中
何事があっても顔色を変えない大変に優秀な公爵家の使用人が、隠しきれないげんなり感を出しているのは気のせいではないだろう。
「アンジェは本当に甘い匂いがするね、やっぱり全身お砂糖でできているんだ」
それこそ砂糖をどろどろに溶かしたような甘さを含んだ声が、何度聞いたかわからないような言葉を囁いている。
そう、何度も。それこそ耳にタコができるくらい私はこの甘い言葉を聞き続けているのだ。なにせもう十年以上聞き続けている。
「私が砂糖で出来ているならレジナルド様は砂糖を妻にしようとするほど正気を失っていることになりますけど」
「アンジェが砂糖で出来ているなら私は世界で初めて砂糖菓子を妻にした男になっても構わないよ」
私を膝に乗せて首筋に顔をうずめた婚約者は、もう一時間ほどこんな調子だ。婚前なのにこんなに密着していると周りがなにか言いそうなものだけれど、十年以上もこんな事をしていると流石に慣れてしまうのかなにも言われない。
外でこんな事をしたら一発でご乱心だと思われるだろうなと思うのだけれど。長く続いているこの奇行が外に漏れていないのだから、公爵家の使用人たちの忠誠が感じられるというものだ。
単に突拍子もない奇行すぎて他人に話そうにも頭がおかしくなってついた嘘だと思われると判断されているのかもしれないことは置いておく。
それに慣れてしまっている私の方も大分おかしいことになるので、そこからは目をそらしたいのだ。
そもそも公爵家としては婚前交渉でもなんでもして既成事実を作ってでも私を逃がすなと思っているのかもしれない。このレジナルド様を受け入れられる人材は貴重だと思われているのを日々肌で感じている。
まあ当のレジナルド様には私に着せたい結婚式のドレスが山程あるらしいので、実際に手を出すことはないだろうけれど。
「アンジェは昔からずぅっと変わらず、私の砂糖菓子のお姫様なんだよ」
うっとりと囁かれる言葉を聞きながら、何度思い出したかわからない出会ったときの事を思い出していた。
十二年前のあの日、私を一目見た時にレジナルド様は恋をした。それが普通の恋ならばかわいらしい初恋の話で済んだかもしれない。
しかしそれは恋に落ちるなんてかわいらしいものではなく、恋に狂ったとしか言い様のない有り様だった。
なにせレジナルド様は、まだ五歳だった私の人差し指をおもむろに口に含んで舐めたのだ。
その蛮行に普段顔色を変えることなどないはずの公爵様は見てわかるほどに顔を青くし、隣にいたお父様は見えているものが信じられないとでも言うように何度も私とレジナルド様を交互に見ていた。
歳の割に大人びて聞き分けも頭もいい息子のいきなりの奇行に、大変狼狽した公爵様がレジナルド様を引き離し問いただしたところ。
「砂糖菓子のお姫様だから甘いと思ったんです」
と明らかに正気を失ったようなことを満面の笑みで言い出したので、息子の発狂に顔色を白まで変えた公爵様に大慌てでレジナルド様は回収された。
後に残された私となにが起こったか理解できないままのお父様は、バラに囲まれてしばし呆然としていた。
それだけなら、それだけでも大概ではあるのだけれど子供の頃した突拍子もない恥ずかしい思い出で済んだかもしれない。
公爵家からはものすごく丁寧な詫び状とお詫びの品が届いたし、お父様も理解できない現実を「白昼夢みたいなものだったんだよ」と終わったことにして忘れようとしていた。
話が変わったのはそれから二週間ほどたった後で、なんと公爵家から私へ婚約の打診が届いたのだ。
貧乏というほどではないがそれほど裕福でもない中の下くらいの我が伯爵家は、それはもう蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
結局「責任を感じてらっしゃるのだろうからお断りを」ということにして心の平穏を取り戻した両親だったけれど、憔悴しきった様子の公爵様が訪ねられてきてまたもや大混乱に陥った。
公爵様の言うところによると、息子は恋をしてすっかりおかしくなってしまい「あの砂糖菓子のお姫様と結婚できないなら食事もしたくない」などと言い出す有り様だと。
