385 油断禁物
出発前に紆余曲折ありつつも、イナリはエリスとリズとは別れ、「疾風」の面々と共に、普段からイナリが道標として利用する川を辿って魔の森へと足を踏み入れることとなる。
最近は全然違うところから魔の森に入っていたので、ここに来るのは少し久しくなるだろうか。そんなことを考えていたイナリに対し、ダンテが声を掛けてくる。
「そうだ、イナリさんに確認したいことがある」
「む、何じゃ」
「今回はあくまでも別人の体で向かうのだろう。偽名などがあるなら共有してほしい」
「ふむ……考えておらなんだが、確かに必要じゃな。しばし待つがよい……」
今のイナリは元とそれなりに異なる容貌に扮しているとはいえ、名前を呼んでいては意味が無いだろう。イナリはしばし考えた末、思いついた言葉を口にする。
「決めたのじゃ。リンネじゃ。リンネと呼ぶがよい」
「リンネか……把握した」
「姐さん、それどこ由来の名前っすか?ちょっとイオリちゃんみを感じますけど……初めて聞いたっす」
「あー……多分我の故郷の言葉じゃ。なんかこう、死ぬとぐるぐるするらしいのじゃ」
「新手の拷問?」
「イナリさんの故郷はわからないけど、絶対何か間違ってそうじゃないですか……?」
指先をくるくる回しながらおぼろげな記憶を頼りに答えるイナリの言葉に、チャーリーが慄き、エナが苦笑した。
なお、イナリがこの偽名を打ち出した経緯は、この世界のイナリの発音「イネィリ」を逆向きにして近しい響きの単語として「輪廻」を選んだというものだ。
なので見ての通り、それが何に由来するどういった概念かなどはほぼ理解していない。一応、アルト教も近しい概念を持ち合わせているのだが。
「というわけで、今日の我のことはリンネ様と呼ぶがよい。さあ、行くのじゃ!」
大きな声で呼びかけたイナリ改めリンネは、数秒後に川の小石で足を捻り、しばしその場で蹲ることとなった。
さて、しばらく砕けた雰囲気で進んでいた「疾風」の面々であったが、本格的に魔の森の領域に足を踏み入れると、すぐに緊迫感のある表情に切り替わる。この辺はやはり一端の冒険者と言うべきか。
「ここからは護衛用の陣形を取る」
「はいよ」
ダンテの号令により、チャーリーが前方を先行し、エナが後方から弓を片手に周囲の警戒を始める。このパーティはこの二人が警戒役の要のようだ。
「リンネさんはカミラから離れないように」
「うむ」
ダンテの号令に対し、イナリは頷いてカミラの傍にぴたりと立った。
「……すまないが、あまり密着されると反応が遅れて守りづらくなってしまう。少しだけ離れてくれないか?」
「ん?ああ、すまぬ」
うっかりエリスと同じ距離感を取ってしまったイナリは、素で謝って一歩カミラから距離を取った。こういった齟齬は普段行動を共にしない人間と関わる以上仕方がないことではあるのだが、ここはイナリ側でも上手く対応する必要がありそうである。
「……我も丸くなったのう」
イナリは小声で独り言を零す。
きっと、かつての「我神宣言」を積極的に実行していたイナリであれば、謝るどころか、むしろ相手がこちらに合わせるべきだとごねていただろう。勿論イナリは寛容なので譲歩はするのだろうが、そこに到達するまでに時間がかかっていたのは間違いない。
だが実際のところはというと、人間界で暮らして神感が抑制されたせいか、あるいはエリスの「教育」の賜物か、すっかりイナリは社会的狐娘になってしまった。果たしてこれはいいのやら、悪いのやら。
――イナリさん、近況報告をお願いします。
――問題無し。警戒しながら進んでる。
噂をすれば保護者から神託が飛ばされてきたので、端的な返事を返した。思えば、「虹色旅団」と行動を共にしている時には緊迫感の中に余裕も感じられたが、「疾風」の面々からは緊張感が感じ取れる。
単純な技量だけでなく、こういった点も冒険者によるのだろう。イナリはそんなことを考えつつ足を進めた。
しばらく、イナリ達は魔物への対応以外に会話もなく魔の森を進んだ。「虹色旅団」の面々と比べると時間が掛かってはいるが、大きな怪我などもなく、堅実に事が進んでいた。
しかし、目的地にかなり近づいてきたところで、ひとつ変化が訪れる。
