436 どういうおつもりですか?
リズ達と散歩をした翌日の翌朝。
「――イナリさん、おはようございます」
「んむ……ぉはようじゃ」
イナリは溶けるような声でエリスに返した。
「眠そうですね?」
「ちと、よく眠れんでな」
「それはいけませんね。体調が優れないのですか?」
「そういうわけではないのじゃがな」
イナリは散歩を終えてからずっと、いつ修羅場が再発してもおかしくない状況に戦々恐々としていたのだ。そんな状況であれこれ堂々巡り考えてしまうので、とてもじゃないが安眠できる状況ではなかった。
実際のところ、イナリの懸念に反し、二度目の修羅場に遭遇することなく朝を迎えられている。が、それもそれで無気味だ。まるで、嵐の前の静けさのような――。
「そんなイナリさんにお届け物です。物と言っていいのかわかりませんけど」
そう言いながらエリスは腕に提げている籠をイナリが眠るベッドに置き、ふたを開けた。すると、そこからぴょこりと透き通った薄緑色のスライムが現れ、イナリの腹に飛び乗る。
「おお、もちまるではないか。元気にしておったか?」
「皆でお世話してましたので、元気に育ってますよ。ほら、いつからかできていた突起も、少し大きくなりました」
エリスがもちまるの突起を指でつついて示す。
前に見た時は少し盛り上がっているぐらいだったが、今ははっきりと尖っているのが分かる。(おそらく)前面上部に二つ、(おそらく)後方下部に一つ、計三つの突起だ。
「ふむ……まるで狐のような形じゃ」
「子は親に似ると言いますが。イナリさんを親と思っているのでしょうか」
「実に愛い奴じゃの」
イナリはもちまるをもちもちと愛でる。程よい重量感とひんやりとした感触が心地よく、このまま目を閉じたら心地よく眠れそうである。
「しかし、昨日の話からして、もちまるがここに来るには一悶着くらいあるのかと思うておったが。教会からの許可がすんなり下りたのじゃな」
「従魔登録していたのと、飼育事例がある魔物だったおかげですんなりでした。事情を知らない神官が攻撃しないように周知もしますので、一緒に過ごせますよ。……あ、でも今はまだ周知が行き届いてないので、念のため部屋は閉めておきますね」
エリスはそう言いながら部屋の扉を閉め、鍵を掛けた。
「いやはや、有り難いのじゃ。いくら世話や見舞いに来てくれる者が居ようと、どうしても拭えぬ孤独感があるからのう」
「――そうですよね。イナリさんが出会った神官を片っ端から口説いてしまったのも、そんな状況なら仕方ないことですよね」
もちまるの登場により和らいでいたこの部屋の空気は、一瞬にして冷たくなった。もちまるも何か察したのか、なめらかな動きで籠の中に戻り、器用に自力でふたを閉じた。
そうして再び孤独になり、眠気が消し飛んだイナリは、一旦弁明を試みる。
「な、何のことじゃ?我は誰も口説いたりなど――」
「ああ、イナリさんから説明せずとも大丈夫です。皆さんからお話は伺ってますから。勿論、リズさんからも」
「リ、リズが!?」
「はい。丁寧に『お願い』したら、快く応じて頂けました」
「それは本当にお願いなんじゃろうな!?」
脳裏によぎるのは、「神官は尋問の技術を教わる」という悪しき魔術師の言葉だ。もしリズが大変な目に遭ったというのなら、後で全力で謝罪する必要がありそうだ。尤も、イナリもこれから大変な目に遭いそうな気配がプンプンするが。
身構えるイナリに、早速エリスが畳みかける。
「私というものがありながら、一体どういうおつもりですか?私達の関係は、ただのお遊びだったのですね」
「ち、違うのじゃ!我にとってはエリスが一番大切じゃぞ。ほんとじゃぞ!」
「『一番』ですか。そんな感じの言葉、他の神官にも告げていたそうですけど」
「そ、それは言葉の綾なのじゃ。我にとっての一番ではなく、神官の中でも秀でているという意味での一番であってじゃな――」
「なるほど。しかしどうやら、相手にはそのように伝わっていなかったようですが」
「そ、それはそうじゃが……」
エリスの言葉に、イナリは詰まった。
確かに、リズの指摘を踏まえれば、イナリの言葉が色々と誤解を招く感じになっていたのは間違いないだろう。だが、多少言い方に気を遣いこそすれど、確かに本心を伝えていたのだ。「向こうが勘違いするのが悪い」などと言うのは、あまりにも道理がなっていない。
そう思っていたところで、エリスの手がイナリに向かって迫ってくる。まさか、イナリはこれから大変な目に遭わされるのだろうか。
「た、頼むのじゃ。今の我はもちまるにすら敵わん脆弱な存在なのじゃ!痛いのは、痛いのは勘弁してくれたもれ……!」
イナリがぷるぷる震えていると、エリスの手が頭にぽんと乗せられた。
「……む?」
「ふふっ。なんて、ちょっとしたお仕置きとして、少し揶揄っただけです。初めからイナリさんをどうこうするつもりはありませんよ」
「ほ、本当かや? 我、見知らぬ土地に捨てられたりせぬか……!?」
「するわけ無いじゃないですか。イナリさんは私にとっての『一番』なんですから」
「うっ、わ、悪かったのじゃ……」
「一番」という単語を強調したエリスに対し、イナリは素直に謝罪した。すると、籠に逃げていた薄情なスライムが再び顔を覗かせ、イナリの腹の上に移動した。
「しかし、どうして気が付いたのじゃ?」
「仮にも職場なんですから、適当に聞いて回れば簡単にわかりますよ。と言っても、詳しい事情を知ったのはイナリさんと会った後でしたが……」
エリスは子供らしく頬を膨らませ、拗ねたように返した。
「ですから、昨日私がイナリさんに尋ねたときに誤魔化されていたと知って、少し悲しかったです」
「それは……お主に相談すべきか、するとしても何と言ったらよいかと、色々考えておったからの。包丁を持って暴れたりとかされたら、我には手が付けられぬし……」
「リズさんにも似たような事を言われました。私ってそんな風に見えます?」
エリスの言葉に、イナリは沈黙で返した。
「……そうなんですね。相談しづらくしてしまった私も反省します」
「んや、元はと言えば我の落ち度じゃからの。はあ、誰にでも好かれたら万事解決とはいかんのじゃな」
「何にでも、程よい距離感がありますからね。あ、私には今まで通りの距離感で大丈夫です。むしろ、重なるくらいの勢いで来てください」
とても同じ口で「程よい距離感」を説いた者とは思えないセリフである。というか、イナリが何もしなくてもエリスの方から詰めてくるのだが。
「ところで……我が『勘違い』させてしまった神官らはどうなっておるのじゃ?」
イナリは指先でもちまるに触れながら尋ねる。我ながらあまりにも酷すぎる発言だ。
「それがですね。大半の方は、私から事情を説明したら納得して頂けたのですが……」
エリスはそこまで告げると、間を置いて続ける。
「お一人だけイナリさんを本気で好きになってしまった方がいるらしく。率直に言うと、私もどうしたらいいのか……」
「……我が蒔いた種じゃ。一度面と向かって話さねばなるまいな」
先ほどとはまた違った意味で重い空気の中、イナリは今後を憂いた。




