無防備
子猫用のキャットフードをかっかっと音を立てて食べる様を、深雪は満足げに眺めていた。
餌皿からフードをほとんど零すこともなく、黒猫はご飯を食べきる。それから、もっとと言うようにミャアと鳴く黒猫の頭を撫でて、深雪はこちらを振り返った。
「ちゃんと食べてくれて良かったですね」
「そうだな。深雪もそろそろ自分の飯食ったら?」
ビールを箸に持ち替え、輔は総菜類が並んだ卓上に箸を伸ばす。
「そうします。あ……」
とことこと歩いてきた黒猫が、胡坐をかいた輔の膝上に乗っかって伸びをする。
安心したように大きな欠伸を零す黒猫を見て、深雪が目を丸くする。それから遠慮がちに、それでも少し拗ねたような顔をして、輔の方を見つめてきた。
「……やっぱり、好かれてますよね」
「不干渉なのがいいんじゃないの」
「……その割には輔さんだって撫でてますけど」
「膝の上にきたんだからそりゃ撫でるだろ」
「…………」
沈黙の後、半眼になりながら深雪は輔の対面に座る。
その視線は黒猫に釘付けだった。
「そんなに撫でたいなら、こっち側きて座ったら?」
見かねた輔がそう促すと、深雪は小さな子供のように目を輝かせた。
「いいんですか?」
「俺じゃなくこいつに聞けよ」
言いながらリモコンを持ち、テレビをつける。ちょうど放送されていた地元メディアで、通学路での誘拐事件が取り扱われており、思わず見入ってしまう。
幸いと言うべきか深雪のことではなかったが、こういったニュースに過敏になってしまったことを自覚する。
直後、天気予報に変わったことで輔は画面から興味を失い食事に戻る。
そうしている間に深雪はおずおずと立ち上がると、輔の隣まできてちょこんと正座した。自由気ままに輔の膝上に鎮座してくる黒猫とは対極的だった。
「なんでそんな縮こまってんの」
「狭いし、ご飯の邪魔になっちゃうかと思って……」
「それ、遠慮?」
輔が箸で唐揚げを突き刺しながら聞くと、深雪がぶんぶんと大袈裟に首を横に振る。
ふーん、と輔は無関心に告げ、口いっぱいにでかい唐揚げを頬張る。
スーパーで買ってレンジで温め直しただけの唐揚げは、舌触りがパサついていて大して美味しくはない。
半分惰性で唐揚げを口に運搬していると、いつの間にかパックの半分を食べ切っていた。
「撫でくりまわすなら、こいつが眠そうな今のうちじゃない?」
いつまで経っても手を出そうとしない深雪に、輔は思わず口を挟む。
「な、撫でくりまわしたりはしないですよ……! ただ、もうちょっとだけ、撫でさせて欲しいだけで……」
「撫でるとき逃げられたくないなら、しっぽじゃなくて頭とか、顎の下とかにしとけよ。しっぽは神経が詰まってるから触られるのを嫌うやつもいる」
輔に急かされしっぽの方から手を近づけた深雪が、びくっと腕を引っ込める。
それから、そーっと黒猫の顎下に手を伸ばし、指の腹で優しく撫でた。
ごろごろと気持ちの良さそうな声を上げ、黒猫は元々瞼の半分落ちていた両目をとろんとさせさらに細める。
「かわいい……」
深雪が手を離そうとすると、黒猫がその手にすり寄っていく。
ここまで撫でられるのが好きな猫も珍しい。まず間違いなく飼われていた猫だろうし、この人への慣れようからして、捨てられたとは考えにくかった。
「……この子、名前あるんでしょうか」
淡い期待を孕んだ声で深雪がぽつりと呟いた。
「仮になかったとしても、付けない方がいい」
「そうですよね。名前が二つになっちゃうかもしれませんし……」
輔としては情がわくと手放せなくなることを危惧して言ったのだが、深雪は別の解釈をしたらしかった。そのことをわざわざ訂正する気もないが。
輔は箸を皿の縁に置くと、黒猫を抱え上げて深雪の膝に乗せ換え、立ち上がった。黒猫は眠っているのかリラックスしているのか、抵抗することはなかった。
「やる」
「やる、って……」
「埃立つし、書斎には入れられないから。深雪も満足したら飯食えよ」
「わかりました。お風呂入ったらまた呼びますね」
「ああ──いや、先に入っといて。ちょっとやることあるから」
襖を開けながら言って、深雪の返事を待たずに輔は居間を後にした。
一時間と少しの後、ノックの音が聞こえて、輔は椅子ごと身体を振り返る。
開けられたドアの隙間から深雪が濡れた髪を覗かせ、
「──輔さん。お風呂空いたので、どうぞ」
「ああ、ありがと」
怠そうな手つきでひらひらと手を振り、予め用意していた着替えを持って輔は風呂に向かう。
「猫は寝た?」
「いえ。さっき起きて、机の脚で遊んでました。ひっくり返って、お腹がかわいくて……」
にこにこと笑みを浮かべながら、深雪が楽しそうに言う。
「そう」
その恰好を頭から爪先まで見下ろし、輔は小さく溜め息を吐く。
「な、なにか……?」
「いや、別に」
深雪が着ているのは、この間モールの服屋で買った淡いピンク色のルームウェアだった。ゆったりとした体形の出ない作りだが薄手の生地で、家の中とはいえ無防備な格好に思える。
選んだのは深雪で輔が口出ししたわけではなかったが、次に買うときは生地が分厚いものを選んでもらった方がいいかもしれないと、心中で思う。
