339 何事もスピードが大事
「イナリちゃん、今すぐこの街を出よう」
街での買い出しから戻ってきたエリックは、開口一番にそう告げた。
「どういう風の吹き回しじゃ?お主はこう……何かと慎重な奴だと思うておったが」
「僕の見立てが甘かった。この街の獣人に対する怒りは想定以上だ」
「ああ、何となく察したのじゃ」
エリックがため息をつく様子に、イナリは納得の声を上げる。
フルーティの話も踏まえるなら、石が投げ込まれるどころではなく、魔法が飛んできそうとか、そういう次元なのだろう。どうやら、街の中より外の方が安全だという判断になったようだ。
そんなことを考えていると、イナリに若干の苦手意識を抱えているエナが小さく手を上げる。
「か、買い物をしてる時に聞こえたんです。『街に来た獣人の子供を捕まえたら、やりようがあるんじゃないか』って……」
察するに、「やりよう」というのは例えば、人質に取って交渉するとか、そういう類のものだろうか。あるいは、それは建前で、ただの憂さ晴らしのためという線もあり得る。
「話には聞いていたが、もはや見境がないようじゃのう。ま、子供というぐらいじゃし、我には関係ない話であろうが」
「……失礼だが、『獣人の子供』とは間違いなく貴方を指しているぞ」
エナの隣に立つカミラが遠慮気味に声を上げる。
「理解しておる。お主らも、我を子供だと思うておるのじゃろ?」
イナリは確認するように問い返すと、目の前にある皿の上の果物を一切れ手に取り、返事を待たずして続ける。
「我は思うたのじゃ。只の人間ごときに、我の本質を見極めさせるのは酷だったとな。故に我は、お主らが我を子供扱いすることを、寛大な心を以て赦してやることにしたのじゃ」
「姐さん、つまりどういうことっすか?」
「要するに、我は大人だということじゃ」
「……エナ、理解できたか?」
「ううん、何にもわかんない」
知能指数の低い会話を繰り広げる狐とその舎弟に、「疾風」の女子二人組は頭を抱えた。それをよそに、ダンテが口を開く。
「話が逸れ始めているから戻すが。とにかく、ここを発つ準備をするんだ」
「しかし、本当に酷いですねえ。その物騒な連中に、ちゃんと釘を刺してやりましたか?」
「当然だ。しかし、この街の住民が皆そんなことを考えていたら手に負えない……というか、誰だ」
ダンテが困惑と警戒の入り混じった声を上げながらフルーティを見る。
「ああ、私は偶然居合わせただけのイナリさんの知人です。お近づきの印にこれをどうぞ」
フルーティは、イナリの果物皿から一切れ手に取り、ダンテに差し出した。それと同時に、密かにイナリの尻尾と耳が僅かに垂れ下がった。
「それとエリックさん。貴方は覚えて下さっていますかね?私、ナイアの果物屋です」
「覚えていますが……どうしてここに?」
「先ほど、イナリさんにはその話をしたんですけどねえ――」
フルーティはエリックにここに来た目的を告げた。
「――というわけです。どうですか、メルモートまでとは言わず、この街を出るだけでもお助け頂けませんか」
「今すぐ出る準備ができているなら。護衛訓練の一貫なので、そちらの都合に合わせることはできません」
「おお、それはよかった!幸い、私の持ち物は全部ここに入ってますからね。いつでも行けますよ!
