381 暗雲と展望
「――さて、これで伝えることは伝えたと思うんで、ぼちぼちお暇させてもらいますよ。ああそれと、これをどうぞ」
フルーティはおもむろに立ち上がると、懐から取り出した紙切れをイナリの前に差し出した。
「何じゃこれ」
「うちの店の住所です。暇なときにあの神官さんと一緒にでも来てください。イナリさんにはグレイベル含め色々世話になったんで、サービスしますよ」
「ふむ。……ディルよ、代わりに見てくれぬか?」
ここに何が書かれているのか、文字を勉強中のイナリに知る術はない。故に、イナリは貰ったそれを右から左へ受け流すようにディルに渡した。
すると、彼は紙の裏表を何度も見回し、光に透かしたりして念入りに確認する。
「……不審なところはなさそうだな」
「そりゃただの名刺ですからね」
「内容を見てほしかっただけで、細工などは警戒しておらなんじゃが……」
イナリは半ば呆れつつ呟いた。
しかし、この世界は魔術というよくわからない概念が存在している世界だ。変な魔法陣が仕込まれていたりしてもおかしくはない。そう考えればディルの行動は妥当と言えるだろう。
「そういえば、グレイベルとベイリアさんは今も元気にしているのか?」
「はい。最後に文通した限り、万事順調とは行かない様子でしたが、なんだかんだ、お二人で協力しながら上手くやっているみたいですよ。その辺の詳しいことは今度うちの店に来ていただいたときにでも。では、ごちそうさまです!」
フルーティはそう言いながら、片手を掲げて堂々と店を後にした。
「……あいつ、食うだけ食って消えていったな」
「まあ、幾らか有用な話は聞けたし、よかろ」
イナリとディルは、その後ろ姿を眺めながら一言交わし合った。
「ううむ……」
パーティハウスへ帰宅したイナリは、長椅子に横になって唸っていた。その腕にはぷるぷると揺れるスライム、もちまるが抱えられている。
この珍妙な光景が生まれた過程に特に深い理由はない。ただ、帰ってきてもちまるの様子を確認して、その流れで触れあいもかねて居間へ連れてきただけ……要するに、何となくでしかない。だが、こういうことの積み重ねが後々大きな影響を生むはずだ。
そう信じて、イナリはもちまるを優しく揉みながら考える。
――いったいこれから、どうしたらよいだろうか?
前提として、魔の森がよくわからない植物に侵食されている以上、一度燃やして元の状態に戻すのは決定事項だ。問題は、そこに蔓延る人間である。
元々のイナリの考えとしては、神託で一度警告をしているのだから、後はどうなろうが知ったことではないという構えであった。しかし、そこに知人が混ざるとなると話が変わってくる。
例えば、一旦森に赴いて店主を連れ戻すとしたら、まず当人を見つけて、不可視術を解いて声を掛ける必要がある。加えて、何らかの理由で帰るのを躊躇ったり拒む場合も考慮しておかないといけない。
すなわち、一歩間違えれば事態は泥沼化し、「世界庭園何とか」にイナリが認識されることになるわけである。
それでまた恨みでも買おうものなら、その後のイナリに平穏があるかは怪しいところだ。せっかく牢獄から出たというのに、また外出禁止令など御免である。
「全くうまくいかないもんじゃの。……おおっと。もちまるよ、あまり動くと危ないのじゃ。よしよし、愛い奴よのう」
イナリは手元のもちまるが腕から転がり落ちそうになるのを支え、お腹の上あたりに戻してやった。暖房が効いた居間では、このひんやりとした触感が心地よい。
「皆、お主のように簡単にどうにかできたらよいのじゃがのう」
こうもイナリが思い悩んでいる理由の一つに、単純に己の社の様子を見たくないというのもある。
きっと今頃、イナリが手ずから建てた社は、その価値もわからない野暮な人間によって訳の分からない装飾を施され、謎の儀式にでも使われているに違いない。
そんな冒涜的な光景を、誰が見たいというのだろう?そんな光景を前にしたイナリは、果たして冷静でいられるだろうか?
