412 救援要請
静かな森の中、かさかさと茂みが揺れる音が響く。その音の出所はイナリの後方、眠っているエリスを運ぶ草だ。
尤も、これはトレントのように草が足を生やして歩いているわけではない。エリスを押し運ぶように、地面に生えた雑草を成長させているだけだ。
「我の力を知らねば、百鬼夜行の類と思われても仕方あるまいな。……いや、一応魔王呼ばわりはされているのだったか」
今まではイナリの言葉には必ずエリスが何か返してくれたのだが、今聞こえるのは草木の擦れ合う音ばかりである。
「はあ……ひとまず、エリスを安全なところまで連れて行かねば」
情けないことに、まだ数分歩いただけだというのに、既に十回はエリスの様態を確認してしまっている。これでは普段過保護なエリスに何もいえなくなってしまうではないか。
そんなことを考えているうちに、イナリは己が創り上げた巨木の壁に到達した。
「ううむ、これは魔術師の奴が諦めるのも無理はあるまいな」
イナリはそこで目の当たりにした光景に唸る。
数々の巨木が複雑に絡み重なり合い、天を覆うように曲がって聳えている。そこに、小柄なイナリが抜けられる隙間はなく、生半可なことではびくともしないだろうことが一目でわかるほどの重厚感を醸し出している。
「うーむ、こういう時は……やはりまずはこれか」
イナリは手元に風を集めて風刃を作り、壁に向けて切り付けてみる。
すると、斧で切りつけたくらいの僅かな傷が壁に刻まれた。あと何千回と繰り返せば、いつかは壁の向こうへ行けるだろう。
「気が遠くなりそうじゃの。ならば……今ならできる方法を試してみるとしようぞ」
イナリは巨木にぴったりと体張り付け、意識を集中させる。植物の成長を制御するのと同じ要領で、この巨木の状態を感じ取るのだ。
そうすれば、壁を構成する巨木の一本一本の状態を知ることができる。幹の太さ、枝葉の広がり方、木の実やキノコの生り方は勿論、内側に空洞がある脆そうな幹の場所も手に取るように把握できる。
「ここか」
イナリは手の甲でこつこつと空洞がある木の幹を叩くと、その内側に生えている植物に向けて成長促進を発動し、内側から幹を食い破るように成長させる。
これで、あれほど堅牢に思われた巨木に容易に穴を開けることができた。豊穣神の力で生まれた問題を解決できるのは、豊穣神の力なのである。
「……しかし、とても豊穣神として誇れる行いではない気がするのじゃ。エリスよ、お主もそう思わぬか?」
その問いに答える者はなく、イナリはまたため息を零して巨木の壁を抜けた。
「我は今、どこに向かっているのじゃろうか」
イナリは迷っていた。
「太陽の位置からして、こっちか?いやしかし……ここは先ほど歩いた気がするのう」
己の未来を案じるとかではなく、普通に道に迷っていた。
端的に言えば、巨木の壁の外は凄まじい荒れ方をしていた。
あの頑丈な巨木を無理やり押し曲げたのだから当然と言えば当然なのだが、あらゆる植物が線のように伸びていたり、螺旋を描いていたりと、物理的にありえない挙動をしている。
なお、あまり見たくはないが、たまに巻き込まれて息絶えている魔物の姿もある。その中に人間の姿が無いのは幸いというべきか。
何にせよ、この地は今までの「魔境」の比ではない混沌とした様相であることには違いない。まだ歩ける場所が残されているのも、運が良かったという他ない。
そんな地形の中に立つイナリは、もう役に立たないとわかっている地図をぐるぐると回しては、辺りに手がかりとなる地形が無いか探し回る。
「ううむ、休憩に使った村に辿り着ければまだやりようもあるというに」
イナリが愚痴をこぼした直後、ふと視界の端に看板のような木片があることに気が付いた。イナリはそれを拾い上げ、軽く手で叩いて観察する。
「……この感じ、あの村で見た覚えがあるのう」
辺りをよく見ると、所々に柵や柱、調度品の破片のようなものが転がっていたり、石垣の一部が残っていたりするのが見受けられる。
ということは、今イナリが立っているこの場所が村の場所ということだ。ほぼほぼ勘頼りで歩いてきた道は間違っていなかったのだ。
「って、村が崩壊しておるではないか!?」
イナリは地図をぺしりと地面に叩きつけて叫んだ。
魔術師一人を追い詰めるために、想像の何倍もの地形を変貌させたという事実を、ここに来てようやく自覚した。これでは魔術師に化物呼ばわりされるのも当然である。
「ううぅ、もう手がかりが無いのじゃ……」
イナリは頭を抱えつつ、眠っているエリスの隣に寄りかかる形で座る。未だに増えたままの五本の尻尾がエリスの体に覆い被さると、心なしか彼女の表情が和らいだように見えた。
