9. 初めての笑顔
レイの傷は、浅かった。すごく。
「…………。」
「大丈夫ですよ、エイヴリー侯爵令嬢。一応止血してますが、まぁすぐに止まるでしょう。はは、ご心配でしたな」
「……お騒がせ、しました……」
は……、恥ずかしい……っ!!
私の怒鳴り声で水を打ったように静まり返った闘技場の裏手に下がり、そのままレイの腕をぐいぐい引っ張りながらそばにある仮設医務室に連れて行く。そして学園に常駐しているおじいちゃん医師に、レイの手当てをしてもらった。先生がガーゼやら何やらでペタペタ手当てしているうちにすぐに血も止まり、大したことないということが分かった。
(あ……あぁぁ……。やってしまった……やってしまったわ、私……。か、仮にもエイヴリー侯爵家の娘である私が……。全校生徒の前であんな、激しい怒鳴り声を……。皆見ていたわ。観客席のご令嬢方、その中には……唖然とした顔のセレスティア様も……。バッチリ目が合ってしまった。審判の人も、トビー様も、周りに順番待ちで控えていた令息たちも皆、あ、唖然と……口をあんぐり開けていたわ……。これがよほどの大怪我ならまだしも、こ、こんな、かすり傷だったなんて……。あぁぁぁ……!!)
そうだ。いっそすごい大怪我だったことにしてしまおうか。先生が持ってる荷物の中に小さなメスが見える……って、私は一体何を考えているのか。
「さて、と。んなら私はこれで。あとはお二人でごゆっくり。ほほ」
「ありがとうございます、先生」
「……ありがとう、ございました……」
最後の先生の一言がまた気まずくて、私は耳まで真っ赤になる。先生が部屋から出て行き、中には私とレイの二人きりになった。
「……。」
「…………。」
どうして……どうしてあんなに取り乱してしまったんだろう。なぜ?!感情むき出しの令嬢なんて、あまりにも下品だわ。明日からどんな顔をして登校すれば……?試合が始まる前に、昔のレイのことなんて思い出していたのがいけなかったのかしら。だから何だか感傷的になっていた……?……ううん、それより何より本を正せばあいつが、トビー・ハイゼルがあんな馬鹿な真似をしなければ……!
「……ふ」
「っ?!」
反射的に椅子に座っているレイの方を見ると、レイはパッと向こう側を向いてしまった。
「……今、笑ったわよね?」
笑った。絶対笑った。な、何よ。心配してあげたんじゃないの。ひどい。
私がますます真っ赤な顔をしていると、口元を手で覆って咳払いをしたレイが、目を逸らしたままぼそりと言った。
「……意外だな。お前が俺のことを心配してくれるとは。俺には興味がないのかと思っていたが」
「……え?な、何でよ。そんなわけないでしょ。だ……、……婚約者なのに」
ついうっかり「大事な婚約者なのに」なんて言ってしまいそうになったけれど、何だかレイにそんなことを言うのは恥ずかしい。私が一応婚約者として彼を大事な存在だと認識しているとしても、彼は私にまるで無関心なのに。勘違いされて、気持ち悪いとか重いとか思われたくない。
「まぁ、そうだな。万が一俺が今死んだら次の婚約者探しは難航するだろうしな。さっきハイゼルのやつを怒鳴りつけたお前は、かなり怖かった」
「~~~~っ!!あ、あなたねぇ……!」
「ふっ……、ふはは」
「……っ、」
楽しそうに笑うその顔に、思わずドキッとする。
(……レイが私といる時にこんなに笑ってるの、初めて見たわ……)
その顔を見ているうちに、なぜだか鼓動が速くなっていく。気恥ずかしくて、私は彼から慌てて目を逸らした。
(……心臓がうるさい)
結局その後レイは「かすり傷ですので」と競技会に引き続き参加し、三日間に渡って行われたトーナメントをあっさり勝ち抜いて優勝したのだった。