403 下準備(下)
「おおい、ディルよ。我じゃ。戻ったのじゃ」
イナリは森の中を歩き、羅針盤の動きからしてディルが近くに居る場所まで辿り着いた。そこで不可視術を解除し、近くにいるであろう人物に向けて大きすぎない声で呼びかけた。
「――早かったな」
「ひょわ!?」
直後、イナリの目の前の木の上からディルが飛び降りてくる。あまりに静かな登場に、イナリは驚いて尻もちをついた。
「お、お主か。全く、驚かせるでないのじゃ……」
「大丈夫か?」
「うむ」
イナリはディルが差し出してきた手を掴み、引っ張り上げられる。
「で、この後は花畑とやらに行くんだったな。時間的には問題なさそうだが……どこに行くんだ?」
「これを見ればわかるはずじゃ。我は知らぬが、少なくともエリスはそう判断しておる」
「そんないい加減な――」
ディルはそう疑問を呈しつつ、イナリが取り出したしわしわの紙切れを受け取って広げる。……蛇の化物が描かれた、それを。
「……エリスは、本当にこれを見て行けると思ったのか?」
「すまぬ、こっちだったのじゃ」
イナリは何事もなかったかのように,、ディルが持っていた紙を正しい地図と差し替えた。
「……その前衛的な化物の絵は何だったんだ」
「ゴミじゃ」
「――これ以上は近づかない方がいいな」
「うむ、同意見じゃ」
茂みから顔を覗かせ、盗賊と狐娘が頷きあう。
再びディルに背負われ、時々迷いつつも何とか辿り着いた花畑には、数十名の人間の姿があった。一見すると冒険者と思えなくもないが、襲ってきたであろう魔物を放置して周辺の地形を丹念に調べている辺り、ここへ来たイナリを襲うための算段を立てていることが伺える。
「しかし、随分とお誂え向きな場所じゃのう」
花畑というだけあって、森の中の割には視界が開けている。とはいえ、それなりに背の高い草花も決して少なくないし、丘のようになっている場所や窪んだ場所もあるので、身を隠す場所には困らない。
この手の知識が皆無のイナリが遠目に見ただけでそう思える程度には、この花畑は襲撃するのに適した場所であった。
「もしかしたら魔術で弄ったりしているのかもな」
「なるほどのう……」
イナリはグラヴェルの事を思い出して返した。そういえば彼は、地面に穴を作ったり、地形を整えることにかけては凄まじい能力を持っていた記憶がある。
「あと、お主みたいな、いかにも盗賊風の面構えの奴ばかりではないか?」
「本当だな。案外意気投合するかもしれないし、声を掛けてみるか」
「そ、それは冗談にしても笑えぬぞ!?」
イナリはディルの肩を掴み、おもむろに立ち上がろうとしたところを引き留めた。その直後、イナリははたと気付く。
「む、獣人も居るようじゃの。そういえばそんなこと、言っておったのう……」
イナリは己が「リンネ」として振舞っていた時の一幕を思い出して呟く。あの時はただの方便かと思っていたが、本当に獣人がいたとは意外である。尤も、いわゆる「濃い」獣人だし、イナリと気が合う可能性は極めて低いだろうけれども。
そんなことを考えていて、ふと気づいたイナリが両手で口を押える。
「はっ!こ、これ、我らの声が向こうに聞こえてたりはせんじゃろうな?」
「向こうが風上だし今のところは大丈夫そうだが……警戒はしておいた方がいいな。ちなみに、お前は何か聞こえるか?」
ディルの言葉に、イナリは耳をぴんと立てて聞こえる音に意識を傾ける。
「んんん……辛うじて何か話していることはわかるが、それ以上の事は何もわからんのう。……む、あれは魔物ではないか?」
イナリが指さした先では、黒い体毛に身を包んだ、イナリを丸のみできそうな巨体の熊がのそのそと現れる。それは花畑で活動していた人々の姿を認めると、立ち上がって威嚇を始める。
「フォレストベアだな。冬眠直前のものかもしれない」
「つまり危険ということじゃな。お手並み拝見といこうではないか」
