病室での会話
壁も天井も、カーテンまでが白で統一された小さな個室。
病院のベッドの上で目を覚ました入院着姿の陽縁は、椅子に座る輔の顔を見るなり、悄然として俯き「ごめん」と呟いた。
「なんで謝んの」
「……ごめん」
深く俯いたまま、もう一度同じ言葉が返される。
今は何を言っても無駄なようだった。
輔は手にしていた本に挟まれていた栞のページを開き、続きを読み始める。
文を追いながら、半ば上の空である自覚はあった。未遂になったとはいえ陽縁が自殺を図ったことに、少なからず気が動転していたのかもしれない。
理由は分かっている。
──出て行けばいい、と突き放したことが、いつまでも胸に蟠っていた。
彼女の精神状態を顧慮していれば、出てこなかったはずの言葉だ。それが直接的な原因とまでは考えていないが、機微に触れた可能性は捨てきれない。
考えごとに脳のリソースのほとんどが割かれ、頭が文章を理解せずに、五ページほどページを捲ったあたりで。
「……帰らないの?」
陽縁が声をかけてきたのをきっかけに読書を中断すると、輔は現在のページに栞を挟み直すことはせず、そのままぱたりと本を閉じた。
「帰ってもいいけど」
これ幸いと巡る思考を中断させ、輔は問い質す。
「──悪いと思ってんなら、せめて理由を教えてくんない?」
「理由?」
「前にも聞いたけど。なんで、そんなに死にたがってんの?」
引け目に付け込み、以前ははぐらかされた問いを、再度投げかける。
陽縁は黙してベッドのシーツにできた皴を指でなぞった。子細顔に、どこか虚ろな目だけが行き場を失くしたように彷徨う。
それを輔がじっと眺めていると、陽縁は観念したように息を吐いた。
「……いいよ。輔くんにはまたお世話になったし、教えてあげる」
ゆっくりと唇が動き、陽縁は自らの身の上にあったことを穏やかな口調で話し始めた。言葉は立て板に水に出てきて、以前から用意してあったもののようだった。
一度、おうむ返しに聞き返したのも、順を追った説明を取り出すための時間稼ぎだったのかもしれなかった。
女手一つで育ててくれた母親がいたこと。
学校の先生になりたいという夢を応援してくれ、大学まで通わせてくれて、感謝してもしきれなかったこと。
その母親が難病に罹って倒れたこと。教育大学に通うためだった貯金を崩し、高い医療費を払って治療しても、結局治らなかったこと。
──そして、輔と会った五日前。治療の甲斐なく母親が亡くなっていたこと。
淡々と告げる陽縁の目に哀傷は浮かんでいなかった。
それは、涙を我慢しているわけではなく、もっと極めて残酷な──まだそれを現実と認識し切れていないような、そんな目だった。
「大学を辞めて、それと一緒に先生になるって夢も諦めて。それなのに、お母さんは──一番大切な家族が死んじゃって。生きる理由も意味も、何もかも一気に失っちゃって。……そんな人の気持ち、輔くんに分かる?」
自虐めいた口調で陽縁は告げる。
聞いてきた割には、理解を得たがっている様子ではなかった。
「分からないし、今後も分かることはないな」
顰蹙を買う可能性も考慮したうえで、輔は眦を決して即答した。
輔としても言葉を選ぶつもりはなかった。そうしたところで、察しの良い陽縁であれば気を遣われたことに気付いたであろう。
その回答が果たして正しかったのかは、輔には分からない。
陽縁は落胆するように顔を伏せ、指先に力を込めてシーツを引っ搔いた。
「……いつかは、分かるよ」
気色ばんで細められた目を見て、輔は事も無げに言い捨てる。
「最初から死ぬ家族がいないんだ。分かるわけがない」
聞かれてもいない言葉を返した輔に、陽縁ははっと息を呑んだ。
その言葉が示す意味に、自身の発言が軽率だったことに気付いたのだろう。輔が意図したわけではないが、竹箆返しをしたようになる。
「……ごめん」
「謝られることじゃない」
事実、そう思っていた。
幼少期、ほとんどの時間を施設で過ごした輔は、親の顔を覚えてはいない。
だからこそ、そこに抱く感情は希薄なものだった。
項垂れて黙り込む陽縁を前に、輔は続けて口を動かす。
「つーか、俺のことはどうでもいい。それより、これからどうすんの?」
「……これから?」
聞かれたことの意味が分からないといった風に、陽縁は首を傾げる。
「退院したらってこと」
「……。分からないよ。決めてない」
しばらく考えた後、鼻先で笑いながら陽縁は首を横に振った。
「何も決めてないなら、とりあえずこっち帰って来たら?」
「こっちって、輔くんの家?」
「……あんときのは言葉の綾だから。別に出て行けって思ったわけじゃない」
「仮に輔くんの家に帰って。それで、何か変わるの?」
徐々に陽縁の語調が強まり、会話が口論じみてくる。
「一人になったってやることがないなら、誰かといた方が気が紛れるだろ」
さっきの話を聞いた限り、陽縁が生きることに意味や理由がないと感じているなら、退院してもまた同じことを繰り返すだけだろう。
