甘くて脆い一日
輔が目を覚ますと、すぐ隣に心配そうな顔をした深雪が正座していた。
「……輔さん、ぐあい悪いんですか?」
ずきずきと痛む頭を片手で抱え、ゆっくりと上体を起こす。
「今、何時?」
「えっと、三時です。朝と、お昼も見にきたんですけど、起きなくて……」
◇
──天気予報が記録的な大雨の予報を告げた時、窓の外では既に滝のような雨が降っていた。横降りの雨粒が窓を容赦なく叩く音が聞こえる。
朝から頭痛があったのは低気圧のせいだろう。
何度起こされても起きなかったのは、ただ単に眠かったからだ。
リモコンを操作してチャンネルをニュースに変え、輔は座卓に向き直る。この三か月と少しで、居間のスペースが半分になったことにも大分慣れた。
「雨、いつ止むんでしょうか」
対面に座る深雪がどんよりと暗い窓の外を見て、ぽつりと呟いた。
「天気予報だと明日一日は晴れるって言ってたけど。最近当たらないからな」
夏や秋の時期は台風が多いこともあって、他の季節よりも予報が外れやすい。今回も大型台風が発生した影響から、先週とは大きく予報が外れていた。
明日もこの辺りは晴れると噂されている割には、風がごうごうと唸っている。
「……早めにやんでくれるといいんですけど」
他愛ない深雪の呟きに、輔は首を鳴らしながら訊ねる。
「なんかあんの?」
「いえ、洗濯ものとか、外で干したいなって……?」
なぜか語尾の上がった疑問形で、深雪はそんなことを言う。
「……。台風過ぎたら、どっか行きたいとことかないの?」
何気なく輔が聞いた言葉に、きょとんとして深雪は首を傾げた。
「行きたい場所ですか?」
「どこでもいいけど」
深雪は折角の夏休みだというのに、花火大会の日以来、買い物以外で外出していない。このままでは直に休みも終わってしまうだろう。
そもそも雨が多くて外出するのも億劫という話もあるが。
「その……行きたい場所は特にないんですけど……」
「けど?」
悩んでいるような口調と語尾に引っ掛かりを覚え、輔は聞き返す。
深雪が落ち着かない様子で手をこねている時は、何かを言い渋っているときだ。
「別のお願いでもいいですか?」
「……大体大丈夫じゃない?」
輔は一瞬思考を巡らせ、そんなことに意味がないことに気付く。深雪が頼むようなことで、そこまで高い要求をされるとは思わなかった。
「でしたら……お暇な日に一日だけでいいので、一緒にいてください」
深雪のお願いとやらは、輔が想像した以上に簡単なものだった。
「そんなんでいいの?」
「は、はい」
「つーか、それだと今と大して変わんないけど」
「そうじゃなくて……書斎に行かないで、一緒にいてくださいってこと、です」
羞恥にもにょもにょと動く口元を手で隠しながら、深雪が言い直す。
「暇な時って、いつでもいいの? 今日でも?」
微妙に要領を得ない頼みごとに、輔は追加で聞く。
「きょ……今日ですか? 輔さんの時間が合うときなら、いつでも、大丈夫ですけど……。今日、はまだ、えっと、心の準備がというか……」
「なら明日?」
間髪入れずに輔が聞くと、深雪はしばらく考え込んだ後、結論を出した。
「…………。今日で、お願いします。やっぱり今日がいいです」
「って言っても、もう三時半だけど」
輔が時計を見て言うと、深雪は「それでもいいです」と頷いた。
一緒にいる、以外の深雪からの指定は特になかった。
ただ、居間で寝転がってテレビを見ているだけでそのお願いを聞いたことになるかと問われると、そうではないだろうことは輔にも分かっていた。
となると、何をすべきかだが。
「ほんとに、なんかやりたいこととかないの?」
「は、はい」
深雪は何を聞いてもこの調子で、追加の要求をするつもりはなさそうだった。
このままでは、本当に何もせずに一日が終わるだろう。
別にそれでも構わないといえば構わないとは思いつつ、深雪の反応を見る。
さっきから、深雪の側からも何かと世間話を振ってくるのだ。しかし一緒に住んでいる関係上、ある程度持っている話題が似通っているうえ、互いに喋り上手ではないというのもあって、会話は長続きしなかった。
いつも以上に微妙な距離感のまま、時間だけが過ぎていく。
誰かと過ごすというのは案外、そう簡単なことではないらしい。
スマホを取り出して検索をかけようとして、何をどう検索すればいいのかでまた悩む。姪との接し方? 子供との過ごし方? どれも微妙に違う。
と。そんなことを考えていて、はたと思いついた考えに輔は立ち上がる。
「ちょっと待って……いや、着いてきて」
そう言い直して、深雪を連れて書斎へと向かった。そして机の上からノートパソコンだけを持って、居間へと戻って座卓に置いた。
サイトから有名なストリーミングサービスのアプリをダウンロードすると、料金プランを選択して適当な名前と登録情報でアカウントを作る。
続けて支払い方法を選択してクレジットカードの番号を打ち込むと、ノートパソコンの画面一面に、複数の映画やアニメのウィンドウが表示された。
深雪は輔のすることを不思議そうに眺めていた。
ノートパソコン自体、あまり馴染みがないのかもしれない。