イナリは彼らが魔物にどう対処するかで、相手の手の内がわかるはずだ。あるいは、少し数が減ることになっても、それはそれで一向に構わない。
そんなやや腹黒い狙いもありつつ、イナリは花畑の様子を観察する。
まず熊が突進を始めると、一番近い位置に居る者が盾を構え、熊の突進をいなすように立ち回る。その傍ら、魔術師が杖を構え、間もなく熊の周りに紫色のモヤのようなものが発生し、包み込むように纏わりつく。
すると、熊の動きが次第に鈍くなり、間もなく花畑に倒れ伏した。そこに他の者が寄ってたかって止めを刺しに行っているが……これ以上は見なくてもいいだろう。
「な、何じゃ、今のは……?」
随分とあっけないフォレストベアの幕切れに、イナリは困惑の声を上げる。
「催眠系か、弱体化系の魔法か?連中、ただの寄せ集めってわけじゃないらしいな……」
「催眠に弱体化……あまり良い響きではないのう」
「ああ。俺も詳しくはねえが、ごく限られたものを除いて、基本的に禁術の類だったはずだ」
「さもありなん、じゃな」
「最悪、手配書が出回っている奴もいる可能性もある。とにかく向こうが手練れとわかっただけでも十分だ。今は引き上げるぞ」
「もう少し調べたい気もするが、仕方あるまいな」
イナリは頷くと、再びディルの背に括りつけられてその場を去った。
「して、対策には何をすればよいのじゃろうな」
「まず、作戦の見直しは絶対だ」
背中で揺られるイナリの言葉にディルが即答する。
「見直し?今更引き返すつもりは毛頭ないのじゃ」
「根っこから全部変えろってわけじゃない。ただ、計画をもう一度最初から確認して、調整したほうがいいところを見つけたりするんだ」
「ふむ」
「ちなみに今でも俺は、お前とエリスの二人で出向くのは今からでも考え直した方がいいと思っている。……お前らが二人じゃないと駄目だの一点張りだから、仕方なく折れただけでな」
「我は秘密が多いのじゃ、仕方あるまい」
「それは今までで散々、身をもって理解したさ」
明日の作戦において、イナリ達が花畑へ向かっている間、エリックやディル、リズは店主を始めとした民間人の救出をする手筈になっている。
明日イナリとエリスがすることを知らない彼にとっては、それは心配でしかないのだろう。これは仕方のないことである。
「ま、ここに関しては確かな理由がある故、気にせずともよい。して、他には?」
「戦闘になった時を見越してポーションは揃えておいた方がいいな。パーティハウスにいくつか用意はあるはずだが、一応見ておいた方がいい。後は、護身用の攻撃魔法スクロールも必要だな」
「待つのじゃ。エリスは回復術が使えるのじゃから、ポーションは不要ではないかや?」
「いや、必要だ。お前だけしか動けない状況になったら、エリスを助けるのはお前の仕事だからな」
「……確かに、そうか」
ディルの言葉に、イナリは己の認識を改めた。イナリは神であり、その体質上、大体のことは痛いだけで済む。しかしエリスは人間であり、怪我もするし、それが命に関わることだって大いにあり得る。
イナリはこの、単純ながら極めて重要な視点が抜け落ちていたことに愕然とした。
「それを抜きにしても、手札は多い方がいい。例えば、自分の背中で酔って吐きそうなやつがいたら、酔い止めを渡せたほうが嬉しいだろ?そういうことさ。……おい、聞いてるか?」
「うん?うむ……」
ディルの冗談に対し、イナリは上の空で返した。
「ああそれと、ああいった手合いに襲われたときの対処法も軽く教えてやろう。後で冒険者ギルドの訓練所に行くぞ」
「うむ……うん?」
脳内でぐるぐると思考を巡らせていたイナリは、何かとんでもない過ちを犯したことに気がついて我に返った。しかし、返事を返してしまった今、もう時すでに遅しであった。
この後、イナリは街で準備を終わらせるや否や、ディルからの手ほどきを受けることになった。
その地獄は、教会での業務が終わったエリスが迎えに来るまで続いた。




