表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
さらば、我が平穏な日々よ  作者: 亜利人
1/6

第一話 腫れあがる顔面

 僕は自分の意識とは裏腹に激しく痙攣する左腕を一瞥する。いや、もはや痙攣というよりも激しく上下左右に動いている、と言ったほうが適切かもしれない。これが病気だとしたら相当たちが悪い、と僕は思った。「頼むから言うことを聞いて欲しい」と、僕は左腕に媚びるように言おうかと思ったけれど、さすがに馬鹿らしいので止めておいた。僕の左腕がどのくらい暴れ回っているのかは、僕の顔を見れば一目瞭然だろう。とはいっても、どうしたらいいのかわからず、苦笑いをしているとかそういった類のものではない。三秒に一回は鞭のようにしなった左腕が、顔面などを強打するのでそのたびに顔をしかめているのだ。 

 今の所は、左腕がこうなっているということを誰にも知られていない。十五分前になんの予兆も無く起こったことだし、今、僕は自室にいる。けれど、この先、生きていく過程の中で誰かにこの姿を見られる可能性はきわめて高いだろう(すぐに元の状態に戻るのならば話は別だけれど)。具体的にそうなった時のイメージを、あらかじめ知っておいたほうがいいのかもしれないと僕は思った。ひょっとしたら耐性が付くということもある。僕は目をつぶり、自分の手で自分の顔面を殴る少年(僕)とその行為を見て笑う第三者の姿を思い浮かべてみる。

 すぐに妙に腹立たしい格好をしている男が脳裏に浮かび上がった。恐ろしいくらい整った顔立ちをしている男だ。年齢は十八から二十の間といった所だろう。茶色がかかった髪を肩まで伸ばしていて、色白の肌には光沢があり、全体的に清潔感がある。わざとらしく小刻みに肩を震わしたり、指を指して笑い転げているのを別にすれば好青年という印象を持てる。おかしな話だけれど、あまりにも鮮明に浮かんできたのにそれが誰なのか見当がつかない。そもそも、僕の周りにこれほどの美男子が存在するとは思えないのだ。若手の俳優かなにかで偶然テレビで見かけたのだろうか。

 僕は、ちくしょう、と思いながら容赦なく顔面を強打する左腕を押さこもうとする。しかし、ことごとくかわされ、今までよりも強く顔面をはたかれた。これまで当たり前のように左腕を動かしていたのが嘘のようだ。自然とため息が出る。 

 僕は学習机に向かい、これからどうすればいいのか考えを巡らすことにした。それが今出来る最善の選択だろう。とはいったものの、考えることに集中できるかどうか自信がない。ああ、また左頬に痛みが走った。数年前までボクシングを習っていたので殴られることには慣れている。けれど、顔の筋肉は鍛えるのが難しく、例え鍛えたとしてもボディのように衝撃をやわられげてくれない。だから、ボクシングを習っていても顔面への打撲を食らえば、素人と同じくかなり痛い。しかも、顎にあたるものならば、テコの原理で脳が揺れ場合によっては脳震盪を起こして倒れることもある。ようするに、顔面への打撃はやっかいというわけだ……。いや、そんなことよりもこれからの事を考えないといけない。僕は出来ることなら病院には行かずに、この症状が治まるのを待ちたいと思っている。こんな病気があるとはとても思えないし、僕は世間的にひきこもりと呼ばわれている部類に入るため、自分の部屋からは出たくないのだ。

 ひきもりになる人には必ずなんらかの理由があり、ひきもりにならざるおえない事情があると僕は思う。でも、同時に普通に生活をしている人にとってはおよそ理解出来ないような理由ばかりではないかとも思う。なんとなく気持ちは分かるけれど、ひきこもりになるような理由ではないだろう、と感じるようなものだ。僕と仲が良かった二十代のコンビニの店長に、「学校に登校するといじめっ子に陰湿なことをされるから、学校には行かずに自室でひきこもる人がいたらどう思いますか? 身勝手な理由ですかね?」と聞いたことがある。店長は少しの間訝った顔で僕を見てから淡々と自分の意見を口にした。「それは身勝手な理由だと俺は思う。いっけん筋が通った理由に思えるが、いじめられる方にも少なからず問題があるだろうし、そもそも親や先生に相談していない場合が多い。それにいじめにどのように対処していくのか考えれば解決法が見つかることもある。もちろん、ひきこもりになれば両親にも迷惑がかかる。だから、この理由でひきこもりになるのは身勝手で、理解できない」と、彼は言った。

