410 催眠は叩いて治す
昨日、イナリが半ば強制的に冒険者ギルドの訓練場へ連れていかれていた時のこと。
「――イナリ、改めてお前の強みを教えてやる」
「む?そんなのわざわざ言われんでも自明じゃ」
「……何を言うかわかりきっているが、一応聞いておくか」
ディルの言葉に、イナリは胸を張り、最大限偉そうな姿勢をとる。
「ふふん。見よこの、見る者全てが畏怖するであろう、我から放たれるこの威――」
「違う」
「せめて最後まで言わせるのじゃ」
イナリのお決まりの言葉はそっけなく遮られてしまった。もう何度も同じようなやり取りをしているし、仕方がないことなのかもしれない。
「いいか。お前の強みは小さい、硬い、素早い。この三つだ」
「……言わんとすることはわかるが、もう少し言い方があるのではないか?」
指を三本立てて告げたディルに、イナリはため息交じりに返した。確かに間違ったことは言っていないのだが、周囲には少なからず他所の冒険者も居るのだし、もう少し外聞を気にしたほうがよいのではなかろうか。
「して?それがどうしたのじゃ」
「これはつまり、捨て身で相手に不意打ちをお見舞いしてやることができるってことだ。わかるか?」
「うむ。『爆弾を抱えて突っ込め』とか『お前が盾になれ』とかでなくてよかったのじゃ」
「俺を何だと思っているんだ」
心底安堵した様子を見せたイナリに、ディルがため息を零した。
「お前は貧弱だし、一見すれば無害な狐娘にしか見えん。だから、何もしなくても相手の油断を誘える。そこに不意打ちができれば、護身としては十分だろう」
「何だか、微妙に侮辱されている気がするのじゃ……」
「これは褒めているつもりだ。……お前を監獄に連れて行ったときのことは覚えているか?お前が俺の顔面を引っ叩いて逃げた時の話だ」
「そ、その時のことは、何じゃ、その……ちょっとは悪いと思うておるが」
色々と迷惑をかけたときのことを思い出し、イナリはふいと目を逸らしつつ謝った。しかしディルは、その言葉に首を振る。
「謝らなくていい。そもそもどうしてあんなことが起こったかわかるか?あれは、俺が油断していたからに他ならない」
「……つまり、お主のようにおっかない人間に効くということかや。ふむ、そう聞くと案外馬鹿にできぬな」
「そういうことだ。さあ、わかったら早速実践に入るぞ――」
エリスがとんでもない行動をとり始めた様子を目にしたイナリは、ディルに半日近くかけて叩き込まれた、相手の動きを阻むための体技を思い出す。あれを使えば、彼女の暴挙を止めることができるはずだ。
「――やめるのじゃ!」
イナリは全力でエリスの下半身に突撃する。そして僅かに姿勢を崩したところで、足を掬って押し倒すことに成功した。
「……イナリさん?何をしているんですか?」
「それはこっちの台詞じゃ!」
どこかぼんやりとした様子で問いかけてくるエリスに対し、イナリは吠えるように返した。
「あと、これも没収じゃ」
ついでに、何かの拍子にまた暴挙に出られないよう、彼女の手に握られた槍を奪って遠くへ放り投げた。それは放物線を描き、手が届かない程度に離れた場所にぼとりと落下する。槍は結界で作られているせいもあってか、イナリでも扱えそうだと思えるほどに軽かった。
それにしても、イナリに技を仕込んだディルも、それがこんな形で役に立つことになるとは予想していなかったに違いない。彼が常日頃訴えている鍛錬の重要さをまさかこんな形で理解することになるとは。
「エリスよ。お主、あんな男にいいように操られて悔しくないのかや!」
「あ、操られて?……ええと、私は確か、イナリさんに命の大切さを教えようとして……」
「そんな馬鹿な話があるか」
「あいたっ!?」
あまりに頓珍漢な応答に、イナリは衝動的にエリスの頭を小突いた。
今回も拷問の命令が「お仕置き」の名目にすり替えられていたように、自殺の命令が「教育」にすり替えられていたようだ。魔術師も狙ってこれをしているのだとすれば、悪趣味などという言葉では到底片付けられない悪辣さである。
「すみません、イナリさん。私、どうかしていたみたいです……」
「うむ。治ったようで何よりじゃ」
「チッ。やはり、完全には効いていなかったか」
