1人目・王太子の婚約者候補〈後編〉
そしてヴィクトリアさんは、わが侯爵家の養女になりました。
そしてわたくしは、第二王子殿下の婚約者となりました。
そうです、『第二』王子殿下です。
しかも候補ではありません。婚約者『確定』です。
……どれほど推測してみても、予想外のことは起こるものなのですね。
というかお父様、そんな話があったのなら、ひとこと教えていただきたかったですわ。
わたくしは病気療養のため、王太子殿下の婚約者候補を辞退。
しかし、妃教育を受けていることを惜しまれて、第二王子殿下の婚約者となる。
こんな筋書きとなっております。
ヴィクトリアさんは、我が侯爵家の養女となり、ひとまず安全を確保。
ええ、王太子殿下から、あれだけ勧誘されましたからね。
良からぬ輩に利用されぬよう、侯爵家で保護ということになります。
身の振り方はこれから考えたい、とのことらしいですわ。
わたくしが第二王子殿下の婚約者になってしまったため、王太子妃という選択肢はなくなってしまいましたが。
でも、彼女のことも、王太子殿下のことも、王太子殿下の婚約者のことも、もう私の手からは離れてしまいました。
病気療養ということで、わたくしは今、侯爵家にこもっております。
こもっておりますが、何と、微熱と体のだるさで、起き上がれない状態なのです。
食欲もありませんし、何かをする気力もありません。
仮病の予定でしたのに、どうしてこんなことになっているのでしょう。
実のところ、今の自分の状態に、わたくしは大変驚いています。
だって、王太子殿下の婚約者候補、それなりに上手くやっているつもりだったのですもの。
いえ、上手くはないですわね。
でも、それなりにはやっていました、そのはずです、侯爵家の令嬢として。
でも、今のわたくしの状態を鑑みるに、そうではなかった、ということなのでしょうか。
そんなに、わたくしは無理をしていたのでしょうか。
そんなに、わたくしは婚約者候補としての重責を、感じていたのでしょうか。
そんなに、わたくしにとって婚約者候補の2年間は、長かったのでしょうか。
ぼーっとする頭では、考えがまとまりません。
だるさで動かない体では、確かめることもできません。
ひとつ確かなのは、それらはもう過去のことだということです。
今のわたくしは、第二王子殿下の婚約者。
そして、殿下からは贈り物が届くということ。
2,3日に1回、届けられる贈り物。
リボン、レース、可愛らしい絵柄のついたカード、小さな花束。
しおり、カラフルなキャンディー、兎を模した小さな置物。
なぜご存じなのか、単に調べられたのか、わたくし好みの贈り物。
そして手紙。
わたくしの体調を心配していると、ゆっくり休んでほしいと。
そして、良くなったらぜひ会いたいと、会える日を心待ちにしていると。
本当に、予想外のことは起こるものなのですね。
第二王子殿下とは、妃教育に行くと数回に1回、王宮の回廊ですれ違うので言葉をかわします。
いえ、かわしていました。
天気の話、庭園に咲いている花の話、当たり障りのない話。
そしてひとこと、わたくしを気遣う言葉をかけてくださる。
王太子殿下の婚約者候補であった日々の中で、それだけの関係であったはず。
それだけが繰り返された、はず。
才気煥発、文武両道、容姿端麗な王太子殿下に比べ、愚鈍だと噂されることもある第二王子殿下。
でも殿下はご自身の立場を理解していらっしゃった。
腹違いの弟としてでしゃばらず、常に王太子殿下より目立つことのないようにと。
王太子殿下に比べ、柔和な態度と話し方。
でも、言葉をかわせば、頭のいい方だというのはわかります。
言葉の裏を読むのに長けた方だということも。
そういえば、一度、襲撃者から守ってもらったことがありました。
あの時は驚きました。
殿下の穏やかな雰囲気から、荒事には向かない方だと、わたしくしはそう思い込んでいたから。
……思い込み。
そうですわね、お父様は何とおっしゃったかしら。
第二王子殿下がティアーナを望んでいる、と。
わたくしはそれを、妃教育を受けている侯爵令嬢を第二王子に与えれば無駄がない、と解釈しました。
なぜならば、殿下がわたくしを望む理由がない。
殿下が侯爵令嬢を望む理由はあるでしょう。
でも、それがわたくしである必要は、ない。
ない、はずです。そんなはずは、ない。
あの時のことを、まさか殿下が覚えていらっしゃるとは思えない。
わたくしは、覚えているけれど。
蝶を見ると思い出す、それだけのことだけど。
殿下方の遊び相手の一人として、王宮に上がった、10歳くらいのとき。
遊びの輪から一人離れて、殿下がいらっしゃった。
庭園の隅で、じっと何かを見つめて。