 僕はその事を聞いて店長がやっぱり心の強い人で、なにかつらいことがあっても普通に生活することができる人間なんだなと思った。ひきこもりになる人間というのは精神的に打たれ弱い人や、トラウマなど精神に問題のある人が多い。僕もどちらかというと精神が繊細でちょっとしたことを悪い方向に深く考えてしまう。そして、そのあとは無気力状態が続き、何をやってもうまくいかない。このようなことが十六年間生きてきた中で多々あった。

 二、三日でいつもどうりに戻ることもあれば、二週間ほど無気力状態が続いたこともある。けれど、ひきこもりになるくらい無気力状態が続いたのは今回が初めてである。考える時間が長ければ長いほどそれに比例して無気力状態が続く期間も長い。だから、当然といえば当然の結果だ。今は、三日ほど前に無気力状態から抜け出したのでひきこもりになる前と同じ精神状態に戻ることができたわけだけれど。とはいっても、いっきに回復したわけではなく、長い時間をかけて徐々に良くなった。時間さえかければ、大抵のことはうまくいくのかもしれない。

 無気力状態から回復したのならば、当然、高校に登校しなければならないわけだけれど、二ヶ月以上自室にひきこもっていたので一週間は気持ちを整理する時間に使いたい。夏休みと僕が無気力状態になっていた時期がちょうど重なっているため、高校の出席日数はさほど気にしなくても大丈夫だ。

 僕がひきこもりになる原因となったのは、母さんの一言にある。でも、きつい事を言われたわけではなく、むしろ日常的に使われる言葉が原因となった。僕自身こんなことがきっかけになるとは思ってもみなかった。一学期の終業式の日に、僕は六時半に起床し、朝食を食べ終え、身支度をしていた。それは、もう小学生のときからの習慣で高校生になっても大体同じ時刻に一連のことをする。そして、七時半にはカバンを肩に掛けて玄関に向かう。靴を履いていると母さんが、「車に気をつけて行きなさいよ」とリビングから大声で言い、僕は「わかってるよ」とそっけなく言い返す。日課みたいなもので、平日はかならずそういったやりとりをする。その日も母さんが車に気をつけるように僕に言った。ただ、いつもと違ったのは僕が何年も前から母さんが同じ事を言っているなと思ったことだ。そして、それなら僕が似たようなことを毎日たんたんとこなしているのも何年も前からのことだと気づき、特に変化のない人生がこれからも続いていくのかと考えてしまった。前にも述べたように僕はいったんそういったことを考えてしまうと坂道にボールを置いたときのように、落ちるところまで落ちてしまう。途中で考えることをやめられないのだ。

 左腕が自分の意識とは裏腹にあらぬ方向へ動くのは不憫で、これからも続くかもしれないと考えるとやっかいなことだ、と悲しくなる。けれど、そのことを深く悪い方向に考え、無気力状態になるということは今の所ありえない。顔面への痛みが考えることを邪魔するのだ。もし、それがなかったらどうなるだろうか? 僕は自嘲気味に軽く笑った。答えは決まっているじゃないか。面白くない状況にまた逆戻りだ。顔面への執拗な攻撃は腹が立つし、正直、けっこう痛い。それでも、左腕が動かなくなるだけという状態よりはずっとましだ。痛みがあれば、深く考えることは不可能に近い。たとえ、顔が腫れることになっても無気力状態になることだけは避けたいものだ。

 呼び鈴の無機質で、いかにも機械が発した音が部屋に響く。母さんが出るだろうから特に気にすることは無い。最初の呼び鈴から五秒ほどたったところで、また「ピンポーン」という軽快な音がする。「ピン」が異様に長い。チャイムの押し方にも個性があるのだろうか?

 「おーい、母さん。誰か来たみたいだよ」

 僕は自室のドアから少しだけ顔を出し、リビングでテレビを見ているであろう母さんに言う。けれど、返事が返ってくることはなく、ただ僕の声が虚しく部屋に響いただけだ。どうやら、母さんは出掛けているみたいだ。そうじゃなかったら、イヤホンを付けてテレビを見ている。僕は自分でもびっくりするくらい大声を出したのだ。ああ、恥ずかしいなぁ。左腕が「そうだ。恥ずかしいだろ」と言うように顔面を殴る。


 三回目の呼び鈴が鳴った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