第五話 人体時計
僕は血痕という文字からいささか物騒なことを連想したけれど、すぐに思い直した。もし仮に血が付いていたからといってそれが何だと言うのだ。椎葉が見間違えたのかもしれないし、赤いペンキがなにかのひょうしに付いたのかもしれない。鼻血が出た可能性もある。いや、魚を調理していたのかも……。考えれば考えるほどたいしたことではないじゃないか、と僕は思った。考えようによっては微笑ましいことだ。
口にたまった唾を飲み込み、僕はその事を椎葉に伝える。
「宅配員が偽者かもしれないというのは椎葉さんの言うとおりかもしれないね。ついさっきまで気づかなかったけど、確かにおかしい。うん、変だ。でも、指先に血が付いていたからといっても、それは特に問題はないと思うんだけど。そりゃあ、それが他人のものだったら……」
僕は最後まで言わなかった。宅配員が本当はただの中年のおっさんかもしれないと考え、すごく腹が立ったからだ。僕はまんまと騙されてしまった。しかし、なぜおっさんが宅配員の変装をしたのかその真意が僕には分からない。それにクロネ〇宅急便と印字されたトラックを運転していたではないか。
『そう、他人の血だったら大変だ。僕にはその血が誰のものなのか分からないが、彼は君にその血をわざと見せているように僕は感じたんだ。わざと指を擦って音を出してみたりね。まあ、君は気づかなかっただろうけど』
「それどころではなかったからね」
僕は皮肉を言ってやった。そして、ため息をつき、「おっさんが僕に血を見せようとする意図なんてないように思る」と吐き捨てるように言った。隠そうとするのなら分かるけれど、わざわざ目に付くことをする必要があるだろうか?
『君はどうやら常識に縛られた考え方しかできないようだね。それが別に悪いというわけではないけれど、今はなぜおっさんが君に指先を見せようとしたのかその意図を一緒に考えようじゃないか』
「本当にそんなことをしたのか僕にはわからないのに?」
『そういうことになる。そして、僕の思い違いかもしれないからおっさんが仮にそのようなことをしたらという話で進めないといけない』
無意味だ、と僕は思った。たとえ僕たちがいくら頭をひねって思考しても、それはおっさんの口から出たものではないので仮定にすぎないではないか。しかも、仮定のまま永久に証明されることはないだろう。それはこの先おっさんと出会う可能性はないからだ。……たぶん。
僕が返答をしないでいると椎葉が、『事を遅らせようと思ったけれど、やっぱりそれは無理のようだね』と記述する。
「事を遅らす?」
椎葉がなにを言いたいのかまったく見当が付かない。
『そう。でも、もうやめたよ。君はさっきリビングの机の上に荷物を置いたよね。おっさんが抱えていた荷物を。今からその中身を確認してくれないかな?』
「別にそれは構わないけどさ」
『ありがとう』
椎葉がなぜ荷物の確認をするように促したのか一考したけれど、さっぱり分からなかった。僕はため息をついた。そして、ノートを脇に挟み一階に降りていく。リビングに入ると机の上に置いた荷物がまっさきに視野に入った。窓辺にちかいので荷物はカーテン越しに注ぐ陽の光を浴びて、妖しく輝いている。表面にそっと手を置くとほんのりと温かかった。ノートを机の上に置き、椎葉が文字を書き込めるようにした。よし、準備は完了だ。
「じゃあ、いまから中身がなんなのか確かめるよ。まあ、実用書だと思うけど。父さんがよく注文するからさ」
椎葉がボールペンの先でこんこんと机を叩く。
『君は何か勘違いをしているようだ。宅配員ではない人物が君のお父さんの実用書を届けに来ると思うかい?』
「思わない……」
僕はつくづく馬鹿な男だ。
『まあ、気にすることはないよ。状況が状況だから正しく思考することが出来ていないだけだから。慣れるまでは僕がフォローするよ』
「そうしてくれるとすごくありがたいね」