フルーティは自前の鞄を叩きながら親指を立てた。
「……お主、本当に頼りに来る気満々だったんじゃな」
「そりゃもう。……私が貴方に『困った時は声を掛けて』と言ったのを覚えていますか?困ったときは助け合うのが、人間というものですよ」
「助けられる側が言うと、なっさけない言葉じゃのう……」
取って付けた感が凄まじい果物屋の言葉に、イナリは白い目を向けた。
こうして、イナリ達は早急に荷物を馬や馬車に積み込み、そのまま街を後にした。
結果的には数時間程度しか滞在しなかったわけだが、怖いもの見たさとでも言うべきか、あのまま留まっていたら何が起こっていたのかも気になるところではある。勿論、体感したいかと言われれば否であるが。
さて、押し掛けるようにイナリと行動することになったフルーティはというと、イナリと共に馬車に乗っている。そこに加えてエリックも居るので、行きと比べて随分と肩身が狭い……物理的に。
「そういえば、皆さんはよく無事でしたね?エリックさんはともかく、先ほど訓練と聞こえた辺り、凄腕揃いというわけでもないでしょう」
「運よく、というべきかは分からないんですけど、イナリちゃんをイオリちゃんだと思ったのか、あっという間に逃げてしまったんです」
「それはそれは」
エリックの言葉を聞いたフルーティは静かに笑った。
「一体イオリは何をしたのじゃろうな?お主、何か知らんのかや?」
「そりゃもう、グレイベルから色々聞かされてますよ」
イナリの言葉に、フルーティは頷いて続ける。
「細かい話は省略しますけど、イオリさんは障害は徹底的に排除するタイプだったみたいですからねえ。大きな集団に迎合できずにこんな場所で暴れてるくらいですし、そりゃもう痛い目に遭わされたんじゃないですか?知ってます?あの子、一種の伝説みたいな扱いになってるんですよ」
「それは身をもって体感したのじゃ」
イオリの権威の凄まじさは獣人集落で散々目にしたところだ。大体の出来事を「イオリです!」と言い張って何とかしたのは、もはやいい思い出である。
あれも「崇める」の形態の一つなのだろうが、あれはもはや盲信の域で、イナリにはただただ奇妙にしか感じられなかった。そう考えてみると、盲信はイナリの望む「崇める」とは少し違うようである。これはイナリの将来を考える上で参考の一つになりそうだ。
「……ところで、こんなに早く引き返しては、またあやつらと鉢合わせることにならぬか?」
「むしろ、向こうもここまで早く引き返してくるとは思わない……はずだ」
「何とも期待混じりじゃのう」
「はは、僕も不本意ではあるんだけどね……」
珍しく自信のなさげな物言いに苦笑するイナリに、エリックも釣られるように笑った。
「今回は時間が経つほど厄介になる気がするんだ。街に滞在して『獣人を退治してほしい』なんて話が来る前に立ち去りたかったのもある」
「確かに、それは面倒じゃのう」
そうなると、エリックは実力が不明瞭な「疾風」の面々と共に獣人退治に赴くことになるだろう。その間、イナリの身を護る者が誰も居なくなってしまう。引き籠っていれば何とかなるかもしれないが、あの街の様子では、誰が敵になるか分かったものではない。
ある意味非情な選択と言えなくもないが、イナリを捕えて云々と企むような者が居る街に配慮する義理もないだろう。
「……これはちょっとした独り言ですけど」
唐突にフルーティが切り出す。
「テイルの獣人にとって、敗北が大きな意味を持つことなのはご存じでしょう。ですがそれ以上に、逃亡や妥協は彼らにとって屈辱的で、不名誉なことなんです。ほら、『引くぐらいなら死んだ方がマシだ!』みたいな話、よく聞くでしょう?」
「いや、聞いたことがないのう」
悲しきかな、この世界のあるある話はイナリに通用しない。
だが、それとは別の視点から考えることはできる。思えば、獣人集落においてやたらと勝敗を決めたがっていたり、「真の獣の民」と合流するか決めるのをやたらと渋ったりしたのは、まさにこの話に通ずるものがあるだろう。
「……というかお主、独り言なのに思いっきり我に話しかけに来ておるのじゃが」
「細かいことは置いておいて、話を続けましょう。逃亡した者はその後どうするか。イナリさん、貴方ならどうしますか?」
「どうって……汚名はそそがねばならぬよの」
「ですよね。私も同意見です。だから――」
フルーティがそう告げた直後、言葉を遮るように大きく唸るような声が響く。
「――今すぐその馬車を止めろ!!」
「……こんな感じで、復讐しに来るんじゃないかなーなんて、思ったんですよねえ」
フルーティは手で顔を覆い、長い独り言を締めくくった。




