328 久々の魔の森
「――イナリさん。着きましたよ」
「んう?」
エリスの背におぶられて眠っていたイナリは、体を揺すられる感覚に目を覚ました。
辺りを見回すとそこかしこが繁々とした森で、振り返れば先日サニー達とともに遊んでいた湖が僅かに見える。そして前方には、ディルとカイト、それにイオリの姿が意気揚々と茂みに入っていく姿が見える。
軽く耳を傾けてみると、スライムがどうの、ゴブリンがどうのという言葉が聞こえた。何やらこの森に棲息する魔物の話をしているようである。
「確かに着いたようじゃな。じゃ、あやつらが戦う時にまた声をかけてくれたもれ」
イナリはふやけたような声でエリスに囁きかけて目を閉じ、再び彼女の銀の髪に顔を埋め――
「ダメです。起きてください」
――ようとしたが、後頭部で押し返されてしまった。
「むう……。我はお主を信頼しておるからこそ、こうして身を預けておる。神たる我を背負うという大儀じゃ、本望であろ?」
「それはそうですけど、寝るのはだめです。戦闘は突然始まりますから」
「それはお主が守ってくれればよい話じゃ。お主、いつも言うておるであろ」
「信頼が厚いのは嬉しい限りですが、私だっていつでも棒立ちでいられるわけではありません。私、イナリさんを物理的に振り回す趣味はないのですよ」
「……なるほどのう」
「ご理解いただき感謝します」
渋々とうなずいたイナリに、エリスはおどけた様子で返した。
「イナリさんの決めたことに文句を言うつもりはないですが、そんなに面倒なら日を改めてもよかったのではありませんか?」
「んや、そっちのほうが面倒じゃ」
「そ、そうですか」
イナリはエリスの肩の上に頭を乗せ、前方が見やすいように姿勢を調整した。
「今のところ平和そうに見えるのう」
「イナリさんが寝ている間に何回か接敵はしたんですが、一瞬で撃退してしまいましたからね。以前より冒険者がよく出入りするようになったおかげで、浅い部分なら割とこんな感じらしいです」
「なるほどの。つまり、奥はそうでないというわけじゃ」
「そういうことです。既に浅い部分とは言い難い領域のはずですし、油断せず、結界に気を配っておきましょう」
「……結界か」
露骨に顔をしかめるイナリを見て、エリスは得意げな顔で笑う。
「ふふふ、そんな顔をせずに聞いてください、イナリさん。私、イナリさんを吹き飛ばさずに簡易結界を展開できるようになったのです」
「ほう」
イナリが相槌を打つと、エリスは右手を掲げて空中に透明な板を生成する。これが件の簡易結界であろうが、独立した形で見ると少々奇妙である。どこか既視感があるのは、ベイリアと八百長試合を展開した時に散々目にしたためだろうか。
「これも偏に、私のイナリさんに対する想いの成せる技です。どうですか!」
「すごいのう。褒めてつかわすのじゃ」
エリスの言は謎だし、偉業なのかすら定かでない。ただ、今後結界によって不意に地面に叩きつけられるような事態が起こりえないことは理解できたので、とりあえず讃えておくことにした。当人もご満悦のようなので、これ以上深く考える必要もないだろう。
こんなことをしている間に、一行は少しずつ森の奥へと移動していた。といっても、一定範囲がまるっと樹海になっているという魔の森の性質上、景色はさほど変わらない。
ただ、先日アースと見たように、しばしば見覚えのない植生は継続して見られている。むしろ、その割合は湖の時以上に顕著かもしれない。加えて、栄養が吸われてしまったのか、一部、木や草花が朽ちてしまっていたところもあった。
「ふーむ、やはり様相が変わっておるのう」
「噂には聞いていましたが、確かに違いますね。なんというか……青っぽい、でしょうか。こんな稚拙な感想しか出せませんね」
「しかし、相変わらず異様な色の果物はあるようじゃの。エリスよ、そこの実を採ってくれぬか?食べてみたいのじゃ」
「……これは食べると体が麻痺するやつですが。やっぱりイナリさん、ブラストブルーベリーといい虹色の悪魔といい、危険なものを狙って選んでませんか?」
「別に狙っているわけではないのじゃ。実際、以前食わされそうになった毒入り飴はすぐに吐き捨てたしの」
イナリはそう返しながら、さりげない動作で黄色い蛍光色の実に手を伸ばした。しかしその目論見は、エリスに腕を掴まれて阻止されてしまった。