僕は気を取り直し、荷物を目の前に引き寄せる。ガムテープを引き剥がして、中を覗くと黒い袋かなにかでぐるぐるまきにされた物体が目に入った。隙間が無いといってもいいくらいまんべんなくセロハンテープを貼られている。これを剥がすのかと思うと少し泣きたくなった。僕は椎葉に、「ちょっと右手だけで剥がすのは大変だから手伝ってよ」とお願いした。
僕たちは十分ほどセロハンテープを剥がす作業に没頭した。そして、ようやく地味な作業を終えると次に黒い袋から物体を取り出した。
僕はすぐにそれを投げ捨てた。
「何だよ、これ?」
僕は苦虫をすり潰したような顔をした。
『あのおっさんやってくれるね。ほら、もっと手に取って見てみなよ。そうすれば分かるさ』
僕は少しの間どうするべきか迷ったけれど、結局、好奇心には勝てなかった。それを手に取り僕はまじまじと眺める。それは一言で説明すると時計のようなものだった。ただ、普通の時計ではない。プラスチィクや金属などを使用していないし、そもそも外見が時計というだけでそれは時計としての役目を果たせないだろう。時計のパーツは人間の部位で作成されているのだ。
大きさは一般的なサイン色紙の四分の一ぐらいではないかと僕は推測する。作りは雑で漠然と時計とわかるだけだ。皮膚でコーティングされた丸い物体の上に一から十二までの数字が長針と短針を囲むように貼ってある。数字はすべてどろどろとした肉で出来ている。それがどこの部位なのかは僕には分からない。この時計が人間の部位で作成されているということを物語っているのは、手の中指〔たぶん〕で作られている長針と小指の短針だ。どちらも透き通るような白さを保っていて、爪は上品な装飾のように綺麗だ。透明のマニキュアを使用しているので、きっと女性の指だろう。
「念のためだけれどこれが偽者という可能性はないかな?」
『ないだろうね。もし、本当に偽者かどうか確かめたいのなら指の切断面を舐めてみなよ。きっと、血の味がするさ』
「いやだよ、そんなの。で、僕はこれからどうすればいい? この気色悪い時計を警察に届けるべきなのかな?」
あたりまえじゃないか、と僕は自分で言いながら思った。警察がどのような対応をするのかは判然としないが、このまま僕の家に置いておくわけにもいかない。それにこれが本当に人間の部位で作られた時計ならものすごく大変なことだ。
『左腕の僕が判断するのもおかしな話だ。君が自分で考えればいい。ただ、普通なら警察に届けるだろうね』
なにからなにまで普通の状況ではない時に『普通』という単語を出さないで欲しい。
「聞いた僕が馬鹿だったよ。最初から選択肢は一つしかないし。いまからこの時計を持って警察署に行くとするよ。かなりこみいった説明をしないといけないけど。でも、問題を後回しにしても状況は悪くなる一方だから」
『君がそうしたいならすればいいさ。でも、その前にもう一度時計を見てくれないかな?』
僕はかたをすくめて机の上にちょこんと置いてある時計を手に取った。皮膚のなめらかな触感が手に広がる。不思議なことに、僕はこの時計に触ることや見ることに対してあまり恐怖を感じていない。現実味がないからというのもあるけれど、それ以上に切り離された指や肉に生気というものが感じられないからではないかと僕は思った。もし仮に指や肉がぴくぴくと痙攣していたとしたら僕はきっと腰をぬかすだろう。
『祐樹君、この時計を思いっきり床に叩きつけてくれ。時計を一周するように線がひかれている。たぶんこの線は時計を一回切断してまた繋げた後だ』
「何を言ってるんだよ。そんなことをしたらこの時計に貼ってある指や肉はぐちゃぐちゃになってしまう。もう、いいじゃないか。警察に届ければすべてが丸く収まる」
僕がそう言い終えるのと同時に左手が時計を奪い取った。そして、時計を頭上まで待っていきその状態で思いっきり左腕を振り下ろす。ガラスが割れたような嫌な音が部屋に響く。時計は僕が椅子に座っていたため机に叩きつけられた。なんてことをしてくれるんだ。時計の丸い部分は原型を留めていないし、指や肉は二メートルほど飛び散っている。