何だろうと思って、声をかけた。
殿下は慌ててそれを隠そうとされた。
女の子に虫を見せまいとされたのでしょう。
でもわたくし、青虫は平気だった。
青虫がゆっくりと、ただひたすら上を目指して、のぼっていく。
それを見て、わたくしはこう言った。
「一生懸命、ね」
殿下はわたくしの言葉に肯き、そして二人でじっと青虫を見つめていた。
女官が来るまでの、ほんの少しの間。
自室にこもってから、1か月が過ぎました。
少しずつ、起き上がれる時間が増えています。
殿下に、お礼の手紙を書くこともできるようになりました。
手紙を送れば、殿下からお返事がきます。穏やかな言葉に、気持ちが和みます。
時々挨拶をするくらいでは分からなかった殿下のことも、知っていることが増えます。
また、手紙を送ります。
わたくしは殿下のことを、もっと知りたいのかもしれません。
病気療養とこもってから、2か月が過ぎました。
屋敷内の庭園で、少し散歩ができるようになりました。
まだ全快とはいきませんが、仕方ありません。
わたくしは、疲れとストレスで、心身ともに負荷がかかっていたのです。
今は休息するのが一番、なのです。
お父様、お母様、お兄様たちには、心配をかけてしまいました。
ですが、これもまた仕方がありません。
わたくしが休めるように心を配ってくださったことに、感謝いたしましょう。
学園の親しい方たちからいただいた、お手紙やお見舞いの品。
少しずつですが、お返事を書き、お礼の品を選べるくらい、気力が戻ってきました。
わたくしが学園で過ごした日々は、無駄ではなかった。
そんな当たり前のことに、気づくことができました。
王太子殿下の婚約者候補であろうとなかろうと、わたくしが得たものは、確かにあるのですから。
そして、とうとう第二王子殿下との初めてのお茶会の日がやってきました。
我が侯爵家での私的なお茶会ということになりますが、少し、そわそわします。
王太子殿下の時にはこんなことはなかったのに、不思議です。
久しぶりにドレスを着ました。ドレスの軽やかな色合いに、気持ちも明るくなる気がします。
侍女が、ドレスに合わせて髪をまとめてくれました。
鏡の中のわたくしが、わたくしを見ています。
病気療養というものをしたからでしょうか、以前とはどこか違うような気がします。
侯爵令嬢らしくはなっている、はずですが。
「どうぞ、アレンと呼んでください。僕もあなたをティアと呼びたい。良いですか?」
型通りの挨拶を交わした後、いきなりこれがくるとは予想だにしませんでしたわ。
もちろん、わたくしに否やはありませんが、第二王子殿下はこんな方だったでしょうか?
以前お会いした時とは、印象が違って見えます。
いえ、やはり、そんなには違わないような気もします。
穏やかな雰囲気、柔らかな眼差し、わたくしを気遣ってくださる言葉。
ひとしきり、わたくしの体調について尋ねられた後、殿下が切り出されました。
「まず初めに、はっきりとお伝えします。
ティア、僕は、あなたが婚約者であることを嬉しく思っています」
驚きました。それは、とてもまっすぐな言葉でしたから。
あまりにまっすぐに、殿下のお気持ちが伝わってきましたから。
思わず、何と答えたらよいか、迷うくらいに。
殿下が微笑まれます。
「あなたのお気持ちは、いずれ、ということで構いません。
まずは、僕の気持ちをお伝えしたかったので」
殿下がティーカップを傾けられます。
「これは、僕が好きなお茶ですね。
あなたの好きなお茶も教えてください、また手紙で」
もちろんご要望には沿いますが、引き続き手紙のやり取りをご希望、ということでしょうか。
これならば、わたくしも答えられますわ。
「殿下からも、お返事がいただけると嬉しいです」
殿下が肯かれます、「もちろんです」と。
殿下と会話を進めます。いえ進めなくても、自然に会話になります。
天気の話、庭園に咲いている花の話、手紙でやり取りした話題のこと。
庭に面したこの部屋には、侯爵家の侍女も、殿下の護衛も控えているのに、まるで二人だけでいるような気がします。
ふと、殿下が目を伏せられました。
「あまり長居してしまっては、あなたのお体に障りますね。
ですが、これをお話ししておいたほうが、あなたに安心していただけるかもしれない」
殿下の真面目な顔つきに、わたくしは少し身構えます。
「僕の望みは、兄上の補佐です。
兄上はきっと良い王になる。僕はそれを助けたい。
そしてできるなら、あなたにも力を貸してほしい。
兄上には、あなたの力が必要です。
第二王子妃として、あなたの力を貸していただけませんか。
もちろん、今すぐという話ではありません。
ゆっくり、考えてみてください」