イナリは未知の味を知ることができなかった事実に肩を落としつつ、再び前を向く。
「この調子じゃと、我の家まで立ち寄れそうじゃな」
「確かに、歩いた距離的にはそんな感じがしますね。もし川が見つかったら、そのまま立ち寄ってみるのもいいかもしれません。提案してみましょうか」
「うむ。……ついでに、あやつらが何を探しているのかも聞いてみるのじゃ。このままじゃと、行く当てもなく彷徨い歩いている気分になって、不毛に思えてならぬ」
「実際に歩いているのは私ですけど……いや、役得なのでいいです」
エリスは小声で文句なのか何なのかよくわからない言葉をこぼしてから、カイト達に話しかけた。
「すみません、皆さんは何の魔物をお探しなのですか?」
「トレントです。何か、固有種がいるらしいですよ」
エリスの言葉に答えたのはカイトであった。その言葉に、さらにディルが重ねる。
「俺たちがアルテミアに行った後に確認された個体で、森の奥のほうにいるんだと。俺たちが討伐した連中の取りこぼしだろうよ」
「あの時でもかなりの数を倒したはずですが、まだ残っているのですね……」
「ああ。どうにも殆ど動かないタイプらしくてな。だが、接近した時の厄介さは中々のもので、それなりの危険が伴う。つまり、カイトのサンドバッグ役にもいいし、イオリの連携の練習にもなる」
「なるほど、いつものノリですね。……カイトさん、あまり無理をしてはいけませんよ?」
「大丈夫です。ディルさんはちゃんと僕の体調を気遣ってくれますよ」
「私も勇者様の健康には気を配っているから、その点は心配しなくていい。それより、勇者様の成長する様子を間近で見ていると、この男の教え方にはなかなか見所がある。今の勇者様でも十分魅力的だが、力をつければもっとすごくなる」
「え、ええと、そうですか」
まともなようで頓珍漢な言葉を口走るイオリに、エリスは困惑気味に返した。
「それで、少し提案というか、相談なのですが。余裕があったら、イナリさんの家に立ち寄ってもよろしいですか?」
「ああ、それぐらいなら全然かまわない……と言いたいところだが、行く当てがないぞ」
ディルの言葉に、皆の視線がイナリに集まった。それを受けたイナリは、手をひらひらと振って返す。
「寄れたら手間が省ける程度の話じゃ。例の川の近くだとか、目印があったらでよい」
「そうか。見込みは低そうだが、俺も気を配っておこう。何かあったら言ってくれ」
ディルはイナリの要望に頷くと、再び前を向いて歩き始めた。その後にイナリ達が続いていると、カイトがイナリに向けて問いかけてくる。
「イナリさんの家って、こんな森の中にあるんですか」
「うむ。家であり、社でもある……あ、いや、家じゃ、家」
「何でそんなあやふやなんだ?」
イオリが訝しむが、これには理由がある。この中で唯一カイトだけはイナリが神であることを知らず、かつ、それを知ってはならない人物である。故に、社という単語から神を連想されることを危惧して、イナリは慌てて言葉を修正したのだ。
「でもいいですね、森の中にログハウスみたいなの。ちょっと憧れるんですよね」
「カイトさんは中々珍しいですね。大抵の人は安全な街を好むのですが」
「それもわかります。ただ、エリスさんには伝わらないかもしれないんですけど、いかにも異世界って感じがするんですよね」
「異世界……ですか。そういえばカイトさんって、召喚される前はどのような――」
「え、エリスよ!あそこに美味そうな果実があるのじゃ!採りに行きたいのう!」
「わわ、急に動くと危ないですよ。落ち着いてください!」
地球についての話題へ移りそうな気配を察知したイナリは、エリスの頭を揺らしながら適当に目についた果物を指さし、露骨に話題を遮った。
きっとカイトのことだから、地球のことを他者に話した経験などいくらでもあるだろう。しかし、イナリの眼前で地球の話をされると、雑談の過程で何らかの拍子にイナリと地球が結びつき、芋づる式に秘匿すべき事実がぼろぼろと零れてしまう危険があると、本能が警鐘を鳴らしたのである。
そんな危機を未然に回避できたイナリは、エリスの背に寄りかかりながら一息ついて汗を拭った。話すなら我がいないところでしてくれ、というのが本音であった。




