世界会議
かつて地球はひとつだった。大陸が割れて繋がることはあっても、星をまるごと包むような天変地異は起こらない。とされてきた。
しかし温暖化から始まり、隕石の度重なる衝突に加え、人々の混乱が拍車をかけて、星は七つに分裂した。
それぞれの、ちりぢりになった惑星は独自の進化を遂げた。七つの欠片を統治する、七人の王がいる。
百年に一度だけ、かろうじて接続されているマントル(今はもう冷えきってしまったが)に王たちがやってくる。儀式のためだ。
その儀式が行われなければ、星の重さを支える鎖は解き放たれ、宇宙の藻屑となるに違いない。
「ってことがあったら面白いのにね」
という甲斐の台詞に、ボーイフレンドの山極蛍は「なにそれ」などと鼻で笑う。
「蛍はさあ、こんな日常に納得してるのかな」
「うーん、そうだね...」
少し考える素振りをする蛍は、唇に手を添えるのが癖だ。とても愛らしい仕種に甲斐は胸がこそばゆい。
「してるっていえば、してるかな」
「えー、どうしてよ」
「毎日学校に来て、甲斐に会って、話して、お昼食べて、放課後遊べたら、他に求めるものなんてないしさ」
照れたように舌を出すいたずらっ子の眼差しは、卑怯だ。心臓の奥がキュンとして、二の句が継げなくなってしまうから。それでも、
「じゃあ明日世界が消えても平気?」
甲斐と死ねるなら、と蛍が甲斐の背中に手を回す。とてもあたたかくて、安心してしまう。
怖いものなどひとつもありはしないと錯覚してしまう。
「ねえ」
「うん?」
肩に顔をうずめる甲斐の「うん?」はくぐもって聞こえた。
「冷たいよ」
シャツを通過した涙は蛍の胸まで届いただろうか。深呼吸をして、甲斐は離れる。
「もう行かなきゃ」
「あ、そうか。もうこんな時間か」
時計を眺めて寂しそうにうつむく蛍の頬に背伸びをして口づけをする。そのまま踵を返して廊下を走る。
昇降口を飛び出して、校舎の裏手の雑木林をすり抜けていく。藪をこぎ、木々の狭間を潜っていく。やがて鬱蒼としていた視界に青が射し込む。
雲が対流している。その形はドーナツと変わらない。中心には太い幹が鎮座しており、屹立した大木の径は手が幾つあっても足りない。
白い雲間から薄紅色の輝きがちらつく。
ひらひらとした落下物は雪片ではない。ふわりととらえどころのない、ピンクの花弁だ。
地面の隆起するは根っこの蔓延っている証左で、ちょうどハンモックの様相を呈しているから、甲斐はからだを横たえる。
絶え間なく降り注ぐ桜のひとひらを数えているうちにまぶたが重くなってくる。
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目が覚めた。こーん、と甲高い音がする。寝違えただろうか、頭が少し痛む。
起き上がり、上体を左右にひねる。骨の節が鳴った。こわばった筋肉がほぐされる。
それにしても、不思議な場所だ。
さっきまで、桜の木の下で微睡んでいたのに、だだっ広い平原に投げ出され、辺りは夕陽に染まっている。
オレンジ色の草花が風にそよぐ。
「あっ」
足音に驚いて振り返る。まるで気配がなかった。仰天したのは甲斐だけではないらしく、あどけない少女は不自然に歩幅を狭めた状態で硬直していた。
「こんにちは」
「こ、こんにち、は」
高周波のか細い声はおとなしさを形容している。人形じみた正確な比で描かれた眉目の造作は引く手あまただろう。絹に負けずとも劣らないきめこまやかな肌といい、この少女はただならぬ雰囲気を醸している。
「ここがどこか分かる?」
甲斐の問いかけに、ビクッとからだをひきつらせる。そんなに怖がらなくていいと宥めると、彼女は肩の力を抜いた。ベッドでうたた寝をして、起きたらここにいたらしい。
「じゃあ二人とも夢の中にいるのかな」
少女は首を傾げるばかりで、明確な返事は期待しないのがよさそうだ。
こーん、とさっきから一定の間隔で鳴っている。音の源はそう遠くはなさそうだ。日は山麓の尾根に沈みつつある。徐々に紺色に転じていく空に追われるようにして、甲斐たちは歩き始めた。
