405 花畑へ
イナリとエリスは花畑の最寄りにある村の跡地に到着した。
「結構歩きましたし、一度休憩しましょうか」
「休めるならありがたいが、そんな悠長なことをしていてよいのじゃろか」
「花畑で準備を整えているのなら、わざわざこちらに来る可能性も低いでしょう。あるとしても、遠目に様子を窺ってくるだけだと思いますよ」
「それはそれであまり気分がよいものではないが」
「同意見です。まだ入っても大丈夫そうな建物で休むことにしましょう」
エリスは周囲を軽く見回し、比較的損壊が少ない小屋へイナリを誘導した。壁や窓のヒビや絡みついた蔦や苔を見るとまるで遺跡のような様相だが、机や椅子、そこに残された小道具を見れば、確かに数か月前にはここで人が暮らしていたことがわかる。
イナリは小さな杯を手に取り、埃を軽く手で払う。
「ううむ……」
「どうかしましたか?」
「ここで暮らしていたであろう者に思いを馳せていたところじゃ。以前、そう気にせずともよいと結論付けたとはいえ、やはり完全に切り捨ててしまうことはできぬ」
イナリは手に取っていた杯を元あった場所に戻し、椅子に被っている砂埃を軽く払って腰掛ける。
「この森を生んでしまった以上、調和が崩れたのであれば我が是正せねばならぬ。そうすればきっと、この地で暮らしていた者もやがて恵みを享受でき、この地への手向けともなるであろう。……なんて、こんな高尚な事、はじめから考えていたわけではないのじゃが」
「私はいいと思いますよ。動機は具体的なほうがやる気も出てくるでしょうし、理由が一つでないといけないなんて決まりはありませんから」
エリスは椅子に座っていたイナリを抱え上げ、膝の上に乗せて座り直した。
「そうじゃの。今日で長々続いた我の社の問題も、森の問題もまとめて解決するのじゃ。忙しくなるであろうが、着いてきてくれるかの?」
「勿論、どこまでも着いて行きますよ。あ、でも無茶はいけませんよ」
「わかっておる、と言いたいところじゃが……この期に及んで無茶も何もないのでは?」
この地にイナリとエリスの二人だけで来るということは、半ば強引に押し通す形で決定したことである。必要なこととは言えど、既に十分危ない橋を渡っていると言えよう。
「こ、これ以上無茶はさせませんから」
そんなイナリの指摘に、エリスはふいと視線を反らして返した。
「――しかし、不思議ですね」
イナリが軽食の硬いパンを齧っていると、窓から外を眺めていたエリスが声を上げた。
「何がじゃ」
「どうして向こうは花畑を指定してきたのでしょう。私達を襲撃するなら、この村でよかったと思いませんか?」
「確かにそんな気もするのう。こうして休んでいる我らの不意を打とうとしているとか?」
「少なくとも、広域結界にそれらしい反応は無いですね」
エリスの言葉に、イナリはしばし考えてから声を上げる。
「……なら、向こうもそこまで深く考えておらんのじゃろ。杜撰な手口に散々振り回されたのは、今に始まった話でもあるまい」
「催眠魔法が使える魔術師まで抱えているのに、ですか? どうにも、そんなに程度の低い相手とは思えなくなってきたのですが……」
「お主がそう思うということは、そうなのじゃろうな」
この世界において催眠魔法を使えることがどの程度すごいことなのか、イナリは知らない。故に、大人しくエリスの言葉に追従することにした。
「イナリさんの勘は何も感じませんか」
「特に何もじゃ。確かに我の勘はよく当たると評判じゃが、予知能力ではない故な」
「そうですか。うーん……」
イナリの返事に、エリスはイナリの尻尾を揉みながら唸った。
「何だか気持ち悪くはありますが、警戒しておく以上のことはできそうにありませんね。改めてこの後の動きを確認しましょう――」
エリスは居住まいを正して仕切り直す。
