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いなくなってしまわないよう




 日はほとんど沈み切り、広い感覚で立ち並ぶ電灯に明かりが灯る。

 蝉が鳴き止んだ代わりに、草の陰からキリギリスの鳴き声が聞こえてくる。


 夏場の厳しい陽光に照らされ続けたことによる蒸すような熱気は、この時間帯になってもなお、空気を滞留して息苦しさを生み出していた。

 風はほとんどなかった。


 帰り道、足が震えて力が入らないのか何度も転びそうになるのを見かねて、輔が膝を屈めて背中を向けると、深雪は促されるがまま従った。




 三角タイがゆるんでほどけかけていたくらいで、深雪の制服に乱れはなかった。

 不愉快極まりないことに、辻が深雪に対して何をしようとしていたかくらいは大方想像がつくが、どうやら未遂に終わったらしい。


 ただ、だからといって間に合ったのかと言うと、また別の話だ。

 辻が深雪を押し倒している現場を輔は見たし、深雪の腕にはコードを縛り付けられた赤い痕が、みみずばれのように残されていた。


 玄関で靴を脱がせるために背中から深雪を下ろすと、深雪は逡巡した様子の後、


「……ありがとうございます」


 萎縮気味に一言、蚊の鳴くような声で感謝を告げた。それが何に対しての感謝かは分からなかったが、輔は「そう」とだけ返した。


 その後すぐ、力が抜けたようにへなへなとその場にしゃがみ込んだ。


 微笑みを作ろうとしたのだろう、ということだけは分かった。

 しゃがむ前にちらりと視界に映った深雪の表情は一見、笑っているようでいて、刻まれた恐怖が消えていなかった。


 男である輔が近くにいるだけで、物恐ろしさを感じるのかもしれない。輔の存在そのものが、今の深雪には恐怖の対象となっている可能性がある。そう考え、輔は靴を脱ぎ棄てると玄関の電気を点け、深雪から離れて先に廊下を歩いて行く。


 しかし、靴を脱いで輔の分まで並べた深雪は、その後ろを着いてきた。

 輔が居間の襖の前に立ち止まると、深雪もぴたりと足を止めた。


 襖の取っ手から手を離す。


「……」


 振り返り、威圧感を与えないよう深雪の目を直視しないようにして口を開く。


「どしたの」


 かけるべき言葉が見つからなかった。

 いや──分かっていた。だが、そのうえでまだ、迷いがあった。


「えっ、……と」


「なんでもいいけど。これに懲りたら、少しは人を疑うことを覚えたら?」


 嘆息するように告げた輔を、深雪は口を引き結んで見つめていた。

 言っておいて、違うだろ、と輔は口の中で呟く。自身の不器用さを痛感する。だから言ったんだ、なんて。そんなことを言いたかったわけじゃない。


「は、い。……ごめんなさい」


 感情の薄れた声で、思いつめたように深雪が謝罪する。

 信用するなと言われたのにと、心に疚しさを感じているのだろう。


 そのことに対して感情が発露しないまでも胸に迫ってくるものを覚える。

 違う。そんなわけがない。謝らせていいはずがない。


 誤謬を犯したのは輔だ。

 本当は疑念を持った時点で、深雪に具体的に事情を説明するべきだったのだ。


 ──朝桐巧真という名前を突き止められたのは、ただの偶然だ。二年ほど前にもこのあたりで未成年誘拐があり、近所では比較的大きいニュースになったのだ。

 その時の顔を輔はなんとなく覚えていた。

 だが、その時の朝桐──辻は眼鏡をかけておらず、そもそも苗字が違った。


 ただ、怪しいと思った時点で、輔は辻の家の場所を先んじて調べていた。最初は外出している辻を見つけて後を尾ける、といったアナログかつ犯罪的な方法を実行しようとしていたが、この辺りでは珍しい名字で表札も出されていたため、本人よりも先に家が見つかった。

 しかし、警察に相談するわけにもいかず、結局輔にできたのはそこまでだった。


 面影を感じて調べるには至ったが、最終的な確信たる証拠は得られなかった。

 だからといって、そこから深雪に相談しなかったのは輔の一存であり、疑う余地も弁明のしようもない過ちだった。


 更に言えば、深雪が辻を疑わなかったこと自体、間違いなく輔の責任だった。


 輔と最初に出会った頃の深雪が警戒心を露わにしていたため、気にかけるべきところを放置していた。辻に初めて会った際にでも、今後もし同じような奴に声をかけられても警戒しろと、一言でも伝えておくべきだった。

