さようなら初恋
彼女の名前は、初恋。
野原初恋。彼女は、文字通り僕の初恋の相手。僕と初恋は、同じ田舎の中学の三年生で、たった二人しかいない美術部の部員だった。初恋なんて名前がそもそも珍しかったし、出逢った時からなんかちょっと気になる存在だったのだけれど、部室で一緒に絵を描き続けているうちに、日増しに彼女への想いは募り、いつしか僕は自分の気持ちを抑えきれなくなっていた。
「初恋。好きです。僕とお付き合いして下さい」
三年生の春。薄暗い放課後の部室で、黒い絵の具に筆を浸し、今まさに画用紙に何かを描き出そうとする彼女に、僕は告白をした。
「オッケーよ。もちろんオッケーだけど……遅い。遅いよ、部長。私、けっこう前から、その言葉を待っていたんだよ。馬鹿。遅すぎる。私、夏になったらお父さんの仕事の都合で東京へ引っ越しちゃうんだからね」
「え、そうなの?」
「うん。言い出せなくてごめん」
初恋は、僕に背を向けたままそう答えると、やがて白い画用紙を真っ黒に塗りつぶし始める。
「何を描いているの?」
「闇」
「闇?」
「きらめく満天の星を描くための背景」
こうして、僕たちの交際が始まった。まあ、交際と言っても、しょせんは、まだ中学三年生。その内容は、同級生にバレないように部室でこっそり話をしたり、スマホでラインをしたり、夜遅く親に隠れて電話をしたり、我ながら実にうぶなものだった。
――――
楽しい時間は、あっという間に過ぎるもの。七月。いよいよ初恋が東京に引っ越す日が迫って来た。その前日、たまたま町内の七夕祭りが催される日だったので、僕たちは、二人のこの町での最後の思い出に、そこで初めてのデートをすることにした。
夕暮れ。自転車で小高い丘の上にあるバス停に乗り付けた僕は、離れた学区に住んでいる初恋を待っていた。1時間に1本しか来ない田舎のバスがやっと到着をすると、車内から浴衣姿の初恋がしゃなりしゃなりと現れた。か、可愛い。可愛すぎる。あまりの可愛さに照れ臭くなり、しばらく彼女を正視出来ない。
「後ろに乗りなよ」「え、自転車? 私、浴衣だよ」「ここからお祭りの会場までは、けっこう距離がある。下駄で歩くのは大変だ」初恋が僕の自転車の後部に横座りでちょこんと腰を掛ける。ペダルをこいで前進をすると、彼女が遠慮がちに僕の腰に腕をまわす。昼と夜の境目の風が気持ちいい。
会場に到着。賑やかなお囃子の音色。色とりどりの提灯の群れ。テキ屋から漂う焦げたソースの匂い。僕たちは、まず水風船釣りをして、それから射的ゲームをして遊んだ。人混みのなか、迷子にならないためという健全な理由で、僕は意を決して初恋の手を握る。女の子の手をはじめて握った。手がドキドキ鳴っている。手に心臓があるみたい。
初恋と手を繋いでしばらく歩くと、前方から知っている顔の集団がやって来る。「部長、やばいよ。ほら、クラスメイトの女子に遭遇するよ。私は、明日引っ越すからいいけど、部長は、きっとみんなにからかわれるよ」初恋が、気を遣って僕から離れようとする。僕はその手をぎゅっと掴み――「かまわないさ」――そう言って、そのままクラスメイトの集団とすれ違った。「うっそ。今の男女、明日引っ越す初恋と、あいつじゃない?」「キャー、マジでー、あいつら、付き合っていたの?」背後から冷やかしの声が聞こえた。
喉が渇いたので、テキ屋でラムネを買う。「これって本当に飲みにくい瓶だよね。ビー玉がじゃまで上手く飲めやしない」傾けると飲み口を塞いでしまうビー玉に僕が四苦八苦していると――「あはは。下手くそね部長、これはね、この瓶の、この凹みに、ビー玉をこうやって引っ掛けて、こう飲むのよ」――初恋は、僕からラムネの瓶を奪い、飲み口をチュポンと口に含むと、それをゴクゴクと飲んで見せた。
「あ……」
「え、なに?」
初恋が、キョトンとした顔で僕を見る。
「いや、べつに、なにも」
間接キス。と言いかけて、僕はやめたのだ。
――――
祭りは終わった。小高い丘の上にあるバス停に初恋を送り届け、ベンチに座って帰りのバスを二人で待つ。見上げると、田舎町の闇に、きらめく満天の星。
「ねえ、部長。あれ、何が出来るの?」
丘の上から広大な工事区画が見下ろせる。
「大企業の工場が建設されるらしい。それに伴いニュータウンの開発や、アミューズメント施設の建設も、既に計画されているって噂だ。この綺麗な星空も、数年後には、もう見られないだろう」
「変わっていくね。町も、人も」
「うん。でも、僕たちは変わらない。たとえ離れ離れになっても、僕たちの気持ちは永遠だ。僕は、君が東京へ行っても、ずっと交際を続けたいと思っている」
「永遠か……。どうかなあ。現実的に難しいと思うなあ。織姫と彦星じゃないんだし」
初恋は、天空を流れる美しい天の川を見上げ、そう儚んだ。
「そりゃあ私だって、部長のことは大好きだよ。でも、中学生の男女が、東京とこの町で交際を続けるのは到底無理だよ。つらいけどさ、どう考えても、今日が私たちのお別れじゃない?」
なんでだよ。なんで突然そんなこと言うんだよ。そんなこと僕だって分かっているよ。でも言っちゃだめだろう。絶対言っちゃだめだろう。なんでそんなこと言うんだよ。心でそう叫び、彼女と同じ星空を見上げる。一筋の流れ星が、闇に消え入る。
「この町も、私たちも、もう歯止めの効かない変化の渦中にいるのよ。東京に行った私は、いつかあなた以外の誰かと恋愛をして、幸せになったり、深く傷付いたり、あるいはまるで傷付かない人間になり果てたりする。気が付くと、私の白い画用紙は、塗り残しが見当たらないほど人や町に彩られ、幾重にも分厚く上塗りをされている。すごく嫌だ。嫌で嫌でたまらない。でもたぶん、大人になるって、つまりはそういうことだと、私は思う」
バス停に、お別れのバスが到着した。
「こら、部長、感謝しなさいよ。汚れなき真っ白な私は、ぜ~んぶあなたに捧げたよ。真っ白な私との思い出、いつまでも大切にしてよね。汚したら承知しないからね」
初恋が、はにかみ笑う。僕たちは、ベンチに座ったまま、最後にもう一度だけ、どちらからともなくそっと手を繋ぎ、やがてどちらからともなくその手を離した。バスに乗り込んだ初恋が、こちらを振り返る。「バイバイ、部長。元気でね」「初恋も、いつまでも元気でね」シューと音を立てて扉が閉まる。ゆっくりとバスが動き出す。
そして別れの時。彼女は、バス停から手を振る僕に向かい、おもむろに座席の窓を開け、最後に大声でこう叫んだ。
「ねえ、部長! さっきのあれ!」
「え、なに?」
「さっきのあれ、間接キスだったね!」
僕の初恋が、遠くへ行ってしまう。
さようなら。
さようなら。
さようなら初恋。