第二話 紙を……。
僕は重い足取りで一階まで降りていき、インターホンで用件を聞くことにする。母さんはやっぱり出掛けているようだ。
「遅くなってすいません。それで用件はなんでしょうか?」
「お荷物をお届けに参りました」
言葉とは裏腹にめんどくさそうな口調だ。
「ああ、そうですか。今、行きますね」
僕は玄関まで小走りで向う。途中で左腕が壁に当たり、鈍い音がした。そのことが合図となって僕は重要なことに気が付いた。このまま玄関のドアを開けた場合、左腕を見られるではないか。……いや、もうそんなことは気にしないほうがいいのかもしれない。この事が第三者に目撃されるのは時間の問題で、早いか遅いかの違いだ。ここは腹をくくって行った方がいい。どうにでもなれだ。無茶なことをする人間には二通りあると聞いたことがある。なにか特別な理由があって無茶なことをする人と僕と同じくどうにでもなれという気持ちの人だ。
ドアを開けると体躯のいい中年の男が両手に小さな荷物を抱えて、少し不機嫌そうに待ち構えていた。そして、僕の左腕に目をやり、不思議そうな顔をする。僕はいきなり笑われると思っていたので意外だった。
「あ……えっと、ここに印鑑を押してください」
荷物に貼られている小さな紙を指差しながら中年が言う。
あきらかに左腕を凝視している。
「印鑑ですか。ちょっと、取りに行ってきますね」
「サインでもよろしいですよ」
中年がボールペンを僕に手渡す。僕は礼を言い、サインを書くために少しだけ中年に近寄った。もちろん、左腕が中年に当たらないように距離には細心の注意を払う。中年に左腕が接触すれば、かなりやっかいなことになるという事は十分承知の上だ。僕はボールペンを持った右手を伸ばし、紙にサインを書こうとする。不意に上下左右くまなく動き回っていた左腕がぴたりと止まった。僕はそのことについて考えるのは後にし、左腕が自分の思い通りに動くか確かめてみる。駄目だ。ぴくりとも動かない。
僕は左手首を何回か突いてみた。すると左手が、にゅ、と前方に伸びていき右手に握っているボールペンを強引に奪い取った。しかも、その状態でゆっくりと動き出すではないか。顔に当たったらしゃれにならないと僕は思ったけれど、どうやら上下に動いているだけなのでその心配はなさそうだ。僕は中年をチラリと見る。中年は怯えているような、それでいて意味が分からないと困惑した表情を浮かべている。そして、わざとらしく咳払いをした。
「さっきから言おうか言わまいか迷っていたのですが、ここはあなたのためを思って一つ忠告します。あなたはそういったことをすることで私を笑わせようとしているようですが、その行為自体に笑えるような要素は皆無です。むしろ、恐怖を覚えます。これからあなたは途方も無く長い人生を送ることでしょう。そして、その過程であなたがこのようなことをまた起こすものならば、あなたは自分にとって大切な何かを失うことになります。その何かは、私の反応をご覧になったと思うのであえて言いません。どうか、このような失態を二度と起こさないように心がけて下さい。私の息子もあなたと同じ年頃なのでほおっておくわけにはいきませんでした…… 」
中年は一通り言いたいことを口にした後、荷物を置き去りにしてトラックに戻った。そして、去っていく。僕はその姿をただ見つめることしかできない。あっけにとらわれるという言葉の意味を、僕は身をもって知ることになった。どう対処すればいいのかさっぱりわからないのだ。左腕のことといい、中年の予想外の説教もまったくもって現時実が無い。これなら母さんは実は父さんでした、と暴露されたほうがまだ現実味がある出来事に思える。びっくりするだろうけれど、ありえないことではないと思える。でも、今、僕くの身に起こっていることは非現実的すぎる。まず、左腕がまるで自分の意識を持っているかのように勝手に動くだろうか? 現実に起こっていることだから、と意識しないようにしてきたけれど、もう無理だ。はっきり言って普通に考えればありえない出来事だ。それに中年が僕に忠告(?)してきた内容もどこかずれているように思えてならない。しかし、これは夢ではないと自分でもわかっている。その証拠に左頬はじんじんと痛む。
