426 這うか転がるか
イナリの申告により、一度リズとウィルディアの協力のもと、体力の測定を行うこととなった。
と言っても、自力で立つことがままならないことは既にわかっているので、握力の測定や、食事を摂るための咀嚼力と嚥下力の確認、簡単な知力テストに自力でできることの確認と、もはや高齢者の健康診断のような内容である。
「――一通り調べた上での所感だが。今の君の状態は、体が凝っているどころの話ではない」
「ぐぅ……」
ウィルディアの包み隠さない物言いに、イナリは面食らった。
結論、今のイナリにできることは、転がる、体を曲げる、喋る、尻尾を揺らす程度だ。もし自力でどこかへ移動したいと思ったら、横に転がるか、芋虫のように這っていくかの究極の二択を迫られることになる。
それに、握力は赤子と同等になっているし、食事は喉を詰まらせる危険があるため、粥や具無しのシチューが限界だそうだ。食事に制限が入るのは、イナリにとってかなり堪えた。
「それと、ベッドから落ちて激痛に苦しんだと言っていただろう。体の頑丈さが衰えていると解釈すると、今のイナリ君は刃物などでも容易に怪我をする可能性がある。気を付けたまえ」
「ううむ、不便じゃな……」
まさかこんな形で身近に死を意識することになるとは思わず、イナリはげんなりしつつ返した。
不幸中の幸いなのは、視力や聴力、知力の悪化は無かったことか。
その辺りまで影響が出ていたらどんな醜態を晒すことになるか気が気でないし、いよいよ「イナリおばあちゃん」と呼ばれてもおかしくない状態となってしまう。
己の呼び名にさほど頓着が無いイナリだが、この時ばかりは素直に嫌だと感じた。
イナリがそんなことを考えている傍ら、リズが思いついたように手をぽんと叩きながら声を上げる。
「ね、先生。これって群青新薬で改善したりするのかな」
「群青新薬か。試す価値はありそうだね」
「それなら元の実を丸ごと食べた方が早いと思うが?」
イナリが割って入ると、二人はわかりやすく絶句する。
「……ついさっき私が言ったことを思い出してくれるかい?」
「リズ、イナリちゃんの頭が弾けるところは見たくないよ」
「……そうじゃな。今の我は、前とは違うんじゃよな……」
イナリは悲しみと共に毛布の中に沈んだ。
「はあ……何だか疲れてきたのじゃ」
「イナリちゃん、起きてからそんなに経ってないもんね。今日は休んでもらって、話すつもりだったことはまた明日以降に少しずつ話そっか」
「そうしてもらえると助かるのじゃ。迷惑をかけるのう」
「うんん、全然大丈夫!」
イナリの言葉に、リズは親指を立てて笑顔で返す。
「あっそれと、そこに積んである手紙は全部、イナリちゃんを心配する皆のお手紙だから、暇だったら読んで……あ、文字読めないんだっけ」
「うむ。ま、暇潰しがてら解読に興じるとしよう」
イナリが努めて気丈に振舞うと、リズも微笑する。
「今まで勉強したイナリちゃんなら簡単かもね。じゃ、お大事に!」
「私も失礼しよう。状態については神官に共有しておくから、ゆっくり休んでくれたまえ」
二人は各々イナリに向けて挨拶を告げて退室した。
「ふう。さ、暇潰しに興じるとするかの」
来客も去り、また孤独な時間が始まったところで、早速イナリは手紙のひとつに手を伸ば――そうとしたが、腕が持ち上がらず、手紙を手に取ることすらできなかった。流石のリズも、こればかりは想定していなかったことだろう。
というか、仮に手紙が取れたとして、便箋を開けることはできるのだろうか?もはや常識では語れないほどのこの弱い体は、逆方向に無限の可能性を秘めていると言えよう。
「……暇じゃ」
イナリは己の無力を噛み締めながら綺麗な天井を眺め、ひたすら虚無の時間を過ごすことにした。
少し過ごしてみると、教会は基本的に静かだが、時折鳴る鐘の音や人の話し声、神官の行き来する足音など、人の存在を感じることができることが分かった。
故に、想像していたほどの孤独感は感じないし、そこから人の営みに思いを馳せれば暇潰しにもなった。この時間潰し術もイナリの長年の孤独生活の賜物である。
そうこうして日が傾き始めた頃に、イナリの部屋に新たな人物が現れる。
「――失礼いたします。イナリさん、お食事をお持ちいたしました」
「おお、助かるのじゃ。……って、お主は」
今度現れたのは、この教会の頂点と言って差し支えない存在、聖女アリシアであった。彼女は部屋の扉をそっと閉めると、入室時の神妙な態度とはうって変わって、崩れた笑みを浮かべる。
「どうも、アリシアです」
「お主は本当、聖女の時とそうでない時の差が凄まじいのう。一瞬誰かと思うたのじゃ」
「あはは……それ、エリスにもよく言われる」
アリシアは机に食事がのったお盆を置くと、椅子を手繰り寄せてイナリの隣に座った。
「して?一聖女がわざわざ出向いてくるのじゃ。単に我の世話をしに来ただけなはずがあるまい?」
「え、お世話しに来たらダメなの?」
したり顔のイナリの言葉に、アリシアはきょとんとして首を傾げた。二人の間に微妙な空気が流れる。
「……ほ、本当に様子を見に来ただけなのかや?」
アテが外れたことに困惑するイナリに、アリシアは悪戯が成功したように笑みを浮かべる。
「ふふ、なんてね。もちろん純粋にお世話したかったのもあるけど、それと別に用事もあるよ」
「……ならそれを早う言わぬか」
「ごめんごめん、怒らないで」
ジトリとした視線を向けるイナリにアリシアは苦笑しつつ謝り、居住まいを正す。
「イナリさん。貴方はしばらくこの教会で預からせて頂くことが決定しました」
「……ふむ?一応理由を聞いておこうかの」
「簡単に言うと、教会として重症な人をそのまま帰すことはできないから、かな。教会側で審議して、保護が必要と判断したら教会で預かるの」
「まさに、我はその必要があると思われたわけじゃな」
察するに、リズ達が神官にイナリの現状を伝えてくれたのだろう。話が早くてありがたいことである。
「ところで、その話に拒否権は無いのかや?」
「拒否はできると思うけど、大体該当する人は自力で帰ることすら困難だから、推奨はしないかな。……やっぱり帰りたい?」
アリシアはイナリの顔を覗き込んで尋ねてきた。
「んや、聞いてみただけじゃ。帰ったところで迷惑をかけることは目に見えておるし、言葉に甘えるとしようぞ」
「よかった。うちの神官は皆いい人だから、不便がないように責任をもってお世話するからね」
「うむ」
「……あ、でも、うっかり『我は神だ』とか言ったりしないでね。色々ややこしくなって私も聖女として動かないといけなくなっちゃうし、最悪路地裏に捨てられたり、湖に沈められたりしかねないから……」
「ひえ……」
イナリは震えて声を上げた。
あるいは、アリシアと面識が無かったり、イナリが神であることを知られていなければ、まさにアリシアの手によってイナリが「処分」されていた可能性も無きにしも非ずだ。
そういう意味で、アリシアが理解者側に居るのは非常に運が良かったと言えよう。手元に差し込む夕日を眺めつつ、イナリは安堵の息をついた。
「ちなみに、我を保護すべきと言った者はどれくらい居たのじゃ?」
「満場一致、前代未聞の即決だったよ」
「そ、そうか……」