驚きました。
なるほど、そういう方法もあるのかもしれません。
今まで、思いつきもしませんでしたが。
そこで、急に殿下が慌て始められました。
「すみません。
もしかしたら今の話は、あなたに誤解をさせてしまったかもしれません。
あなたが兄上の役に立つから、婚約者として喜んでいるのではありません。
あなたが役に立つとか立たないとか、そんなことは問題ではない。
それとはまったく関係なく、僕はあなたが婚約者になってくれて嬉しいんです。
もしあなたが、兄上に力を貸したくないという選択をされても、それはそれでかまいません。
あなたの望むことをしていただければ、それで。
あなたがどのような選択をされても、婚約者で嬉しいという気持ちが変わることはありませんから」
あまりに必死に言葉を重ねられている殿下に、わたくしはまた驚いてしまいます。
殿下は穏やかな方だと思います。
同時に、穏やかさを装われているようにも思います。
でも今の殿下は、本気で、わたくしにどう思われるか気にしていらっしゃる。
ではわたくしは、今思っている通りに答えてみましょう。
「わたくしが婚約者で嬉しいと思ってくださる殿下のお気持ちを、わたくしは受け取りたいと思います」
その答えに殿下が息をのみ、そしてすっと目を細められました。
「体調はいかがですか。できればもう少しだけ、あなたと共に過ごしたいのですが。
今日は日差しが暖かく、風もない。庭に出て、四阿まで行ってみませんか」
ゆっくりと、一番近い四阿に向かいます。
エスコートしてくださる殿下の腕の力強さに、安心感を覚えます。
四阿に着いてわたくしを座らせると、殿下は護衛の方々を少し遠ざけられます。
そして殿下は、わたくしの前にひざまずいてしまわれました。
さすがに、わたくしも慌てます。
しかし、殿下の眼差しに、言いかけた言葉が続けられなくなりました。
「本当は今日、このことを、あなたに話すつもりはありませんでした。
けれど、あなたにお会いしたら、止められなくなってしまった。
あなたはきっと、覚えていらっしゃらないと思います。
8年前、王宮に兄上と僕の遊び相手として、上がられたときのこと」
心臓がひとつ、音を立てて鳴ったような気がしました。
わたくしの表情を見た殿下には、何も言わなくても気づかれてしまいました。
「まさか、ティアが覚えているとは、思わなかった……」
殿下の眼差しが強くなります。
「僕は、あの時のことを忘れたことはありません。
あの頃、僕の立場は少々微妙でした。
もしかしたら廃されるかもしれないと、怯えていた。
怯えると同時に、生き残りたくもありました。
だから、青虫は僕自身のように思えた。
鳥に喰われるか、それとも生き残って蝶になれるのか。
あなたは青虫を『一生懸命』だと言いましたね。たかが虫だと馬鹿にすることなく。
ええ、わかっています。あなたはきっと、そのときの気持ちのままに言っただけ。
でも僕には、あなたの言葉は『祝福』に聞こえました。
ただ生きようと一生懸命であることは、無意味なことではないと。
だから僕は、生き残るためにあがいてみようと決めました」
わたくしは言葉もなく殿下を見つめてしまいます。
しかし殿下はお立ちになり、こちらに手を差し伸べられました。
「あなたのお体に障る前に、戻りましょうか」
その手に、わたくしの手を重ねて立ち上がります。
その時、ふと殿下がかがまれました。わたくしの耳元で伝えられる言葉。
「あの時からずっと、僕はあなただけを見つめてきました。
今はこれだけ、知っておいていただけますか、ティア」
驚いて殿下を見返せば、いつもと同じ笑顔。
いいえ、いつもと同じ笑顔の中にある、抑えきれない感情の揺らぎ。
「十日後、またお会いできるのを楽しみにしていますよ、ティア」
初めてのお茶会の後、殿下から手紙と贈り物が届きました。
いただいた手紙と贈り物を前に、わたくしは考え込んでしまいます。
じっと座って。
次は、意味もなく部屋をうろうろしたり。
かと思えば、立ち止まってみたり。
殿下は、あの時のことを、覚えていらっしゃいました。
殿下には、殿下の思うところがおありなのだと思います。
わたくしには、よくわからなくとも。
でも殿下は、あの時のことを、忘れないでいてくれた。
わたくしは、ただ、それが嬉しい。
でも、それだけではなかった。
いただいた手紙が、嬉しい。贈り物も、嬉しい。
そしてたぶん、また殿下にお会いできることも、嬉しい。
いただいたハンカチに刺繍されている、可愛らしい小さな蝶。
その蝶に、そっと指先で触れてみます。
もしかしたら、わたくしは初めての恋をしているのかもしれません。
まるで、物語の主人公のように。