今回の一件は、折よく輔が様子を見に行かなければ、未遂に終わらなかったはずだ。実感を持ったことで今更ながら危機感を覚えたのだ。
危惧するのが遅いのは分かっている。
だからといって、今の陽縁をこのまま一人にしてはおけなかった。
「紛れるだけじゃ結局一緒じゃない?」
「……だとしても」
口達者な陽縁に対して、輔は弁が立つわけではない。
反論に詰まり、唇を軽く噛む。
「それに。出て行けって言われたから出てったわけじゃないよ」
陽縁の口から、先の言葉が否定される。
「……なら。なんで出てったの?」
理由もなしに、あんなに急に出て行くわけがない。
思えば切り口も唐突だった。
輔の問いに、陽縁は言いにくいことを言うときのように眉を寄せる。
「言いたくない?」
陽縁はふるふると首を振って、
「……私が勝手に、君に嫉妬したの。輔くんは私と似てると思ってたから。……暇そうだったし。まさか、あんなに成功してる人だなんて思わないじゃん」
棘を感じさせる口調。かりかりと、ベッドシーツを爪で引っ掻く音が大きくなる。
「私はこんなに大変なのに。君は……って。馬鹿みたい」
「それで、自殺しようと思ったってわけ?」
「そうだよ。前にも言ったでしょ? 一過性の気分は強いって」
「…………。一過性なら、今は?」
「……今はまだ、マシかな。今回ので一回死んじゃったみたいなものだし。……でも、それも前にも言った通りだよ。私は今の状態を維持できるわけじゃないし、またきっと繰り返すから」
「…………」
「……、幻滅したでしょ。だから、もういいよ。私に構わないで」
語尾の上がらないそれは、まるで幻滅されたがっているような言い方だった。現にそうなのだろう。だが、その通りにしてやる義理はない。
「別に」
会話の悪い流れごと、反駁をぶった切るように言って、輔は並行して進めていた思考から準備していた質問を取り出す。
「──そういや。陽縁が最初に言ったこと、あれって期限切れなの?」
「……ごめん。どれのこと?」
気まずさからか、どこか及び腰気味に陽縁は聞いてくる。
「俺に、生きる意味になれって言ったやつ」
気恥ずかしさを紛らわすために本の表紙を指で撫でながら、輔は訊ねる。改めて口にすれば、浮ついた言い回しだと思った。
陽縁は過去の発言を思い出したのか、輔の顔を見て「……ああ」と呟いた。
「期限とか特に決めてないけど。……だとして、どういう意味?」
一拍の間をおいて、輔は真剣な表情で告げた。
「夢がまだあって、それで生きられるなら俺の金を使えばいい」
直接そう言ったところで、陽縁が首を縦に振らないであろうことは予想できていた。そのうえで、輔は助力の姿勢を隠さなかった。敢えてそうしようと思ったわけではなく、ただ単純に、隠すなんて器用な真似ができなかっただけだ。
だが、陽縁が少しでも生きる意味を見出せるならそれでいい、とは思った。
陽縁の口車に乗って会いに行っていた時点で、輔は陽縁を放っておけないのだと自覚していた。いまだ陽縁との関係性を示す言葉こそないが、輔は最初から自分自身の意思で彼女と会っている。今この場に残っているのもそうだ。
なぜかは分からないが──陽縁が死のうとするかどうか以前に、陽縁との関係を終わりにするのが、既に、輔にとっては受け入れたくないことだった。
陽縁は明らかに動揺したように、息を詰まらせる。
「……そんなことして、輔くんにとって何のメリットがあるの?」
「それで陽縁が生きようって思うなら、それはメリットなんじゃないの」
「……君は、私が死んでも困るだけでしょ?」
最初に会った頃に告げた言葉を、そっくりそのまま返される。
「死なれたら困るっていうか、今はもう、死んで欲しくないんだけど」
飾ることも隠すこともなく、輔は思ったままを口にする。本音をぶつける方が、今の陽縁には伝わるだろうと思ったからだ。
効果は覿面だったらしく、陽縁は「……なに、それ」と自信なさげに零した。
「……もしかして輔くん、私のこと好きになったの?」
「…………」
茶化すように言って、輔の反応を見たあと、陽縁は寂しそうに笑った。
「できないよ、そんなこと」
その表情に、輔はまた返す言葉に詰まる。
病室に得も言われぬ静寂が訪れる。
数分の間をおいて。
拳をかたく握り締めて、陽縁が「そもそも」と口を開いた。
「恩があるのは私から君へで、君は私に何かする必要なんてないんだよ?」
陽縁はしょうがないものでも見るように目を細めて言った。
「じゃあ陽縁は、体調が悪そうなやつを見ても、放っとくってわけ?」
「……答えになってないじゃん」
ベッド上でじっと黙する彼女は無表情に戻っていて、そこからは何も読み取れない。ただ、その瞳の奥が、静かに揺らいだ気がした。
「ならさ。……退院したら、付き合って欲しい場所があるんだ。いい?」
陽縁はそう告げながら、輔の返事を待たずにそっぽを向いた。