397 事案
結局、イナリ達はフィックルを寝室に運び、書き置きを残して撤収した。後日、時間があるときに詫びと様子見も兼ねてまた訪れることにしよう。
ちなみに、例の絵の処分方法については色々と悩んだ末、天界にあるイナリの自室に放り込んでおくことにした。多分、二度と日の目を浴びることは無い。
というわけで、翌日。
多少精神的ダメージを負ったりもしたが、一日休んで元気になったイナリは、今日も今日とてエリスを率いて冒険者ギルドへと赴く。
そして、冒険者ギルドの扉を押し開け、迷うことなく掲示板へと向かう。ここまでの流水のごとくなめらかな動作は、イナリがすっかり冒険者業に慣れたことを示唆していると言えよう。
だが、ここまで来たところで掲示板の内容は殆ど読めないので、読んでいる雰囲気だけ醸しておいて、肝心な部分はエリスに頼っている。ちなみに、もし誰も居ないときは、受付に行ってリーゼやアリエッタに助けを求めることになる。
「何か気になるものはあるかの?」
「うーん、相変わらずに見えますが……あ、多分これ、エリックさん達が進めている件ですね」
エリスが依頼書の一つを手に取り、しゃがんでイナリに見せる。
「『急募。魔の森歩道開通計画、メンバー求む。役職不問』……向こうの皆さんを脱出させるのに使う道づくりでしょうね。見た感じ、人手もそこそこ集まっているみたいです」
「なるほど、うまくやっておるようじゃの」
店主らの救出の大部分をエリックとディルに丸投げしたわけだが、表向きは全く関係ない計画を装いつつ上手く進めてくれているようだ。
あとは、イナリが手紙にて店主に脱出するよう促し、偶然作業にあたっていた冒険者と合流するという算段だ。
「ちなみに、例の連中を討とうとか、そういう話は?」
「無いですね。冒険者は依頼が無ければ動きませんから……」
「およよ、我はこんなにも苦しんでいるというのに。悲しいのじゃ」
おどけた様子で泣く素振りを見せたイナリの言葉に、エリスは苦笑しつつ頭を撫でた。
イナリとて、教会も街の兵達も対処できないものを冒険者ギルドがどうにかできるとは思っていない。あるにしても、街の方から依頼が出たらようやく重い腰を上げるかどうかといったところか。
あるいは、そこそこ資産があるイナリが依頼を出すという手もあるにはある。……が、エリックに小一時間ほどかけてやんわりと「やめておいた方がいい」と説得されたので断念した。
正直、色々と小難しい話が多かったので話の半分も覚えていない。ただ、ある程度はわかってきたと思っていた人間社会の複雑さの極致を垣間見たことは覚えている。
そんなわけで、今は自分にできることをするだけである。イナリが受付へ向けて足を運ぼうとした直後、後方から声を掛けられる。
「――あの、すみません。ちょっといいですか」
「む?……うん??」
イナリは何だか聞き覚えがある声だと思いつつ振り返り、己の目を疑った。そこに立っていたのは、魔の森に居るはずのエリオットだ。
一体なぜここに?どうやって逃げてきた?そんな疑問がイナリの脳内で溢れ、言葉が詰まる。
イナリがそうしている間に、エリオットは子供が書いた落書きのようにぐしゃっとした笑みを浮かべる。
「え、ええと。イナリさん、ですよね?へ、へへ、僕、ちょっとお話したくて。一緒に、美味しいものでも――」
「え、気持ち悪……」
話し方と言い、絶妙に上擦った猫なで声といい、一晩そこらで先日の姿からかけ離れた不審者と化したエリオットの姿に、イナリは思わず素で呟いた。
それと同時に、まるで時が止まったかのように冒険者ギルドが静まり返る。
普段なら「美味しいもの」という言葉に簡単に釣られ、そうでなくとも基本的に話しかけられれば普通に受け答えするイナリが、初手で罵倒した。その行動が周囲に与えた衝撃は生半可なものではなかった。
故に、普段のイナリを知る者は驚愕の視線をイナリに向け、イナリの事を深く知らないエリオットですら氷漬けにされたように固まっている。ついでに、何故かエリスも震えている。
