29. 近づく距離
長い夏期休暇が終わり、学園での日常生活が始まった。新学期の前日寮に戻る時、父は私を送り出しながら幼子のように泣いていた。我が父ながら情けなくなる。普段はバリバリ仕事をこなす商才溢れる人なのに。
私の学期末試験の成績はとても優秀なものだったけれど、学年一位の座をレイにとられてしまっていて、少し落ち込んだ。あいつめ、遊んでいそうに見えて頭はいいのよねぇ。
暑い夏は終わりを告げ、風が気持ちいい季節がやって来た。学園の木々も赤く色づきはじめた頃、私とレイはいつの間にか、まるで恋人同士のように共に過ごす時間が多くなっていた。
「ケイン様はどう?お便りは来るの?」
「全く来ない。研究に没頭しているんだろう。父の話では、ロゼルアの王立薬学研究室に入り浸っているそうだ。向こうの外交官と話したりする時に、兄の様子は耳に入ってくるらしい」
「まぁ。ふふ。ケイン様らしいわね」
校舎を出て、互いの寮に帰る分かれ道に着くまでの、わずかな時間。二人で楽しく会話をしながら、いつの間にこんなにレイとの距離が縮まったんだっけ、と私はぼんやり考えていた。子どもの頃からそんなに仲良くはなくて、この学園に入学した時も、まだ完全に他人行儀だった私たち。
『どうせ互いに望まぬ政略結婚だ。結婚までは好きな男のことを自由に想い続けていればいい。俺はそれを言っておきたかったんだ』
……なんて言われて、随分突き放されたものだったけれど。……そう言えば、好きな男のことって、何だったんだろ。オリバー殿下がどうのって言っていたけれど、私は別にオリバー殿下に恋をしているわけでもないし。結局あの時の会話を追及したことはないけれど……、特に深い意味はない言葉だったのかしら。
(あれからもう半年以上かぁ)
互いの気持ちを確認したことはない。レイはレイで、自由に三年間の学園生活を過ごすと言っていたし、そう言われた以上、私も無意味に束縛する気にもなれなかった。
「……寒くないか?グレース」
「うん、大丈夫」
だけど今こうして彼の隣に並んで歩いている時間は、とても心地良くて、気分が高揚する。
いつもたくさんの女の子に囲まれて、楽しそうに話しているレイ。その姿を離れたところから見ている時、私の心は不快にざわめく。そして今、私のことだけを見つめながら低く優しい声で話しかけてくれるレイのそばにいると、逆にとても気持ちが落ち着くのだ。そして同時に、胸の鼓動はトクトクと楽しそうにはしゃぎ出す。
(……ずっとこうしていたい……)
そんな思いが頭をよぎり、私はハッとする。一体何を考えているのか。私たちはあくまで親が決めた政略的な婚約者同士。レイだって、私に執着されても困るだろう。この人自由にしていたいんだから。他ならぬ本人がそう言っていたんだし。
(……余計なことは考えないようにしなくちゃ)
少し打ち解けてきたから、ちょっと気持ち的に距離が縮んだだけ。“婚約者”という特別な関係だから、何となく近く感じるだけ。
それだけのこと。そう思っていた。
なのに。
涼しさが徐々に肌寒さに変わってきた頃、生徒会室では冬の一大イベントの打ち合わせが始まった。
「冬季の休暇に入る前に、学園舞踏会が行われる。これは先生方が普段のダンスレッスンの成果を見るために始めたものなのだけれど、いつの間にか生徒たちにとって最も楽しみな行事となったんだ。今年最後の大きなイベントになるね。とは言っても、ダンスや立ち居振る舞いは先生にしっかり見られていて、成績にも反映される。滞りなく開催されるよう、準備を手伝っていこうね」
オリバー殿下がニコニコしながら、私たちを見渡してそう言った。
冬の学園舞踏会は唯一ドレスアップして臨める行事なので、普段ずっと制服姿で生活している生徒たちにとって、特にご令嬢方にとっては大きな楽しみの一つなのだ。ダンスレッスンの成果を見るというよりは、真面目に授業や様々なレッスンを頑張ってきている生徒たちへのご褒美のようなイベントだ。とはいえ、やっぱり成績は付けられるんだけど。
皆この日のために両親に頼んで一番お気に入りのドレスを送ってもらったり、新調してもらったりするらしい。
「うふふふふ。私のドレス姿、楽しみにしていてくださいませね、皆様!夏期休暇の時にすでに注文していたのよ!とってもゴージャスなものが出来上がってくると思うわ~。他のご令嬢方とは一風違いますからね!うっふふふふふ。誰から踊ってさしあげようかしらぁ~」
ミランダ嬢の言葉に。セレスティア様が静かに溜息をついた。優しいオリバー殿下が、それは楽しみだな、とミランダ嬢に微笑みかける。
「レイモンドも楽しみだろう?グレース嬢の美しいドレス姿が」
「っ?!」
殿下の唐突な言葉に思わずビクッと肩が跳ねた。
「……はい。とても」
「……っ、」
落ち着いた様子でそう答え、チラリとこちらを見て少し微笑んだレイの様子に、一瞬息が止まる。
(……何よ、その優しい顔……)
ダメだダメだと思うほどに、頬がどんどん熱を帯びていく。恥ずかしくて消えてしまいたい。
「あっははは。可愛いなぁグレース嬢は。顔が真っ赤だ」
……ほら、やっぱり突っ込まれた。
コープランド伯爵令息の言葉に皆がクスクスと笑い、頭から湯気が出そうだ。
テーブルの向こうから、ミランダ嬢の不愉快そうな声が響く。
「ちょっとぉ~!よそでやってくれない?!今ねぇ、会議中なのよ?!いちゃいちゃしないでよ!」




