429 魔の森の騒動の顛末(前)
人間の尊さを認識したイナリは、目に映る全ての人間が輝いて見えている。
その中でもとりわけ「輝いている」エリスに、イナリは埋まるくらいの気持ちで身を寄せた。普段の彼女ならば嬉々としてそれを受け入れるだろうに、今日に限ってたじたじとしている。
「と、とりあえず、今日は一緒に居られる限り一緒に居ますから。困ったことはありませんでしたか?」
「困ったことなら無数にあるが……お主が共に居てくれるとあらば百人力。もう困ることなどあるまい」
イナリが柔らかい笑みを浮かべると、エリスは「うっ」と変な悲鳴を上げて仰け反った。そしてリズさんに声を掛け、部屋の端でひそひそと囁き合う。
わかった上でやっているのかはわからないが、イナリは大きな狐耳のおかげで会話は丸聞こえである。
「ど、どうしましょう。私、イナリさんに悶え殺されてしまうかもしれません」
「そこは耐えてもらうとして……今のイナリちゃん、博愛精神が恐ろしいことになってる気がする」
「窓から差す光が後光みたいになってますもんね。昨日からこんな感じだったんですか?」
「いや、昨日は普通だったから……何かあったとしたらリズが帰った後。例えば、何か変なものを食べたとか?」
「流石に教会の食事で変なものは出てこないと思いますけど……一応、後で聞いてみます」
なるほど、イナリが健康な食事をとれているか調べてくれるらしい。栄養価など微塵も考えたことが無いので、非常にありがたいことである。今のイナリに栄養が必要なのかはよくわからないが。
「お主らにはいつも面倒をかけておるのう」
「いえ、大丈夫ですよ。イナリさんがここに来るまでの経緯も大まかには聞いてますし、何も気に負う必要はありませんから」
「そう言ってもらえるとありがたいのじゃ」
エリスはそう言いながらイナリの傍に戻ってきた。
「我の話ばかりしていてもつまらないじゃろ。時にエリスよ、お主の体調は大丈夫かや?我はお主の身が心配で心配での。もしお主が会いに来てくれなかったら、この体に鞭を打ってでも我の方から向かっていたやもしれぬ」
「そ、そうですか。……二、三日くらいは無意識に変な事を考えたり、頭痛や眩暈もありましたが、ハイドラさんに看てもらったおかげですっかり無事ですよ」
「変な事?……ああ、我の幻覚を見たとかそういう話かの。それはいつもの事じゃろ?」
昨日の神官との会話を思い出しながら返すと、エリスは首を横に振った。
「もっと、ちゃんとダメなやつです。イナリさんを食べたいとか……詳しいことは伏せますが、普段は絶対にしないような酷いことをしたいとか。そんな恐ろしい思考が不定期に襲ってきていました」
「それとセットで『イナリちゃん成分』不足の幻覚症状が発生してね。その辺のタンスを齧ろうとしたり、リズをイナリちゃんと思って話しかけてきて、本当に怖かった」
「その節は大変ご迷惑をおかけしました、ええ、本当に……」
エリスは顔を赤らめつつ、俯きがちにリズに謝った。全く、そんなところも実に尊い。
「そ、それより!イナリさんが眠っている間に起こったことをお話ししませんか!」
「あ、そうだね」
エリスの言葉に、リズは懐から手帳を取り出してぱらぱらと捲り始めた。
「えーっと……まずは今回の一連の騒動の顛末について話そっか」
「『世界庭園創造会』の連中の件じゃな」
イナリの言葉にリズが頷く。
「あの団体は正式に異端として排除されることになったんだってさ。大半の信者は捕まってて、逃げてる人も指名手配されて街総出で捜索してるから、そのうち落ち着くと思う」
「ほう」
リズの言葉が正しければ、つい昨日謝りに来たアリシアも何かしら行動を起こしていたに違いない。ますます何を後ろめたく思っていたのか謎である。
「我やエリスを襲撃した賊もそんな感じなのかの?」
「多分。聞き出した情報からして構成員の半分くらいが捕まってて、あとはほぼ行方不明って感じだけど」
「ふむ。となると、まだ安全とは言いきれないのかのう?」
イナリの懸念は、また狙われたり、意味不明な理屈で逆恨みされたりすることだ。平穏な生活を送るためにも、ここは気にしておくべきだろう。
それ故の発言に対し、エリスがイナリの耳を優しく揉みながら首を振る。
「そこまで気に病む必要は無いと思います。ここなら聖女様や聖騎士様がいらっしゃいますから安全ですし、元気になった頃には落ち着いているでしょう」
「ならよいのじゃが。ま、本当に危ない時はエリスが助けてくれるよの。我はお主を信じておるのじゃ」
イナリが微笑みかけると、エリスは顔を赤らめながら目を逸らした。
「うぅ、何だかいつもと違いすぎて調子が狂いますね……」
「理性を失いそうになったらすぐ言ってね。準備はできてるから」
リズが杖をぐっと構えて意気込んだ。この子供魔術師はイナリの部屋を事件現場にする気だろうか。
「して、続きを話してくれぬか?」
「あっそうだね。えっと、落ち着いて聞いて欲しいんだけど……イナリちゃんのお家は住めなくなるかも」
「うぐ……まあ、倒壊したのは事実じゃが」
嫌な記憶が呼び起こされ、イナリは顔を顰めた。悲しみのあまり寝込んでしまいそうで……いや、もう既に寝込んでいたか。
「そうじゃなくて、調査のために封鎖されちゃったみたいで。エリック兄さんから聞いた感じ、調査が終わったらキャンプ地点に造り替えられる可能性が高そうなの」
「なんと。いくら人間の営みが尊いものと言えど、我に断りのひとつくらい入れるのが筋というものではなかろうか」
イナリの脳裏によぎるのは、この世界に来るきっかけにもなった地球の社についてである。
その時とは違い、イナリは確かに己の存在をこの世界の人間に示してきたのだ。だというのに、存在しないもののように扱われるのは些か不愉快である。
そんな心境が表情に出ていたのか。エリスは何も言わずにイナリの頭を撫でた。その柔らかい手に、イナリの心中で沸きかけていた怒りは静まった。
「一応『虹色旅団』としてイナリちゃんの社があることは伝えてるから、具体的に計画が立ち上がったら、イナリちゃんも介入できると思うよ」
「ふむ」
これは「『虹色旅団』として」伝えたというのが重要なのだろう。
普段の様子から忘れがちだが、イナリが所属する冒険者パーティはこの街でも有数の腕が利く集団なのだ。その発言の影響力は決して侮れない。
それこそ、イナリが「我は神じゃぞ!!」とぷんすこしながら訴えるよりも、よほど影響力があるはずだ。
「ま、人間の仕組みがややこしいのは今に始まった話でもないしの。人の尊き営みを維持するためじゃ、我も溜飲を下げるとしようぞ」
そも、あの社の跡地をもってイナリがあそこに居た証を残せたら十分で、これ以上拘ることも無いのだ。
「いいんですか?イナリさんの機嫌次第で冒険者ギルドにリズさんの魔法を撃ちこむことだってできるんですよ?」
「やらないよ」
「やらないのじゃ」
物騒な言葉を口走る神官に、子供二人はぴしゃりと返した。
「ひとまずこの話は十分じゃ。次の話に移ってくれたもれ」
イナリがリズに次の話を促すと、彼女は手帳を捲った。




