23. 振り向きざまの笑顔に(※sideレイモンド)
俺の申し出を聞いたグレースの紫色の瞳が、俺を見つめたまま大きく見開かれた。それは不快感の表れというよりは、心底驚愕しているといった感じだった。
「…………。さ、」
(……?さ?)
さ、何だろう。
俺が言葉の続きを待っていると、グレースは急にハッとしたような顔をして首をブンブンと縦に振った。
「……ええ。……行くわ」
(…………っ!!)
行くのか。マジか。……本当に?
誘っておきながら、まさかOKの返事を貰えるとも思っていなかった俺は本気で驚いた。
俺と一緒に行ってくれるのか……。あんな、恋人同士で出かけるようなイベントに。
政略的な婚約の相手でしかない、この俺と。
にわかには信じられず、俺は呆然とグレースを見つめた。グレースは少し頬を染め、キュッと唇を引き結ぶと俺からフイッと視線を逸らした。
その様子があまりにも可愛くて、胸の奥が甘く痺れた。
その日から月末の音楽祭の日まで、俺の心はずっと浮ついていた。妙に落ち着かず、やっぱり行けません的な手紙が届くんじゃないかと怯えたり、頭の中で何度も当日の行動についてのシミュレーションをしたりしていた。
音楽祭の前日はなかなか眠りにつくことができず、デートというのは相手次第でこんなにも緊張するものなのだと思い知らされた。
そして迎えた当日。約束の時間より少し早くエイヴリー侯爵邸に着く。使用人に来訪を告げ、玄関ホールでそわそわしながら待っていると、グレースが現れた。
その姿を見た瞬間、脳がフリーズしてしまった。
数週間ぶりに見る愛しい婚約者は、ブルーのドレスを身にまとって髪を可愛らしくアップに結い、いつもと違ったその装いが、見慣れているはずの美しさを一層眩しく輝かせていた。
……どう控えめに言っても、……可愛すぎる。
尋常じゃない。どうしよう。どうしたらいい。
頬に触れたい。抱きしめたい。世界で一番お前が美しいと声を大にして言いたい。
「……お待たせ」
「……。……ああ」
だが結局、俺は激しい動揺を隠し平静を装うのに精一杯で、それらしい褒め言葉の一つも言えなかった。
いや、だって考えてもみろ。俺はかなり微妙な立場なのだ。あまり手放しで褒めまくるのもおかしいだろ。向こうは俺のことなど何とも思っていないのに、わざわざこんな、デートに誘って迎えに来て、ただでさえグレースが今日のことをどう思っているのかも分からない。「あーあ、せっかくの音楽祭ならオリバー殿下と一緒に出かけたかったなぁ。そんなの無理か……。だって殿下にはセレスティア様がいるものね。そのことをウジウジ考えながら屋敷に引きこもって泣いているよりは、まぁあいつと出かけてみるか。気が進まないけど」ぐらいのテンションかもしれないのだ。それなのにウキウキやって来た俺が「グレース……、最高に綺麗だよ」なんて言ってみろ。下手したら気分を損ねるかもしれない。「は?何?気持ち悪い。こいつまさか下心でもあるんじゃないでしょうね」なんて思われでもしたら……辛すぎる。
それでも俺と出かけるためにこんなに可愛くしてきてくれているんだ。せめてサラリと一言ぐらい触れた方がいいんじゃないか、とか、馬車の中でウダウダ考えているうちに、道中ほぼ無言のままで音楽祭が開催されている街の中心部まで来てしまった。
馬車の中では物静かだったグレースは、降りるなり顔を輝かせ早速あちこちに目をやり、その辺の出店に一人でスタスタ歩いていこうとする。
「おい、そんなにフラフラ離れていくな。迷子になるぞ」
こんなに可愛い女がこんなところを一人でフラフラしていたら、すぐに目を付けられるに決まってる。今日は俺のそばから片時も離すつもりはなかった。
「ふふ、じゃあ私から目を離さないで。私を迷子にしちゃったら父から怒られるわよ」
「……っ、」
そう言って満面の笑みでくるりと振り返り、俺を見ながら悪戯っぽく答えるグレースは、本当に、あまりにも天使すぎて……。
時折見せるこんな表情が、俺の心をあっという間にわしづかみにして、どこか遠くへ奪い去ってしまうのだ。
「……まったく……」
呆れたように呟いたけれど、心臓は狂ったように脈打っていた。
(……今の振り向きざまの笑顔、しっかりとこの網膜に焼き付けたぞ。何百回も思い出してやる)
グレースがさっさと前を向いてくれてよかった。
このみっともなく火照った顔を見られずに済んだ。
それからしばらくは、流れてくる音楽を楽しみながら弾むような足取りで出店を見て回っていたグレースだったが、ある会話から雲行きが怪しくなってきた。
それはグレースが、音楽祭に来るのは数年ぶりだと、家族以外の人と来たのも初めてだと言った後だった。
「あなたは?」
「……え、」
「あなたも家族と来たりしてたんでしょ?」
「……っ、……ああ、まぁ」
瞬間的に、どう返事をするべきか迷ってしまった。正直に答えるならば、近年は毎年のように女性を伴って来ていたからだ。もちろん、それは本気のデートじゃない。俺の中で女と出かけるというのは全て、いつの日かグレースをエスコートする日が来た時のための予行演習でしかなかったのだから。
だが、婚約者の前でそれをまともに答えるのは憚られた。
そして女性というのは、実に勘が鋭い。
「……もしかして毎年女の子と来てた?」
「……さぁ、別に毎年ってわけじゃない。……お前と婚約する前の話だ」
「……そう」
言い訳がましい言葉を付け足してみるが、それはますます俺の後ろめたさを感じさせるようなものでしかなかった。




