402 下準備(中)
かくして、無事エリックに手紙をしたためてもらったイナリは、リズや作業をしていた冒険者に激励の言葉を残し、さらに魔の森の奥へと足を踏み入れる。
「――我の社の近くまで着いたら降ろすがよい」
「ああ、元からそのつもりだ。それより――」
先ほどまでと違い、二人が歩いている道は整備されていない獣道である。……厳密に言うなら、イナリはまた括りつけられて運ばれているので、歩いているのはディルだけだが。
「お前、さっきから俺の後ろで何をしてるんだ?」
「む?」
ディルが問いかけた直後、イナリの手から青い実が零れ落ちる。
「もののついでじゃから、適当にテルミットペッパーの種を撒いておるだけじゃが?」
「『だけじゃが?』じゃないが」
イナリからすればもはや慣れた行為の一つでしかないのだが、ディルから言わせてみれば、自分が歩いた場所に着火剤を撒かれているのとほぼ同義である。
「仕方なかろ、これは必要なことじゃ。お主も知らぬわけではあるまい?」
「そりゃそうなんだが……まさに俺の後ろで魔の森の危険度を上げる行いがされていると思うとな」
「何を今更。我が居る限り、この森は成長し続けておるのじゃぞ?こんなもの、誤差じゃ、誤差。それに、ブラストブルーベリーでないだけマシと思うてほしいものじゃ」
「もしそうだったら、俺はお前を地面に叩きつけていたかもしれん」
イナリの言葉に、ディルは暴言ともとれる返事を返した。
「……お主、最近の我への態度と言い、我が何者か忘れておるのではないか?ここは一度、我が本領発揮するところを見せたほうがよいかの?」
イナリはくつくつと笑いながら告げた。
そう、ディルの背に括りつけられているのは、ただの可憐な狐娘ではなく、人々に恵みをもたらす存在であり、何かの間違いで魔王となってしまった豊穣神なのだ。
そんな存在の言葉に対し、ディルは僅かに間を置いて返事を返す。
「となると、また生まれるだろう魔物やら何やらから逃げ回るために、お前を振り回さないといけなくなるわけか」
「んな!?……は、はは、まさか本気にしておるのか?全く、ちょっとした冗談じゃろ?」
トレントから逃げ回ったあの時を思い出したイナリは、一転して誤魔化すような笑みを浮かべ、てしてしとディルを叩いた。
悲しきかな、その様子は一見してただの狐娘のそれであった。
「おっと、そんなことを言っていたら前方に魔物だ。舌を嚙まないようにしろよ」
「む?ちょ待――」
直後、イナリの視界に映る世界が文字通りひっくり返った。
「全く、ひどい目に遭ったのじゃ……おええ……」
ここは「世界庭園創造会」が活動する領域の中。目的地に到着したことでようやく縄を解かれたイナリは、地面に力なく座り込んだ。
「今回も何も追われなくてよかったじゃないか」
「追われなかったけども、追われなかったけども……!」
イナリは他人事のように告げるディルの言葉に内心腹を立てつつ、食用に携帯していたブラストブルーベリーを口に放り込み、酔いを醒ました。今後、軽い気持ちでディルに己を運ぶ任を与えるのはやめよう、そう心に誓った。
「それより、この後の予定もあるんだろ?さっさと手紙を届けてくるといい。ああ、これも持っておけ」
ディルはそう言って、イナリに小さな円盤を投げ渡してくる。イナリはそれを慌てつつ両手で受け止めた。
「わっとと……ふむ、羅針盤か?」
「そうだ、俺が持っている魔力発信機を指し示すようになっている。いつもエリスがお前に持たせている奴と同じだな」
ディルが懐から魔力発信機を取り出してイナリに見せる。
その言葉を聞いたイナリが羅針盤を手にディルの周りをぐるりと回ってみると、確かに彼の手にある魔力発信機を指している。
「なるほどのう。……エリスが我に持たせているのはこういうものなのじゃな……」
つまり今、この世界には常にイナリの居場所を追いかけている針がいくつかあるということだ。今までは特に抵抗なく受け入れていたが、改めて考えてみると、ちょっと怖いかもしれない。
「俺はここで待っているから、それを頼りに合流してくれ」
「わかったのじゃ。一応じゃが、誰かに見つかったりせんようにの」
「当然だ。盗賊としての腕を舐めてもらったら困る」