かといって無理矢理婚約者にして令嬢に嫌われ拒絶されればそれこそ息子は死んでしまうかもしれない。我が家を助けると思って、と明らかに格下の伯爵家に頭を下げる公爵様に混乱を極めたお父様も色々あって頷いた。
そうして私とレジナルド様は婚約者になったわけなので、公爵家のために結ばれた縁談というのはあながち間違いでもない。
私が嫁入りしないと跡取りであるレジナルド様が使い物にならなくなるので、たしかに結婚は公爵家のためにはなるだろう。世間一般の考えるものとは大分違うだろうけど。
幸いなことに私を婚約者として手に入れたレジナルド様は私に関わること以外では大変優秀であったので、今の私は公爵家の救世主扱いされている。
もとはといえば私と出会ったせいでおかしくなったのでは?と思わないでもないのだけれど、公爵家の認識ではきっかけはどうあれおかしいのはレジナルド様というのは不動の事実になってしまっているらしい。おかしいのは間違いないとは思うけれども。
唯一ミシェイラ様は「あんなおかしな兄で本当にいいの?」とレジナルド様がいる前で聞いてくるほど、公爵家で一番兄の奇行を白眼視している。
変な人であることは間違いないけれど、やはり身内だと余計に我慢ならないところもあるのだろう。
婚約してからも十歳のレジナルド様が私を逃がさないとでも言うように抱きしめて顔中にキスをしているところをお義母様が目撃してしまい卒倒する事件などもあったので、私に関することでのレジナルド様の信頼が単純に地に落ちているだけかもしれない。
大変お疲れの様子のお義母様になにも考えず「レジィはいつもキスします!」と元気に答えてしまったのは、今になって考えると追い討ちだったような気がする。
「そういえば、レジナルド様が婚約破棄なさるって噂がありますよ」
「私はそんなに死にそうに見えるのかい?」
「どうして婚約破棄と死が直結するんですか」
「私をよく知る人間で、アンジェを失った私が生きていけると思っている者は少ないと思うよ」
期待していた答えは「そんなことあるわけないよ」くらいのものだったんですけど。と少しばかり予想外の婚約者に呆れつつ、さすがに死なれたら困るので変な心配をされないようにそっと手の甲を撫でる。
私からの接触でびっくりするくらい機嫌がよくなるので、婚約破棄の話はすぐに忘れてしまうだろうと思ったのだけれど。
「それにもしも私の有責で婚約破棄なんてことになったら、父上と母上に殺されてしまうだろうし妹には八つ裂きにされるだろうからね」
「え?」
「どちらにせよ君を手放すような馬鹿げた判断をする私は死ぬ運命なんだよ」
いやそんな輝かしい笑顔で言われましても。近距離で見るレジナルド様の微笑みは大変美しいのだけれど、言っていることはおかしい。
普通なら「そんなことはしない」で終わるのに、どうして「そんなことしたら死ぬ」になるのだろうか。簡単に死を覚悟しないでほしい。
「レジナルド様が亡くなったら、私が他の誰かの妻になるのを止められませんよ」
「死の国の女王を叩きのめせば帰ってこれるだろうか」
「そもそも死なないでくださいな」
どうにも思考が物騒になっているのでレジナルド様の手の甲をぺちぺちと叩いたが、抗議のつもりなのに嬉しそうになったのでやめた。
私が触れていればこの人はなんでもいいのだろうか?ちょっと節操が無さすぎるというか、喜びに敏感すぎるのでは?
「この程度でいいのなら、しばらく頬への口付けはやめにしましょうか」
「どうしてそんな酷いことを!私の返答は、なにかいけないところがあったかい?」
「いけないところというか……全面的におかしいというか……」
「全面的に……ああ、そうか」
スッと私の手を取る姿は、本当になに一つケチの付け所もない麗しの貴公子だと言うのに。貴公が奇行になるような人だと誰が思うのだろう。
「私はなによりアンジェを愛しているから、そんな心配はいらないよ」
指先にそっと口付けて微笑む姿に十年以上身に染みているはずの私ですら忘れてしまいそうになるのだから、本当に困ったものである。