 警戒を薄れさせたのは、輔が深雪を家に入れるといった手段を取ったゆえだ。

 今の関係性こそが、今回の事件を引き起こしたと言っても過言ではない。


 深雪は聡いが、まだ中学生だ。強く言われれば断れない面もある。

 保護者がいない分。本来、輔がその代わりをするべきだった。


 幾つもの、こうするべきだった、という後悔に圧し潰されそうになり、輔は奥歯をいたく噛みしめる。


 ──もし、早い段階で辻の顔を思い出し、不審に思っていなければ。

 深雪の帰りの時間を気にしていなければ。

 辻がもっと周到な性格をしていれば。


 深雪はこの家に帰ってこなかったかもしれない。


 どれも、もしもの話だ。

 だが、考えるだけで怖気がした。


「っ……ごめんなさい。私……っ」


 輔の苦々しい表情に深雪がスカートの布を握り、怯えた顔を伏せて謝ってくる。

 そんな顔をさせたいわけではないのに、言葉を交わせば傷付けてしまう。

 どう考えても、矛盾を抱えているのは輔の方だった。


「いい」


 長い前髪越しに見えたその表情に、輔は軽く唇を噛む。

 苛立ちは自分自身に向けられたものだ。


「…………」

 ぐったりと俯いていた深雪が、無言のまま控えめに顔を上げる。


「……そんなのはいい」


 ──〝何があろうと、一定の距離感を保って接する〟。

 それは、深雪を拾うと決めた時から、心に決めていたことだった。


 いつか終わると分かり切っている関係に、互いに期待を持たないように。

 なにより、深雪が今の関係を真っ当なものだと勘違いしてしまわないように。

 その考えは今でも変わっていない。


 だが輔は、今はその苦悩を無視した。

 今の深雪をこれ以上、見ていられなかった。


「……なん」


「怖かったんだろ」


 謝絶されることを念頭におき、輔は深雪に向けて右手を差し伸べる。

 震える細指が恐々とその手に触れる。輔がその手を、簡単に拒否できるくらいの力で引っ張ると、深雪は何も言わずにその行為を受け入れた。


 輔の背中にゆっくりと手が回され、徐々にその力が強まっていく。

 記憶がフラッシュバックしたのかもしれない。腕の中で深雪の身体が震える。


「……っ。はい。……怖かっ、た。です。怖かった……」


「ああ」


 傍から見る以上に小さく感じる肩を抱きしめ、背中をさすってやる。


 この小さな身体でどれほどの不安を、恐怖を感じたのだろうか。

 ──そう考えると、我知らず口が動いた。


「無事で良かった」


 輔の口を衝いて出た言葉に、深雪が弾かれたように顔を上げた。そこに浮かんでいた表情は、泣き顔に驚きの混じった、何とも形容しがたいものだった。


「輔、さ……」


 深雪は何かを喋ろうとして、やめて。

 輔の胸に顔を寄せようとして。そうして、何度か繰り返して。


「……ぁ、ぁっ」


 やがて流れてくる涙に顔を伏せ、声を殺しながらまた泣き始めた。


 深雪の感情が揺り動くのを何度も見ていて。

 思い浮かぶのは、彼女が深く傷つき泣いているところばかりだった。


 そのことに、心に鋭利な棘が刺さったような感覚を覚えて。

 ──覚えてしまって、輔は深呼吸をして目を瞑る。


 深雪に対して何らかの情が湧いていることを輔が自覚したのは、この時だった。そうなってしまえば、今後も適正な距離を保って接することなど不可能だと、頭のどこかで理解はしていた。

 だからといって、今更深雪を突き放すような真似もできない。


 だからこれはきっと、彼女を拾ったことへの罰だった。


「……輔、さん?」


 と。まだ涙を湛えた目で、深雪がこちらを見た。


 心配そうな。漠然とした不安の滲んでいる、整った顏。

 今にも消え入りそうな儚げな表情に、また感情を動かされそうになり、輔は深雪の頭をわしと撫でて前髪を下ろさせ、その目が見えないようにする。

 深雪は全身を硬直させて、ほとんど塞がれた視界で輔の顔を眺めてくる。


「なんでもない」


 巡らせた考えに蓋をして、輔は答える。


「……はい」


「…………」


 それきり、輔が何もせずに沈黙を貫いていると、深雪は再び輔の背中に回している腕にぎゅっと力を込めた。


 輔の頭を一瞬過った考えを察したわけではないだろう。

 それでも、震えが止まった後も、深雪はしばらく輔の胸に顔をうずめていた。


 ──まるで、輔が急にいなくなってしまわないよう、捕まえておくように。




ここまで読んでいただきありがとうございます!

タイトルに反して(?)暗い話なので、ここまで読んでいただけるとは思ってもみませんでした。

感無量です。本当にありがとうございます。


ここから20話までは回想になるので、読み飛ばしても一応話は繋がります。

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