さて、理論上の話なら、真っすぐ歩いて行けばいつかは森を出られるはずだ。だがそれはいわゆる、言うは易く行うは難しというものだ。
このままエリスを連れ回すのは憚られるし、眠る彼女をどうにか起こして助言を求めたとて、迷惑なだけだろう。あるいは、誰か他の冒険者でも来てくれれば、そちらに助けを求めるという手もあるのだが。
「……そういえば、救援要請用のすくろーるがあった気がするのう」
すっかり頭から抜け落ちていた、ポーションや地図以外の道具の存在を思い出したイナリは、エリスの傍に置いていた鞄を漁り、巻物状のスクロールと魔石を取り出した。
「確か、これを広げて……魔石を当てるのじゃったか」
イナリがスクロールの中心部に魔石を触れさせた直後、魔石が光を発して粉々になり、スクロールに吸収された。
そして今度はスクロールに描かれた魔法陣が発光し、間もなく覗き込んでいたイナリの額を掠めて、赤い信号弾が三発空へ放たれた。
「あ、危なかったのじゃ……」
イナリは冷や汗を流しつつ、花火のようにぽんと弾ける信号弾を見て呟いた。
あと一歩間違えれば、この辺の地形と同じくらいイナリの顔面は大変なことになっていたに違いない。
そんな事故一歩手前の出来事もありつつ、その場で待つこと数分後。イナリの近くに見知った二人の人物が現れる。
「あ、イナリちゃん。それに……エリスさん!?大丈夫!?」
「救援信号を見て駆け付けた。状況は?」
それは、ウサギ獣人の錬金術師ハイドラと、エルフの冒険者スティレであった。
ハイドラは慌てた様子でエリスの容態を見始める傍ら、イナリはスティレの問いに答える。
「賊に襲われている時に魔王が暴れたおかげで大変な目に遭っておるのじゃ。して、お主らは何故こんなところに?」
「いつも通り、同志ハイドラと森を巡回していただけ。そしたら魔王が暴れ出して、救難信号が見えたから走ってきた」
「なるほどのう。いや、知り合いの方が安心できるのう。助かったのじゃ」
ここで見知らぬ冒険者が来ていたら、それはそれで困ることもあっただろう。顔見知りの二人に会うことができたのは僥倖というほかない。
「エリスさん、ちょっと熱が出てるみたい。何があったの?」
「エリスは花畑の毒素で弱っているところを催眠魔法でやられてしまっての……応急処置としてポーションは飲ませたのじゃが」
「初動としては十分だと思うけど……うーん、早めに街に運んで診てもらった方がいいね……」
ハイドラは鞄から水筒と清潔な布を取り出し、水で湿らせたものを畳んでエリスの額に乗せた。やはり、回復魔法やポーションで万事解決とはいかないらしい。
「……それと気になってたんだけど、イナリちゃんの尻尾は何で増えてるの?」
「それは私も思っていた。触りたい。触ってもいい?」
「エリスも最初はそんな風に言って我に迫ってきたのじゃ。同じ轍は踏まぬ」
「そんなスティレさんがヤバい人みたいな扱いしなくても」
「とにかく、今はこんなこと言っている場合ではないのじゃ!」
しれっと間接的にエリスを「ヤバい人」扱いしたハイドラのことはさておき、イナリは逸れかけていた話題の軌道を戻す。
「さあ、疾くエリスを連れて行くがよい!」
「貴方はどうするの?」
イナリがびしりと指を指して告げると、スティレが首を傾げた。
「我はまだやるべきことが残っている故な。お主らだけで街へ戻ってほしいのじゃ」
「えっ、でもイナリちゃんは?」
「我の勘が魔王はまだ暴れ足りないと告げておるからの。ちと社の様子を見に行きたいのじゃ」
「……わかった。スティレさん、行こう」
スティレと違い、ハイドラはイナリが魔王であることを理解している。すなわち、ここ一帯の惨状がイナリの手によって創り出されたことも理解しているはずだ。色々と聞きたいこともあるだろうに、イナリに配慮してくれているのだろう。
そんな背景を知らないスティレだけはやや不満げな表情で頷く。
「なんだか釈然としないけど、わかった。きっと森を守るために必要なんだよね」
「そういうことじゃ」
何がそういうことなのだろう、と思いつつイナリは頷いた。
「それじゃイナリちゃん、私達は街に戻るけど……気を付けてね!」
「うむ、お主らも気を付けるのじゃぞ。エリスのことも頼んだのじゃ」
ハイドラが体格に見合わない腕力でエリスを背負って歩き始め、スティレもそれに続く。イナリはその三人の後ろ姿が見えなくなるまで見届けた。
「さて、我も仕上げに……あれ、どっちに行けばよいのじゃったか……」
イナリは呆然と呟いた。エリスを託すことに意識が向いており、社の方角を聞きそびれてしまったのである。
「ま、待つのじゃ。ハイドラ、待つのじゃ~!」
イナリは慌ててハイドラ達が去っていった方角へ向けて走り始めた。




