41. 悲しみの中で(※sideレイモンド)
体が重い。もう何度溜息ばかりついているだろう。
数日前までは、愛する女性とのこれからの人生を思って心をときめかせていた。少しずつ未来は開けてくるものだと信じていた。
しかしこの数日のうちに、俺の人生はどん底まで叩き落とされた。
グレースのことが心配だ。突如隣国へ嫁ぐことになったのだ。いくらあいつが優秀で完璧な侯爵家の令嬢とはいえ、さすがに動揺しているだろう。ロゼルアの王家に嫁ぐともなれば、親元を離れ、今後いつでも簡単に会うことはかなわない。心細い思いをしているのではないか。駆けつけて、大丈夫だと励ましてやらなくては。
だが、それ以前に……、俺自身がここから立ち上がる気力が湧かない……。
「……はぁ……」
一体なぜ、よりにもよってグレースなのだ。いつ目を付けた……?やはり、夏のあの晩餐会だろうか。ただその場にいるだけで人目を引く女性だ。自然とライオネル殿下の目にも留まったのかもしれない。
「…………。」
ん?
自室のベッドの上で仰向けになったまま、とりとめもないことばかり考えていた俺の視界いっぱいに……もっさりとした丸眼鏡の男の顔が迫ってきている。
「うわぁっ!!……なっ……何ですか兄さん!!いつの間に俺の部屋に……っ?!」
「……ふ、……ただいま」
俺は驚いて飛び上がった。
ぼさぼさ頭の兄は不気味にニヤリと笑う。
「……ああ、……おかえりなさい。…いつロゼルアから戻ったんです?」
「ついさっき……。……何だ?……それは」
「?……それとは?」
「……その顔……。……死相が出ている……」
……嫌な言い方するな。
「……放っておいてください。俺は今奈落の底にいるんですよ。……罰が当たったのかな」
「……何の。……何が」
言葉が少なすぎて、兄の言いたいことがよく分からない時がある。
俺はまた深く溜息をついた。
「練習と称してあまたのご令嬢方と遊び回ったりしていた罰が……。……白紙になるんですよ、グレースとの婚約が」
「……。……なぜ」
兄は無表情に聞き返してくる。俺は再びベッドにどさりと倒れ込むと八つ当たりするように愚痴を吐いた。
「あなたの仲良しのライオネル殿下ですよ。ミランダ・クランドール公爵令嬢を見限って、俺のグレースに乗り換えたんです。……そりゃあれほど美しく知性と教養を兼ね備えた女ならば、王子殿下の目に留まってもおかしくはないけれど……。……何でだよ……何で、よりにもよって……俺が、どれほどあいつのことを……」
「……。……決定なのか」
「さあ。第一候補であることは間違いないようですよ。もうほぼ決まりでしょう。どうせもうすぐ正式な沙汰が下る。……ああ、……会いに行かなきゃ……」
ベッドサイドでムスッと黙ったままの兄が何を考えているのかは分からない。もしかしたら俺を励ます言葉を何か捻り出そうとしているのかもしれないが……、ありがたい気遣いだが、正直余計なお世話だ。申し訳ないが、今の俺にとってはどんな言葉も心の慰めにはならない。
「……はぁ。……出かけてきます。グレースに会わないと……。後悔を残したくないので」
「…………。」
何も言わない。俺が起き上がりもぬけの殻となったベッドの上を、口を固く結んだままでジッと見つめたまま、兄は動かなくなった。重い体に鞭打って立ち上がった俺は、グレースに会うべく身支度を整えはじめた。
もしかしたら、言葉を交わす機会はこれが最後になるかもしれないのだから。
気持ちを整える時間は充分にあったというのに、馬車を走らせエイヴリー侯爵家の前に着いた時、俺の心は悲しみに震え、引き裂かれそうだった。
侯爵夫妻は不在だった。よく見知った使用人に来訪を告げ、グレースの返事を待つ。しばらくするとやって来た侍女に連れられて、彼女の部屋に通された。
「……っ、」
驚いて、一瞬言葉を失ってしまった。たった数日の間に、まさかグレースがここまで窶れきった姿になっているとは。可哀相で、胸が詰まる。ここを離れることがよほど辛いのだろう。いや、もしかしたら、オリバー殿下のいるこの国を離れることが……?
……それとも……。
「……大丈夫か、グレース」
「……レイ……」
聞き取りづらいほど小さな声で俺の名を呼んだグレースは、俯いて目を伏せる。いたたまれずに俺は彼女のそばに歩み寄ると、そのか細い両肩をそっと抱いた。
「……っ、……レイ……、わ、私……っ」
「……まさか、こんなことになるなんてな……。……大丈夫だ、グレース。心細いだろうが、……お前なら、」
ああ。こんなこと言いたくもない。俺の妻になるはずだったんだ。
俺が子どもの頃からずっと恋焦がれてきた、この美しい人は。
「……きっと、立派なロゼルアの王子妃になれる。お前は優秀で、賢くて、……誰よりも魅力的な女性だ」
「……っ、……ふ……」
俺の胸に顔を埋めたグレースの肩が、小刻みに震える。たまらず俺は、溢れる想いを伝えるようにその細い体を強く抱きしめた。
駄目だ。もう言ってはいけない。
グレースの心を惑わせるような想いを、伝えてはいけない。
俺にできることは、ただ彼女が前に進んでいけるよう、背中を押して見守ってやることだけ。
胸が張り裂けそうだ。
「……縁あって婚約者になったんだ。俺はこれからも、お前のことをずっと……応援している。……忘れるなよ、グレース。たとえ離れたところで、別々の人生を歩むことになろうとも、」
このくらいは、構わないだろうか。
これだけは、伝えておきたいんだ。
「……俺がいつでも、お前を大切に思っているということを。……忘れないでくれ。お前は、一人じゃない」
「ふ……、う……っ、……レイ……、レイッ……!」
ついにしゃくり上げながら俺の背中に腕を回してしがみついてきたグレースの、その髪を撫でながら、そっと頭に唇を押し当てた。
ああ、可愛いグレース。
俺はきっと生涯、お前のことだけを想い続けるよ。