僕はボールペンを持ちながら上下に動ごいている左手を、ぼんやりと眺める。物事には必ずなんらかの理由や意味を持つ、と学校内で一番偉そうにしている先生から教えてもらったことがある。僕は出来るだけ早くその先生の所に行き、「果たしてこの状況にも意味や理由はあるですか?」と聞いてみたい衝動に駆られる。僕にはさっぱりわからないのだ。誰かがこうこうこういう理由があってあなたの左腕は勝手に動くのです、と言ってくれたら少しは納得するかもしれない。でも、そんな親切なことを言ってくれる人はたぶんいないだろう。先生はおろか、整形外科の専門医でもどのように対処すればいいのか分からないに決まっている。奇病ですかね、と深刻な顔で言われるのが落ちだ。
僕はそんなことを聞くために病院に行くのはまっぴらごめんだ。だから、僕は自分から病院に行こうとすることはないと思う。いつか母さんにも左腕がこうなっているということが見つかり、病院に行ったほうがいいと薦められるかもしれない。強制的に病院に連れて行かれる可能性も十分にある。もし、そうなれば病院に行かざるおえないだろう。でも、僕がひきこもりという立場を存分に利用すれば、ひょっとしたら母さんに見つからずに済むかもしれない。部屋のドアに鍵を掛けてずっと引き篭もるわけだ。そうすれば、母さんに見つかることは避けられる。父さんは単身赴任で一ヶ月に一回自宅に帰って来るだけなので心配しなくても大丈夫だ。それに、父さんに左腕を見られたところで、とやかく言われるとは思えない。父さんは自分以外のことにはほとんど関心がない人だ。
僕はひととおり母さんに左腕を見られない術を考えたけれど、やはり最終的にはそれが避けられないことであるという結論にたどり着いた。数日間ならばなんとか隠し通すことが出来るかもしれない。しかし、隠し通そうとする期間が長ければば長いほど母さんに左腕を見られる可能性は増えるだろう。部屋から一歩も出ないのなら大丈夫かもしれないけれど、それはあまりにも無茶苦茶で実現することは不可能に近い。なるべく部屋からは出ないように意識しても必ず一日何回かは部屋から出ないといけない。トイレに行くには部屋を出ないといけないし、ご飯を取りにリビングにも足を運ばないといけない。そうなると、やっぱり母さんに左腕を見られることは避けられない。例え、母さんが僕の部屋までご飯を運んでくれたとしても、トイレに向かう途中で偶然母さんとすれ違うことは幾度もあるに違いない。
僕が母さんに左腕を見られたくないのは病院に行きたくないという事だけだろうか。最初はそう思っていたけれど、今はもっと違う理由で左腕を見られたくないと感じているように思える。それが一体どういった理由なのかは自分自身よく分からないが。
上空を見上げると灰色の雲が空をすっぽりと覆っていた。雨は降っていないけれど、いつ降ってもおかしくない。僕はこういった天気が嫌いだ。じめじめとした空気が肌に吸い込まれていくような感覚がするし、晴れと雨の中立みたいで、どちらか一方の天気になれば何かと都合がいいのにと思う。なんにせよ、雨が降れば僕は洗濯物を取り入れないといけない。現実的な問題だな、と僕は思う。
荷物を右手の上に載せようと、僕はしゃがみこもうとする。中年は荷物を手渡すことなく、床に置き去りにしたので僕が拾うしかない。左腕を一瞥すると、やはりせわしなく上下に動いていた。まったく、ふざけた左腕だ。僕は腰を下ろし、右手で荷物を持ち上げた。思ったよりずっしりとしている。一体、何が入っているのだろうか。
僕が立ち上がろうとするとボールペンを持った左手が、住所や会社名が印字してある小さな紙に何かを書き込んだ。あっという間の出来事で、僕は一瞬なにが起きているのかわからなかった。でも、すぐに、そういう行動に出るのかとなぜか感心した。左手が書き込んだ字は、『紙』だ。殴って書いたような荒い字で、けっして綺麗な字とは言いがたいけれどそれくらいはわかる。僕は左手がすべて書き終えるまでじっと待つことにした。ここまできたらそうするより他は無い。
そして、数秒ほどかかって一文を完成させた。
『紙を用意して欲しい』