あたしは甲斐。へえ、マリアって言うのね。珍しい名前だね。外国人でしょう、それかハーフ。髪もブラウン寄りのゴールドだもの。歳は幾つ、え、十五。もっと若いと思ってた。華奢だし、ロリータみたいなファッションだし。え、これは制服だよ。学校の。知らないの、ふーん、そっか。
果てしない平原を進んでいくと、漆喰の塗られた外壁が見渡す限り続いている。建物が現れた瞬間は、白い波が向かってくるように壮観だった。
屋敷の門の手前までくると、遠くからだと小さかった壁も、存外に高いと気づかされる。三階建て校舎並の、ただの壁にしては威圧的だ。音は内側から響いてくる。
こーん、とまた鳴った。
すっかり日は暮れて、月がじわりと伸びあがっている。
「すいません、誰かいませんか」
燭台に火が灯っているのだから、人の気配はある。
繰り返し叫んでも応答がないので、門を拳で叩こうかと身構えると
「うるさいねえ」
真横から声がした。小さな扉が設えてあり、そこから首を出したのは、フードを目深に被った人だった。
「早くお入りよ」
甲斐はマリアと目配せして促される通りに扉を潜ることにした。腰を屈めないと窮屈なサイズで、息切れしつつもどうにか抜けられた。
涼しい顔をしているマリアは柔軟なからだを活かして難なく突破できたようだ。
「うわあ」
外壁もさることながら、広大な庭園にはそれまた大きな池が、ほとんど湖と違わぬくらいのスケールであった。
月が水面に反射して揺らぎ、水車の回る光景はまさしくおとぎ話じみていた。
「リアルな夢だなあ」
「夢、か」
フードの人物がくすくす笑っている。何がおかしいのかと訊ねると
「胡蝶の夢、ってご存知だろうか」
今見ている景色は、現実である。或いはどこかで眠る蝶の夢である。
「甲斐さんが、夢と思えばそれもまた夢に違いない。しかし逆もまた然り」
そういい終えるや否や突然走り出して、庭園の林立する樹木の影に紛れて消えた。
マリアは池のほとりで蛙と戯れている。無邪気にもひらひらのドレスはよれよれだ。
「汚れるわよ」
膝をつくマリアに手をかそうと差し伸べるも、自力で立ち今度は水車へと一直線である。
肩をすくめて甲斐もあとをつける。そこかしこの植え込みにフードの人物が息を潜めていないか注意を凝らす。
満月は南天を横切ろうと、弓なりの軌道を滑る。
ぬかるむ足元が覚束ない。すばしこいマリアはどんどん小さくなっていく。
水車の手前には、竹を切って作られたししおどしがあった。これが宵闇に反響すると、胸の鼓動と共振する。
「ぎゃっ」
奇声。マリアの繊細なものとは異なる。
小屋があり、水車の動力を伝える棒が接続されていた。
池に注ぐ水流は屋敷のどこから溢れてくるのか、定かではない。なぜなら一面平野なのだから、山のように高低差がないので、川は否定される対象となりうる。
しかし事実水は流れを有しており、幅はないものの、水車を滑走させるに足るパワーがある。そこで飛沫があがった。
水面から黄金色の頭がまず飛び出し、次いで黒髪が現れた。
「ゲホッ」
黒髪は後ろでひとつに束ねられている。朱色のリボンが象徴的だ。仰向けにされた胸は膨らんでいて、軽く上下している。咳をしているのは、溺れかけたからで、マリアが濡れているのは恐らく彼女を救おうとしたためだ。
「ゴホッ、クッ」
目をぱちくりさせて、朦朧とする意識を甲斐とマリアに向けている。マリアのずぶ濡れのまつ毛はくるりとカールしている。ポタポタと垂れる雫が仰向けの女の額に落ちる。
「ありがとう、ございます」
感謝の意を表明する艶がマリアに支えられつつ姿勢を正す。
こーん。
まただ。甲斐の側にあるししおどしは鳴っていない。
母屋から、テンポを早めて音が聞こえる。
こんこんこん。
三人は顔を見合わせて、黒い瓦屋根の母屋に何かがあると了解する。
石畳を辿っていくうちに、月はついに南天へと到達していた。影がそれを教えてくれた。