「……とはいえ、見に行かぬ事には話は進まぬか」
とりあえず。とりあえず、一度様子を見てから考えよう。それで己の逆鱗に触れたなら容赦なく計画を進めればいいし、店主もどうにもならなそうなら……その時は覚悟を決めるとしよう。
そうと決まれば、動くのは早い方がいい。行けるなら明日にでも行くべきだろうが、どのように立ち回るべきか――。
イナリは長椅子に横たわったまま、思考を巡らせ始めた。
「――イナリちゃん大丈夫?何か表情、怖いよ?」
「む」
僅かに身を起こすと、帰宅したリズが長椅子の横に立ち、イナリの顔を覗き込んでいた。考え事に集中していたせいで気が付いていなかったようである。
「すまぬな、ちと考え事をしておったのじゃ」
「ふーん?何か手伝えることがあったら言ってね。ちょっとぐらいなら悪だくみでも付き合っちゃうよ。えへへ」
「うむ。その時は頼りにさせてもらうのじゃ」
リズはあまりイナリが悩んでいた察したようだが、適当な冗談でこの場を流してくれたようである。こういう点は他のパーティの面々とは違う、リズならではの行動と言えよう。考えが固まっていない今はその気遣いが有難かった。
「で、それはそれとして、これを見てほしいの!」
リズは背中から、妙に大きく分厚い本を取り出した。上質な装丁が施されているようだが、その重量感にリズが若干ふらついている。
「その鈍器は何じゃ?」
「鈍器じゃないよ!これ、『スライム飼育のススメ』っていう本!図書館で借りてきた貴重な一冊で、まさにリズ達が求めていたものだよ!」
「ほほう!」
リズは、イナリと同じくもちまるの飼育に前向きな姿勢を見せているメンバーの一人だ。恐らく魔術師としての探求心的なものが刺激されたのだろうが、スライムに対する理解者が居るというのは実に心強いことだ。
イナリは長椅子に座り直し、もちまるを膝の上に置きなおして、リズに隣に座るよう手で促した。
「えー、こほん。それでは、講義を始めます!」
「お手柔らかに頼むのじゃ」
イナリは小さく拍手して、ウィルディアよろしく教師らしく振舞うリズに話を促した。
「まず、スライムの質は幼少期の環境で決まります」
「ちょっと待つのじゃ」
そして早速リズの説明に割って入った。
「スライムの幼少期って何じゃ?」
「膜と核の形質が安定するまでだって。多分、便宜上の呼称なんだろうね」
「な、なるほどのう」
元々謎多き存在なのだから、こんな細かいところで突っかかっていては永遠に話が終わらない。多少引っ掛かる程度であれば一旦流す方が賢明だろう。
「曰く、『スライムがその土地の環境を体現する』。例えば汚水だらけの場所で成長すると、ヘドロみたいになる。火山地帯なら膜が厚くなったり、寒い場所なら表面だけ凍るように体を再構築する……。氷スライムとか言われるのはこれのことだね」
「よくわからんが、奥が深いのじゃな」
「あとはマナの濃度も影響するみたい。薄いと液体寄りな感じになって、濃いと固体寄りになるんだって」
「ふむ……。我には『まな』がわからぬが、もちまるは後者のように見えるのう」
「うん、魔の森はマナが濃いもんね。あの辺の樹がマナをいっぱい放出してるし、この街も含めて、森の周辺にも影響が出てるみたいだよ」
リズは両手をくるくると回して循環する様子を表現しながら告げた。なるほど、マナとは空気のようなものと理解しておけば一旦は問題なさそうだ。
イナリが一人納得する傍ら、リズがもちまるを指先でつついて続ける。
「だから多分、しばらくしたら多少の衝撃程度なら平気になるんじゃないかな?」
「ほう、それはすごいのう。もちまるよ、お主は強くなれるらしいぞ」
すっかりスライム愛好家になったイナリは、もちまるを掲げて話しかけた。するともちまるは、返事をしているかの如くぷるりと震えた。