「盗賊の何たるかを知らん我に言われても困るが……まあよい、すぐ戻るのじゃ」
イナリは茂みに隠れて不可視術を発動し、ディルを使って己の不可視術が発動していることを確かめてから、森の中を歩き始めた。最近の不可視術はエリスが化物になるだけの能力になりがちだっただけに、極めて全うな運用がされているのは一周回って奇妙な感覚である。
「さて、どこに行ったものか」
幸いというべきかは何とも言えないが、イナリの社周辺は誰かが拓いたであろう道があちこちにある。そこを辿っていけば簡単に社や周辺の建物へ向かうことができるので、場所かわからず迷子なんてオチにはならずに済む。
それよりも、店主に手紙を届ける上で適切な場所を考えないといけない。店主以外の人間に手紙が渡ってしまうと、内容が上手く伝わらなかったり、最悪握りつぶされてしまう可能性もあるからだ。
「とりあえず、主要な場所を見て回るとするかのう?」
前回は同行者がいたために行動範囲が限られていたが、今回は気の赴くままに動くことができる。ここは一つ、ついでに社の様子でも拝んでみるとしよう。
「うわ……」
己の社に到着したイナリの第一声である。
丹精込めて建てた、洗練された意匠の社や鳥居は、情緒の欠片も感じられない謎の装飾で飾り立てられ、ごちゃごちゃとした様相を呈していた。
例えるなら、片付けを忘れた夏祭りの後のような様相とでも言おうか。
それに、以前ハイドラやリズと共にここに来た時に見つけた「供物入れ」の周辺も凄まじい。あれから信者が供物を沢山用意したのか、箱から溢れて混沌とした様相を呈している。
「全く、多ければ良いというわけでもないのじゃぞ。少しは整頓したら――うん?」
変わり果てた社の姿に呆れつつ文句を零していると、ぞろぞろとここで暮らしているであろう人々が連れ立って歩いてきた。いかにも信者と言った様相の者と、ただの民間人と思しきものが半々といったところか。
彼らはイナリが設置した石の前に整列すると、跪いて祈りの姿勢を取り始めた。所作が整った者も居れば、周囲の様子を見つつ形だけ倣っているような者も居る。
「我らが神よ、本日も我らをお守り下さり、大変感謝いたします」
「……何が始まったんじゃ、これ」
イナリは困惑した。ちょうど自身が石のすぐそばに立っていたため、一瞬自分が崇められているのかと勘違いしかけたほどである。
「――今日も神はこの地に根付く悪しき魔王を鎮め、恵みをお与え下さっている。我らはその恵みをもって繁栄し、報いることを誓いましょう」
「ふーむ……?」
司祭は引き続き長々と講釈を垂れているが、要約すると、「土地神」はこの地の魔王の力を抑制していて、信者たる彼らは供物を捧げてそれを助けている、という感じだろう。
イナリは事前に魔王信仰者と聞いていたこともあり、てっきりもっと露骨に「魔王様万歳!」的なことをやっているものと思っていた。
しかしこの現場を見た限り、思っていたよりも理性的というか、それらしい理屈が用意されていそうである。これがフルーティの言うところの「上手くやっている」ということだろうか。
「こやつら、魔王も土地神も正体が同じ者と知ったら、どうなるじゃろうなあ……」
イナリは供物入れに腰掛け、そこにあった木の実を一つ口に運びつつぼやいた。土地神のものはイナリのものなので、咎められる謂れはない。
それはそうと、この信仰心は本来イナリに向けられるべきものだったのではなかろうか。そう思うと何だか癪だが、こんな訳のわからない連中に崇められても迷惑ではある。実に複雑な気分だ。
そんなことを考えながらイナリが司祭の言葉を聞き流しつつ、木の実を半分くらい齧り終えたところで、祈っている人々の中に店主の姿があることに気が付いた。
「おお、手間が省けたのじゃ。全く、店主もこんなのに付き合わされて可哀想じゃのう」
イナリは木の実を嚥下し、もう一つ、今度は小さめの木の実を掴むと、供物入れからぴょんと降りた。そして、律儀に祈りの姿勢を取っている店主の服に、手紙と一緒に木の実を捻じ込んだ。これで確実に手紙の存在に気が付くはずである。
「さて、あとはお主次第じゃ。うまく行くことを祈っておるぞ」
イナリは一方的に店主に激励の言葉を贈ると、両腕を上に伸ばしながらディルの居るところへ戻ることにした。