加えて、タオルで拭いてはいるのだろうが、それでも髪が若干濡れていた。
「──髪乾かすドライヤーもいるな」
「え……っと、遠慮とかじゃなくて、私ならタオルで大丈夫で──」
「独り言。俺もタオルで拭くの面倒かったし」
輔は頭を掻き、続けて呆れを含んだ声で告げる。
「つーか、風呂まで着いてくるつもり?」
「……っ! いえっ、その……っ、猫ちゃん見てきます……!」
ぱたぱたと慌ただしく廊下を戻っていく深雪を横目に流し、輔は脱衣所へ入る。
頭と体をさっと洗って湯舟に浸かり、考えに耽る。
深雪と暮らすようになってからひと月と少しが経過したが、深雪の態度や反応は日が経つにつれて顕著に軟化していた。
元々の性格としては人懐っこいタイプなのだろう。
そう思えばこそ、これまで深雪が受けてきたであろう扱いを考えると、やるせない気持ちになる。彼女を拾った当初であれば、頭の隅にもなかった考えだ。
輔自身、何かが変わってきているのかもしれない。
「…………」
──このままの生活が続くのも悪くはないか、なんてことが頭に過る。
一瞬とはいえ脳裏に浮かんだ馬鹿げた考えに蓋をするように、輔は顔を湯舟に潜らせた。
どこまでいっても、互いの気持ち一つで瓦解する関係性だ。端から崩れやすい関係性に期待を持たない方がいいのは、前々から分かっているはずだろう。
そもそも、今の関係が真っ当じゃないことは、もっとずっと前から自覚していたはずだ。
思い出せ、と輔は深く心に刻み直す。
いつの間にかのぼせていたのだろう。浮ついた思考を切り捨て湯船から上がる。
◆
その日の晩。居間にいる深雪に「おやすみ」と告げ、書斎にひいた布団で寝ようとしていた輔の耳に、ミャアとかわいらしい鳴き声が聞こえてきた。
それも一度ではなく、輔を呼ぶように何度も続けて鳴き続けている。
茶褐色のドア越しに聞こえてくるその鳴き声の後に「ダメだよ、輔さん寝てるから……!」と、小声の注意が聞こえてきて、輔はやれやれと布団から起き上がる。
「……一応聞くけど、何やってんの」
黒猫が入ってこないよう僅かにドアを開け、その隙間から輔が聞く。
「すみません、起こしちゃいました……?」
表情に焦りを滲ませた深雪が聞き返してくる。
「いや、起きてた」
「この子、さっきからここの前で鳴きやまなくて……」
深雪の視線を追って足元を見やると、黒猫は気品のある顏で輔を見上げている。
「…………」
輔がそのままドアを閉めると、間を置かずに黒猫がミャア、と鳴き出す。
再びドアを開けると、輔は煩わしげにその場にしゃがみ込み黒猫を抱き上げた。黒猫は満足げに首を伸ばすと、輔の腕の中で器用に足を組み替え丸くなった。
「どうしましょう……?」
「俺が居間で寝る。あんま鳴かれると隣の部屋に響くし」
「…………」
仕方ないと輔が言った瞬間、何を思ったのか深雪が目を見開いて固まる。
「なにその顔」
「あ、え……っ、いえ……っ。なんでもないです……」
「そう。重いかもしれないけど、できたら俺の布団、居間に運んでもらえる?」
「わ、わかりました……っ」
深雪は声を上擦らせ、明らかに動揺した様子で書斎へと引き返していく。
「……お前のせいなんだけど」
元凶であろう黒猫は至極リラックスした表情で、小さく鳴いた。
──足元の辺りで何かがうごめいた感触で、輔は目を覚ました。
むくりと起き上がり、掛け布団の隙間に頭を突っ込んでいる黒猫の背中を撫でてやる。黒猫は同居人を起こしたことを悪びれもせずに、まだ眠そうに足を折り曲げている。
カーテンを開けて見た窓の外は、まだ空が明るみ始めたくらいだった。
掛け布団を深く被った深雪はまだ眠っているようで、一定のリズムで呼吸を繰り返している。端正な造りの顔がいつもより白く見えるのは、部屋が暗いからか。それとも睡眠で体温が下がっているからだろうか。
片腕を枕代わりにして、もう片方の腕で枕を抱えている。
昨晩、緊張で寝付けないのか居心地が悪そうにもぞもぞと動いていたが、眠りに就くことはできたらしい。
今更ながら、代わりに書斎で寝るように言えばよかったと後悔する。
とはいえ深雪を拾った最初の頃は、彼女はほとんど眠れておらず、目の下にくまを作っていることもあったと考えると、少なからず信頼されてきているのだろう。
あまりに無防備になってきたのも考えものだが。
「…………」
無言のまま、輔は深雪の側でしゃがみ込み、シーツに広がる髪に触れる。
さらさらとした触感の黒髪を手に乗せ、梳いて、はらりと落とす。
元々眠りが深いタイプなのか、寝るのが遅かったからか、深雪が目を覚ます気配はない。今日は土曜だ。学校は休みだろうし、わざわざ起こす必要もないだろう。
何か夢を見ているのか、時折「ん……」と、瞼とそれを縁取る睫毛が小刻みに動く。
──と、そこでいつの間にか輔の後ろにいた黒猫が、甘えるような鳴き声を発しながら輔の背中を登ってきた。落っことさないようゆっくりと背中を曲げる。
「……もうちょいしたら出かけるけど、お前も来る?」
輔は上体を振り向かせて黒猫を抱き上げる。
意味を理解しているのかいないのか、黒猫は前足で顔の毛づくろいをしてからミャアと返事をし、輔の腕からすり抜けた。