「ストップ。この辺、罠だらけだ」
「罠とな。それは……謀られたということかの」
「あいや、そういう罠じゃなくて、魔物用のやつっすね。ほら」
チャーリーが手でイナリを促したので歩み寄って覗き込むと、そこには小石や雑草で隠された、大柄の人間二人分くらいの大きさの人工物が埋められていた。例えるなら大きなネズミ捕りとでも言おうか、なるほど確かに人間に対して使う物ではなさそうである。
周りに目をやれば、同じようなものがいくつも見受けられる。中には血痕が付いているものや、何かの肉片が残っているものもあったが、少なくとも人間のものではないはずだ。
「例の教団だか団体だかが設置したということか。随分と手作り感が溢れているが……」
「様子を見た限り、頻繁に手入れされているようだな。近くに管理者が居るかもしれないし、接触を試みるか」
「にしてももう少し進まないといけなさそうだけどな。……え、俺が呼んでくる感じ?」
カミラとダンテの言葉にチャーリーが頷き、そして如何にも面倒そうな表情で尋ねる。それに対し首を振るのはダンテだ。
「……冒険者だけだと門前払いされるだろう。ここは慎重に進むほかないと考えるが、リンネさんはどうだ」
「ここを抜けるのが今か後かの違いでしかないのじゃ。特に支障がないとあらば、進まぬ理由はあるまい?」
「わかった。チャーリー、安全なルートを先導してくれ」
依頼者たるイナリの言葉を聞いたダンテは、すぐにチャーリーに向けて指示を出した。
「了解!じゃ、まずはここっすね。罠そのものに触れなきゃ何の問題もないんで、慎重についてきてください」
「うむ」
イナリは時折カミラの手を借りつつ、チャーリーが歩いた後を辿るように進む。
それを続けていると、やがてイナリでも罠の位置がある程度わかるようになってくる。そうなると皆に先導されるまでもなく行き先が分かってくるようになるので、動きも軽やかになる。
「くふふ。慣れれば案外大したことないのう」
「イナ……リンネさん。こういうのは油断した時が一番危ないんですよ?」
「エナよ、お主の忠告は尤もじゃ。じゃが見よ。こんな大味な配置の罠じゃぞ?しかも時折作動済みのものなども混ざっているときた。避けて歩くなど朝飯前――」
直後、後方から一体のイノシシ型の魔物が現れ、イナリ達を見るなりまっすぐに突進してくる。そしてイナリ達が避けてきた罠を勢いよく踏むと、金具が作動してイノシシの胴を地面に叩きつけ、グキャリと悍ましい音を上げながら首を本来あり得ない方向へ捻じ曲げた。
そんな凄惨な形で一瞬にして物言わぬ骸となった魔物を見て、イナリは言葉を続ける。
「……あー、その、何じゃ。やはり、油断はよくないのう!」
「……そうですね」
呆れたような目を向けてくる他の面々をよそに、試しに適当につついてみようなどと考える前で本当に良かったと、イナリは密かに安堵していた。
罠地帯を抜けると、所々に土地を耕そうとした形跡や放り置かれた道具など、生活感を感じられる場所がいくつか見受けられるようになった。
といっても、あくまで人が居るとわかっている前提だからそのように判断しただけで、一見したら只の不法投棄に見えなくもないような様相ではある。
「……誰も居ないっすね」
「川以外にも罠は撒いているだろうし、巡回でもしているんだろう。ここで待っていればやがて誰かには会えるはずだ」
「うーん、気長に待つしかないか。変に進んだら警戒されちゃうもんね……」
ダンテの言葉にエナがため息をこぼす。前々から察してはいたが、やはり冒険者にとってもここの連中とは良い関係ではないことが窺える。
「先ほどの繰り返しになるが、俺たち冒険者は警戒対象だ。基本的にリンネさんの利益を考えて、発言や行動は慎重にするように」
ダンテはそう言うと、武器を置いてその場に腰掛けた。その傍ら、カミラが甲冑の音を鳴らしてイナリと目線を合わせ、話しかけてくる。
「リンネさん、今のうちに伝えておくが、この先は一人での行動を余儀なくされる場面もあるだろう。心構えやら何やら、考えることがあるなら今のうちに済ませるといい」
「うむ」
カミラの言葉を聞いたイナリは、この後の展開をあれこれ想起しつつ事態の進展を待つことにした。




