425 重力には逆らえない
全身を包む柔らかく暖かい毛布の感覚。どこかから聞こえてくる子供たちの声――目を開くと、見覚えが無い白い天井が映る。
「……ここは……」
イナリは軽く首を動かす。
右には大きな窓があり、そこから差し込む日差しがイナリのお腹を温めている。
続けて左を見ると、枕の隣には魔力灯があり、その傍には水差しや布巾といった小物や、たくさんの手紙が入った籠が置かれていた。
他には白い壁や床が映るのみだ。よく見ると、自分の衣服も真っ白で単調なものに着替えさせられている。
「ここは、教会かの?」
この無機質な光景が当てはまる場所は、イナリの記憶の中では一つしかなかった。きっと、今も薄らと聞こえてくる子供たちの遊ぶ声は、近くの孤児院から聞こえてくるものだろう。
そう現状を把握したところで、少しずつ己がここに居る理由を思い出す。暴走を鎮めるため、アースに力を託して……その後、意識を手放したのだ。
「全く、もう少し心の準備をさせて欲しいものじゃ。……ところで、ほかに誰か居らんのか?」
誰かが看病してくれていた痕跡こそあるものの、今この部屋にはイナリだけである。ずっと待ちぼうけていても何なので、イナリはベッドから身を起こし――起こそうとしたが、上半身が全く起き上がらない。
「む?……ふっ、ふんっっ……!」
それは何度試しても同じだった。仕方がないので、ベッドの端まで転がって立ち上がってみることにする。
「……もがっ!?」
――が、重力に従ってベッドから転落した。
こうして床に「強く」体を打ち付けたイナリは、立ち上がることもできず、その痛みに目に涙を浮かべる。
「い、痛いっ!痛いのじゃぁ……!誰か、誰か居らぬかぁ……!」
ここから人が来るまでの約一分、イナリはその場で涙をぽろぽろと流し続けた。
「痛かったですね、もう大丈夫ですよ。……どうか、お一人で行動されることはお控え下さい」
「ぐすっ……うむ……」
惨状に気が付いて駆け付けた神官により、イナリはベッドに再度寝かされる形で救出された。これでは神の威厳もあったものではない。あまりの情けなさに、別の意味で涙が止まらない。
それはそうと、少し気になることがある。
「我がここに連れて来られてから、何日くらい経っておるのじゃ?」
「本日で四日目になります」
「ふむ……」
アースの話ではイナリが回復するのに要する時間は最短一週間とされていたが、四日目でこの調子となると、それなりの長期戦を覚悟した方が良さそうである。
「エリスの方はどうなっておる?」
「エリスさんでしたら、現在ご自宅にて療養されています」
「そうか。ここには居らぬか……」
自宅というのはパーティハウスの事だろう。落胆に耳が垂れ下がるのを感じつつ、ハイドラに託した後の無事が確認できて安堵した。
「体調はどうなのじゃ?」
「当初は精神的な混乱も見られましたが、概ね回復しているそうです。ただ――」
「ただ?」
不穏な前置きをする神官にイナリは唾をのむ。
「――貴方の幻覚を見続けていると伺っています」
「あ、それは前からのことじゃ」
「なら大丈夫ですかね」
神官はあっさりと手の平を返した。普段エリスが同僚からどう思われているのか、少し不安になった瞬間であった。
その後、神官は「虹色旅団」の面々へ声を掛けに行くと言って退室した。
できることも無く、孤児院の子供たちの声も止み、しばらく窓から雲を眺めて待ちぼうけていると、大きな三角帽子を被った魔術師リズと、彼女の師ウィルディアが現れた。
「イナリちゃん、おはよう!」
「やあイナリ君。色々と大変だったらしいね」
「よく来てくれたのじゃ。……しかし、何故お主らなのじゃ?他の皆は?」
「先生はここに用事があったみたいで、さっき偶然会ったの」
「サニー君やファシリットの件でな。リズ君一人で見舞いに来たというから、賑やかしに加わったというわけだ」
ウィルディアは真顔ながらにおどけたような言い回しで告げた。
「で、エリック兄さんとディルは、この間の森の一件の事情聴取とかで忙しくて来れなくて。エリス姉さんは、その……いきなりイナリちゃんに会わせると危険かもしれないから、今日はお休み」
「……あの神官殿は猛獣か何かなのか?」
「今のエリス姉さんは『イナリ成分欠乏症』らしいの。少しずつ慣らして行かないと」
「初めて聞いた病名じゃ」
イナリは苦笑しつつ、エリスが平常運転なことに安堵した。
「それでね、色々と話したいことはあるんだけど、その前に気になることがあって……いいかな?」
「何じゃ?」
「イナリちゃん、本当に大丈夫?」
「?」
リズの言わんとするところが理解できず、イナリは首を傾げた。
魔の森のゴタゴタを片付けて気分が良いという意味では大丈夫だが、数刻前に床に全身強打して苦しんだという意味では全然大丈夫ではない。
どう答えたものかと悩んでいるうちに、リズが躊躇しながら言葉を続ける。
「先生もわかってくれると思うんだけど……今のイナリちゃん、その、すっごく死にそう」
「えっ」
「私も言うべきか悩んでいたが……かつて君の体内を巡っていた力が全て止まっている。普通の生物であれば、衰弱を通り越して死んでいると言って差し支えない状況に見える」
「ああ、それはアースに我の力を預けた代償であろうな。実のところ、今の我は神の力を使えない、只人と大して変わらない状況なのじゃ」
リズの一言目に思わず身構えたが、ウィルディアの直球な補足の言葉に事態を把握した。当然と言えば当然なのだが、今のイナリには神の力がほぼ無いので、それが二人を心配させてしまったのだろう。
故に、誤解を正すためにイナリは指先をぷるぷると震えさせながら告げた。なんとこの体、腕はおろか指先すら満足に動かない。
「なるほど。気になるところはあるが、命に別条がないならそれでいい。生きる屍を見ているようで気が気でなかったからな」
「酷い言われようじゃ。……しかし、少し動かないだけでこうも身体が動かなくなるとはのう。少し体を動かしたいのじゃが、手伝ってくれぬか?」
「ん、いいよ!」
イナリの言葉に頷いたリズが、イナリの両手を掴んで引っ張り、上半身を起こす。この時点で全身が尋常でない重さだ。一歩間違えば肩が外れてしまうような気さえしてくる。
しかしイナリはそれを堪え、リズの手引きを受けつつ、ズルズルとベッドと服が擦れる音を響かせながら、体の向きを変え、足を地面に置いて立ち上が――れなかった。
その様子にリズが怪訝な声を上げる。
「どしたの、イナリちゃん?」
「薄々感じておったのじゃが……今の我、体がまともに動かせぬかも……」
「……え?」
室内の空気が凍り付き、窓が風によってガタガタと音を立てた。