「……何じゃ?急に静かじゃ」
その中で唯一、自身の言葉の重さに気づいていないイナリは、何事かと困惑しながら辺りを見回した。しかし誰も動かないので、それが逆にイナリを混乱させる。
「エリスよ、どうしたらよいのじゃ?」
「えっ?……と、とりあえず、通報します??」
「ここで通報する意味はあるのかの?」
通報するまでもなく、周囲の冒険者に呼びかければいいだけの話な気がする。というか、実力的にはエリオット程度ならエリス一人で制圧できそうである。
イナリ達が顔を見合わせていると、エリオットのすぐ後ろから、外套に身を包んだイナリと同じくらいの背丈の人物が現れる。
「今のはヒドすぎ。ありえない」
「……お主は?」
「気にしなくていい。いないものと思って」
「そういうわけにはいかぬと思うが……」
イナリは腕を組んで眉を上げた。
声からして少女だろうことは窺えたが、外套でうまく顔も隠しているので、喋るまでそうとはわからなかった。
しかもここまで全く気配を感じさせず、名前も名乗らず、魔の森にいるはずのエリオットと共に行動している。どこをとっても怪しさ満点である。
警戒心を露にするイナリをよそに、少女は「早く喋れ」と言わんばかりにエリオットの腰のあたりを肘で突き、また彼の背後に姿を隠した。我に返ったエリオットは、依然として動揺しつつも頭を下げる。
「……すみません。美味しいものが好きと聞いていたので、最大限好印象を与えようと務めたつもりだったんです」
「……意図はわかったが、慣れぬ事は止した方がよいぞ?普通に不審者以外の何者でもなかったのじゃ。それと、我は童扱いされるのは好かぬ。先の無礼も許してやるから、ゆめゆめ気を付けるがよい。まあ、我以外が許すかは別じゃが……」
イナリが隣に立っている神官を見上げると、彼女は意味深な笑みでもって返した。「次は無いと思え」といったところだろう。
「イナリさんが許したので、私から言うことはありません。では、私達はこれで失礼しますね」
「ああ、待ってください!話がしたいのは本当なんです!」
エリスがイナリの手を引いて受付へ向かおうとした直後、エリオットがそれを呼び止める。
「……何ですか?イナリさんに変な事をしようとした分際で、まだ何か?」
露骨に顔を顰めつつおもむろに振り返るエリスを見て、拙い流れが来ているとイナリは感じた。
この場において、イナリ以外の者のエリオットに対する第一印象は「いきなりギルドに来て白昼堂々狐少女を拐かそうとした男」だ。目も当てられないほど最悪の評価と言っていいだろう。
故に、エリスは「分際」などと強い言葉を持ち出してまでエリオットを突き放しているし、周囲で様子を窺っている冒険者たちも、誰一人として彼に好意的な視線を向けていない。……エリオットは鈍感なのか必死なのか、それを気にも留めていないようだが。
だが、魔の森に居たはずのエリオットがイナリに声を掛けてくることには、何か重要な意味があるはずだ。見た限り、イナリと「リンネ」が同一人物であると気づいているわけではなさそうだが、それでも話を聞く価値は大いにある。
わざわざ向こうから「話がしたい」と言ってきているのだから、ここで追い返すなんてもっての外だ。
「エリスよ、少し話を聞いてやってもよいのではないか?」
「その必要は無いでしょう。イナリさんが寛容な事は知っていますけど、それとこれは話が別ですよ」
「いやしかし、こうも必死じゃと可哀想に思うてしまってのう」
――こやつ、魔の森に居た店主の息子。話を聞いた方がいい。
イナリは表向きエリオットに同情した風を装いつつ、エリスへ向けて神託を飛ばした。それを受けたエリスは僅かに目を見開くと、すぐに平静を装ってエリオットへ向き直る。
「……仕方ないですね。私も同席することと、話はギルド内ですることを条件とします」
「美味な食事も条件に含めるのじゃ」
「それはダメです。まだ朝ですし、我慢してください」
「むう……」
エリスの言葉に、イナリは耳と尻尾をしゅんとさせた。




