404 催眠耐性
「――イナリさんって、催眠に対する耐性はあるんですか?」
作戦決行の日の朝方。イナリが寝室で荷物をまとめて準備を進めていると、エリスが問いかけてくる。その唐突さにイナリがきょとんとしていると、リズがイナリを庇うように両手を広げてエリスの前に立つ。
「エリス姉さん、イナリちゃんに催眠をかけようとするのは、流石にどうかと思うな……」
「ち、違いますよ!私の事を何だと思ってるんですか!?」
「じゃ、じゃあ、どういうつもりなのさ……?」
「そもそも私が何か企んでいる前提みたいな聞き方は止めてください」
恐る恐るといった様子で問いかけるリズに、エリスは真顔で返した。
「ええと、今回の相手は催眠魔法の使い手がいると聞いたんです。私は大丈夫ですけど、イナリさんはどうなのかと思った次第で。イナリさんって毒や怪我には強いですけど、精神的な攻撃に強いかはまだわからないですよね?」
「ふむ、確かに一理ある」
「催眠魔法、久々に聞いたね」
イナリが腕を組んで案の定というべきか、魔法が絡んだ話題にリズは食いついた。折角なので、イナリはこの機会に軽く魔法の性質について尋ねてみることにした。
「そも、催眠魔法とは何じゃろか。昨日は熊の魔物を眠らせる様子を見たが、対象を眠らせる魔法という理解でよいのかの?」
「原義的には間違ってないよ。あとは、感覚とか精神に暗示を刷り込む魔法も含むことが多いかな?……痛みを感じないとか、怖いものを怖いと思わなくするとか」
「歴史を紐解くと、戦争のために兵士の痛覚を麻痺させて死ぬまで戦える兵隊を作った国の話が有名ですね。禁忌の一つとして語り継がれています」
「おお、人間の愚かなところをまた一つ知ってしまったのじゃ」
エリスの補足に、イナリはわかりやすく嘆いた。
「ともかく、性質は理解したのじゃ。では、耐性というのは何じゃ?」
「催眠魔法は、対象が催眠を受け入れる場合を除いて、意思が強いほど掛かりにくいの。要するに耐性って言うのは、意思の強さと思ってもらえればいいかな」
「例えば神官は神への信仰心という軸がありますから、催眠が効くことはそうそうないんです。どころか、催眠を解除するための聖魔法もあります。もちろん私も使えますよ」
「なるほど、神官の存在があるから、今の社会が催眠塗れにならずに済んでおるわけじゃ」
「エリス姉さんの場合、イナリちゃんに対する信仰心な気がするけどね」
「そうですね」
「今のは否定しないとダメなんじゃない?」
神官にあるまじき返事を即座に返したエリスに対し、リズは複雑な表情で呟いた。なお、イナリとしては満点の回答である。
「しかし、それなら我も耐性はありそうじゃ。我、神じゃぞ?我の意思は盤石じゃ」
「……いや、何というか……エリス姉さん、言ってもいい?」
「そうですね……」
「何じゃ、言いたいことがあるならはっきり言うのじゃ」
「ええと、言い換えるとね……催眠魔法って、チョロい人ほど掛かりやすいの」
「…………それは、何じゃ。我が、御しやすいと?」
イナリの言葉に、二人に代わって沈黙が答えた。微妙な空気が部屋を支配すること十数秒、エリスは意を決したように声を上げる。
「やはり、物は試しと言います。実験……そう、実験として、あくまでお試しで、イナリさんに軽めの催眠を掛けてみませんか?例えば、イナリさんの私に対する気持ちが抑えられなくなるとか、どうですか?リズさんならできませんか?リズさん、実験とかお好きでしたよね?ね?」
「さっき言った言葉をもう一回言うね。イナリちゃんに催眠をかけようとするのは、流石にどうかと思うな」
「仮に術に掛かったとして、その我の行動は全て仮初に過ぎぬぞ。お主はそれでよいのか?」
「じょ、冗談ですよ。あはは……」
二人分の冷ややかな視線を向けられた神官は引き攣った笑みを浮かべた。その表情には僅かに残念さが見えたが、きっと気のせいである。
結局、イナリの催眠耐性に関する議論は棚上げして、イナリ達は早速魔の森へと繰り出すことになった。
今回の作戦は表向き、花畑での採取と魔の森での道整備という独立した依頼である。故に、事前に大々的に作戦会議を開いたりはしない。不法者がイナリ達の方に意識を割いているうちに店主らが脱走するのは、全て偶然が重なった結果なのである。
「それはそうと、皆、最後まで我らのことを心配しておったのう」
「そうですね。強引に押し通した以上、無事に帰らないといけません」
「そうじゃのう。じゃが、やはり何か起こるとも思えないのが正直なところじゃ」
これからイナリは、いつかのニエ村の時よろしく、不可視術により怪物状態となったエリスを不法者たちのもとへけしかけるつもりだ。今回の依頼を二人で受けることにした理由は全てここに詰まっている。
だからこそ、向こうがイナリに手を出す前に、発狂してそれどころではないだろうとイナリは踏んでいた。催眠魔法の云々を棚上げしたのもそのためである。
「何事も絶対は無いですから、気を引き締めて行きましょう」
ぼやいたイナリをエリスがやんわりと諫め、仕切り直すようにイナリに向き直る。
「最終確認です。イナリさん、装備に不備はありますか?」
「問題無しじゃ」
イナリは腰に提げた短剣と、懐に仕込んだブラストブルーベリー爆弾を手で確かめた。イナリにとっての定番装備である。
「消耗品は足りていますか?」
「ポーションも、すくろーるもあるのじゃ。お主に何かあった時は我に任せるがよい!」
「ふふ、何事も無いのが一番ですが、その時は頼りにしていますね」
イナリが胸を張って告げると、エリスは微笑みながら頭に手を置いた。
なお、魔力がないイナリは普通の方法では、通常の魔術スクロールを発動することはできない。イナリが所持しているスクロールは特殊な代物で、魔石を近づけると自動で発動するようになっている。
曰く、魔力が少ない者向けに考案されたものらしく、冒険者が使うことは滅多にないらしい。どうにも、魔物から採取した魔石が荷物の中で触れ合うと大変なことになるのだとか。
冒険者としてはかなり致命的だが、魔物狩りを生業としないイナリには関係ない話である。
閑話休題。引き続きエリスによる確認は続く。
「目的地までのルートは把握していますか?」
「るうと……あ、行き方のことじゃな?昨日下見したし、地図もあるからばっちりじゃ」
「それはよかったです。私も間違えることはありますから、もしも方角を間違えていそうな時は教えてくださいね」
「うむ」
普段はエリスに着いて行くだけでよかったが、今回は二人で協力して依頼をこなすのだ。イナリも一冒険者として振る舞わねばならない。……まあ、その実態は全うな依頼とは程遠いが。
「最後に、昨日のディルさんのことはどう思いますか?」
「絶対に許さぬ」
「事が済んだら、然るべき場所に届け出ましょうね」
爽やかな笑みを浮かべたイナリとエリスは、物騒な言葉と共に頷きあい、花畑へ向けて歩を進めた。




