Last day
ひとりぽっちは寂しい。
目がさめたときに、隣で眠る肌の温もりが失われたら悲しい。きっと何も手につかなくなる。
「嘘」
信じられないことが起きると苦しい。
受け入れがたい現実は切ない。
「嘘よ!」
黒板の前の教卓はやけに小さくて、その上で仰向けに横たわる艶の薄く開いた唇は、今にもわたしの名前を呼んで、にこやかに微笑みかけてくれるのだと、そうとしか思えないほどに、無防備だった。
窓からぬるい風が吹き込む。
逆巻く髪を右手で抑えて、椅子の背もたれに胸をつけて、鏡は氷のような表情を崩さない。
ここにいるのはわたしと、鏡と読者だけ。
教室の後方で水槽のエアーが奏でる旋律が、神経を溺れさせるくらいに重々しい。
「とまあ、みんなマトモでよかったよ。曼荼羅を処刑する選択は、最終日に繋げるためには必然だからね」
机の表面を撫でながら、黒板へと鏡は向かう。
チョークを掴んで叩きつけるように、殴り書きする。
「おさらいをしないと」
淡々と記されていくのは、この状況のことだろう。甲斐と読者は黙って眺めている。
人気のない廊下に出て逃げ出してしまいたくなる。閉ざされた昇降口のガラスを割って、どこか遠くへと行ってしまいたい。
「ボクは曼荼羅から吸血鬼扱いされて、その曼荼羅に吸血鬼ではないと言われた読者さん。そしてここまでノータッチの甲斐ってところかあー」
三人の名前を書き終えた鏡は教卓に視線を落とす。
吸血鬼にやられたにしては艶の遺体は美しかった。
分からない。服の下を覗いてみれば、内臓がそっくり消えている可能性だってある。
「甲斐、なんか隠してる?」
いつの間にか鼻先までにじりよっていた鏡に甲斐は面喰らう。後退りすると机の角に腰をぶつけた。
「ねえ?」
仄かに柑橘系の香りがした。鏡の匂いだ。
「わたしは...」
じっと息を飲む。この教卓は、甲斐の世界のそれとそっくりだ。
天井の蛍光灯も、金魚の水槽も、ステンレスの窓枠だってそう。でもどこか違っている。もし闘いに破れたら、永遠に幽閉されるのはこの沈黙の教室なのだろうか。
「わたし、騎士なのよ」
「きしぃ?」
驚きのあまり目を丸くした鏡はそのまま動かなくなった。
「だとしたら無能だね、今日まで誰も守れなかったんじゃないか。毎晩何をしてたのかな、君は。疑いたくなくても疑っちゃうよな。そうだ、昨晩は誰を守った?」
「読者さんを、守ったわ」
「ほおー。なるほどねえ」
腕組みして鏡はその場を往ったり来たりする。
「曼荼羅が吸血鬼ではないと言っていた読者さんを、か。どうして艶を守らなかった?」
「今あなたが言った通りよ」
強い口調に負けじと甲斐は答える。
すると鏡はまた黒板に駆け寄る。
「艶は三日目、五百城に吸血鬼ではないと告げられている。昨日のボクの考察では、というより少なくとも五百城は吸血鬼ではない」
「八つ裂きにされたからね」
「ああ、そうさ。五百城は本物の桜井、または狂人であるわけだ。だとすれば五割本物の可能性のある五百城と、三割本物の曼荼羅を天秤にかけたときに、守る対象は自然に艶とはならないか?」
「そこまでは、考えてなかったわ」
五割と三割の計算に無理があることを甲斐は指摘したかったが、鏡の伝えたいことは分かった。
「急にわたしに詰問してくるなんて、それにもしも曼荼羅さんが本物なら、あなたは吸血鬼なのよね」
「そう。もしも曼荼羅が本物なら。でもさー、かなり確率低いけどね。曼荼羅が吸血鬼、狂人、本物のパターンがそれぞれあって、三分の一だから」
「そのレアケースってことじゃないの? それにあなたは昨日の時点で殺されたくなかった。なぜならそれで勝敗が決するから」
「うーん。ボクはさ、まだ甲斐を信じきってはいないんだよ。騎士がこれまでに死んでいる場合だって否定できないだろう?」
壁掛け時計の針が凄まじい早さで回っていく。
「あんまり余裕ないみたいだな」
鏡が顎をしゃくる。甲斐は背後を確認すると、教室の後方が蜃気楼のように歪んでいる。廊下に出よう、と促されるままに、読者もろとも教室から逃げる。
窓の外へ視線を投げると、校庭のあるはずの空間は黒く塗り潰されていた。
教卓の艶を置いていくのは後ろ髪ひかれるが、黒板がモザイク状に朽ち果て始めたところで諦めた。
誘われるようにして三人は階上を目指す。低い地面からどんどん闇に侵食されていく。
「じゃ、ま、甲斐はボクを処刑したいんだね」
「そうなるわね」
階段を踏みしめる音が構内に木霊する。
「甲斐は読者を疑わないの?」
「読者は何も喋らないから情報が落ちないもの。だけどもし曼荼羅が吸血鬼だとして、読者を守ろうと敢えて吸血鬼ではないと宣言したなら、話は変わってくるわ」
ふふ、と鏡が顔を綻ばせる。
「まったくブレブレじゃないか。ボクは君が怪しいと思うけどな。今さら騎士を名乗る必要だってなかったんじゃないか。生存意欲を出してきたんだよなー、なんてさ」
階下はすっかり闇に飲まれていた。そこが初めから暗黒で満たされていたように。
「騎士を騙るのはリスクがあるわ。わたし以外に万が一騎士がいたなら、そこで偽を告発されるし、それこそ名乗り出なくていいはずよ」
「だからこそ、君が名乗って対抗馬がいないのは、リスクを犯して手に入れたハイリターンだろうな」
「よほどわたしを疑うのね、鏡さんは」
屋上の扉を押すと金属が擦れる嫌な音がした。鼓膜に粘りつく、気持ちのいいものではない。
四方をフェンスで囲まれた、開放的な屋上は、黒い雲の上に浮遊している。辺り一面を渦巻く闇にとらわれて、甲斐たちはとうとう最後の瞬間を迎えるのだ。
学校からみはるかせる大きな桜の木も、この世界にはない。代わりに屋上の中央に燭台が聳えていた。
黄金の燭台だけが色を所有している。黒だらけの景色に異彩を放つ。これまでたくさんの血を注ぎ込まれてきた。巨大な燭台。
灯火がひとつ、ふたつとついていく。
七つの炎は天高く舞い踊り、薄紅の柱が現れた。
「ここまでくると、あとは誰を信じるか、よりも、いかに自分を信じれるかどうかだなあ」
と鏡がひとりごちた。
「もう会えないかも知れないな」
加えられた台詞に、反射的に甲斐は蛍を脳裏に描く。
蛍にもう一度会うなら、勝つしかない。
手首を切って、燃え盛る燭台に血を捧げる。
屋上の出入り口も闇に包まれた。
もうあとにも先にもこれっきり。これっきりなのだ。