「これで多分、なんか見れるから。見たい映画とかない?」
「ん……あんまり見たことなくて、題名とか、そんなに分からないです」
深雪は画面を覗き込みながら、自信なく言ってくる。
「特に決まったのがないならジャンルでも調べられるみたいだけど。アニメとか、ミステリーとかホラーとか。人気があるやつ見れば面白いんじゃない?」
輔が検索欄の使い方を教えてマウスを握らせると、深雪は検索欄上でカーソルをうろうろさせた後、邦画の恋愛映画の欄で手を止めた。
それから輔の顔を一瞥して、特に反応がないことを見てからクリックした。
表示された映画一覧を人気順に並べ替えをして、一番上にきたものを更にクリックすると、オープニング映像が流れだした。
内容は知らないが、小説原作なのかタイトルは知っている作品だった。
「始まる前にお茶入れてくる」
そう言って輔が膝を立てると、深雪がはっと立ち上がろうとする。
「あ、それなら私が……」
「いいから、始まりそうになったら再生止めといて」
深雪の肩をぽんと叩いて座らせ、輔はキッチンへ向かった。
互いによく使う食器やコップは決まっていた。輔がガラス製の大きなコップで、深雪がプラスチックの一回り小さなコップだ。
冷蔵庫を開け、2Lペットボトルの緑茶を注ごうとして、思い立ったようにやめる。ここで入れて行かなくとも、持っていけばいいだろう。
居間に戻ると、深雪は言われた通り、映画が始まるのを止めて待っていた。
机上にコップを置いてお茶を注ぎ、深雪の方に押しやる。
「ん」
「ありがとうございます」
二人は隣り合わせに座った。
停止中の画面をクリックすると、映画はすぐに始まった。
冴えない男子高校生と、重病にかかった彼女との恋愛の行方を描いたものだ。
序盤から中盤は、入院することになった彼女のために主人公が奔走する。
映画の題材や内容自体は通俗的なものではあったが、それなりに面白い。また、売れているだけあって演出や音楽はかなり良かった。
深雪は時折こちらに寄りかかってきながら、食い入るように画面を見ていた。
画面が小さいため、よく見ようとすると必然的に身体を寄せるようになってしまう。ただ、それを指摘するのも邪魔になる気がして、輔は映画に集中する。
しばらくして、物語は佳境に入った。
彼女の先が長くないことを知った主人公の少年が、星を見たいと言う彼女のために、夜中に病室の個室から屋上まで、車椅子で彼女を連れ出す。
屋上で、空一面に広がる星を見て。
──私のことは忘れて、次の人を好きになって。と彼女は告げる。
少年はそんな彼女のことを抱きしめ、想いを告白する。
思わず見入りそうになり、輔は反射的に視線を逸らす。
膝の上に置いた指をぴくりとも動かさず、深雪は物語の行方を追っている。
映画の演出でBGMが消え、静かになる。窓の外では鉄砲雨が降り続いており、ばらばらという音が居間に響いている。
深雪が息を吐いた音で、輔は画面に視線を戻した。
月明かりの映し出す影が演出するキスシーン。
その後は、彼女が残りの日々を幸せに生きたとナレーションが入って。
見た者の心に余韻を残す形で、映画は終わった。
「…………」
ちらりと深雪が輔の方を見てくる。その頬はやや紅潮していた。
「どしたの」
「い、いえっ。えっと……よかったですね」
月並みな感想を口にしながら、深雪は同意を求めるように微笑んだ。
よかった、という感想は剴切だった。際立って何が良かったとは言葉にしがたいが、久々に映画を見て良かったという気分にもなった。
一拍考える間をおいて輔が頷くと、深雪は嬉しそうに頷き返してきた。
スマホを見ると、五時半を少し過ぎたところだった。
深雪はどこかそわそわした様子でキッチンの方と輔を交互に見る。
「……輔さん、お腹空いてますか?」
「そりゃまあ、今日まだ何も食ってないからな」
腹に手を当て輔が首肯すると、深雪は慌てて肩を大きく跳ねさせた。
「そ、そうですよね……! お昼ご飯、輔さんが食べなかったのが冷蔵庫に残って……。あ、でも、そろそろ夜ご飯の時間ですよねっ……」
さっき冷蔵庫を開けた時、中段に大皿が入っていたのを思い出す。中身が何だったのかまでは確認していないが、用意してくれていたのだろう。
「じゃあそれ食べるけど。深雪の分は? 作んの?」
冷蔵庫に惣菜は残っていなかった。下段には確か肉のパックやらビールの缶が入っていたが、野菜室に何が入っているかを輔は把握していない。
「出前……は、この雨じゃ無理だしな」
「……よかったら、お手伝いを頼んでもいいですか?」
急にそんなことを言ってきた深雪に、輔は思わず聞き返す。
「俺が、料理の?」
料理は輔の不得手とするところだった。卵も焦がしてしまってまともに焼けないやつが手伝ったところで、邪魔になるだけだろう。
そのことを深雪も知っているはずなのだが。
「はい。……ダメですか?」
深雪は不安そうに聞いてくる。
改まってそう言われては、断ることもできなかった。
「大して使えないけど」
「使え……大丈夫ですよ。簡単なのにしようと思ってるので」
なら手伝いはいらないんじゃないの、という言葉を輔は飲みこんだ。