「まず、花畑まで不可視術は発動しません。イナリさんと魔王疑惑のある怪物が一緒に森を闊歩している状況を見られるのは、やはりよくないので」
「それはそうじゃな」
ただでさえスティレに不可視術を使ったエリスの姿を見られ、魔王と勘違いされているところである。これ以上事態がややこしくなるのはイナリとしても避けたいところであった。
「しかしそうすると、術を発動する時機はどうするつもりじゃ」
「そこはこちらの、昔、リズさんがディルさんに意見を聞いて開発したという煙玉の出番です。名前は……『ノーム君』、だった気がします」
「何じゃそれは」
エリスが腰に提げていた鞄から突如現れた間抜けな呼称のついた謎の白い球体に、イナリは素で声を上げた。大きさにして小ぶりのスイカくらいだろうか、少なくともエリスの鞄の容量の半分くらいは占めていたように見える。
「破裂させると広範囲に煙……というか、霧が出るそうです。曰く、効果が強すぎて周りが何にも見えなくなるから使いものにならないと、お蔵入りしたとか」
「それが、今回の我らにとっては実に都合がいいわけか」
イナリの言葉にエリスが頷く。とてもこのスイカがそんな凄まじい兵器には見えないが、あのリズが使い物にならないと言うほどだ。実質的には太鼓判と言ってもいいだろう。
「というわけで、これを使えばいつでも不可視術を使えます。向こうに着いたら、時間を稼ぐために、できる限りは花を採りに来た冒険者として振舞うつもりですが……相手が仕掛けて来たと判断したら、すぐに煙玉を使います。何かあってからでは遅いですからね」
「わかったのじゃ」
イナリは頷くと、パンの最後の一口を口に放り込んだ。硬くて口の中からゴリゴリと音が鳴っている。
「……では、そろそろ行きましょうか。今は大丈夫そうですが、ここから先は、行動や会話は全て見られていると思っておきましょう」
イナリの食事が終わったと見たエリスは、イナリを膝の上から下ろし、小屋の戸に手を掛けた。
「――到着じゃ」
イナリ達は色とりどりの花々が広がる空間へと到着した。いくつもの花々の香りが混ざり合い、イナリ達を包んでいる。
「中々に独特な香りがしますね。イナリさんはこの匂い、辛くないですか?」
「ふふん、草木と共に生きてきた我じゃぞ?この手の香りには慣れたものじゃ。……まあ、ちと混ざりすぎて、心地よいものとは言えぬが。お主は大丈夫かの?」
「今は大丈夫ですが、ずっと居ると気分がおかしくなりそうです。あまり長居はしたくないですね」
エリスはそう言うと、懐から布を取り出し、口元を覆うように巻いた。
――もしかしたら、相手の狙いはこの香りで集中力を削ぐことだったのかもしれませんね。
エリスが神託を使って補足した。
イナリはその言葉に納得しつつ、近くの地面にしゃがんで花々を観察する。
「この辺の花の中に、危険なものはあるかの?」
「一見すると無害なものが多そうですが……珍しい種は私もわかりません。わからない物には触れないのが賢明でしょう」
「触らぬ神になんとやら、じゃな」
まあ神は我なのじゃが、と心中で付け足しつつ、イナリは花々を一瞥した。
……いつかの「虹色の悪魔」よろしく、有毒な植物は、案外食べてみると美味しかったりすることがある。良さそうなものがあったら、少し蜜を吸ってみるくらいなら許されないだろうかと、イナリの探求心が疼いている。
悲しきかな、たった数秒前のエリスの言葉は、毒が効かないイナリには全く響いていなかった。
「一応釘を刺しておきますが、間違っても口にしてみようとか、変な事は考えないでくださいね?」
「何のことかの?我、そんなこと、ちっとも考えていないのじゃ!」
「棒読みじゃないですか」
白々しく笑みを浮かべたイナリに、エリスはジトリとした目を向けた。
本日で本作連載開始から3周年となりました!
今後ともどうぞよろしくお願いいたします!