イナリの言葉に頷いたエリスはおもむろに体を起こし、若干よろけながら立ち上がる。その様子に魔術師は苛立っているようだ。
「ふふん、エリスが正気に戻ればこちらのもの。形成逆転じゃ」
「そうですね。さっさとこの男を――」
「神官、『貴様には生きる価値がない。自決しろ』」
「――倒そうと思ったんですけど……本当に死んだ方がいいのって、実は私なんじゃないですか……?」
「え、エリス!?」
腰に手を当てて勝利宣言をしていたイナリはまた声を上げる。逆転した形成は、わずか数秒にして元通りになってしまった。
イナリはエリスが妙な行動を起こし始める前に、傍に駆け寄る。
「しっかりするのじゃ、考えすぎじゃぞ!」
「本当ですか?」
「本当じゃ!お主が居なくなったら、我は悲しいのじゃ」
イナリは、卑屈な事を言いながらまた手に槍を生み出したエリスの背を叩き、おまけに尻尾で彼女の足を温めつつ励ました。催眠を解くためとはいえ、冷静に考えると一体何をしているのかと思わずにはいられない。ここは冷静になったら負けである。
「憂鬱で仕方ありませんが、イナリさんが私を求める限りは生き続けないといけませんね……」
「そうじゃ。……ううむ、先より気分が悪そうじゃな」
一応催眠に抗えているはずなのだが、精神的な負荷がかかっているのだろう。エリスの顔色は優れない様子だし、戦力として期待するのは厳しそうである。
「まだ足りないか。『自決しろ』!『消えろ』、『死ね』!」
「お主もお主で、もう少し捻りとか、矜持はないのかや?」
子供の罵倒のようにエリスに向けて催眠魔法を行使する魔術師の姿に、イナリは呆れて呟いた。やや掠れた渋い声なせいも相まって、何とも言えない空気感を醸している。
「代償だか何だか知らぬが、こやつは万策尽きたようじゃ。さっさと――エリス?」
イナリが声を掛けた直後、エリスは頭を押さえながらどさりと花々の上に倒れた。
「なっ、ど、どうしたのじゃ!エリスよ、起きるのじゃ!」
「くくく、実に滑稽だ。俺が何も考えずに、ただ喚いていると思っていたのか」
イナリがエリスの身体を揺さぶって声を掛けていると、魔術師が嘲笑いながら歩み寄ってくる。
「催眠魔法は、脳に負荷がかかる。何度も行使すれば、この通りだ」
「貴様、なんという事を……!」
「どうした。悔しいなら、何かしてみたらどうだ」
魔術師の男は両手を広げ、睨みつけていたイナリを挑発する。
「何もできないだろう?貴様は神官に依存しているからな」
「ち、違うのじゃっ!」
イナリは風刃を魔術師へ向けて飛ばした。しかし発動までの溜めを見切られたのか、あっさりと避けられてしまった。
「くっ……」
「魔法、ではないな?興味深い手品だが……魔核片を取り込んでいてこれか?代償を払わずに済むのも納得の貧弱さだ」
イナリは歯ぎしりした。風刃は使いすぎると体力を失い、自分の首すら絞めることになる。短剣を使うには距離が開きすぎているし、ブラストブルーベリー爆弾はエリスを巻き込みかねない。人間社会に生きるイナリが切れる手札は、あまりにも少なかった。
――だが、神としてならどうだろうか?
「安心しろ。貴様は、研究材料としての価値がある。あの男には渡さん。代わりにこの神官をあの男に回そう。貴様の身代わりになれるのだ、きっと本望――待て、何だこの力は……!?」
今後について思案していた魔術師は、突如として辺りの空気が変わり、草木や花々が目に見えて大きくなり始めたことに驚愕する。一方、イナリは冷静に、おもむろに立ち上がりながら答える。
「これが貴様が見たかった力じゃ。全く、人の世に配慮するこの我の苦心も知らずに、随分と馬鹿にしてくれたのう。どうじゃ、我の力を見ることができて、満足したかや?」
「何だこれは?魔核片どころではない。これはむしろ、魔王そのもの……!貴様、何をした!」
魔術師の視線の先には、尻尾を五本に増やしたイナリの姿があった。
「答えは身をもって理解するがよい。それよりも、寛容な我にも限界はある故な。我の大事な者を傷つけた貴様には、ちとばかしお灸を据えてやろう」
イナリが手を前に掲げた直後、辺りの草花が一斉に魔術師に群がった。




