルド様とボクの唾液をこの小瓶に移したんですよ。……フフフ、欲しいですか? あげませんよ。ボクの一生の宝物にするんですから!」
全員、ドン引きだった。
私はもちろんのこと、シルヴィア嬢もクラリッサ嬢も、会場にいた生徒に教師達、果ては殿下自身まで、一人残らず嫌悪の眼差しを向けている。
この女はヤバい。
キモい。キモすぎる。
誰もが凍りついた会場の中、しかし意外にもシルヴィア嬢が動いた。
「エドワルド様! 早くこの女執事をクビになさいまし! そうすればわたくしも新しい婚約者になってやらんこともないですわ!」
「な……貴様、何をいまさら」
「正直あなたのような御仁と結婚など御免ですけど、これも任務のた……いえ、エドワルド様の幸せのためならわたくしも一肌脱ぎますわ。さぁ早く婚約を!」
その言葉に残った二人も動き出す。
「あ、あのっ! エドワルド様は私との新たな婚約を宣言されたんですよ! だから次の婚約者は私ですっ! ……あ、でもエドワルド様の愛ならいらないので差し上げます。私はお金と権力と地位だけで十分ですので」
「アハ、アハははハ! 邪魔だよキミ達。エドワルド様は誰にも渡さないって言ってるだろ! 早く消えないと命の保証はしないからね?」
シルヴィア嬢が殿下の右腕を、クラリッサ嬢が左腕を、クリスが胴体を互いに引っ張りあって、しまいには取っ組み合いを始める始末。
あーあ、もうグチャグチャじゃん。どう収拾つけるんだこれ。
…………まあ、いいや。
結局、私の婚約はクリスに奪われていたわけで、もはや私には無関係なこと。
さっさと一人の生徒に戻って、卒業パーティを謳歌しよう。観客席からならこの醜い争いも喜劇として楽しめそうだし。
「ま、待てシーナ!」
と思ったら、殿下が必死の形相で私を呼び止めてきた。
「事件の真相は分かった。だから俺様は改めてシーナに婚約を申し込んでやる!」
「………………はい?」
この期に及んで、上から目線で婚約申請してくる殿下。
直後、ケンカ中だった女3人の眼がギョロリと光った。
怖すぎる。私まだ何も言ってないのに。
「とち狂ったのですか殿下? 虚構だったとはいえ、あなたは今さっき私との婚約を破棄したばかりじゃないですか」
「バカ! 貴様こそ分からないのか!? 俺様の婚約者候補の中で、もうマトモな女は貴様しか残っていないのだぞ!」
言われて、確かに、と納得する。
これだけの騒動を卒業パーティという公然の場で晒してしまったのだ。
今後殿下が縁談を募ったところで、応じてくれる家は皆無だろう。
となると、残された希望は今回の騒動の当事者――すなわちスパイ容疑者、ヒモ女、病的な偏愛狂、そして私のみ。
そのうえ選ばれた女からすれば、残った異常者達から付け狙われるおまけ付き、か。
……私の回答は言うまでもないな。
「絶っっっっ対にイヤです。お断りします」
「ま、待て! そんなこと言わずに戻ってきてくれ! シーナぁぁああッ!!」
泣き言を喚く殿下を無視して、私は生徒達の群衆へと戻っていく。
結果だけ見れば、身勝手に婚約破棄したクソ王子が不幸になって、やっぱりヨリを戻そうとしたけど時すでに遅しで。
こういうとき、棄てられた婚約者はなんて声をかければいいんでしたっけね?
まぁ月並みだけど、この言葉でも贈っておきましょうか。
ざまぁ。